第29話 きょうだい/冬の国の追憶
フレデリックには目下考えなければならないことがひとつあった。
グリューネの義兄・ヴィルヘルムとの面会についてである。
遡ること、数日前――
フレデリックは引き受けた研修講義の資料の作成のために、過去の講義の資料や自分がかつて講義を受けたときにとった板書の記録などを引っ張り出し、研究室の一角で頭を捻っていた。
今の君は案外、良い先生になるんじゃないかと思ってる――そう親友に太鼓判を押されたものの、この男は初心というものを忘れて久しい。王国の最高学府と呼ばれる天文台において異例の入所を果たし、その年度の試験を全て満点で通過した。彼はどちらかといえば、非凡と言われる側の人間であることは間違いがないだろう。
しかし、やってくる研修生たちが皆、それと同じとは限らない。長いこと己の方法でしか研鑽を積んでこなかったこの男には、他人を育てるという経験が圧倒的に不足していた。そうした観点で振り返ると、過去に一度だけ講師を引き受けた年に行った講義は、それはもう酷かったように思う。その通りにグリューネに教えてみたとしたら、きっと息巻いてダメ出しをしてくるに違いない――と、容易く想像が及ぶ程度には。
そのように人知れず四苦八苦しているところへ、来客があった。天文台の事務員である。
「こんにちは、フレデリック。ちょっといいかな」
「どうした。生憎、少々忙しいのだが」
「あまり時間は取らないので安心してくれ。君に面会の申請が来ているから、返答を貰いたくてね」
「面会?」
フレデリックは、僅かに眉を顰めた。それは面会が来るような心当たりがまるで無かったからであるが、事務員の次の一言でさらに困惑を深めることとなった。
「申請者はヴィルヘルム・シェーンヴァルト氏だ」
「……シェーンヴァルト?」
「そうだよ。君の奥方の兄君様だね。五日後、天文台の貴賓室での面会を希望されているが、予定はどうだろうか?」
ヴィルヘルム・シェーンヴァルト。その人のことは、当然いくらかは知っている。
グリューネの異母兄であり、シェーンヴァルト家の後継者。数年前から外国に遊学に出ていたと聞くが、どうやら帰国してきたらしい。彼が面会を申し込んでくることは理解の範疇ではあるものの、少々意外だという感想もあった。
一般的な血縁関係であれば、妹の結婚相手のことは気にかかるであろうし、挨拶に来るというのも当然のことだろう。しかし彼は貴族――それも血統至上主義ともいえる父親を持つ――であり、妹のグリューネは既に、身分の上では平民となっている。平民の妻となった貴族の元令嬢に対して、その実家の人間が接触してくることは、ほとんど無い。理由はいくつかあるが、縁を深めたところでなんの利益も無いからというのが、政治的な性質からの答えになるだろう。勿論、親族として交流を深めている例もあるのかもしれないが、果たして彼がそれを望んでいるのかまでは判断できなかった。
しかし、面会を断る理由は無い。少なくとも彼は、シェーンヴァルト家の内情をグリューネよりも知っている、数少ない人物であるからだ。
「……俺の方は問題無い。先方にもそのように伝えて貰えるだろうか」
「承知した。ではそのように伝えておくので、よろしく頼むよ」
事務員は面会の申請書の控えを手渡して、自分の仕事へと戻っていった。フレデリックは、その申請書に目を落とす。そこには間違いなく、ヴィルヘルム・シェーンヴァルトと署名がしてある。さすがに伯爵家の嫡男ともなると、良い教育を受けているのであろうと伺わせるような、端正に整った文字である。まじまじとその名を見つめて、彼が妻の血縁なのだということを実感していた。
きょうだい。同じ親から生まれた、血縁関係のものを指す言葉。そういう定義は知っている。そういう関係のものが、自分にもいた。しかし、自分と自分のきょうだいたちは異質すぎて、一般的なそれには当てはまらないだろうと思う。
故郷を離れ、年月を経た今きょうだいだったものへ思うのは、限りない憐憫と、己の業の深さだけだった。
