第33話 悪の華、月夜に綻びて
「遅い」
グリューネの機嫌は、良くなかった。今日は義兄のヴィルヘルムと四年ぶりに顔を合わせ、会食をする予定だ。一等地の高級料理店『フォルモーント』に先んじて到着していたグリューネとフレデリックは招待状を見せ、個室に通されてヴィルヘルムの到着を待っているところであるが、これが一向に、姿を現さない。約束の時刻は、やや前に過ぎたところだ。最初のうちは、新調したドレスと、着飾った夫――彼は普段服装に頓着が無いのだ――の姿に気分を良くしていたグリューネだったが、時間の経過と共にその顔は曇り、今となっては、無理矢理水につけられた猫のように、不機嫌さを露わにしていた。
「勿論、ええ、勿論。わたくしは平民で、お兄様は貴族ですから? 多少の遅刻は許されるものでしょうね。でも、あちらから声をかけておいて、これはどうなのでしょう!?」
「……何か急な用件が入ったのかもしれない。とにかく、もう少し様子を――」
フレデリックがそう宥めたところで、個室のドアがノックされた。ようやくのご到着か――そう期待を込めてグリューネは視線を向けるが、そこから入ってきたのは『フォルモーント』の案内係であった。案内係は、近付いてきて一礼すると、グリューネの前に膝をついて――この少女がかつて貴族の一員であったことを知っているからだ――静かな声で告げた。
「失礼いたします、お嬢様。……ヴィルヘルム様より言伝が。諸用があり、今日の会食には来られないと。大変申し訳ないが、どうかお二人で食事を楽しんでいってほしいとのことです」
「え……」
「すぐに、お食事をお持ちいたします」
この会の主催者であるヴィルヘルムの到着が遅れていたので、料理の提供は待って貰っていた。店としては客を待たせているのは少々気が揉んだようで、案内係は急いで部屋を後にしようとした。が、それをグリューネが呼び止めた。
「待って。お兄――……ヴィルヘルム様がそう仰ったの?」
「いえ。今しがた使いの方がいらっしゃいまして、そのように」
そう答えて、案内係は改めて一礼し、個室をあとにする。グリューネはしばし考え込むように俯いてから、口を開いた。
「フレッド」
「なんだ」
「お兄様の使いを、捕まえてきて。どんなに早足で戻っても、まだ屋敷には着いていないはずよね?」
妻の突然の要求に、しかしフレデリックは冷静だった。グリューネなら、文句の一言も言いたいはずだろうと思っていたからだ。グリューネは、なんだかんだと言いながら、今日という日を心待ちにしていたのである。であれば無論、フレデリックは妻の味方である。立ち上がってフレデリックは、珍しくネクタイできつく締めていた襟元を少し寛げた。
「分かった。すぐに戻る」
そこからの彼の行動は素早かった。人々の好奇の視線を受けながら城のような廊下を颯爽と歩いて外へ出ると、店先を箒で掃いている若者の姿がある。フレデリックは徐にその人に声をかけた。
「失礼。少しの間、お借りするよ」
「へ、えっ?」
慣れた手つきで若者の手から箒を奪うと、そのままフレデリックは呪文を呟き、箒に跨がって空に浮き上がる。唖然とした顔の若者が豆粒ほどの大きさになるのに、そう時間はかからない。滑るように空を飛びながら、貴族街の方面へ向かう。ある程度近付いた見通しの良いところで、探知魔法を起動した。
魔法使いでない特定の人間を探知するのは難しい。しかし今は、いくつかその人物の条件を絞ることができる。『フォルモーント』のある位置から、貴族街へ向かう男性――探知された幾つかの反応のうち、シェーンヴァルト邸の方面に向かう人。それらを満たす反応を見つけると、フレデリックは素早くそれに接近し高度を下げ、箒から降りた。急に空から降ってきた――かのように見える――人に大層驚いて、シェーンヴァルト家の、いやヴィルヘルムの侍従である男は驚嘆の声をあげた。そして降ってきたその人の顔を見て、再度驚いた。
「あっ――貴方は……フレデリック・ロバーツ……」
「君にはよく会うな。お帰りのところ悪いが、妻が呼んでこいと言うので、すまないが一緒に来て貰おう」
「こ、困りますよ……今だってなんとか人目を盗んで、」
侍従が答え終わるより前に、フレデリックは彼を鷲掴みにして再び空へと舞い上がった。成人の男性一人を片手で軽々と持ち上げているように見えるが、実際には彼にかかる重力を操作しているので、それほど重さを感じてはいない。しかしそんなことを知らない侍従にとっては、また一段とこの男が恐ろしく思われただろう。ほどなく、『フォルモーント』まで連れて行かれた侍従は、口を真一文字に引き結んだグリューネの前に引き出された。彼女は腕を組み、不機嫌を滲ませた声で言った。
「お久しぶりね。わたくしのことを、憶えているかしら」
