東京八景
太宰治/カクヨム近代文学館
(苦難の
東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理においても、この年齢は、すでに中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しいかなそれを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への
あいつも、だんだん俗物になって来たね。そのような無智な陰口が、微風と共に、ひそひそ私の耳にはいって来る。私は、そのたびごとに心の中で、強く答える。僕は、はじめから俗物だった。君には、気がつかなかったのかね。逆なのである。文学を一生の業として気構えた時、愚人は、かえって私を組し易しと見てとった。私は、
東京八景。私は、いまのこの期間にこそ、それを書くべきであると思った。いまは、差し迫った約束の仕事も無い。百円以上の余裕もある。いたずらに
東京市の大地図を一枚買って、東京駅から、
「他に部屋が無いのですか」
「ええ。みんな、ふさがっております。ここは涼しいですよ」
「そうですか」
私は、馬鹿にされていたようである。服装が悪かったせいかも知れない。
「お泊りは、三円五十銭と四円です。御中食は、また、別にいただきます。どういたしましょうか」
「三円五十銭のほうにして下さい。中食は、たべたい時に、そう言います。十日ばかり、ここで勉強したいと思って来たのですが」
「ちょっと、お待ち下さい」女中は、階下へ行って、しばらくして、また部屋にやって来て、「あの、永い御滞在でしたら、前に、いただいて置く事になっておりますけれど」
「そうですか。いくら差し上げたら、いいのでしょう」
「さあ、いくらでも」と口ごもっている。
「五十円あげましょうか」
「はあ」
私は机の上に紙幣を並べた。たまらなくなって来た。
「みんな、あげましょう。九十円あります。
「相すみません。おあずかりいたします」
女中は、去った。怒ってはならない。大事な仕事がある。いまの私の身分には、これくらいの待遇が、相応しているのかも知れない、と無理矢理、自分に思い込ませて、トランクの底からペン、インク、原稿用紙などを取り出した。
十年ぶりの余裕は、このような結果であった。けれども、この悲しさも、私の宿命の中に規定されてあったのだと、もっともらしく自分に言い聞かせ、
遊びに来たのではない。骨折りの仕事をしに来たのだ。私はその夜、暗い電燈の下で、東京市の大地図を机いっぱいに拡げた。
幾年振りで、こんな、東京全図というものを拡げて見る事か。十年以前、はじめて東京に住んだ時には、この地図を買い求める事さえ恥ずかしく、人に、
今では、この
長兄はHを、
五反田は、
そのとしの夏に移転した。
そのとしの晩春に、私は、またまた移転しなければならなくなった。またもや警察に呼ばれそうになって、私は、逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であった。田舎の長兄に、でたらめな事を言ってやって、二か月分の生活費を一度に送ってもらい、それを持って柏木を引揚げた。家財道具を、あちこちの友人に少しずつ分けて預かってもらい、身のまわりの物だけを持って、
その夜私は悪いものを読んだ。ルソーの
私だとて、その方面では、人を責める資格が無い。鎌倉の事件は、どうしたことだ。けれども私は、その夜は煮えくりかえった。私はその日までHを、いわば掌中の玉のように大事にして、誇っていたのだということに気づいた。こいつのために生きていたのだ。私は女を、
検事の取調べが一段落して、死にもせず私は再び東京の街を歩いていた。帰るところは、Hの部屋よりほかにない。私はHのところへ、急いで行った。
けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割をもって登場しながら、最後まで退場しない男もいる。小さい遺書のつもりで、こんな
私は二十五歳になっていた。昭和八年である。私は、このとしの三月に大学を卒業しなければならなかった。けれども私は、卒業どころか、てんで試験にさえ出ていない。故郷の兄たちは、それを知らない。ばかな事ばかり、やらかしたがそのお
一年経った。私は卒業しなかった。兄たちは激怒したが、私はれいの
「ね、なぜ焼いたの」Hは、その夜、ふっと言い出した。
「要らなくなったから」私は微笑して答えた。
「なぜ焼いたの」同じ言葉を繰り返した。泣いていた。
私は身のまわりの整理をはじめた。人から借りていた書籍はそれぞれ返却し、手紙やノートも、
あくる年、三月、そろそろまた卒業の季節である。私は、某新聞社の入社試験を受けたりしていた。同居の知人にも、またHにも、私は近づく卒業にいそいそしているように見せかけたかった。新聞記者になって、一生平凡に暮らすのだ、と言って一家を明るく笑わせていた。どうせ露見する事なのに、一日でも一刻でも永く平和を持続させたくて、人を
やはり鎌倉の、海に飛び込んで騒ぎを起こしてから、五年目の事である。私は泳げるので、海で死ぬのは、むずかしかった。私は、かねて確実と聞いていた縊死を選んだ。けれども私は、再び、ぶざまな失敗をした。息を、吹き返したのである。私の首は、人並はずれて太いのかも知れない。首筋が赤く
自分の運命を自分で規定しようとして失敗した。ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋をそっと
思いも設けなかった運命が、すぐ続いて展開した。それから数日後、私は劇烈な腹痛に襲われたのである。私は一昼夜眠らずに
私は、人から相手にされなくなった。船橋へ転地して一か年経って、昭和十一年の秋に私は自動車に乗せられ、東京、
一か月そこで暮らして、秋晴れの日の午後、やっと退院を許された。私は、迎えに来ていたHと二人で自動車に乗った。
