第32話 主亡き部屋で

 時は少し前後して――

 ヴィルヘルム・シェーンヴァルトは、自室でひとり思案していた。天文台での面会を終えてからというもの、彼の心持ちはいくらか穏やかであった。義妹の夫となった人物について、多少思うところがないではなかったのだが、それらは全て杞憂で済んだ。かなり年齢が離れているということであったが、フレデリック・ロバーツは聡明で、人並みの倫理観を持ち合わせた人物と言って差し支えないだろう。――グリューネにとって、父であるシェーンヴァルト伯爵よりも優れた保護者であることは間違いがない。その、彼の言葉を脳内で反芻していた。


 ――彼女も、自身が何者であるかということに、向き合おうとしています。


 そうだ。これまで、グリューネのあの特異な体質を、誰も彼も異質なものとして疎んじ、時に蔑んだものの、誰一人として、何故そのような体質なのかということを考えた者は――グリューネ自身も含めて――いなかった。それは貴族社会において、その考えそのものが不必要なものだったからに他ならない。彼女に求められていたもの。それは淑女としての美しい振るまい、そして政治的に価値のある繋がりを、婚姻によって作ること。それに尽きるのだ。

 グリューネはこの家を離れて、己が何者であるかということに目を向けるようになったのだろう。フレデリックの言った通り、その真実を求めることによって、彼女は傷ついてしまうかもしれない。まだ、たった十五歳の少女なのだ。それでも彼らが、彼女が、その真実を求めているというのならば、それを止められようはずもない。いや、むしろ義兄という立場から――何か、手助けできることはないのだろうか。


 そう考えて――ヴィルヘルムは「あの場所」へ向かった。リーリエ・シェーンヴァルトがその命を終えた、離れの建物の一室。そこは今日、使われない場所となっていて、手入れでさえも最小限にしか行われていない。それはまるで、ここで亡くなったその人の記憶ごとこの場所に閉じ込めて、時と共に朽ち果てるのを待つかのようだ。ヴィルヘルム自身も、この場所を訪れるのは随分と久しい。それどころか、この場所のことを省みたことすらなかった。この寂しく、人気の無い場所に閉じ込められていた義母は、果たして一体、今際の際に何を思っていたのだろうか。


 扉を開けた先、埃っぽく空気の淀んだその部屋の中に足を踏み入れる。そこはリーリエが死んだ直後から、時が止まっているかのようだ。簡素な作りのベッドに、最低限の着替えを備えていたクローゼット。小さな机。伯爵夫人という肩書を持つ人の住処とは思えない、なんとも質素な部屋である。扉の内側や壁のそこかしこには、彼女が強かに手を打ち付けた痕が微かに遺り、あの狂気じみた末期の姿を脳裏に呼び起こすようだった。悲痛な叫びの残響さえも聞こえてくるような気がして、僅かに身震いをしながら、ヴィルヘルムはその部屋の中を検めていく。彼女の私物の多くは既に処分されてしまっていて、もはや、リーリエ・シェーンヴァルトの生きた痕跡さえ、何ひとつ見当たらないに等しかった。――果たして、彼女がここへ嫁いできたことは幸せなことだったのだろうかと、考えたくなってしまうほどだった。


 やるせない思いに軽く唇を噛みながらクローゼットを開けてみると、その片隅に色褪せたショールが畳まれていた。薄手の生地でできている割に、妙に厚みのあるそれを広げてみると、ショールの中から一冊の本が出てきた。表紙にも背にも題はなく、おそらくこれは日記帳の類のようだった。思わず、息を飲んだ。

 これは――誰かが人目を憚って、処分されることがないように隠したのではないだろうか。リーリエの世話をしていた何人かのメイドは、彼女の死後に暇を出され、屋敷を去っていた。おそらくはそのうちの誰かが、彼女の生きた証をここへ遺してくれたのではないだろうか。


 意を決して、ヴィルヘルムはその分厚い表紙を捲った。かなり昔から使われていたらしいその日記帳は劣化が進み、頁を捲るとぺりぺりと音を立て、微かに引っかかりながら開く。そこには在りし日の、優しく理知的な義母の筆跡で日々の出来事が綴られている。かなり昔の出来事から書いてあるようだ。家族が亡くなって孤独の身となり、ファウゼンを訪ねてきたこと、印章を頼りにシェーンヴァルト家を訪れ、嫁ぐことになったこと、娘が産まれたこと――そして。


「……これは……」


 心臓が、俄かに早鐘を打った。これは、自分が見て良いものだったのだろうか? そう思いたくなるほど衝撃的な内容が、古びた紙の上に踊っていた。あまりのことに思わず日記帳を取り落としそうになったが、気を持ち直し、それを再度ショールに包んで部屋を出た。

 ひとつ確かなことは――これは、グリューネの元にあるべきものだということだ。久々の再会の贈り物とするには、些か内容が重すぎるが、きっと大丈夫だ。妹の傍には、彼がついているのだから。


