桜監獄
詩一
桜監獄
「工場をたたむ……?」
僕は、K県はI市の工業団地でしがなく慎ましく汗を流す一般中流……中の下流家庭を支えるサラリーマンだ。随分と高くなった空を見つめ、夏の終わりを感じていた。そんな折の、工場長からの突然の告白に、僕は眩暈を覚えた。なんならちょっと膝をぶつけて狭い事務所に不釣り合いな重くドデカい音を響かせた。
工場の閉業が決まってからは、金型や成型機の運び出しなど、班長以上の人々が慌ただしく動いた。平社員だった僕は持て余した有給を使い切り、再就職活動に精を出した。そのかいあって、就職先はほどなくして決まった。
会社は同県のS市の工業団地にあった。最初はI市から通うことを考えたが、乗り継ぎが多く、ローカル線は本数が少なく、最寄りの駅から会社までものすごく時間が掛かるため、引っ越しを余儀なくされた。
物件選びは時間との勝負で、常に焦りを感じていた。妻に相談しても「あなたが良いのならそこで」と言われ、焦燥には一層拍車が掛かった。
候補をいくつか挙げ、内見をしに行く際も心は焦ってばかりいた。
「ここは桜の名所なんですよ。“さくら通り”って名前が付くくらいの」
運転していた不動産仲介業者が呑気に言った。
まだ花をつけてない、瘦せこけた老人の指先のような枝が空を隠すように走っていた。なんだかまるで牢獄の中に居るみたいだと思った。こんなところで暮らしたら、毎日憂鬱な気分になりそうだ。
「はあ」
気のない返事に、仲介業者は苦笑いを浮かべる。
「あまりご興味がない……?」
「そういうわけじゃあ、ないんですけど」
「春になるのが楽しみね」
隣に座っていた妻が明るい声で言った。
「そう、だね」
彼女はイベント事が大好きだった。しかしここ最近はイベント事に参加できていない。令和の始まりとともに広がり始めた感染症、コロナウィルスのせいだ。あらゆるイベントが開催を中止し、再開の目途が立っていない。一年以上閉塞的なときを過ごしてきた。彼女は日に日に暗くなっていき、喧嘩も増えた。正直、失業したときには僕に愛想を尽かして出ていくかもしれないとさえ思っていた。けれど彼女は付いて行くと言ってくれた。それから少しずつ彼女の声に明るさが戻ってきたように感じていた。最初は僕の気も知らないで呑気だなと思っていたけれど、実際は彼女だって不安だったはずだ。けれど二人とも暗くなってしまったら、ますます上手くいかなくなってしまう。彼女は気丈に明るく振舞ってくれていたのだ。こうして再就職が決まったのも妻のおかげといって良い。
その彼女が、春が楽しみだと言った。もう一度車窓の外を見る。歪に交差した監獄の間から見える空はバカみたいに青くて、どんな暗がりにだって光を届けてくれそうだった。この空が見えなくなるほどの桜の花びらを想像する。もこもこと枝を埋め尽くすピンク色。模様替えのある監獄なら、悪くないかもしれないな。なにより、イベント好きの彼女のためにも、桜の名所が近所にあると言うのは良いこととのように思えた。
すべての内見を終えると、二人はへとへとになっていた。
「どちらの物件にされますか?」
「“さくら通り”の近くの物件に」
そのまま契約を済ませて、その日は帰ることになった。さくら通りの近くの大衆食堂に入って夕食を頂いた。お腹が空いていたから、なんでもおいしく感じた。夜でも街灯のおかげで窓から桜の木の枝が揺れているのが見える。街灯の光を時折遮る枝はやはりどこか怪しげで、心をざわつかせた。
それでも。
まだ蕾さえ携えていない節くれに、これから始まる新しい未来への期待を寄せた。
※ ※ ※ ※
不安にまみれた転居だったが、妻が荷造りを率先してくれたおかげで、僕の『億劫』は掃き出し窓から穿いて捨てることができた。
