第34話 進め、勇敢な竜騎兵のごとく

 その二日後の夜のこと――シェーンヴァルト伯爵家の邸宅に、来客を知らせるベルが鳴り響いた。はて、今日は来客予定があったであろうか。使用人たちは顔を見合わせ、首を捻った。そのうちにひとりが、その対応のために外へ出て行く。すると、その人は門の前で、思わずあっと声をあげた。門扉の向こうに行儀良く佇んでいるのが、半年ほども前にこの屋敷から半ば追放されるかのように出て行った、『妖精令嬢』ことグリューネ・シェーンヴァルトだったからだ。

 少女は隣に伴侶――さながら従僕のような佇まいだ――を伴って、にこりと微笑んでいる。その姿は、間違いなく可憐な少女であった。しかし、使用人は内心恐れ戦いた。何故に彼女がここへ舞い戻り、微笑んでいるのかが理解できなかったからである。『妖精令嬢』が、口を開いた。


「ごきげんよう。伯爵――いえ、お父様にお話しがあるのですけれど、開けてくださる?」

「あ――いえ、その……事前にお約束の無い方は……」

「あら? まさか、通せないなどと言うつもりではありませんよね?」


 グリューネの言葉には、確かな圧があった。この少女はもはや貴族ではなく、市井に住まう平民だ。使用人は、即座にこの要求を撥ね除けることができるはずだった。しかし、この屋敷に住まい、豪奢な服に身を包んだ令嬢であった頃よりもはるかに、彼女の振る舞いは貴き血を持つ一族そのもののようだった。背筋を伸ばし、丁寧な所作の裏に堅固な意志を宿して、迷いなく言葉を紡ぐ姿に、思わず屈しそうになりながら、しかし使用人は己の職務を全うしようと努めた。


「お――お言葉ですが、グリューネお嬢様。あなたがこの家のお生まれであったとて、事前の約束の無い方は誰であろうと、お通しできない決まりです」

「そう、約束があれば良いのね。では、こうしましょう。わたくしは、お父様にお話しがあるほかに、ヴィルヘルムお兄様と会う約束をしています。お兄様がお忙しいようでしたので、手間をかけさせてはいけないと思い、わたくしの方から出向きました。――これでよろしくて?」


 言外に――これ以上つまらない話をさせるなとでも言うかのように、少女は言葉を切った。その沈黙が求める答えはひとつ、了解ヤーだけだ。使用人たちは勿論、ヴィルヘルムが軟禁されるに至った経緯を、大まかに耳にしてはいる。なのでグリューネを通すわけにはいかなかった。しかし、会う約束をしていたことに偽りはないのだから、彼女の言い分はもっともである。そして使用人たちは、あの若き貴公子のことを慕っているために、彼を気の毒に思ってやまない。妹と会うということが、それほど咎められなければならないことなのだろうか? そういった疑問を持つ者も、少なからずある。主人である伯爵の命令と一個人の良心との間で、使用人は板挟みになっている。返答に迷っているうちに、グリューネは門扉にそっと触れて、俯き気味になりながら呟いた。


「……わたくしが、この家にとって招かれざる客であることは、わたくしが一番よく分かっています」


 先程までの雰囲気とは打って変わって、真摯で切実な呟きが、使用人の鼓膜を震わせた。


「でも――お兄様に、会いたいの。お願いだから、通してちょうだい」


 もしかするとこれは、一種の演技かもしれない。そんな懸念が少しも無かったわけではないだろうが――使用人は迷いながらも、とうとうその門扉に手をかけて、グリューネと、そしてフレデリックを迎え入れた。意外そうに瞳を瞬かせたグリューネは、ありがとうと言って微笑んで、やや興奮気味に門扉をくぐる。しかし、庭園に足を踏み入れたところで、これまで静かに後ろに控えていたフレデリックが、グリューネの手を強く引いた。


「待て」


 その、一瞬前までグリューネが立っていた場所の地面が大きな音を立てて抉れた。庭園の土が飛び散る様を見つめていると、邸宅の方からゆっくりと近付いてくる影があった。それは黒い外套を羽織った、背の高い痩せた男ふたりだ。先程地面を穿った力を見るに、彼らは魔法使いのようだった。


「それ以上はご遠慮願おうか、ご令嬢」

「あなたを入れないようにと、伯爵様からのご指示でね」


 その言葉に、グリューネは目を見開いた。いくら疎まれてるとはいえ、まさか魔法使いに自分を攻撃するよう指示をしているという事実が衝撃的だったからである。魔法という非常に広い括りの中で見れば、先程の攻撃はさほど殺傷力の無いものだったかもしれないが、もしあの魔法が直撃していれば、生身の少女は軽い怪我では済まなかったのだ。グリューネはぞっとすると同時に、激しい怒りを覚えた。伯爵に対し、許しがたい感情は募り続ける一方だ。恐怖と怒りで身を震わせる彼女を抱き寄せて、フレデリックは男たちに言葉を投げる。


「ごく例外的な状況を除いて、非戦闘員の市民に向けて攻性魔法を使用することは、この国において刑罰の対象だが?」

「ああ、勿論知っているよ。だが、生憎ここはシェーンヴァルト伯爵の『私有地』だからね。貴族の領地においては、主の命令が絶対の法規であることは、古来より変わることはない。よって君たちを攻撃することによって、私たちが罰せられることはないのだよ」


 確かに――この国の法において、魔法使いが一般市民を攻撃することは禁じられている。しかし、ある程度の権力を持つ貴族であれば、自らの所有する私有地内に限って、法を捻じ曲げるくらいは容易いだろう。だからこそ、貴族は魔法使いを『私兵』として雇い、身辺の警護――という名目で、政敵を牽制するため――を任せたりもする。まして、この屋敷の主は評議会の副議長。魔法使いの一人や二人雇っていてもおかしくはない――フレデリックがそのようなことを思案していると、グリューネが彼の服の裾を引いた。