***
――あれを見て。
遠い記憶の中で、女の声がする。甘ったるく絡みつく、時に心地良いとさえ感じていたその声が言った。
――あれが、私たちのきょうだい。かわいそうな、私たちのきょうだい。
白く細い指先が示す眼下の空洞に、それらがいた。醜く歪な身体で、声にならぬ声をあげながらのたうち回り、こちらに向かって縋るように、あるいは賛美するように手を伸ばしていた。こちら側に来られなかった多くのきょうだいは、あの空洞の中で、無意味な生を送る。その命の限りが来るまで。哀れだとは思わなかった。そういうものだと、教えられていたからだ。女は言った。
――君は特別。君だけが、強く美しく生まれてきた魔人。
私たちの悲願のために。この国が、春を手に入れるために。君が必要よ。
君の力が。血が。肉が。必要なの。
がらんとした部屋に横たわる、空虚な身体。それはさながら、皿の上に乗せられた供物だ。それを、多くの人が代わる代わる食みに来る。苦痛に喘ぐ声も、恍惚とした叫び声も、全てが右から左へ流れていく。幾度めかに現れた白い指が頬に触れ、顎の先から首筋、そして胸の上を撫でた。その感触だけが、僅かに心の中に爪痕を残した。暗闇に女の白い顔が、ぼんやりと浮かんでいる。
――愛しているわ。君も私を、愛しているわよね?
毒を流し込むように、甘い声が耳元で囁く。愛している。愛している。愛して、いたかもしれない。愛してる。ぼんやりと事務的に、作業的に、その言葉を呟いた。
愛していたから、そう言ったのか。そう言われたから、愛していたのか。今となっては、もう分からない。身体に纏わり付いた熱が冷める頃、どこからか、小さな鈴の音と、猫の鳴き声が聞こえた。
「――フレッド?」
名前を呼ばれて、意識が現実に引き戻される。上の空で夕食――師匠にもらった蜂蜜を使った鶏肉のソテーだ――の皿をつついていると、正面に座るグリューネがじろりと厳しい視線を向けていた。
「お口に合わなかったかしら?」
「……いや、そういうわけでは」
「では、お食事の時くらい、その賢いおつむはお休みさせておいて」
そう言いながら、彼女は鶏肉の端を小さく切って、口に運んだ。改心の出来映えなのか、言葉にせずともこの食事を絶賛していることが伝わるような笑みを浮かべて、食事を続けている。このような妻を目の前に、物思いに耽るのは確かにあまり褒められたことでは無かった。そう思い直し、フレデリックも鶏肉を切り分け、口に運んだ。肉の旨味と、蜂蜜の甘味。それにほんの少し加えられた辛味が、絶妙なバランスだ。目の前で格別に美味しそうにそれを食べている少女がいることを抜きにしても、十分に賞賛に値する食事といえた。
「……悪かった。君が作った食事に集中すべきだったな。とてもおいしいよ」
「そうでしょう、そうでしょう。分かればそれで良いのです」
得意気に胸を張るグリューネの様子を見て、自然と身体の力が抜け口元が緩んだ。少しばかり、いろいろなことを気負い過ぎていたかもしれない。日頃こんなに思考が鈍ることはないが、慣れないことを多くこなすと疲労するらしい。当たり前のことのようだが、久しく無かった感覚だ。
あれよあれよという間に、ヴィルヘルムとの面会は明日に差し迫っていた。このことはまだ、グリューネには伝えていない。あちらがどういった要件と距離感で面会を求めてきたかが分からないので、あちらと話をするまでは内緒にしておこうと思っていた。こういうことをすると、秘密主義だなんだとまた後で言われそうだが、きちんと話せば理解は得られる、はずである。彼女が危険や悪意に晒されることは、可能な限り少ない方が良い。そうであって欲しいのだ。
「ルーエの百花蜜、本当においしいわ。このままではあっという間に無くなってしまうでしょうね……」
グリューネは一口大に切った鶏肉に、皿の上のソースを綺麗に絡めて、小さな口で惜しむように咀嚼した。昼間に食べたときにも散々この蜂蜜のことを褒めていたので、いたくお気に召したようだ。師匠にまたお願いしよう――と思いながら、努めてさりげなく話題を切り出した。
「グリューネ。君の母君と兄君のことを聞いてもいいだろうか」
「お母様とお兄様?」
訊ねるとグリューネは不思議そうに目を丸くしたが、先日母親についての話をしたばかりだから、それで訊ねたのだと思ってくれたようだ。実のところは、今聞きたいのは義兄であるヴィルヘルムについてのことなのだが、彼女が納得してくれるのであれば、どう思ってくれても構わなかった。ともあれ、グリューネは特に強く不審がることも無く口を開いた。
「そうね。あなたももう知っているでしょうけれど、お母様のこと……あまり多くは憶えていないの」
少し俯いて、過ぎ去った過去に思いを馳せながら、彼女はぽつりぽつりと話を続けた。
「記憶に残るお母様は、いつだって笑顔を向けてくれていたわ。わたくしが身体のそこかしこから植物を生やして、周りから冷ややかな目で見られても、お母様だけは変わらずにいてくれた。大切な、可愛い娘だと言って、頭を撫でてくれた……」
優しい母の思い出を穏やかに話す少女の声は、一転して悲嘆に暮れはじめた。
「わたくしが七つくらいの頃、お母様は病に罹ったわ。病をうつしてはいけないからと、お母様は離れの小さな部屋で療養することになって、それからはずっとお顔を見られなかったの。お母様が亡くなってしまうまで――ただの一度もよ」
フレデリックは閉口した。幼い少女が、唯一自分の味方だと信じていた母親と引き離されたその悲しみと心細さを理解できようはずはなかった。しかも次に顔を合わせたときには、その人は既に帰らぬ人だったのだ。グリューネはきっと、ひどく泣いたのだろう。今の彼女でさえ、俯き気味のその瞳から落涙しそうなほど沈鬱な顔をしているのだから。
「……ずっと塞ぎ込んでいたら、お兄様が絵本を持ってきてくれたわ。死んだ人は消えたわけじゃない、空から見守っているんだという話の、子供向けの本。今思うと、あれはわたくしを励まそうとしてくれてたのだと思うけれど……あの時は全くそんな風には思えなかった。だって、お空にお母様がいたって、もう笑いかけてはくれないし、撫でてくださらないのだもの」
グリューネは、寂しそうに微笑む。
「お兄様のことも、実を言うとあまり分からないわ。わたくしを庇ってくれることはあったけれど、それはたぶんあの人が、公正じゃ無いことが好きじゃなかっただけだと思うの」
あの人、とよそよそしく義兄を呼ぶあたりに、彼女と義兄との関係の希薄さが窺えた。
「そうして、ある日突然外国に遊学に行ってしまって、それきりね。手紙のひとつも無かったけれど……かえってそれで良かったのかも」
「何故?」
「……だって、手紙に書けるようなことなんて、何もなかったもの」
一度そこで言葉を切り、ひとくち水を飲んで、でも、とグリューネは言葉を継いだ。
「もしも今、お兄様から様子を訊ねる手紙が届いたとしたら、書けることがたくさんあるわ。きっとお兄様、魔法使いの暮らしのことなんて、ご存じないでしょうね」
そんな機会はきっとないだろう、言外にそんな思いが滲んでいた。貴族街で、人々に見上げられながら暮らしていた頃を遠い昔のことのように笑っている、グリューネはもう、自分を貴族の令嬢だとは考えてはいないのだ。
彼女が義兄をどう思っているのかは、測りかねた。けれど少なくとも、憎からず思っているようだということは理解できた。あるいは彼女自身も、その感情に名前をつけられないのかもしれなかった。そうできるほど、彼らきょうだいは、共にいなかったからだ。
――きょうだい、か。
食事のあと、自室で本を捲りながら、フレデリックはいよいよ明日の心持ちが定まらずにいた。部屋の扉が叩かれて、グリューネがやってきた。就寝の支度を全て済ませ、花の香りと石鹸の香りとを纏った少女は、傍へやってきて椅子へ腰掛けると、もごもごと口を開いた。
「ねえ、ほんの好奇心なのだけど……あなたの家族のことも、聞いて良い?」
「俺の家族?」
「そう。あなたのお父様やお母様は……どんなひとだった?」
フレデリックは数度瞬きをし、思案した。
