第31話 華麗なる闘争への序曲

 想像の範疇であったが、ヴィルヘルムと会ったということを告げると、グリューネはそれはもう驚いた顔をした。彼女からしてみれば、義兄が帰国していたことも知らなかったのだから当然だろう。これもまた想像していた通りに、彼女は目を細めて、厳しい口調で言った。


「ど・う・し・て、わたくしに内緒にしていたのかしら?」

「それについては申し訳なく思っている。ただ俺からすると、彼が君に悪意の無い人間かどうかは、判断がつきかねたので――」


 それ故に、黙っていた。フレデリックが素直にそう白状すると、いくらか溜飲の下がった様子のグリューネはそっぽを向いて、咳払いをする。


「……まあ、いいわ。それで? お兄様はなんですって?」

「俺たちの結婚を祝いたいと。そのための場を設けるので来て欲しいそうだが、どうする?」


 グリューネの肩がぴくりと動いた。彼と話したことはそれだけではないが、あえて今ここで言う必要はあまりないだろう。彼の目的の大きい部分が結婚を祝うためだったことは間違いのない事だ。なので彼女にはヴィルヘルムが、結婚を祝いたいと申し出たこと、そして妹であるグリューネの身を案じていたということを、簡潔に伝えた。横を向いたまま、グリューネは訊ねてきた。


「……あなたはどう思うの?」

「君が良ければ、俺に異論は無い。彼が悪意のない人間であることは、理解できたからな」


 そのように答えると、そう、と短い呟きがあったあと、彼女はもごもごと歯切れ悪く続けた。


「わたくしにも……特に断る理由は無いわ。お兄様がそう仰るのなら……顔を出しても構わなくてよ」


 おそらくは――内心嬉しいのではないだろうか。自分に対して、好悪どちらの感情を抱いているのか定かでなかった兄が、結婚を祝福してくれると言っているのだ。ただ、ここで手放しに喜ばないところが、疑り深い彼女の難儀なところである。

 話が纏まったので、すぐにヴィルヘルムには返答の手紙を出した。その返事もまたすぐ返ってきて、彼が送ってきた封筒の中には煌びやかな箔が押された招待状が二枚入っていた。添えられている手紙に、フレデリックとグリューネは並んで目を通した。


 ――親愛なるグリューネ、そしてフレデリック。

 手紙をありがとう。快い返事が聞けたこと、そして祝いの席を共にできることを大変嬉しく思う。

 『フォルモーント』に、個室を予約しておいた。当日は同封した招待状を持ってきてくれ。

 私たちだけの会食だ。気軽な装いで来てくれて構わない。

 それでは、揃って顔を合わせられる日を楽しみにしている。


 ――以上の内容を見て、グリューネはやや興奮気味に声を上げた。


「ど、どこが気軽なですか……! 『フォルモーント』だなんて……!」

「――というと、貴族街の高級料理店だったか?」

「高級ではありません! 『超』高級です」


 グリューネはフレデリックの曖昧な記憶からの言葉を訂正し、その場所についての知識を披露してくれた。


 ファウゼンの貴族街は、貴族の邸宅が並んでいるという特徴から、住宅街であるという認識が強いが、商業施設が全く無いわけでは無い。貴族御用達の高級な洋品店や料理店が存在し、ほとんどの場合、事前の入店予約は必須である。その敷居と料金の高さから、客のほとんどは貴族、もしくは一部の富裕層の平民ばかりであるが、ごく一般的な平民でも、一生に一度の記念日――たとえばプロポーズをするときなど――には、奮発して利用することもある。

 ――その中でも『フォルモーント』といえば、顧客の名を挙げれば王国の名士という名士が並ぶ名店である。その個室を平民との非公式な晩餐のために用意できるのは、さすがに伯爵家の威光たるや、というところだろうか。フレデリックは感心しきりであったが、グリューネはというと目を白黒させて慌てていた。


