いやな臭い
坂本 有羽庵
いやな臭い
強烈な悪臭に、
仕事に出かける夫の
「なに? この
眉をひそめ、お腹を守るように抱えていたクッションをそっと横に置く。
フローリングの広いリビングの棚の上には、優香と芳輔の結婚式のフォトフレームや、お祝いにもらったペアの白いぬいぐるみが並んでいる。リバー・レースのカーテンから、午前中の柔らかな光が差しこんでいた。
込み上げてくる吐き気と戦いながら、優香は立ち上がり、部屋に漂う異臭を追った。ソファーの背、テーブル、壁にと順番に手をそえ身体を支え、クローゼットの前に立つ。扉を開けると、臭いはさらに強くなった。
──これだ。
優香は自分の身体から離すように紐をつまみ、いやな臭いを放つ、小さな手提げの紙袋を取りだす。
床に置いたはずみで横倒しになり、一度はがされ適当に包み直された包装紙と共に、四角い平たい箱が滑りでた。
恐る恐る、その艶めいた黒い厚紙の箱の蓋をあける。中には黒革の男物の折りたたみ財布が入っていた。
悪臭が粘り、皮膚に絡みついた。
優香はここに引っ越してきた頃を思い出した。
「これは、なに?」
苛立ちをふくんだ高い声で、優香は芳輔を呼んだ。
リビングの端には、まだ開いていない段ボールがいくつか積まれていて、そこで荷物を出す作業をしていた芳輔が「なにが?」と、間抜けな返事をよこす。
「この財布よ」
ダイニングテーブルの上には、小さな手提げの紙袋があり、優香がはがした包装紙と蓋のあいた厚紙の箱の中に、黒い財布があった。
「これ、会社の人から結婚祝いでもらったものだって、さっき言ってなかった?」
首にタオルをかけ、のっそりと来てテーブルの上を見ると、芳輔は、さして興味がなさそうな様子で「うん。言ったね」と答えた。
「誰から、もらったものなの」
芳輔は会社の後輩の女子社員の名前を言った。
今年入社したばかりの新人だという。
「普通、結婚祝いにこういうの、贈る?」
「さあ? 常識ない子なのかもな」
「芳輔」探るような視線になり、優香は聞いた。「この財布……使う?」
「いや。趣味じゃないし。優香は?」
「は? ガチガチのメンズものだよ?」
「だよな」芳輔は軽く笑い「じゃあ、誰か他の人にあげるか。優香のお兄さんとか」
自分の関心のないことに対しどこまでも無神経な夫の態度に、腹を立てながら、内心、優香は安堵していた。
そうして仕舞いこんで忘れていたのだ。
黒革の折りたたみ財布を。
今やその黒革の財布は強い毒気と悪臭を放ち、優香とそのお腹の子に、はっきりとした悪意を向けていた。
「ぐぅ」と呻き、優香はよろめきながら洗面所まで行き、吐いた。が、胃液以外、何も出てこない。
優香は、洗面所に置いてあったシリコン製のバケツを引っつかみ、リビングへと戻った。
財布を指でつまみ、バケツに放りこむ。
見た目は艶のある美しい黒革だったが、ヌチャリとした不快な触感があった。
浴室に入り、洗い場の蛇口の真下の床にバケツを置き、優香は蛇口から勢いよくお湯を出す。
濡れるのも構わず膝をつき、手近にあった浴室掃除用ブラシを逆さにし、その柄で財布をバケツの底に、ちから一杯押さえつけた。
ブルブルとした振動があり、微かな悲鳴が聞こえたが、優香は無言のまま、ブラシの樹脂製の柄で、浮き上がってこようとする〝それ〟をバケツの底に沈め続けた。
ゴボリと泡が浮かぶ。
臭いが散り、消えた。
数日後、喪服で出かけた芳輔は夜に帰宅し、部屋着に着替えた後、ダイニングテーブルの椅子に腰をおろすと「大変だったよ」と、優香に愚痴をこぼした。発足したばかりのプロジェクトチームの一員である後輩の女性が急死したので、葬儀に参列してきたのだ。
「お風呂場で酔ったまま眠って、湯船で溺れたらしい。一緒に暮らしていたご両親が、自分たちが気づいてあげていたら、って大号泣でさ。見ている俺たちも辛かったよ」
「……そう。どんな人だったの」
「今どきの子って感じかな。よく用もないのに話しかけてくるから、面倒臭いタイプだったよ」芳輔は冷蔵庫をあけて振りかえった。「今日はなにか食べた? このゼリーはどう?」
「うん。それなら口にできそう」
芳輔から手渡され、優香は色鮮やかなフルーツゼリーの蓋をあけた。
「よかった」スプーンで透明な塊をすくい、呟く。
「あなたからはいやな臭いがしない」
いやな臭い 坂本 有羽庵 @sakamoto_yu-an
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます