第5話
――悪いけど、文通はやめさせてもらいたいの。
あなたと私、これからはそれぞれの場所で、頑張りましょ――
手紙の中の一文に、涙が溢れて止まらなくなった。
自分が書いたのと同じ。
そのときの自分の気持ちと、これを書いたときのキリエの気持ちは、完全に同じものだと確信できた。
サーシャは顔を上げ、ぼやける視界に、親友の兄だという青年を入れる。
「キリエは、死んだ……?」
しばしの沈黙があり、やがて青年が微かな頷きと共に、「ああ」とつぶやいた。
サーシャは手の甲で頬を拭った。
拭っても拭っても涙が止まらなかった。
自分が死んだことを
自分のことなど引きずらず、別の場所で新しい人生を楽しく歩んでほしい。
そう思ったからキリエは、こんな手紙を書いたのだ。
手紙を書かない自分を心配し、悲しませたくない。
退院してから自分を探し、無駄な時間を過ごすことになってはいけない。
そう思ったサーシャと、同じ気持ちで。
スピーカーから古ぼけた音楽と案内が流れ、観覧車が頂上へ達したことを告げる。
ノイズ混じりの耳障りな音がやむと、青年の低い声が届いた。
「桐恵は、小学校低学年の時に発病した。
外国の専門病院に入院させたと親は言うが、俺はずっと、何かがおかしいと感じていた。病院の場所も名前も、はっきりした答えが返ってこないんだ。
親は桐恵のことを話したがらず、写真も、使っていた道具も、いつの間にか処分されていた。俺は高校卒業後、自分で桐恵を探し始めた」
彼の呼ぶキリエの名は、自分と少し違う発音に聞こえた。
痛みをこらえるような声音に、サーシャはゆっくりと顔を上げる。
「とはいえ、社会経験もないガキにできることなんて、そんなに多くない。
分別もなくクラッカー紛いのことをして、本職の奴らにつるし上げを食らった。
ただ幸運なことに、そいつらの目標の一つが俺と同じだったんだ。俺はそいつらの組織に入り、ようやく核心を突く情報を手に入れることができた。
親が受精卵の時点で桐恵を、大手製薬会社の代理人に売ったという情報だ」
「え……?」
サーシャは思わず声を漏らした。
親に売られたのは、奇跡の回復を遂げた自分ではないのか。
青年と目が合う。彼は意図を察したように、微かに頷いた。
「受精卵の遺伝子に特定の病を組み込み、発症したら、予め決められた病院に収容させ、親に報酬を渡す。そういうビジネスが裏社会で横行している。
目的は、その病の自然治癒者からしか採取できない、特別な抗体を得ることだ。
発症率が極めて少ないから、受精卵を買い取って、人工的に患者を増やす。
その抗体からは、細胞を若返らせる特別な薬が作れる。
客は美容のために平気で億単位の金を注ぎ込む、ごく一部の上流階級層だ」
衝撃のあまり、今度は声すら出せなかった。サーシャは呼吸を止める。
キリエを助けるための薬を作るという話。
あれは、嘘――?
「あんたが犠牲になっても、桐恵は助からなかった。同じ病気の、他の誰も」
青年がきっぱりと言い、唇を引き結ぶ。
足元がぐらぐらと揺れ動くような感覚がして、吐き気がした。
どうしてこんな話を、この人はするのだろう。
泣いて、悩んで、呑みこんで、せっかく覚悟を決めたのに。
「……あなたはキリエにも、こんな話をしたの?」
震え声が出た。青年は一瞬目を見開き、すぐに首を横に振る。
「あんたが退院した後、病院に協力者を作ることに成功して、俺は初めて桐恵に会えたんだ。その頃にはもう、象牙質で体の半分が覆われていて、回復の見込みはなかった。こんな話をする意味がない。
桐恵は、あんたの話ばかりしていたよ。最近手紙が来ない心配と、一緒にいてくれてどんなに楽しかったかを。
兄として礼を言う。桐恵が辛いばかりの人生ではなくて、良かった。
……今日ここに俺が来たのは、あんたにそれを伝えるためでもある」
思わぬことを言われ、サーシャは目を瞬かせた。
みゃああと子猫が鳴き、お前のことじゃない、と青年が少し笑う。
「……でも、どうして今日、わたしがここに来るって……」
「俺は組織の人間だ。ただ桐恵に会いに行っていたわけじゃない。<カプセル>の所在地を探るのも目的だったが、桐恵とあんたの文通が役に立ってくれた。
桐恵の手元にある全ての封筒に特殊なマーカーを塗って、GPSで追跡できるようにしたんだ。ようやく場所を特定し、<カプセル>に内通者を作ることに成功した。
今日のあんたの予定も、そいつが知らせてくれた」
ふと頭をよぎったのは、世話係の女性と口論をしていた男性だ。
もしかしたら、気付かなかっただけで、優しい人もいたのかもしれない。
手の中の封筒に目を落とす。どこにマーカーが塗られているのだろうと探したが、目立つのは「宛て所に尋ねあたりません」の赤い印だった。
住所は実家のままだが、キリエからの手紙は全て転送されるよう、手配されていたはず。そもそもなぜ、こんな印が押されているのだろう。
「その印は保険だ。あんたが俺の話を信じなかった時、少しでも証拠になるかと思った。桐恵からの手紙は全て<カプセル>のスタッフが運んでいて、郵便局が転送しているわけじゃなかったから、その最後の手紙を預かって、普通に投函したんだ。あんたの家族がとっくに別の場所へ引っ越していると、調べがついていたから。
……が、よく考えたら、無神経なやり方だったな。すまない」
子猫の柔らかな頭に口元を埋め、青年は最後の一文を小さく付け足す。
彼が何を気にしているのか、サーシャにもわかった。
――発症したら、予め決められた病院に収容させ、親に報酬を渡す。
先ほど聞いた言葉が蘇り、胸の中のぽかりと空いた場所をすり抜けた。
家にいるときから両親は、他の兄弟姉妹ばかり可愛がって、自分はあまり相手にされていない気がしていた。
発症したとき、どことなくホッとしているように見えた。生活が苦しい中、慈善団体の援助で入院させてもらえると聞いたからだ、と思っていたけれど。
「……なんだ。わたし最初から、幽霊だったんだ」
思わずつぶやいた。
難病を克服した奇跡の子で、高値がついたから売られたのだと思っていた。
兄弟姉妹が多く、家族の生活は苦しい。寂しいが、理解できなくはないと。
でも違った。
最初から誕生を喜ばれ、慈しまれ、死を悲しまれる存在ではなかった。
さっきの話に比べたら大したことない。
そう思ったはずなのに、ぽろぽろと涙が零れて、床とスカートに染みを作った。
青年が軽く咳をして、「そろそろ地上だ」と切り出す。
「今回の任務の最終目的は、あんたが管に繋がれる前に身柄を確保し、俺たちと共に来るかどうか、意思を確認すること。
だが俺たちは、上流階級と繋がる各国政府からテロ組織と見られているし、実際、非合法なことに手を染めている。
一生を裏社会で生きていく覚悟がないなら、別の選択肢もある。このまま<カプセル>に戻るというなら、意思を尊重する。あんたは、どうしたい」
「……わたし、あなたたちのところへ行ったら、何か役に立てるの?」
膝の上で拳を握り、サーシャは絞り出すように尋ねた。
役に立つ、と言ってほしかった。
奇跡の子がいれば犯罪の証拠になる、だから協力してほしい……とか。
なんでもいい。こんな自分を求める言葉を、何か一つでも――
「いや。立たなくていい」
返ってきた言葉にハッとして、勢いよく顔を上げる。
胸元の猫と同じ丸い目をして、不思議そうに青年がこちらを見た。
窓の外にゆっくりと、建物の屋根や木々の風景が現れる。
もうすぐ地上だ。現実が帰ってくる。生きているのに、死んでいる場所。
「……そろそろ、返事をくれないか」
青年がコートのポケットから、金属質の四角い塊を取り出した。
「いつまでもそのプレートの通信を切ってはおけない」
「行きます。あなたと一緒に」
自分でも驚くほど少しの迷いもなく、サーシャははっきりと口にしていた。
「――生きます」
青年は口を閉じ、サーシャを見返して、小さく頷いた。
コートの襟元に唇を寄せ、何かを囁く。
「Jより通信『天使は帰還する』、経路デルタ。……ああそれと、子猫が一匹」
観覧車が地上に到達した。
ゆっくり流れる乗り物の扉を、係員が順番に開けていく。
先に降りた青年に続き、サーシャも降りようとして、少しつまずく。
そこにすかさず、手が差し出された。
見上げた場所には、微かに和らいだ黒い瞳。
キリエと同じ目だ。
「……行こう」
頷き、サーシャは胸元の金属プレートを首から外した。
そしてそれを青空めがけて、力一杯に放り投げた。
<了>
そして天使は帰還する 鐘古こよみ @kanekoyomi
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