「さすがに手持ちの服で行くわけにはいきません。洋品店に行きましょう」

「気軽な装いで構わないと書いてあるが」

「お兄様が構わなくても、わたくしが構うのです!」


 貴族街で生まれ育った令嬢としては、やはりあの場所で半端な格好を衆目に晒すわけにはいかないという気持ちがあるようで、グリューネは強い口調で提案する。


「それにあなただって、じき講師を勤めるのでしょう? スーツくらい、買い足してはどう? 一着ではすぐに傷んでしまうわよ」


 まるで気の利く妻のような――実際妻ではあるが――物言いに、フレデリックは納得して頷く。


「君の言うことも尤もだ。では、明日は服を買いに行こうか」

「……! ええ、ええ、そうしましょう!」


 その言葉に、グリューネの顔はぱっと明るくなった。このような喜びようを、久しく見ていなかったような気がする。彼女は家でゆっくりと過ごすことが嫌いではないはずだが、このところ、生活に必要な品物を買い足すほかに、何かこうした特別な買い物というのはあまりしたことが無かった気がする。口に出さないだけで、本当はもっとこういう機会を持ちたかったのかもしれない――そういった想像を巡らせる程度には、フレデリックも夫という立場に馴染んできていた。


「では明日に備えて、わたくしは休みますね。おやすみなさいフレッド。良い夢を!」

「ああ。君も良い夢を、グリューネ」


 夫の言葉を聞き終わるかどうかのうちに、グリューネはぱたぱたと小走りで部屋に引っ込んでいった。よほど楽しみにしているらしいと思えば、その様子を微笑ましく思うほかなかった。このところ、彼女のためだと言って、事の真相を追及することにばかり意識が向いてしまっていたかもしれない。それがどれほど重要なことであったとしても、目の前にある生活よりも優先される理由にはならないだろう。


「……肩の力を抜いたほうが良いのは、俺の方か」


 折角お誘い頂いたのだ。会食の席では難しいことは一度忘れ、グリューネやヴィルヘルムと有意義に交流することにしよう。そう考えて、フレデリックも就寝の支度をすることとした。


 ――翌朝。グリューネは随分早起きで、朝食も完璧に支度をしたのち、自らの身支度も殊更に入念であった。実家から持ってきた彼女の服は、日常生活で使いやすい装飾の少ないものが多かったが、何着かは余所行きの服を持ってきている。それなりにきちんとした洋品店に出向くということで、久しぶりにそれに袖を通したのだろう。白を基調としたワンピースは、見るからに上等だと分かる生地が惜しげもなく使われている。珍しい格好のグリューネをそれとなく目で追っていると、彼女は目を眇めて問いかけてきた。


「……な、なんですか。じろじろと見て……」

「可愛らしい格好をしているなと思って、見ていただけだよ」


 フレデリックがそう返すと彼女は何度か瞬きをしてから、咳払いをした。


「と、当然でしょう。今日は洋品店に出向くのですよ。それなりの身嗜みで行かなくては」


 過去に何か実体験があるのか、少々忌々し気に彼女は言う。身体から好き放題に植物が生えることを制御できていなかった頃は、苦労があったのだろうということは想像できる。何しろ貴族の着ているようなドレスは、大抵召使が手伝って着せるように作られている。植物が生えているのを人に見られたくない彼女からすると、他人に肌を見せることは憂鬱だったはずだ。


「それに、わたくしがきちんとしていないために、夫のあなたが軽く見られたりしたらもっと良くないわ」

「俺が?」

「そうです。あなたは天文台の教壇にだって立てるような立派な人なのだから、そのように尊重して貰わないと」


 そう力説して、グリューネは再び、着衣に乱れが無いかを確認する。

 あれほど、他人の目を恐れていた彼女が今は――他人からの視線を受け止めようとしている。受け止めて、これが自分なのだと示そうとしている。伯爵家の令嬢ではなく、自分だけの名前と立場で、立っている。自分が彼女くらいの歳の頃、このように堂々と立てていただろうか。こうあろうとする自我を、持てていただろうか――眩しいような気持ちで、フレデリックは妻の様子を眺めていた。熱心に鏡を見つめるその背に向かい、思わず呟きが漏れる。