「ヴィルヘルム」


 その部屋を出て数歩のところで、不意にかけられた声に背筋が凍る。振り返るとそこには伯爵――父がいた。ここへ来ることは誰にも告げてはいないし、誰にも見つからなかったはずだ。ヴィルヘルムは、思わず腕に力が籠めた。


「それをどうするつもりだ。まさか――グリューネに渡しにいくなどと言うつもりではないだろうな」

「……実の母の、遺品なんですよ。彼女に持つ権利があるでしょう」

「そのように、あの我儘娘がありがたがるとも思えんが」


 伯爵が軽く手を挙げると、両脇から黒い影がずるりと出てきた。長い外套を纏った、見覚えの無い使用人だ。一体何者だ――そう訝しんでいると、片方の影が指先を向け、そして言葉を紡いだ。


『対象、拘束』


 その声が鼓膜を揺らした瞬間、身体が硬直した。全身に力が入らず、うまく動かせない。声をあげようと思っても、唇を動かせない。すぐに、魔法をかけられたのだと理解した。伯爵が常々、身辺警護のために――果たしてそれが本当の目的かどうか――魔法使いを雇いたがっていたことは知っていたが、自分にすらその存在を伝えないとは、ヴィルヘルムも思っていなかった。内心で、父は最終的には自分のことを信頼するだろうという、無意識な甘えがあったのだ。己の軽挙を反省しつつ、しかしショールを取り落とすまいと意識を集中させる。父の言葉から察するに、中に包んだ日記の存在には、まだ気付かれていないはずだ。見つかれば、父はきっとこれを処分してしまうだろう。それだけは避けなくては。これは――グリューネの手に渡るべきものだから。


「お前の行動を、私が把握していないとでも思ったか。十分に己の行いを反省し、シェーンヴァルトの後継者としての自覚を取り戻すまで――屋敷から出ることは許さん。……連れて行け。くれぐれも手荒な真似はしないように」


 伯爵の指示を受けて、黒い影のような姿の魔法使いたちが両脇を抱え、引きずるようにしてヴィルヘルムを自室へと運んでいく。部屋へ向かう途中、使用人たちがざわざわとその様を遠巻きに眺めていたが、魔法使いの片方が伯爵の指示だと言うと、それ以上使用人たちは何も言うことができなかった。唯一、ヴィルヘルムの侍従だけが、血相を変えて駆け寄ってきた。


「坊ちゃん! これは一体、どういうことですか……」

「ご令息にはしばしの間、大人しくしていて貰う。――それとも、伯爵のご指示に異議を唱えるつもりか?」


 その名を出されては、侍従も押し黙るほか無い。歯を食いしばり、心配そうに案じる侍従に、どうにか応えようとヴィルヘルムは視線をそちらへ向けるが、まもなく、魔法使いたちに連れられて自室に押し込められる。ヴィルヘルムをベッドに横たえたあと、魔法使いたちは抱えたショールを訝しみ、その手から剥ぎ取ろうとした。しかし、ヴィルヘルムが藻掻いてそれを身体の下に覆い隠して蹲ってしまい、離そうとしない。魔法使いたちは、やや焦れたように口を開いた。


「おい、どうする」

「ご令息を拘束し、屋敷から出すなとしか指示は受けていない。余計な魔法を使って、伯爵の不興を買うのも面倒だ。あの方の逆鱗は、どこにあるか分かったものじゃない」

「それもそうだな。……ご令息。拘束の魔法はじき、自然に解けます。伯爵のお許しが出るまで、勝手なことをなさいますな。でなければ、再びこの魔法を貴方にかけることになる」


 魔法使いたちはそう言って、部屋を出て行く。ドアの向こうからは彼らの声が聞こえるので、どうやら見張っているようだ。ひとまず、日記を伯爵の元に持って行かれなかったことだけは救いだった。伯爵の日頃の気難しさが幸いしたと言えよう。しかし――この分では、グリューネたちに会いに行くことは難しそうである。


 ヴィルヘルムは、微かに嘆息した。妹と四年ぶりに顔を合わせることができる機会だった。日記帳のことがなくとも、再会の日を心待ちにしていたというのに、その機会を不意にしてしまった。もう少し慎重に行動すべきだったと反省する。魔法使いたちの言った通り、拘束はだんだんと効力が薄れ、唇を動かすこともできるようになってきているが、侍従を呼ぶことも今はできないだろう。どっと疲労が押し寄せて、そのまま瞼が降りていく。


 眠りに落ちて、夢を見た。もう随分昔、グリューネがまだ幼かった頃の夢だ。

 後ろからついてくる妹が、途中で躓いて転んだのを振り返って――その子の脚から伸びて蠢いている草の蔓を見て、逃げ出してしまったのだ。背中から、声が聞こえてくる。待って、置いていかないで、泣いてそう叫んでいるあの子から目を背けて、逃げ出したのだ。兄ならば、当然のように手を差し伸べるべきだったのに。


 今度こそ、あの子に向き合わなくては――


 しかし、その決意は今は儚く打ち砕かれることとなり、兄妹の再会は約束の日より、もう少し後のことになる。それも、彼の思いもよらない形で、果たされることとなるのであった。

 

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