第30話 きょうだい/妖精令嬢の兄
フレデリックは約束の時間よりやや早く、貴賓室へと向かった。貴族が天文台を訪れることは、以前より少し増えた――貴族たちの『出資遊び』のためだろう――ものの、やはり話題性はあるらしく、貴賓室へ向かう道中で、幾度か声をかけられることになった。
「おやフレデリック、今日は早支度だな」
「貴い身分のお方を、待たせるわけにはいかないだろう」
「これは驚いた! 『識欲魔人』殿が書物以外に敬意を払うとは」
「定刻を守るくらいの常識は持っているさ。では失礼」
以前、シェーンヴァルト伯爵が訪れてきたときは、事前に何の沙汰も無かった。そのためフレデリックはかの人物を待たせることになってしまったが、それはなにも、故意に遅れたわけではない。事前に約束をしていれば、きちんと定刻に間に合うようにしたはずである。しかし噂にいらぬ枝葉がつくのは免れないことで、天文台の一部からは、王侯貴族すら待たせる傍若無人たる魔法使いだという、不名誉な称号を得てしまった。特にそれを払拭しようと躍起になる必要は感じていないが、礼節に欠ける人物だと思われるのは不利益なことである。同じ愚を、わざわざ二度犯すことはない。それゆえの早支度である。
貴賓室へ到着し、その部屋の掃除に抜かりがないことを確認してから、フレデリックはソファに腰掛けて瞑目し、相手の到着を待った。
やがて、ふたつの足音が部屋へと近付いてきた。瞼を開けて再度居住まいを正したところで、コンコンと扉が叩かれて、そして開く。
現れたのは、背筋のすっと伸びた貴公子である。明るい金茶の柔らかい髪に、整った凜々しい顔立ち。澄んだ湖色の瞳は、慣れ親しんだ妻のそれと似た色をしていて、まじまじと眺めれば血筋を感じることができる。後ろに伴っているのは見覚えのあるかの家の侍従で、視線が合うと気まずげにそっと逸らした。何かと縁のある男であるらしい。フレデリックは席を立ち、貴公子の前に進んで一礼する。先に口を開いたのは貴公子であった。
「――貴方が、フレデリック・ロバーツ氏か?」
「相違ありません。ヴィルヘルム・シェーンヴァルト閣下。お目にかかることができ、光栄です」
「こちらこそ、会えて光栄だ。この数日、貴方の書いた論文を幾つか拝見したが、とても興味深く読ませてもらったよ。貴方のような人が、いち研究員に甘んじているとは、改めて『
「……勿体ないお言葉です」
今日びなかなか聞かないような嫌味のない賞賛の言葉を受け、フレデリックは殊勝に軽く頭を下げながら、視線で貴公子の様子を伺う。彼の父親であるシェーンヴァルト伯爵は、いくつもの打算と謀略を微笑みの下に隠していたが、対してこの若者は、ひどく正直な性質であるらしい。内心の安堵、困惑、緊張――そうした細やかな感情が、端正な顔に滲み出ている。親子でこうも違うものかとある種の関心を憶えていると、着席するよう促されたので、再度ソファに腰掛けた。ヴィルヘルムも同様に腰掛け、侍従には部屋の外で待つように指示する。そうして部屋の中に、短い静寂が訪れた。貴公子はひとつ咳払いをして、いよいよ本題に入った。
「突然の来訪をどうか許されたい。貴方と、妹のグリューネが結婚したと、遊学から戻り知った。今日は、貴方に挨拶をするために伺った次第だ」
「お気遣い痛み入ります。本来であれば、こちらからご報告をすべきでした。申し訳ありません」
「いや、それは気にしないで欲しい。喜ばしい出来事を共有するほどの相手ではないと、貴方も妹も思っていたはずだろうから」
それは全く――尤もな話である。さしものフレデリックも、この貴公子と妻となった人とが良好な関係を築いていたのであれば、世俗の習わしとして報告のひとつもすべきだろうと進言しただろう。しかし生憎、彼らはそのような間柄でもなかったし、それ以上に、グリューネは新しい生活に馴染んでいくのに精一杯だったのである。抱いている感情の好悪に拘わらず、遠方にいる親族への報告など、思いつきもしなかった、というのが正直なところである。いかに返答したものかとしばし考えていると、ヴィルヘルムは窮屈そうな襟元を少し緩めて、息をつきながら続けた。
「もっと気楽に話そう。貴方が妹の夫ということは、貴方と私も兄弟ということになるだろう。そう畏まらず、普段通りにしてくれれば良い」
