星天の扉

佐倉奈津(蜜柑桜)

星屑の下で

 まるで鉱石が砕かれ、無数の粒となって散らばったようだ。

 

 頭上を見上げ、自ずから嘆息する。日が落ちた時には、空が東から藍に塗り替えられていくように見えたのに、いまや暗い色を見せる隙間はほとんど残っていない。きらめく粒子が一面を覆い尽くし、その一粒一粒がめくるめく色を変えていく。昼にはまばゆい白日を取り巻いて鮮やかな青一色に染まっていたとは思えない、数多の色彩。

 ――たった数時間で、ここまで世界は様相を変えるのか。

 城の屋根に座った青年は地上へ視線を下ろした。眼下には灯りの消えた街並みが広がっている。家々の屋根が連なる中で一際目立つのは、丈高い時計塔。このシレア国で唯一、時を知るよすがとなる国の宝である。

 やや強い風が青年の頬を叩く。だが彼の蘇芳色の目は城下を見つめたままだ——自分が治め、統べるべき国の王都の情景を。

 様変わりした天空とは対照的に、街は明かりと音が消えたほかは、昼と同じ穏やかな空気に満ちている。人々の往来や活気ある呼び声はなくなっても、安息と眠りを許す平和が続いている。

 ――だがこの状態が今後、変わらずにいられるかどうか。

 酒が入った杯を、口に運ぶでもなくいたずらに傾ける。琥珀色の液体を通して時計台の姿が揺らいだ。気高く美しい塔が崩れていくのが目に入った瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 この瓦解が、現実に起こらないと言い切れるだろうか。


 ――『カエルム……』


 生命の灯火が消える直前に、名を呼ばれた。


 ――『シレアを、任せました』


 息をするのすらやっとであるのに、その時の母の声は死の間際にいる者のものとは思えなかった。

 の言葉ではなく、の言葉であった。

 こときれて二度と目を開かなくなった姿に縋るように泣き崩れた妹。一歩引いた位置ですすり泣く侍女や、息を押し殺して涙する臣下たち。

 最愛の国母を失った悲嘆が、城を、城下を、国を襲った。そしてその中に、これまであった依代が消えた覚束なさと、未知なる次の世に対する目を逸らしようもない不安が混じる。王子と王女がいくら父王亡き後で母の政治を支えてきたとはいえ、若い次期後継者へ抱く想いが信頼だけであろうはずはない。

 青年――カエルムは杯を置き、立てた膝に額をぶつけた。目を閉じると静寂が鼓膜に圧をかけるようで、途端、聴覚は外界ではなく、内からの音を聞く錯覚に囚われる。


 ――『おかあ……さ……』


 あまりに生々しい記憶。嗚咽を出すまいと努めて、抑えきれずに漏れる声。妹のアウロラはまだ二十歳にも届かないというのに、ふた親を失い為政者として立たねばならない。両親の働きを見てきた時間は自分と九年も違う。悲しみ、怯え、重圧に耐えようとしている。まだ幼さが残る少女の身で。

 妹にはまだ時間の余裕が与えられて良いはずだ。

 まずは第一王子として国の責を負う自分が、母に代わる新たな依り代とならなければいけない。

 どうして人前で泣くことなどできただろう。

 感情を殺し、王妃の弔いを済ませ、生前に言い渡された政治中枢の整理を行い、ひたすらに新政の準備を進めた。支柱はわずかな懸念も見せてはならない。これまで通り平常心であれ、と。

 父が逝った後、母の傍らで政務に携わり始めたときに腹を据えたつもりだった。

「……所詮は、でしかなかったな」

 注がれる視線には明らかな変化があった。

 南から微風が吹き寄せる。項垂れた姿勢から直ると、南の空を眺めながらカエルムは杯に口をつけた。一つ一つを識別するのが難しいほどの数ある星の中であれ、鮮烈に輝く南天の一等星はその存在を確かに主張する。

 カエルムは、燃え盛る炎のような光を睨んだ。

 ――一筋縄ではいかないだろう。

 シレアは表向き平和な国際関係を保っているが、肥沃な土地を羨望する外国は多い。その大半は友好を維持し交易によってシレアの自然の恩恵を得ようとしているものの、南で直に接する大国テハイザは例外だ。手荒な行動も辞さないという意志は外交の端々に現れている。ただし王妃の在位中は、まだ先王の影がちらついたのか、強行に出るまでには至らなかった。

