いやな臭い

坂本 有羽庵

いやな臭い



 強烈な悪臭に、優香ゆうかはまぶたを開くと、リビングの長椅子ソファーから身体を起こした。


 仕事に出かける夫の芳輔ほうすけを見送ってから、二、三時間は経っていただろうか。先週から始まった悪阻つわりのせいで、今日もずっと横になっていた。少し動くだけでも億劫だった。



「なに? このにおい……」



 眉をひそめ、お腹を守るように抱えていたクッションをそっと横に置く。


 フローリングの広いリビングの棚の上には、優香と芳輔の結婚式のフォトフレームや、お祝いにもらったペアの白いぬいぐるみが並んでいる。リバー・レースのカーテンから、午前中の柔らかな光が差しこんでいた。


 込み上げてくる吐き気と戦いながら、優香は立ち上がり、部屋に漂う異臭を追った。ソファーの背、テーブル、壁にと順番に手をそえ身体を支え、クローゼットの前に立つ。扉を開けると、臭いはさらに強くなった。



 ──これだ。



 優香は自分の身体から離すように紐をつまみ、いやな臭いを放つ、小さな手提げの紙袋を取りだす。


 床に置いたはずみで横倒しになり、一度はがされ適当に包み直された包装紙と共に、四角い平たい箱が滑りでた。

 恐る恐る、その艶めいた黒い厚紙の箱の蓋をあける。中には黒革の男物の折りたたみ財布が入っていた。


 悪臭が粘り、皮膚に絡みついた。



 優香はここに引っ越してきた頃を思い出した。








「これは、なに?」



 苛立ちをふくんだ高い声で、優香は芳輔を呼んだ。


 リビングの端には、まだ開いていない段ボールがいくつか積まれていて、そこで荷物を出す作業をしていた芳輔が「なにが?」と、間抜けな返事をよこす。



「この財布よ」



 ダイニングテーブルの上には、小さな手提げの紙袋があり、優香がはがした包装紙と蓋のあいた厚紙の箱の中に、黒い財布があった。



「これ、会社の人から結婚祝いでもらったものだって、さっき言ってなかった?」


 首にタオルをかけ、のっそりと来てテーブルの上を見ると、芳輔は、さして興味がなさそうな様子で「うん。言ったね」と答えた。



「誰から、もらったものなの」


 芳輔は会社の後輩の女子社員の名前を言った。

 今年入社したばかりの新人だという。



「普通、結婚祝いにこういうの、贈る?」


「さあ? 常識ない子なのかもな」



「芳輔」探るような視線になり、優香は聞いた。「この財布……使う?」


「いや。趣味じゃないし。優香は?」


「は? ガチガチのメンズものだよ?」


「だよな」芳輔は軽く笑い「じゃあ、誰か他の人にあげるか。優香のお兄さんとか」



 自分の関心のないことに対しどこまでも無神経な夫の態度に、腹を立てながら、内心、優香は安堵していた。


 そうして仕舞いこんで忘れていたのだ。



 黒革の折りたたみ財布を。








 今やその黒革の財布は強い毒気と悪臭を放ち、優香とそのお腹の子に、はっきりとした悪意を向けていた。


「ぐぅ」と呻き、優香はよろめきながら洗面所まで行き、吐いた。が、胃液以外、何も出てこない。



 優香は、洗面所に置いてあったシリコン製のバケツを引っつかみ、リビングへと戻った。


 財布を指でつまみ、バケツに放りこむ。

 見た目は艶のある美しい黒革だったが、ヌチャリとした不快な触感があった。



 浴室に入り、洗い場の蛇口の真下の床にバケツを置き、優香は蛇口から勢いよくお湯を出す。

 濡れるのも構わず膝をつき、手近にあった浴室掃除用ブラシを逆さにし、その柄で財布をバケツの底に、ちから一杯押さえつけた。



 ブルブルとした振動があり、微かな悲鳴が聞こえたが、優香は無言のまま、ブラシの樹脂製の柄で、浮き上がってこようとする〝それ〟をバケツの底に沈め続けた。



 ゴボリと泡が浮かぶ。



 臭いが散り、消えた。








 数日後、喪服で出かけた芳輔は夜に帰宅し、部屋着に着替えた後、ダイニングテーブルの椅子に腰をおろすと「大変だったよ」と、優香に愚痴をこぼした。発足したばかりのプロジェクトチームの一員である後輩の女性が急死したので、葬儀に参列してきたのだ。



「お風呂場で酔ったまま眠って、湯船で溺れたらしい。一緒に暮らしていたご両親が、自分たちが気づいてあげていたら、って大号泣でさ。見ている俺たちも辛かったよ」


「……そう。どんな人だったの」


「今どきの子って感じかな。よく用もないのに話しかけてくるから、面倒臭いタイプだったよ」芳輔は冷蔵庫をあけて振りかえった。「今日はなにか食べた? このゼリーはどう?」


「うん。それなら口にできそう」



 芳輔から手渡され、優香は色鮮やかなフルーツゼリーの蓋をあけた。


「よかった」スプーンで透明な塊をすくい、呟く。



「あなたからはいやな臭いがしない」



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いやな臭い 坂本 有羽庵 @sakamoto_yu-an

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