「……それは助かる提案ですが。私――俺は常日頃、貴い身分の方への敬意が足りていないようで、よく同僚にも注意をされますので、普段通りというわけにも」
「構わないよ。そもそも私はただ、家の名前で貴ばれているだけに過ぎない。私個人は、まだ何ひとつ為していない凡人だ。それに比べて、貴方は天文台でいくつもの学術的貢献をなされている。本来なら、敬意を払うべきは私の方だ」
いくらか気楽になったらしい態度で、ヴィルヘルムは苦笑した。貴族の子弟はしばしば、家名と己の名とを混同しがちであるが、彼はそうではないらしい。かといって、自らがどういった立場であるかという、自覚がない訳ではない。それは素直に、好ましく思える振る舞いだった。貴公子は心地良く澄んだ声で続けた。
「実は先程の従者から、結婚に至った経緯については、おおよそ聞いている。……グリューネは元気でやっているだろうか?」
「元気と言えばそれはもう。年頃の少女の活力には驚かされます」
「そうなのか。それは良かった。……」
その遠慮のない物言いが面白かったのか、ヴィルヘルムは小さく笑って、それから、少し躊躇いがちに、言葉を選びながら続けた。
「……正直に言って、あの子にはこれが最良の結果だっただろう。もし貴方と結婚しなければ、あの子の行く先は、あの身体を面白がって慰みものにするような、好事家の元だけだっただろうから」
「……」
生活に余裕のある者は、高尚なものから、低俗なものまで多彩な趣味を持っている。あの特異な体質を持つグリューネに、世継ぎを産ませようという貴族はいないかもしれないが、見世物としてなら面白いので手元に置きたいと思う貴族や、あるいは富裕層の平民は確かにいるかもしれない。グリューネが外交的に価値を失うような年齢までシェーンヴァルト家に残っていれば、そういう結果になったかもしれない。聞けばなるほどと理解できる内容ではあるが、不愉快には違いなかった。
「……だから、貴方には感謝している。ありがとう、フレデリック。私は兄だというのに、妹を守るどころか――怯えて見放しさえした。本当に恥ずべきことだったと、今になって反省している」
ぐっと頭を下げるヴィルヘルムの姿には、深い後悔の念が込められていた。それに感じ入りつつも、冷静に思考を続けるフレデリックは、今の話から気になる点を指摘した。
「彼女に怯えて――というのは?」
その問いかけに、ヴィルヘルムは少し視線を彷徨わせて――それから、少しだけ前のめりになって声を落とした。
「……これは、グリューネには伏せておいて欲しいことなのだが、」
そう前置きして始まった彼の話は、予想外かつ、壮絶であった。
曰く――グリューネの母、リーリエ・シェーンヴァルトは病死ではない。彼女の死因は精神的な錯乱によるもので、そして死の間際には、しきりにグリューネのことを恐れていた、という内容だった。かつてのヴィルヘルムはその様子を見て、リーリエの発狂の原因がグリューネにあるのではないかと思い、それ以来怖くなってしまったのだ、と。貴公子は告解する罪人のように話した。彼の心情に寄り添うべきときであったのかもしれないが、それ以上にフレデリックは、突如彼から語られた事実に驚きを隠せないでいた。
「……グリューネからは、母の死因は病だ、と聞いていたのですが」
「とても、妹に本当のことを話せるような様子では無かったんだ。施錠された部屋の扉を、手が腫れ上がるまで叩いて助けを求めたり、夜通し泣きながら意味不明な言葉を喚いたり……お元気なときのリーリエ様の面影は、まるでなくなってしまったから……」
彼の話を聞くに、症状はかなり重篤だったらしい。それに、グリューネの存在が関わっている可能性がある。それは当然、母を慕っていた娘が聞けば、ショックを受けることであることは間違いない。しかし同時にこれは――彼女の真実に大きく近付く手掛かりになるかもしれない。リーリエは母であるがゆえに、グリューネの体質に関する、何かしらの特異性の正体に気付いていたのではないだろうか。
「……ひとつ、お話ししておきたいことがあります」
そう前置きをして、フレデリックは話した。