「……勿論です……グリューネお嬢様」
恐々としながら、侍従は口を開いた。この少女はいまや貴族ではなく、平民の身である。だというのに、その佇まいは以前と変わらず、それにも増して威厳があるように思われた。彼女はいま、理不尽な怒りではなく、かねてよりの約束を不意にされたことに対して怒っている。それは至極ごもっともなことであろう。今は身分の違いがあるといえど――招待を受けた立場なのは彼女の方なのだ。
「わざわざ呼びつけた理由は分かりますね? お兄様は何故いらっしゃらないの?」
「それは……」
言い淀む侍従の姿に、以前のグリューネであれば更に苛立ちを募らせたろうが、今日は違っていた。彼女は小さく息をつくと、食後のデザートを持ってくるように給仕に言いつけて、それから落ち着いた調子で口を開いた。
「平民に漏らせないような事情があるなら、言わなくても構いません。でも、あの堅物で律儀なお兄様が、人との約束をふいにするのに、あんな味気ない言葉だけで済ませるとは、思えませんから」
少なくともヴィルヘルムは、今日会うことを楽しみにしてくれていたはずなのである。だから、グリューネの言い分はまた当然のことではあるが、侍従はそれを信じられないような気持ちで聞いていた。かつてのこの令嬢は、我儘で、理不尽で、不機嫌で、他人のことなど少しも気にかけるような娘では無かった。しかしこの問いかけの意味するところが、ヴィルヘルムに何かあったのではないかという心配からのものであることが、対面している侍従には伝わっていた。――ほんの半年ほどで、人はこうも変わるものなのか。驚きは感心へと変わり、侍従は自然と口を開いた。
「……お許しを、グリューネお嬢様。坊ちゃん……ヴィルヘルム様は、現在お屋敷で軟禁されておられます」
「な――軟禁!? どうしてそんな……」
「詳しくは分かりません。しかし――坊ちゃんはどうやら、リーリエ様のお部屋で探し物をされていたそうで。それが、閣下のご不興を買ってしまったようです」
グリューネが言葉を詰まらせるその横で、フレデリックは眉を顰めていた。何故なら、先だって顔を合わせた際のやりとりから、ヴィルヘルムがその行動に至った経緯を推察できたからである。自身がかつて見捨て、久しく顔を合わせていなかった妹のために、妹が追い求めている自らの真実の手掛かりになればと考え、ヴィルヘルムは故人の部屋を訪れたのであろう。しかし、だからといって、シェーンヴァルト伯爵が彼を軟禁までするというのは想定外であった。――それほどまでに、リーリエ・シェーンヴァルトの存在は、伯爵の中で触れてはならないものになっているということである。フレデリックが考えていた以上に、この問題は根の深いもののようであった。
さて――令嬢は押し黙ったままである。そこへ、良い意味で場違いな給仕の来訪があった。
「お待たせいたしました。季節の柑橘シャーベット三種の盛り合わせでございます」
瑞々しく爽やかな柑橘の香りが、重苦しい空気の個室に漂う。ただならぬ雰囲気の中、給仕は努めて平静に己の職分を全うして――退室した。気付けば侍従の分もデザートが運ばれてきていたので、グリューネは彼に席に座るよう勧め、美しく磨かれた銀のスプーンを手に取ると黙々とそれを食べ始めた。様々な、度し難い感情を溶かして飲み込むかのように。
「フレッド」
やがて口を開いた彼女の表情には、何かしらの覚悟を思わせるような凜々しさがあった。その呼びかけに、フレデリックは視線で応じた。
「近頃は、『悪役令嬢』なんてものが出てくる物語が若者の間で流行っているのを知っていて?」
「それは初耳だ」
夫の返答にグリューネはくすりと小さく笑って――それから僅かに不安そうに、真面目な顔になって問いかけた。
「……わたくしが『悪役令嬢』になると言ったら、あなたは反対する?」
フレデリックは目を瞠った。それなりの時間を共に過ごしてきた夫婦である。彼は、グリューネが何を考えているのか、何をしようとしているのかが、はっきりと理解できたのだ。この瞬間、彼らは紛れもなく――以心伝心だったといえるだろう。フレデリックは、小さく息を吐いて微笑んだ。
「――いいや。最近の君は少し、大人しすぎると思っていたくらいだ」
顔を見合わせて、夫婦は満足げな表情をしている。話を飲み込めない侍従は、スプーンを咥えたまま、ふたりの顔を交互に見て困惑していた。
相手が何者であろうが、邪魔をされてなるものか。無力な子供でいる時間は、もう終わった。役に立たない娘だと、自分が切り捨てたのは誰だったのか――さあ、思い知らせてやろうじゃないか。
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