「……君は強いな」

「? 何か言った?」

「いいや、なんでもない」


 常ならばきつく追及されることもあるが、今日の彼女の気がかりはそこではない。グリューネは軽く首を傾げたが、すぐにぱっと笑顔になった。


「それなら、食事を済ませて早く出かけましょう。一日はあっという間なのだから、時間は有効に活用しなくては!」


 朝食を済ませて、フレデリックとグリューネは揃って家を出た。ファウゼンの市街はいつもと変わらず賑やかしく、季節の変わり目を告げる目新しい農産物が市場に並ぶ。しかし今日の用事はそちらではない。ゆるやかな上り坂や階段を使い、市街地を少しずつ上っていく。上等な洋品店などは、平民街の中でも比較的高いところ――つまり貴族街寄りに――に並んで建っている。貴族たちは大抵お抱えの職人がいるが、既製の服を全く必要としないわけではない。そういった需要のために、貴族やその使いの者が立ち寄りやすい立地になっていた。


 各店のショーウィンドウには、職人自慢の一着が展示され、グリューネは目を輝かせて食い入るように眺めている。フレデリックはあまり着るものに拘りが無いので、それらの良し悪しは分からなかったが、グリューネがしきりに見つめているドレスが飾ってある店に入ることにした。

 店内に足を踏み入れると、身形の整った若い店員がいらっしゃいませと出迎え一礼する。あまり馴染みのない丁寧さに、一瞬気圧されるフレデリックだったが、グリューネがすぐに応対した。


「ごきげんよう。この人に良いスーツをいくつか合わせてくださいな」

「かしこまりました。お嬢様はドレスをご覧になりますか?」

「ええ、そうね。お願いします。……では、。また後でね」


 フレデリックに小さく手を振り、グリューネは女性の店員に連れられて、ドレスが飾られている部屋へと歩いて行った。最初に声をかけてきた若い店員は、驚いたような顔をしてから慌てて頭を下げた。


「も、申し訳ありません。お客様方は、その、ご夫婦でいらしたのですね。てっきり、ご兄妹かとばかり……」

「ああ、良くあることだから気にしなくていい。今日は機嫌がいいので、妻も気に留めていないだろう」

「は、はい。大変失礼致しました。では、旦那様はこちらへ」


 男性用のスーツがある部屋に案内され、各部を採寸されながら、フレデリックは今回必要としている用途を簡単に伝える。ひとつは妻の兄との会食のため、そしてもうひとつは講師として教壇に立つためである。その話を聞いて、店員は何着かのスーツを持ってきた。そのどれも、身体にぴたりと添うようなしなやかな生地でできており、上品で柔らかな光沢がある。ぼんやりと、このような柔らかな羊毛生地を手に入れるのは、故郷であれば大変だったであろうなと思った。

 持ってきてもらったうちの二着を購入することにして、それからシャツも新調して――ネクタイを選ぶ段階になって少々難儀になってきて、意見を聞きがてらグリューネの様子を見に行くこととした。


 グリューネが案内された部屋へ向かう。すると、微笑ましげな顔の女性店員と、眉間に皺を寄せながら、二着のドレスと睨みあうグリューネがいた。真剣な様子だったので、声をかけようかどうしようか悩んでいると、女性店員が気付いて、彼女の肩を小さく叩いた。


「奥様、旦那様がいらっしゃいましたよ。ご意見を聞いてみては?」

「う、うう~……」


 唸りながら視線を向けてくるグリューネに歩み寄って、フレデリックは訊ねた。


「どうした。そんなに唸って……」

「この二つのどちらかから選べなくて……」


 妻の睨んでいた二着のドレスを見る。片方は、非常にボリュームがあるフリルをあしらった可愛らしい印象が強いドレス。もうひとつは対照的に、身体の線を強調するような、細身で控えめな装飾のドレスだ。グリューネの好み――あくまで普段着ているものから推測しただけだ――からいうと可愛らしいドレスになるのではないかと思うのだが、珍しいドレスを選んだようだ。