一か月振りで
「もう薬は、やめるんだね」怒っている口調であった。
「僕は、これから信じないんだ」私は病院で覚えて来た唯一の事を言った。
「そう」現実家のHは、私の言葉を何か金銭的な意味に解したらしく、深くうなずいて、「人は、あてになりませんよ」
「おまえの事も信じないんだよ」
Hは気まずそうな顔をした。
船橋の家は、私の入院中に廃止せられて、Hは杉並区・天沼三丁目のアパートの一室に住んでいた。私は、そこに落ちついた。二つの雑誌社から、原稿の注文が来ていた。すぐに、その退院の夜から、私は書きはじめた。二つの小説を書き上げ、その原稿料を持って、
私は天沼のアパートに帰り、あらゆる望みを放棄した薄よごれた肉体を、ごろりと横たえた。私は、はや二十九歳であった。何も無かった。私には、どてら一枚。Hも、着たきりであった。もう、この辺が、どん底というものであろうと思った。長兄からの月々の仕送りに
けれども、まだまだ、それは、どん底ではなかった。そのとしの早春に、私はある洋画家から思いも設けなかった意外の相談を受けたのである。ごく親しい友人であった。私は話を聞いて、窒息しそうになった。Hがすでに哀しい間違いを、していたのである。あの、不吉な病院から出た時、自動車の中で、私の何でもない
私たちは、とうとう別れた。Hをこの上ひきとめる勇気が私になかった。捨てたと言われてもよい。人道主義とやらの虚勢で、我慢を装ってみても、その後の日々の醜悪な地獄が明確に見えているような気がした。Hは、ひとりで
何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与えたのか。長兄が代議士に当選して、その直後に選挙違反で起訴された。私は、長兄の厳しい人格を畏敬している。周囲に悪い者がいたのに違いない。姉が死んだ。
私は、その三十歳の初夏、はじめて本気に、文筆生活を志願した。思えば、
私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさはあっても、めったに言わない。以前にまさる苦しさはあっても私は微笑を装っている。ばかどもは、私を俗化したと言っている。毎日、
ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの
戸塚の梅雨。本郷の
ことし四月四日に私は
「あまいね」と無心に言われた。
「だめです」私も、はっきり言った。
Hの、あの洋画家の画であった。
美術館を出て、それから
「さすがに、武蔵野の夕陽は大きいですよ」
Sさんは新橋駅前の橋の上で立ちどまり、
「画になるね」と低い声で入って、銀座の橋のほうを指さした。
「はあ」私も立ちどまって、
「画になるね」重ねて、ひとりごとのようにして、おっしゃった。
眺められている風景よりも、眺めているSさんと、その破門の悪い弟子の姿を、私は東京八景の一つに編入しようと思った。
それから、ふたつきほど経って私は、更に明るい一景を得た。某日、妻の妹から、「いよいよTが明日出発する事になりました。芝公園で、ちょっと面会できるそうです。明朝九時に芝公園へ来て下さい。兄上からTへ、私の気持を、うまく伝えてやって下さい。私は、ばかですから、Tには何も言ってないのです」という速達が来たのである。妹は二十二歳であるが、柄が小さいから子供のように見える。昨年、T君と見合いをして婚約したけれども、結納の直後にT君は応召になって東京のある連隊にはいった。私も、いちど軍服のT君と
翌朝、私たちは早く起きて芝公園に出かけた。
「どうだ。落ちついているか?」と妹のほうに話しかけた。
「なんでもないさ」妹は、陽気に笑って見せた。
「どうして、こうなんでしょう」妻は顔をしかめた。「そんなに、げらげら笑って」
T君の見送り人は、ひどく多かった。T君の名前を書き記した大きい
「兄さん」いつの間にか私の傍に来ていた妹が、そう小声で言って、私の背中を強く押した。気を取り直して、見ると、運転台から降りたT君は、群集の一ばんうしろに立っている私を、いち早く見つけた様子で挙手の礼をしているのである。私は、それでも一瞬疑って、あたりを
「あとの事は心配ないんだ。妹は、こんなばかですが、でも女の一ばん大事な心掛けは知っているはずなんだ。少しも心配ないんだ。私たち皆で引き受けます」私は、珍らしく、ちっとも笑わずに言った。妹の顔を見ると、これもやや仰向きになって緊張している。T君は、少し顔を赤らめ、黙ってまた挙手の礼をした。
「あと、おまえから言うこと無いか?」こんどは私も笑って、妹に尋ねた。妹は、
「もう、いい」と顔を伏せて言った。
すぐ出発の号令が下った。私は再び人ごみの中にこそこそ隠れて行ったが、やはり妹に背中を押されて、こんどは運転台の下まで進出してしまった。その辺には、T君の両親が立っているだけである。
「安心して行って来給え」私は大きい声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。ばかに出しゃばる、こいつは何者という
「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が
増上寺山門の一景を得て、私は自分の作品の構想も、いまや十分に弓を、満月のごとくきりりと引きしぼったような気がした。それから数日後、東京市の大地図と、ペン、インク、原稿用紙を持って、いさんで伊豆に旅立った。伊豆の温泉宿に到着してからは、どんな事になったか。旅立ってから、もう十日も経つけれど、まだ、あの温泉宿にいるようである。何をしている事やら。
東京八景 太宰治/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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