 しかし現在いまはどうだ。カエルムと妹アウロラの即位式はまだ先だ。傍目からすればシレアは世代交代が完遂していない中途半端な状態。

 ——攻め入ると決めるなら今だろう。

 もちろん、そうさせるつもりは無い。即位前に諸外国を回り、他国との連携を再確認し予防線を張ったうえでテハイザと絶対的な不可侵条約を締結する。その算段で先方との約束も取り付けた。

 杯を持つ手指の上で、先代から受け継いだ指環の宝玉が光る。杯を置き、しばしそれに見入った。

 保障はないのだ。この手が剣を抜き、シレアの為政者を示す珠が血塗れぬことはないなど。

 ――ぶれるな。決めたはずだ。誰の命も落とさず成し遂げると。

 握った手のひらに爪が食い込む。肌に触れる金属が、今日はいやに硬く、重い。


「そんなところにあまり長くいらっしゃると、お風邪をひいてしまうわよ」


 突然、沈黙に支配された耳に明るく高い声が飛び込んだ。声の方を向くと、天窓から首を出したアウロラが屋根の上に大きな毛布を引っ張り出している。

「まだ寝てなかったのか。こんな時間にどうした」

「夜番の衛士からお兄様に下がっていいって言われたって聞いて」

 アウロラは慣れた足取りで屋根の上をカエルムの横まで進むと、自分と兄の両方にかかるよう毛布を広げて座り込む。見れば手には焼き菓子の入った籠を下げている。完全に長丁場を決め込むつもりらしい。

「まだ秋口とはいえ、アウロラの方こそ風邪をひくだろう」

「だってお兄様、ずるいんだもの」

「ずるい?」

 意外な答えに面食らい、カエルムはおうむ返しに尋ねた。するとアウロラは南方を見つめながら口を尖らせる。

「お兄様、かあ様が亡くなってから黙って考え込んでいることが多いんだもの。なのにお声をかけるとにっこりなさるでしょう」

「アウロラが心配になるようなことではないよ」

「嘘つき」

 身じろぎひとつなく、鋭い返答だけがある。

「お兄様はたぶん、いいえ絶対、お一人で背負っていらっしゃるのよ。ずるいわ。私や城の皆には甘えられないとかしっかりしなきゃとか」

 アウロラの語調は怒っているふうではないが、段々と早口になり熱を帯びてくる。

「そういうところお兄様は責任感が強いし根がお優しいから仕方ないんでしょうしそこが格好いいし好きだと思うんだけれども」

 毛布を握る手には筋が立ち、布の皺がきつく寄った。前を見続けている瞳は潤みだし、ふるふると口元が震え始める。

「悲しいとか寂しいとか怖いとかそういうの全部自己完結しちゃうなんて悔しいじゃない。頼りないけど私だって為政者の一人になるのだし、お兄様に頼ってばっかりでお兄様が苦しむだけなんて絶対……絶対に、許さないんだから!」

 カエルムの鼓膜に大音声が突き刺さり、頭の神経が千切れそうな痛みが走った。一方、痛みの元凶である当の本人は唖然とする兄を見ようとはせず、上気させた頬を膨らませて頭を勢いよくカエルムの肩にぶつけてくる。