「しばらく服など買っていなかったのだから、一着だけにする必要はない。両方買おう」

「ええ……!? で、でも、そこまで気軽な値段ではないわよ……?」

「構わない。俺も二着買うことにしたから、君も二着買えば良いだろう。……こちらを両方頼む」


 フレデリックがそう言うと、女性の店員はひとつ頭を下げてから笑みを深くし、良かったですねと言って、ドレスを包む準備を始めた。それからグリューネをスーツのある部屋の方へ連れていき、ネクタイについて意見を求めた。グリューネは先程ドレスをにらんでいたのと同様の表情でネクタイの載せられたテーブルを見つめて、やがてひとつを手に取った。


「これはどう? こんな色は持っていなかったんじゃない?」


 細かな柄を織り出した、青緑色のネクタイだ。彼女の瞳と、そして彼女の兄の瞳と、同じ色。祝いの席にしていくのには丁度いいかもしれない。決して、彼らと血は同じくできないが――家族として、縁のあるものを身に着けていくというのは。


「……ああ、綺麗な色だ。それにしよう」


 ――結局この日は、スーツを二着とドレスを二着、シャツ一枚とネクタイ一本を購入して、それなりの金額になった。平民街の小さな薬局が自宅だと話すと店員たちは驚いた顔をしたが、『王立天文台』に勤めていると聞くと、一様に納得して頷いた。天文台の要職につくもの――たとえばハインツェル教授――などは、こうした場所で服を買うこともままあるのだろう。

 初めて訪れた店であったが、それなりに買い込んだためか帰る頃にはすっかり上顧客のような扱いを受けていた。退店しようとしたところで、店員が皆見送りにやってくる。


「またそのうちに、寄らせて頂きますね」

「はい、。お待ちしております」


 最初にグリューネにお嬢様と言った店員は恐縮したように頭を下げていたが、グリューネは気にしないでいいわと笑った。やはり、今日は機嫌が良いようだった。


 二人で荷物を分担して持ちながら、普段あまり見に来ないような雑貨店などを見て回りながら帰路につくと、その道中でグリューネがぽつりと言葉を零した。

 

「わたくし、本当は少し緊張しているわ。お兄様に会うこと。――店が高級だから、というわけではなくてよ」


 無論それは、フレデリックも承知している。静かに頷いて先を促すと、手に持っている紙袋の取っ手を、彼女が今一度強く握りしめる様子が伺えた。


「面と向かったら、恨み辛みを吐き出してしまう気がして。以前のわたくしが出てきてしまう気がして。わたくし、怒りっぽいのだもの。……でも、昔のことはもういいの。わたくしは、今の自分で、今のお兄様とお話しがしたい。そのために、自制がきちんとできるかというのが、不安で……」


 フレデリックは面会したときのヴィルヘルムのことを思い出していた。妹の前に立つ勇気が足りないと、情けない姿を晒すことにならないだろうかと、そう吐露した青年の姿を。この兄妹は、よく似ていた。姿形がではなく、互いへの距離感がだ。もっと歩み寄ろうと考えているのに、互いに自分の至らなさから、そうできないでいる。第三者から見ればそれは、なんてことのない杞憂のように思える。しかし、彼らにとっては重要なことであり、それは決して、軽んじてはいけないものだ。


「……大丈夫だ。君ならできるよ」

「本当に? 本当にそう思う?」

「ああ」


 それを聞くと、グリューネは確かめるようにゆっくり頷いてから、もう半歩、夫に近づいた。


「……もし、お兄様とわたくしがうまく喋れないでいたら、あなたが助け舟を出すのよ?」

「それはまた、難題だな……最善は尽くそう」


 悪戯っぽく見上げてそう言ってくるグリューネに、フレデリックは苦笑しながら返した。よくよく考えてみると、こと雑談の得意ではないフレデリックに頼むのは全く適任ではないのが――それでも、グリューネにとって何においても一番頼りになるのは、隣を一緒に歩いている、この伴侶だ。

 グリューネは控えめに、多くの荷物を持っている夫の邪魔にならないよう、彼の腕に自分のそれを絡める。寄り添って歩きながら、ふたりは会食の日にそれぞれの思いを馳せていた。共通しているのは、その日を楽しみに思っている、ということだっただろう。


 しかし、この時には――まさかこの会食が、シェーンヴァルト家を巻き込んだ壮大な親子喧嘩を引き起こすことになるとは、だれひとりとして考えていなかったのである。



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