キョリ
朝7時。慣れない早起きに、深夜まで起きていた体はまだ寝ていたいと訴えている。俺は長らく続いた昼夜逆転生活に終止符を打つべく、ベッドから体を起こした。
寝不足のせいか視界がぼやけているが、意識は妙に冴えている。長い間通っていなかった学校に行くと思うと、もっと足が重くなると思っていた。でも実際は、それほど億劫ではない。むしろ足取りは軽い気がする。
心の距離も何も無いまっさらな関係値の状態から、どこまで学校生活を送る事ができるのか。自分を試しているような感覚。あれだけ怖がっていた人との生活に、期待しているのだろうか。
俺も少しは、前向きに考えられるよう成長したのかな。だとしたら、たぶんあいつのおかげだろうけど。
久しぶりに家族と朝ご飯を食べ、クローゼットに眠っていた制服に袖を通す。長い間やっていなかった一連のルーティンも、体が覚えているのだろう。玄関で靴を履いている頃には、既に学校への道順を思い浮かべ始めていた。
「行ってきます」
玄関扉を開けると、溢れんばかりの朝日が視界に差し込む。すかさずまぶたを降ろし、後ろ手に扉を閉めながら、目をしばたたかせて目を慣らしていく。窓越しではなく直に浴びる日光は久しぶりだ。久しぶりすぎて目に毒かもしれない。
そろそろ慣れて来たかというタイミングで、ゆっくりと目を開ける。思った以上に眩しすぎる日差しも、天からの歓迎だと思えばいい。俺は今日から学校に通うんだ。これくらいの予想外などすぐに対応していかなければ―――
「……え?」
日差しの次に俺の目に飛び込んで来たのは、更なる特大の予想外。そこには、一人の少女が立っていた。夜闇と共にすっかり見慣れていたアメジストのような隻眼が、俺へと向いていた。
「おはよう。夜の盟友よ」
思いもよらない出迎えに、俺はよく分からない挨拶にツッコむ事も忘れていた。
右目の眼帯に手を添えて芝居がかった笑顔を浮かべる彼女が着ていたのは、俺が今着ている制服と同じ色合いの物だったのだ。
「お前、同じ学校だったのか」
「そだよ。さらに言えば同じ学年の同じクラス。席は君の二つ右隣」
「マジか……」
他人に怯えてばかりの当時の俺は、当然クラスメイトの顔や名前など憶えていなかった。だがまさか、不登校になって会っていた少女が同じクラスの生徒だったなんて。
「……もしかして俺に話しかけて来たのって、不登校のクラスメイトをたまたま見かけたから話しかけてみたとか、そういう理由なのか?」
俺からすれば見ず知らずの人に話しかけられて怪しんでいたのだが、向こうからすれば、一応面識はあった訳だ。人と距離を近付けまいと積極的に気配を消していた俺の事を覚えていたというのも不思議な話だが。
「うーん、まあ半分はそう。満月の夜空を背に歩く私カッコイイーとか思いながら散歩してたら、たまたま見つけたからだね」
いかにも彼女らしい深夜徘徊の理由に苦笑しつつ、彼女が『半分』と言った事が気になった。
「もう半分は?」
「それは……」
続く言葉は途切れ、彼女は口をつぐんだ。しかし、俺が何か言う前に、彼女の右手が眼帯にあてがわれる。
「君に私と同じ、堕天せし闇の波動を感じたからだよ。深淵に触れた者にしか宿らない神秘の向こう側―――」
「なるほど、分からん」
もう半分は俺にとっては無いも同然の理由だった。一瞬言いよどんだ割に、厨二トークを恥ずかし気もなくスラスラと並べ立てるな。こいつは夜でも朝でも相変わらずだ。
「もうひとつ、聞いていいか?」
「良いとも。世界を包む闇そのものである私に知らない事など無い……」
「いやそういうのいいから」
そして、本来ならば最初に聞くべきだった事を、今更のように思い出した。
闇の堕天使モードな彼女がまともに答えてくれるか不安だが、俺はそのまま訊ねた。
「どうしてここに?」
至極当然の疑問を投げかけた俺に対し、彼女は左だけ見える目をぱちくりとさせ、それから口元に小さく笑みを浮かべた。
「心の距離を縮めるには体ごと近づく方が手っ取り早く、そして確実。君も知ってるはずだよ?」
問いに対する答えはこれでおしまいらしい。そのまま彼女は目の前まで近づいて来ると、俺の手を掴んで引っ張った。
「ちょっ」
「さあ、遅刻する前にレッツゴー!朝の通学路も楽しいよ!」
俺の手を握ったままいきなり走り出したものだから倒れそうになったが、勢いのままに足を動かす事でなんとか転ばずに済んだ。
彼女は俺を引っ張るような形で、制止も聞かずに走る。初めて彼女の手に触れた事への恥ずかしさなど感じている暇もなく、俺も足を動かさざるを得なかった。
彼女は俺の手を引きながら、楽しそうに笑っていた。彼女にとって俺は、どのくらいの距離にいるのだろう。俺にとって彼女は、どのくらいの距離に置いているのだろう。心の距離の測り方は、まだ分からない。
でもこれからは、分からなければ拒絶するだけだった今までとは違う。一発で距離が分かってしまうようなモノサシなんか無くても、測りながら生きていけばいい。
たまに読み違えてぶつかったり、たまに気にしすぎて離れたり、それでもよりを戻そうと近づいたり。
そうやって探りながら、人との距離を見つけていくんだ。
ココロのモノサシ ポテトギア @satuma-jagabeni
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