入社までには引っ越しやそれに伴ったライフラインの契約などの手続きが済み、自宅から通えるようになった。
新しい職場に対しては、期待より不安の方があった。このコロナ禍で社員を募集していると言う時点で不況に強い会社ではあると思うけれど、会社の強度と現場の仕事のやりやすさはイコールではない。人付き合いがあまり得意ではない僕は、新しい環境と言うだけでお腹が痛くなるのだ。
朝、妻に見送られて出社した。アパートの階段を降りて行って、近くのゴミ収集場に袋がいくつも置かれているのを見て「しまった」と思った。前住所とは、ゴミ出しの曜日が違うのだ。帰ったら妻に教えてあげなければいけない。
近所の自転車屋で買った新品の自転車に跨る。前使っていたものをそのまま使う予定だったのだが、妻が「買っちゃえ」と言うので買うことにした。新しいものを使うと言うのはそれだけで気分が高揚する。不安な気持ちが少しだけ和らいだような気がした。
新鮮な風に包まれてしばらく走ると、“さくら通り”に躍り出る。まだ冷たい風が、桜の枝を揺らす。それらは
会社では新入社員よろしく教育が始まるのかと思っていたのだが、製造業経験者ということで、教育もそこそこにいきなり多くの仕事を任せられた。初めは面食らったが、やってできないこともなかった。大変だったし、毎日残業になったけれど、その分社員と接する時間が増え、仲良くなるのも早まったのではないかと思う。
一カ月ほど、与えられた仕事をただあくせくやっているだけだったのに、僕をリーダーにしたいと言う社長の意向を耳にした。直接聞いたわけではないけれど、僕の面接をしてくれた部長がそのようなことを言っていた。いくらなんでも早計なのではないかと思ったけれど、それよりなにより単純に嬉しかった。以前の会社では、班長になることもできなかったから。理由は声がちっちゃいからだった。
「あの、僕声ちっちゃいっすけど、大丈夫ですかね?」
「はっはっは! なに、そんなこと気にしてんの? 面白いねぇ!」
部長は豪快に笑った。僕はその豪快な笑いに引いて、やっぱり小声で「へ、へへ」と言う情けない笑い声を漏らした。
僕が会社で期待されていることを妻に話すと、
「心配だわ」
と返ってきた。
「だってあなた、ただの平社員だったときも帰ってくるの遅かったじゃない? 今だって結構遅いのに……大丈夫なの?」
「さあ?」
僕が曖昧に返すと、彼女は眉根を寄せてため息を吐いた。
※ ※ ※ ※
玄関を開けたとき、風がほんの少しだけ緩やかに感じた。頬に当たる風に、朝の湿り気が伝わる。そういえば今日は、カーテンを開けたときに空が朱色ではなかった。白んだ青空が在った。
“さくら通り”を走ると、蕾は開きかけていた。もうこんなにも近くに春が来ているのだと思った。そう思うだけで、世界は少しだけ変わって見えた。いや、実際にはものすごく変わっていた。転居と再就職をしたのだ。伴って、僕も妻も変わった。いつまでも変わらないままでいると思っているのはきっと錯覚だ。
会社の帰りに寄ったコーヒー豆屋は当たりだった。大規模商業施設に入っているようなコーヒー豆屋より美味しく、オシャレさに振り切って気取ったコーヒー豆屋より安い。バランスのいい価格と味だった。
それからは夕食後に二人でコーヒーを飲むのが習慣になった。
※ ※ ※ ※
「やっぱり桜まつりしないんだねー」
妻がスマフォの画面を指で触りながら呟いた。
「そうなんだ」
桜はもう咲いていると言うのに、イベントは開催されない。妻がため息をするより早く、僕は提案する。
「じゃあ、二人でお祭りしよう」
妻はキョトンとした顔をして、それから笑う。
「どういうこと?」
「夜桜見に行きたいって言ってただろう?」
「うん。言ってた。けど、どこもやってないよ?」