「……フレッド。あなたは、あの魔法使いたちより強い?」


 魔法使いたちを睨みつけるグリューネの横顔を見れば、その瞳は怒りと、そして決意に満ちていた。湖沼のような翡翠色の瞳が、燃えるように輝いている。脅されたからといって、ここで引き下がることは、微塵も考えていない。必ず目的を果たしてみせるという、強い意志が宿っていた。


「前に進みたいの。あなたの力を、貸してくれる?」


 ほんの僅かな逡巡の後、フレデリックは答えた。


「――勿論。俺は君の、味方だからな」


 見上げる翡翠色の眼差しにひとつ頷くと、フレデリックは一歩前に進み出る。それを見てグリューネは身を引き、少し離れた場所へと避難した。黒い影の魔法使いたちは警戒した様子を見せ、戦闘の姿勢を取る。


 穏やかな夜の庭園に、緊迫した空気が流れる。その中で、フレデリックは場違いにも、かつての出来事に思いを馳せていた。


 ――戦え。

 幾度となく、繰り返し投げかけられ続けてきた言葉。耳を塞ぐことも、逆らうことも知らずに、ただその言葉に従っていた、あの頃。そこに、自分の意思はなかった。ただ戦うための機構として、そこに存在していた。


 しかし、今はそうではない。今は、己の意思でここに立っている。誰かの、彼女の力になろう。そうしようとする、己がいる。不思議な感覚だった。戦うことは、虚しいことだった。虚無を積み上げる作業だった。けれど、今は不思議と胸の内に満ちる何かがあって、それが身体を動かしているような、そんな、気がしている――


 フレデリックの左眼の奥が微かに輝き、刻まれた『エーテル機関』が魔力を受けて励起する。その独特な輝きを、相対するふたりの魔法使いが見逃すはずはない。すぐさま、魔法使いのひとりが肉薄してくる。身体強化、あるいは加速の魔法によって、黒い影は疾風のような勢いで迫ってきた。鋭い針のような手刀をかわすと、遠くからは、先程と同様の地面を抉るような威力の衝撃が飛んでくる。大きく後ろに飛び退くと、身を強張らせて見守っている少女の姿が視界の端に映った。


 ――そういえばグリューネは、この眼のことを綺麗だと言っていた。


 『エーテル機関』が目立つ場所にそれがあるのは好ましくない。魔法を使うその瞬間を、相手に悟られてしまうから。それは戦闘ともなれば、明確にひとつ不利になりかねない要素である。だから、長らくこの眼のことが好きではなかった。にとって、それは唯一の瑕疵だった。


 幾重もの波のように次々と襲い来る黒い影たちの攻撃を受け流しながら、フレデリックは魔法の起動式を組み立てる。伯爵がその権力で法を捻じ曲げるのは、自身の雇った魔法使いに対してのみだ。だから、攻性魔法でこの魔法使いたちを傷つけることはできない。傷つけずに、動きを封じなければならない。これもひとつ、不利な条件だった。


 人数の差、目立つ部位にある『エーテル機関』、使用できる魔法の制限――この庭園の戦闘行為において、フレデリックに有利な点はひとつもない。にもかかわらず、彼には別のことを考えるような余裕すらあった。


 もし、この命に意義があるのなら。それが、彼女のためになればいい。

 今は――そう願っている。


『――発動領域、確定。急速凍結』


 フレデリックが魔法を起動させた瞬間、周囲の気温が急激に下がったかと思うと、ふたりの魔法使いの周りが見る間に凍てつき、瞬きの間に巨大な氷の檻が彼らを囲ってしまった。その造形はいっそ芸術的ですらある。


「な――一瞬で……!?」

「氷ならば、溶かせば良い」


 驚いて魔法使いたちが声をあげ、檻の中で炎の魔法を用いて檻を溶かそうと試みたが――氷が溶けるよりも速く、炎は冷やされ立ち消える。何度繰り返しても、僅かに溶けただけの氷は元の形に戻ろうと再び凍り始める。あるいは衝撃を与えてみても、その堅固な檻はびくともしない。まさに、氷の牢獄だだった。しばらくの間、ふたりの魔法使いは出てはこられないであろう。フレデリックは、ひとつ息をついた。


「彼らに傷もつけていないし、攻性魔法も使用していない。……多少の聴取はされるかもしれないが、咎められずに済むだろう」


 グリューネも同様に、目を丸くして驚愕していた。どうやらフレデリックが、魔法使いとしてかなり優秀な部類らしいということは理解していたものの、実際に彼が、誰かと力を競うような場面に立ち会ったのは初めてだったからだ。シェーンヴァルト伯爵は、無駄なものに投資をしない。だから、その父の雇ったという魔法使いであるからには、彼らもそれなりの熟練であっただろう。しかし、その魔法使いふたりを、フレデリックはほんの僅かな時間で、さほどの労力も払わずに無力化してしまったように見えた。


 ――もしかすると、自分が夫にした男は、とんでもない男だったのかもしれない。グリューネがそう考えていると、振り返ったフレデリックが手を差し伸べた。


「では、行こうか『妖精令嬢』。今日は存分に、悪役になるのだろう」

「……そうね。行きましょう」


 その手を取って、少女は進む。

 かつては逃げるように去ったこの家へ、凱旋する兵士のように、その踵の音を高らかに鳴らして。


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妖精令嬢と識欲魔人 @megurururu

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