檸檬
梶井基次郎/カクヨム近代文学館
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。
なぜだかそのころ私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋がのぞいていたりする裏通りが好きであった。雨や風がむしばんでやがて土に帰ってしまう、といったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり──勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような
ときどき私はそんな
私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や青や、さまざまの
それからまた、びいどろという色ガラスで
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とはいえそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには
生活がまだむしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。しゃれた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った
ある朝──そのころ私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが──友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこからさまよい出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ちどまったり、乾物屋の
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通りはいったいににぎやかな通りで──といって感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが──飾り窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通りに接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通りにある家にもかかわらず暗かったのがはっきりしない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した
その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。そのころ私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱いせいだったのだろう、握っている掌から身内に
私は何度も何度もその果実を鼻に持っていってはかいでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上ってくる。漢文で習った「
実際あんな単純な冷覚や触覚や
私はもう往来を軽やかな
──つまりはこの重さなんだな。──
その重さこそつねづね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算してきた重さであるとか、思いあがった
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日はひとつ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
しかしどうしたことだろう、私の心を
以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼をさらし終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく
やっとそれはできあがった。そして軽く
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンとさえかえっていた。私はほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれをながめていた。──
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
──それをそのままにしておいて私は、なにくわぬ顔をして外へ出る。──
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私をほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾をしかけてきた奇妙な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善もこっぱみじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
(一九二四年十月)
檸檬 梶井基次郎/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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