「不安は誰だって同じよ、お兄様。我慢しすぎて壊れちゃうわ」

 数秒前とは打って変わって、アウロラの呟きはやっと聞き取れるほどだ。吐息混じりに「父様も母様もきっとそうだったと思いましょう」と続ける。

 もとより聡い妹である。恐らく母の死後ずっと自分を見て心の内を見透かしていたのだろう。それでいて下手に言葉をかければ逆効果とおもんばかっていたに違いない。

 アウロラは、寄りかかった姿勢で黙って息を整えている。

「さすが……アウロラは騙せないな——すまない」

 髪を撫でて礼を言うと、アウロラはすん、と鼻を鳴らして毛布を首元まで引きずり上げた。決まり悪く口を引き結んでいるが、目が穏やかになっている。

 濁り固まっていた何かが、カエルムの中でほどけていく。

 アウロラの言葉を反芻してみると、揺るぎなく立たねばとしていた自分に呆れも生まれ始めるものだ。

 ――完璧とはほど遠いものを。まったく……驕りに過ぎない。

 南から上へ視線をずらすと、ちょうど流れ星が過ぎていった。そういえばそろそろ流星群が見られる季節だったか。



「あー、やっぱりここにいましたか」

 どのくらい二人で夜風に吹かれていただろうか。突如、がこん、と乱暴な音がたち、耳慣れた呆れ声がした。

「ロス」

「殿下だけかと思ったら姫様まで一緒とはね。全くこんな夜中に屋根で空眺めているとか。何やってるかなんて聞くまでもないですけれど」

 天窓から軽々屋根に上がり込んだ青年は、先のアウロラと同じく毛布を抱えている。カエルムは差し出された毛布を受け取ると、顎で杯を示した。

「さすが私の側近も長いなロスは。ちょっと酒に酔ったらしく」

「殿下が酔わないことくらい、ものすごい嫌だと思うくらいに存じ上げています。どうせテハイザ行きが近くなって何やら考えてたんでしょう」

 カエルムには珍しく一瞬の間が空いた。「それみろ」とロスは半眼で主人を睨む。

「殿下ではなかったら歳下のくせして生意気だと言うところですよ。まだ若いくせにあまり平気なふりをなさると大臣じーさんたちがいじけます。適当に弱音でもなんでも言ってやったら喜ぶんじゃないですか」

「……それは酷い言い草だな」

「あら、ロスが言って欲しいのよね?」

「はい、姫様はちょっと黙ってましょうね」

「はいはい、大臣のせいにしてあげる。ところで何でシードゥスも?」

 天窓からはロスに続いて下男の若い青年まで出てきていた。三脚の杯と瓶の入った籠を持ち、所在なさげにその場で突っ立っている。

「厨房で辛気臭い顔して皮剥きしていたから、星見せに連れてきたんです。沈んだ人間を浮上させるなら一緒にやったほうが手っ取り早いでしょう」

 言いながら、ロスは振り返ってシードゥスを手招きした。下男が遠慮がちに近づくと、背後に回ってその背を押す。

「伝えておきたいことがあるみたいですから。殿下が本当に酔う前に」

 前に出されたシードゥスは、俯き加減で何度か口を開きかけては閉じていたが、ほら、と突っつかれ、顔を上げてカエルムの顔を直視した。

「殿下、あの、どうか――」

 シードゥスがカエルムの蘇芳の瞳をひたと見つめる。

「テハイザを、よろしくお願いします」

 青年の深い紺の瞳には、切実な願いがはっきりと浮かんでいた。

「カエルム様とアウロラ様のシレアなら————絶対に大丈夫だと、信じています」 

 そしてそれ以上に、嘘偽りのない真摯な信頼が強く。

 わかったと頷くだけでは、到底足りない。

「――ありがとう」

 国が新たに一歩を踏み出すとき、自分を信じ、託してくれる存在がある。そして共に支え、進んでくれる存在も。

 闇の中でこの身を飲み込まんばかりだった沈黙は去り、代わりに穏やかな笑い声が空気を揺らす。煌々たる南の星は、よく見ればけして苛烈なだけではない。星々から降りてくる光は激しくもあり、優しくもあり、この地を様々に照らし出す。


 澄んだ秋の空気の中に、時計台の鐘が鳴りわたる。国のすみずみまで届く清澄な調べは、南の森を抜け、人には聴こえない音になって、やがては海へ辿り着く。

 一人ではない。誓うのなら、自分を信じ、隣にいてくれる皆と。

 美しい星空の下で、新たな世代の扉が開くように。

 妙なる――この音がいつまでも絶えないように。


 

 琥珀色の酒を残した杯の中心で、曇りのない満月が白く輝いた。




 ——今宵はここまで。彼らの長い旅路はこれから始まる——


 本作はシレア国シリーズのスピンオフです。気が向いたらどうぞ本編にも遊びにいらしてください。

 https://kakuyomu.jp/users/Mican-Sakura/collections/16816452219399453347

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