家族。それは自分にとって、とても縁遠い存在だ。正直なことをいえば、家族との思い出のほとんどが、思い出したくも無いようなことと言っても過言ではなかった。言い淀んでいると、あたふたとしながら矢継ぎ早にグリューネが再度口を開く。
「嫌なら別に言わなくていいわ! ただ……もしもよ? あなたの家族に会うことがあったら――仲良くなれたら良いなと、思っただけだから……」
――正確に言うならば、家族のことを話すこと自体は構わなかった。ただ、彼女に過去のことを打ち明けて、徐々にその輪郭が形作られてしまうことを、恐れていた。しかし、自分が先にグリューネに訊ねた手前、口を閉ざすことは憚られた。彼女だって、辛かった過去のことを振り返ってくれたのだから。
「――俺の父と母は、魔法使いだった。メードライデンの、ある魔法研究機関に所属していて――知識の探求というものにしか、興味の無い人たちだった」
グリューネは行儀良く椅子に座ったまま、静かに話を聞いている。
「俺も、二人のことにあまり興味はなかった。父はいつも俺に一流の魔法使いになるよう言い聞かせてきて、起きている間は、ほとんど魔法の勉強や実技とをさせられていた」
「……それは……魔法使いにとって、普通のことなの?」
「あまり一般的ではないだろうな。だが、俺のいたところではそれが普通だった。それから――猫が一匹」
あの白い仔猫のことを思い出しながら、傍らの少女の頭を撫でた。あの仔猫にまつわる記憶は、絶望と希望の合わせ鏡のようだった。
「元々、野良猫だったんだ。腹を空かせていたようで、纏わり付いて餌を寄越せと訴えるので、食事を分けてやったら、懐かれてしまったんだ。自由に外を出歩いて、腹が減ったら俺の部屋に帰ってくる」
「で、その図々しい猫がわたくしと似ているって?」
「そうだよ。とても可愛いんだ」
「……あなた、本当に猫が好きね……」
呆れたような声色でそう言いながら、グリューネが見上げてくる。澄んだ青緑の瞳は、早朝に薄く氷の張る、故郷の湖に少し似ていた。
「きょうだいは……いなかったの?」
「……ああ」
この嘘だけは、墓場まで持って行くと決めた。
彼らのことを、きょうだいだと言ってグリューネに話すことはできない。あれらは、この世界にあってはいけないものだ。
『
「もう遅い時間だ。そろそろ寝た方が良い」
「あら。もうそんな時間?」
促すと、彼女は少しむくれて、椅子の背に体重を預けた。
「……身体が重たいから、部屋まで連れて行って」
「今日一日食べ過ぎたんじゃないか」
「そういうことは思ってても言わないのよ! ほら! 早く!」
両手を突き出して催促するので、フレデリックは立ち上がって椅子の上の少女の身体を抱き上げた。ああは言ったが、食事を食べ過ぎたとしても、この華奢な少女の身体の重みが特別変わったようには感じない。むしろ少しくらい体重が増えたって良いと思うのだが、体重の話は女性にとって――妻も例に漏れず――禁句らしい。
優雅に運ばれながら、グリューネは小さな声で訊ねた。
「……寂しくはなかった?」
先程の、話のことだ。家族との縁などあってないような生活の中で、彼女がかつてそう感じていたからこその問いだろう。
寂しいという感情があったかと問われると、よく分からない。あの頃は全てがそういうものだと、教えられて生きていた。国を出るまで、自分の世界は、あの小さな箱庭の中だった。
「寂しくはなかったよ。小さな友人がいたから」
「そう。……良かった」
その返答に満足したように。あるいは、安堵したように。微睡んで彼女は目を伏せた。優しい娘だなと思った。彼女がいるおかげもあって、今も寂しさというものとは無縁でいる。
もし、グリューネが傍からいなくなってしまったら――自分は寂しさというものを、理解するのだろうか?
ぼんやりとそう考えて、その先までは、止めておいた。
そんなことは――言うまでもないことだからだ。
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