第4話
キリエは黒髪黒目を持つ、神秘的な少女だった。
中庭へ遊びに出るといつも、カーテンの陰からこちらを見ている。
それに気付いてサーシャが尋ねて行ったのが、出会いのきっかけだった。
同い年の二人が親友となるのに、そう時間はかからなかった。
どちらも全身の皮膚が象牙層という硬質の膜に少しずつ覆われていく病に冒され、二度とこの病院から出ることはないと覚悟していたから、お互いの他には誰もいない。入院生活はそれまでより楽しいものになった。
しかしある日、奇跡が起きた。サーシャの病が快癒したのだ。
自分のことのように喜ぶキリエに、サーシャは実家の住所を教えた。ロシア南方、黒海沿岸の小さな村だ。両親は貧しいながらも畑を持っていて、今も兄弟姉妹たちと一緒に暮らしている。当然そこに戻るものと思っていたし、キリエとはこれからも親友でいられると信じていたから。
しかし、健康体となったサーシャを迎えにきたのは、両親ではなく代理人を名乗る人物で、車で連れて行かれたのは、全く知らない無機質な建物の中だった。
『<カプセル>と呼ばれているのよ』
世話係だという紺色のスーツ姿の女性が、そう教えてくれた。
『あなたのような、選ばれた人間が来るところなの。多くの人を救うためにね。もちろん、ご両親にも事前に説明して、了承を得ているわ』
聞けば、自然に病を克服したサーシャの体には、その病と闘うことのできる特殊な遺伝子があるのだという。それは他の患者を救う治療薬を創るための、唯一の希望となる。<カプセル>はその治療薬の研究のため、遺伝子保有者の生活全般を管理する施設だというのだ。
遺伝子研究なんてされたら、自分の体はどうなってしまうのか。
尻込みするサーシャに、世話係は笑って説明を加えた。
『そうね、全く迷惑をかけないとは言えないけど、苦痛を与えるようなことはしないから大丈夫よ。あなたのお陰でお友達も病気が治るなんて、素晴らしいじゃない?』
その言葉がサーシャの背中を目一杯に押した。
寂しげに見送ってくれたキリエの顔。
あの子が笑顔になるなら、遺伝子の提供くらい、なんでもない。
サーシャがそれを望むと思ったから、きっと両親も承諾してくれたのだ。
*
<カプセル>での生活は、不自由はないが単調で、入院中よりも孤独だった。施設のスタッフは大人ばかりだし、他に遺伝子保有者は見当たらない。
キリエとの文通だけが心の拠り所だ。実家の住所を教えてしまったのが気がかりだったが、スタッフに事情を話したら、<カプセル>の情報は書かないことを条件に、転送の手続きをしてくれた。
キリエは手紙の中で、サーシャの生活についていろいろ知りたがった。
一人で買い物に行ける? ファスト・フードは食べた? 学校にはもう通ってる?
その全てに挑戦してみようと思ったサーシャは、さっそくスタッフに許可を願い出た。しかし、一人での外出や学校へ通うことは、認められなかった。
何故なのか。世話係の女性に問いかけると、思ってもみない事情を告げられた。
『実はね、個人の遺伝子から薬を創出する手法は、まだ国際的に法整備が追い付いていなくて、グレーゾーンというか、非合法なのよ』
見つかれば摘発される可能性がある。
しかし、合法と認められるのを待っていては、助けられる可能性がある人々の命をいくつも見過ごすことになる。
だから<カプセル>は、一人でも多くの患者を助けたいと願う研究者によって、密かに運営されているのだという。
『もし、一人で外出したあなたが事故に遭ったり、トラブルに巻き込まれたら? 身元を照会され、退院の事実が明るみにでてしまったら、研究はどうなると思う?』
不治の病から自然回復を遂げた奇跡の子とあっては、注目度も高くなる。
<カプセル>の存在が世間の目に留まり、施設そのものが攻撃を受けるかもしれない。そうなっては創薬どころの話ではなくなる。
身元を詳しく明かす必要のある学校にも、もちろん通うことは難しい。
『キリエちゃんのためにも、わかってくれるわね?』
親友の名を出されては、頷かないわけにいかなかった。
<カプセル>での生活が三カ月を過ぎる頃、キリエの手紙はサイン以外が代筆になり、届くペースもゆっくりになった。
利き手が象牙層で覆われてしまったのだ。
*
ある日、運動室へ向かう途中、中庭を飛ぶ黒い蝶を見つけた。
キリエの髪を思い出し、サーシャの足は知らずそちらへ吸い寄せられた。
中庭の中央には小さな噴水があり、その周囲には生け垣が巡らされている。実質、職員の喫煙所だと聞かされていたので、普段は滅多に近づかない場所だ。
生け垣の葉の上で翅をゆっくり動かす蝶に、足音を忍ばせて近付いた時だ。
『……言いがかりはやめて。全て話す必要はないわ。あの子だって納得している』
生け垣の中で、世話係の女性が誰かと話していることに気付いた。
相手は男性だ。自分の話をされている気がして、無意識に耳を澄ませる。
『そもそも、死亡届が出されているのよ。今更どうしろっていうの?』
――死亡届?
無防備な耳に届いた単語の意味が、一瞬よくわからなかった。
『お友達のために協力するつもりなのよ。美しいお話のまま終わらせてあげられたら、それが一番いいじゃないの』
心臓の音が急に全身に響き、頭の中で警鐘に変化する。
早とちりはいけない。盗み聞きも。
この場から去らなくては。
けれども足は、その場に凍り付いたように一歩も動かせない。
男性側が口早に何か言った。クローン、タンパク質、生体利用……意味の分かる単語は少ない。<カプセル>に所属する研究者なのだろう。
煙草の煙を深く吸い込むだけの時間をおいて、世話係が気だるげに吐き捨てた。
『時間が足りないわ。人体に勝るタンパク質工場は存在しない。言っとくけど、親に売り飛ばされる子どもなんて、世界中にごまんといるんですからね』
――その後、どうやって部屋に戻ったのか、覚えていない。
世話係の女性の声が頭の中にこだまして、食べ物の味がしなくなった。
手紙も書けなくなった。
頭に渦巻くのは、中庭で聞いた、あの会話ばかりだ。
キリエの手紙も読めなくなった。この子は、私を幸運だと思っているだろう。
未開封の封筒が机の引き出しに溜まり、その量もやがて、増えなくなった。
*
『来週から大きなプロジェクトが始まるわ。スケジュールが厳しくなるから、今のうちにやりたいことがあったら、できるだけ叶えてあげたいの。何かある?』
<カプセル>で生活を始めて、もうじき一年が経とうかという頃。
世話係が親切めいた笑みを浮かべて、そんな提案をしてきた。
中庭での一件以来、サーシャは何度か盗み聞きをしていたから、彼女の言葉の裏にどんな意味があるのかを、諦めと共に察していた。
たぶん、工場にされるのだ。
管に繋がれ、ずっと寝たきりで、薬の素を生み出す工場に。
体は生きていても、わたしは死ぬ。
……いや、もう、とっくに死亡届を出されているらしいから、本当はずっと前から幽霊なんだっけ。
頭の中で何度も繰り返し考え過ぎていて、今さら涙は出なかった。
親に売り飛ばされた子供が逃げたって、行くところなんてない。
何も希望なんてなかったが、ただ一つ、心残りがあるとしたら。
『……お願いが、あるんです』
なるべく平静を装って、おねだりの表情を浮かべようと努力した。
『一人で、遊園地に行ってみたいんです。病室の窓から見えた、あの観覧車のところ。一人で自由に過ごすってどんな気持ちか、味わってみたいの。駄目ですか?』
世話係は渋い顔をしていたが、平日の遊園地なら人も少なく見守りやすいし、柵に囲まれているから逃げられる心配もない。たぶん、そんな判断が下されたのだろう。
ほどなく許可が降り、サーシャは青い金属プレートのネックレスを与えられた。
お金がなくてもこれを示せば、遊園地内の全サービスが受けられるらしい。マイクと発信機がついているから、困ったら助けを呼べばいい。
遠巻きに施設のスタッフがついていくが、よほどのことがない限り近づかない。
それが最大限の譲歩だった。
サーシャは久しぶりの手紙に取り掛かった。
死ぬ前に、キリエに伝えなければならないことがあるのだ。
そうしているうちに、もう一つ、やりたいことを見つけた。
自分の運命を受け入れる覚悟は、もうできている。
でもそのことを、周りの大人たちは誰一人、わかっていないだろう。
何も知らないまま従ったんじゃない。知っていて選んだということ。
それを示しておきたい。
書き終えた手紙は施設のスタッフに渡すのではなく、こっそりポケットに忍ばせた。遊園地で優しそうな人を見つけて、託すんだ。
それで、眠りにつく寸前、施設の大人たちに明かして慌てさせてやろう。遊園地で外部の人に手紙を渡したって。
わたしは自分が幽霊だということを知っている。それも全部、話したって。
*
翌日、空は雲一つない青空だった。
サーシャは車から駆け降り、派手な遊園地の門に勢いよく飛び込んだ。
秘密の計画のお陰で、久々に心が弾む。
どうか会えますように。手紙を届けてくれそうな、優しい人に。
――そして今、サーシャは観覧車の中で、キリエからの手紙を読んでいる。
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