「俺はグリューネの、身体から植物が生えるという特異性についての真相を解き明かして――可能であれば治療ないし改善したいと考えています。これは自分の知的好奇心からの興味というだけではなく、自分を知り、彼女自身の意思で、己の在り方を決めて欲しいと思うからです」
「自身の……在り方」
「他人から、自分の在り方を決められるのはとても苦痛なことです。彼女も、自身が何者であるかということに、向き合おうとしています。……なので、その約束はできません。必要があれば俺は、この話を彼女にすることになると思います。それで彼女が、傷つくことになっても」
申し訳ない、と頭を下げると、ヴィルヘルムは頭を振った。
「いや――こちらこそすまない。貴方たちがそれほど真剣に向き合っているとも知らずに、かえって失礼なことを言ってしまった。……あの子も、もう小さな子供ではないということだな。結婚することさえ決められるのだから、当然か」
言いながら、ヴィルヘルムは苦笑した。彼の中の妹の印象は、おそらく今のグリューネとは随分異なっているのだろう。無理からぬ話だ。子供の成長とは目覚ましく、とりわけ情緒面の発達は、一般的に女性の方が男性よりも早いものだ。フレデリックは、徐にこう提案した。
「――直接、グリューネに会いませんか。これは勝手な想像ですが、貴方は様々な心の葛藤から、彼女に直接連絡することを避けた。兄妹の間柄であれば、手紙ひとつ送るのにいくらでも理由をつけられるはずなのに、わざわざ煩わしい手続きを踏んでまで、天文台で俺と面会することにした。彼女と絶対に顔を合わせない場所を、選んでのことではありませんか」
ヴィルヘルムは少し驚いた様子を見せてから、視線を逸らして頷いた。躊躇いがちに開かれた口からは、これまでの彼とは打って変わって、気弱な言葉が漏れた。
「……情けない男と笑ってくれ。私は、かつての振る舞いを兄として恥ずべき姿だったと認めながら――妹の前に立つ勇気が、今ひとつ足りない。あの子のこれまでの怒りや苦しみを思えば、どんな非難であろうと受け入れて然るべきだ。しかし、面と向かってそれを言われて受け止めることができるか、さらにあの子を失望させるような姿を晒しやしないかと、不安でならないんだ」
ここまでのやりとりで、この青年の人となりをより深く理解できた。貴族としての責務を理解し公正であろうとしながらも、繊細で情が深い一面もある。人の上に立つものとしては必要な素質であるが、政治家としては、果たしてどうであろうか。伯爵なら、後継者である彼に、もっと冷酷であって欲しいと考えるだろう。伯爵がグリューネを一族から排除しようと考えたのも、一種の政治的判断である。政治とは時に非情な決断を下さなくてはならない時があり、彼の繊細さは、彼自身を苦しめる要因にもなるだろう。
しかし、こと『兄妹』として見るのならば。己の弱さを隠さず認める彼は――信頼に値する人物だと思えた。
「確かに、グリューネは怒りっぽいところがあるので――貴方に一言二言きつい言葉を言うかも知れません。ですが、貴方が彼女のこれまでの辛苦を慮るように、彼女も貴方の艱難を、理解すると思います。信じてやってください」
「……貴方は、随分妹を褒めてくださるのだな」
「勿論。俺にとって、得がたい良き伴侶ですから」
本心からの言葉だ。事実を述べただけで、フレデリックにはそんなつもりは微塵もなかったのだが彼の言葉を一種の惚気と受け取った貴公子は、口元を手で覆って穏やかに笑いながら言葉を返した。
「妹は本当に……良い伴侶を得たようだ。では、フレデリック。改めて、然るべき場で貴方たちの祝いの席を設けたい。グリューネにも、伝えて貰えるだろうか?」
「はい。次にお会いできるの日も楽しみにしています。ところで――」
立ち上がり握手したところで、フレデリックは大真面目に、この面会が始まってからのここまでの、一番の疑問を口にした。
「俺は貴方を、どう呼ぶべきでしょうか? お兄様」
「……ヴィルヘルム、でいいよ……」
「ヴィルヘルムお兄様」
貴公子は耐えきれず吹き出し、この日初めて、声を上げて笑ったのだった。
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