第2話

 

 空は快晴だった。

 雲一つない爽快な青を背景に、木の上で子猫が震えている。

 白毛に黒ぶち模様の、つぶらな目をしたやつだ。近くに親猫の姿は見えない。

 こんな場所に子猫がいるとは不思議だが、生け垣の向こうは公道のようだから、隙間に潜り込んで迷ってしまったのだろう。


 青年はため息混じりに長い腕を差し出し、木の股に足をかけた。

 遊園地に入って最初のアトラクションが、木に登って降りられなくなった子猫の救出劇だとは思わなかったが、見つけてしまったものは仕方がない。


「大人しくしてろよ」


 幸い背丈があるので、そこまで登らなくても子猫の体に指先が届いた。

 怯えた子猫が足を滑らせ、青年の胸元に落っこちてコートの襟に爪を立てる。

 その小さな体を手の中に包んでやり、地面に飛び降りると、彼は木の根元に子猫を降ろそうとした。

 しかし、カラスたちが頭上を旋回していることに気付く。野太い声で鳴きながら、地上の餌を狙っている様子だ。子猫くらいなら襲うと聞いたことがある。


「……仕方ないな」

 軽く頭を掻き、子猫を胸に抱えたまま踵を返したときだ。


「優しいね、お兄さん。頭黒いし、アジア人でしょ? 中国、それとも日本人?」


 突然、英語で声を掛けられた。

 目の前にいつの間にか、女の子が立っている。高校生くらいだろうか。

 白いパーカーにカーキ色のショートパンツ、茶色のブーツ。耳の下で二つ分けにした茶色の髪が、猫の尻尾のように揺れている。

 目を引くのは、首から細い鎖で下げた青の金属プレートだった。瞳の色と合わせたファッションにも見えるが、青年には軍隊の認識票に見えた。氏名や血液型を記して兵士の首にぶら下げておく、主に死んだ後のためにあるもの。


「見た目は冷たそうなのに、動物が好きなんだね。人って見かけによらないな」

 にこにこと微笑みながら失礼なことを言いつつ、少女は無警戒に近寄ってきた。

 青年のコートの襟元に突っ込まれた子猫の目線と彼女の目線は、大体同じ辺りだ。


「この子、飼うの?」

「……さあ。あんたが飼えば?」

 なんとなく言ってみただけなのだが、彼女はどこか寂しげに首を横に振った。


「無理。わたし、幽霊だから」

 動きに合わせて胸元の青いプレートが揺れ、太陽の光を弾く。

 青年は眉をひそめた。

「幽霊?」

「そう。証拠、見せてあげようか?」


 にやりと笑って言うなり、少女は通りの端にある売店へ向かって駆け出した。

 青年はその場に立ったまま首を巡らせ、彼女の背中を見守る。


 平日の昼間という時間帯のせいか、遊園地内は驚くほど空いていた。

 売店にも今は誰一人並んでおらず、売り子が暇そうにしているだけだ。

 ポップコーン製造機も常に動かす必要はないようで、出来上がったものが紙コップの中に入れられ、カウンターに並べられている。

 その紙コップを二つ、少女は売り子の目の前で手にした。

 そして金を払いもせず、悠々ときびすを返してこちらへ戻ってくる。


 売り子の視界には、確かに少女の姿が入っているはずだが、呼び止めようとする気配はなかった。もしかしたら、見えていないのかもしれない。


「ね? お金を払わなくても、怒られなかったでしょう?」

 いたずらっぽい表情を作る少女を見下ろし、青年はわざと平坦に言ってみる。

「あんたがオーナーの娘で、タダ食いの常習犯って可能性も考えられるが」

「違うわよ、本当に幽霊なんだってば。はい、これ」

 唇を尖らせながら紙コップを一つ青年に押しつけ、少女は何かを期待するような、きらきらした眼差しになった。


「ねえ、あなた一人なんだったら、これから少し一緒に回らない?」

 無言で見返すと、それを拒否反応と取ったのか、僅かに頬を膨らませる。


「いいじゃない。一人で遊園地にいたって、何も面白くないわ。それよりは幽霊でも、かわいい女の子が隣にいた方が楽しめるでしょ? なんなら、観覧車だけでいいから!」

 両手を胸の前で組み合わせ、怒ったような表情から、今度は懇願の表情になる。


「わたしにとっては、自由に過ごせる最後の日なの。お願い、付き合って!」

「最後?」

「言ったでしょ、幽霊だって。もうすぐ死神が迎えに来るの。その前にどうしても、あの観覧車に乗りたくて……でも、一人で観覧車なんて、寂しすぎるでしょう?」


 言いながら彼女は、遊園地のシンボルでもある巨大な観覧車を指差した。

 もう片方の手は、胸元の青いプレートをぎゅっと握っている。

 その様子を一瞥して青年は、ため息をついて歩き始めた。


「……観覧車だけでいいんだな?」

 振り返ってそう念を押すと、不安そうに見ていた少女は、ぱっと顔を輝かせる。

「うん!」

 ポップコーンを一気に頬張り、紙コップをゴミ箱に投げ入れて走り出した。


 少女の背中を眺めながら、青年も紙コップをゴミ箱に捨てた。

 塩のついた指先を舐めたがる子猫をなだめ、コートのポケットに手を突っ込むと、指先を平たい紙の角がつつく。

 それを素通りして彼は、ポケットの奥にある、金属質の四角い塊を掴んだ。


 とある電波を妨害する装置だ。

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