「だから、勝手に僕らでやるんだよ。すぐそこに花見スポットはあるんだから」
僕は窓の外を指さした。
「ねえ、そっちは逆じゃない?」
言われて僕は無機質な壁をさし直した。
※ ※ ※ ※
行くなら休日よりも平日の方が良かった。人が少ないから。
金曜日に定時で上がらせてもらって、二人で準備をした。
妻はずっと着ていなかった着物を久しぶりに着ようとしていた。僕も妻と一緒に呉服屋で買ったトンビコートを羽織った。今日は春にしては随分と寒く、夜も冷え込むらしいから。ちなみに中は洋服だ。男の着物は高くて買えない。
妻が帯の結び方に手間取っている最中に、僕はコーヒーを淹れて持ち歩き用のタンブラーに注いだ。
「どう?」
妻の声に視線を向けると、くるりと回り背中を見せた。綺麗なお太鼓結びだ。
「綺麗だよ。結び目も着物も、もちろん君も」
「キザ!」
僕がふざけた調子で言ったせいで彼女もツッコミを入れることになったけれど、本当に綺麗だなと思った。
玄関でブーツを履いて向き直ると妻が破顔する。
「文明開化の足音が聞こえてきそうだね」
明治っぽい格好だと言うことだろう。褒めているんだかなんなんだか。
しかしながら、こんな格好をしたのはいつぶりだろう。もう2年以上前まで遡らなければいけない。出掛けないからオシャレをしない。多分そんなことをしていたから、心も閉塞感に
“さくら通り”に着くと、お祭りがやっているわけではないのにそれなりに人がいた。みんな僕たち同様に、独自にお祭りを開催しているようだ。
夜桜用にライトがあるわけではないけれど、街灯の光で充分だった。それほどまでにここの桜は、賑やかだった。
風がそよげば枝が揺れる。華麗なダンスのように。花びらが舞う。中空をひらひらと。楽しそうに。
寒かったものだから、桜吹雪が本物の吹雪のようだった。
「寒いね」
彼女の言葉に、僕は持ってきたコーヒーを籠から取り出して渡した。
「ありがとう」
「いつの間に用意したんだと思う?」
「わたしが手間取っている間に」
そう言って口を尖らせた。拗ねているのだろう。
「君が手間取ってくれてなけりゃあ、コーヒーを淹れる時間もなかったね」
「前向きか!」
「事実だし、事実なら考え方次第なのかなと思ってさ。こんな世の中になって、いろいろ停滞したし不況になったし僕はクビになった。それでも僕ら自体は止まらないで生きていて、呼吸をするための日常を維持するために前を向くしかなくってさ。そしたら再就職もできたし会社では必要とされるようになった。こうして夜桜も見に来られるようになった。君も以前より明るくなった」
コーヒーを一口飲むと、温かさが内側から広がった。
「支えてくれていて、ありがとう」
そう言って彼女を見ると、同じようにコーヒーを飲んでいた。ほっと一息吐いて、こちらを見る。吐かれた息が白く舞う。頬はほんのり色付いているのがわかった。
「こちらこそ」
桜色の鉄格子の前で、彼女は笑った。
仕事が上手くいっても、夫婦でささやかに楽しんでも、やはりそこに在る閉塞感は拭えない。この世界で、なに不自由なく生きるなんてことはできないのかもしれない。暮らすためにほとんどの時間を割いて労働し、たまの休日にもどこへも出かけられない。いつだって「暮らすとはなにか」を問い詰められている。その問いから逃げるために、ここではないどこかに行くことさえもできない。生活と言う名の檻に閉じ込められ、それでも呼吸をするのをやめられない僕の、いや人の人生は監獄と言って差し支えないものだろう。でもそれはどこへ行ってもそうだ。ここではないどこかへ行ったとしても。
ならばせめて、君と二人で、この桜の監獄で。
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