第24話 再生の時⑤
1.
我ら道なき道を行く
導求め 白き闇に立ち尽くす
光はあるか 風は感じるか
拳握りしめ 地に足をつけ 遥か先を臨む
行くは 地平の果て 砂漠の果て 見果てぬ大地
人よ その子らよ 我らの道を照らさん
日が昇るはずの刻限よりもかなり早い時間に目が覚めてしまう。
早朝というよりはまだ深夜といってもいい時刻である。
マサ・ハルトはもう一度寝なおそうと目を閉じるが、瞼を閉じて何度も寝返りを打っても、かえって目が冴えてしまう。
諦めてベッドから起き上がり、着替えを持つと妻に気付かれぬように寝室を出る。作業着に着替えるとすぐ隣の棟の工房へと向い、鍵を開け工房の中に入る。
身体が震える。
それが冷気によるものなのか武者震いなのかは判らなかったが、マサは苦笑しながら作業場の明かりを灯す。
ほのかな明かりが灯ると、淡いオレンジ色の中に棚やテーブルが浮かび上がる。
気の赴くままに棚の鉄板を取り出すと、彼の作業スペースに腰を下ろし、金属板を叩き始めた。
普段なら完成をイメージしてから叩き始めるのだが、この時に限ってはそのようなことはいっさい考えず、ハンマーを振るい始める。
叩き始めた頃は気もそぞろで集中出来ていなかったが、次第に熱を帯び、一心不乱に鉄の板に向かっていた。
夜明け前に妻が作業場に姿を現しても気付かぬほどだった。
「おはよう、あんた」
ハーナは出来上がった小さな器をしげしげと眺めているマサにお茶の入ったマグカップを差し出す。彼女は作業場の様子を見ると、一度台所に戻って湯を沸かしてお茶を淹れて作業場に入ってきたのだった。
「お、おう」慌てて顔を向けるとマサはマグカップを受け取る。「早いな」
「なに言ってんだい。もう空は紫色だよ」ハーナは窓のサッシを開けながら言う。「いつから起きてたんだい?」
「そ、それはだな、早く目が覚めちまってな」
「こんな朝早くからやらなければならない仕事なの?」
「そんなんじゃねぇよ」目をそらしぶっきらぼうに言い放つ。「なんか急に目がさえちまってな」
「まったく、子供みたいだね」
マサを見て祭りや祝い事に連れていってもらえる日の朝のようだとハーナは思った。
「う、うるせぇよ。仕方ねぇだろ」
「それで朝早くから作っていたのかい」
「まあ、な」
出来たマグカップをハーナに渡す。
「あら、かわいいらしいカップね」
「たいした出来じゃねぇよ」
「そういうもんかねぇ。あたしはいいと思うけど」
「じゃあ、そうなんだろうよ」
「ガルダさんのところで良さ気な持ち手を付けてもらってかしら」
「なんでそんなことする必要があるんだよ」
「エアリィちゃんにこれをあげようかと思ってね」
「お、おい。なんでだよ」
「なんでかしらね」ハーナは微笑む。「これを見てなんとなくそう思ったのよ。あの子にはお世話になりっぱなしだからかしらね」
「だったら、もっといいやつをだな」
「これくらいがちょうどいいさね。使うのがもったいないくらいのものをあげて、どこか奥にしまわれてしまうよりも、いつも使ってもらえる方がいいでしょ? あんただったいつも言ってるだろう、使ってもらってこそのものだってさ」
「そりゃそうだが、何もそんな中途半端なもの」
「いいものじゃない。それにあんたが、この日に作ったものだよ。だからいいんじゃないかい」
「勝手にしろ」
「あたしから渡しておきますよ。廃棄地区に入れるんで子供みたいに眠れなくなって起きだして作ったってね」
「余計なことは言わなくていいんだよ」
「もう何度も廃棄地区に入っているだろうに」
長老会で外壁の再建が決定して以来、あくまでも予備調査という名目ではあったが、すでに重機が持ち込まれ測量などが工の民によって行われていた。
「それでもな、今日が本当の作業の始まり、起工の日なんだ」
「廃棄地区には五家の人達も来るんだったよね?」
「ああ、来るよ。起工式だからな。開門式とかいったか、まあ儀式みたいなもんだ」
「そういう格式ばったものは毛嫌いする癖に」
「これはこれで意味があるんだよ」
「言葉だけだろうに」ハーナは言う。「もう長老会で決まった時から廃棄地区の工事は始まっているのにさ」
「心がまえっていうか、けじめだ。気持ちが違うんだよ」マサは鼻を鳴らす。「それにな、ハーナ」
「なんだい?」
「もう廃棄って言うな。これからは人が住むんだ。今度こそ復興させるんだ」
「そうだったわね」
ハーナはマサの言葉に微笑む。
マサの言いたいことは判る。それでも彼女が生まれる以前から工の民の祖先が築いた地区は廃棄された土地であった。ロンダサークから見捨てられた場所でしかなかった。
廃棄地区が工の民にとって大切な場所であることは先達から聞いて育ってきたが、今では、メーハートと呼ばれるこの地が工の民にとって生まれ育った地なのである。
見捨てられていたあの場所が故郷だと言われても実感がわかない。
そういう者達は工の民にも多いはずだ。
「名は決まったのかい?」
「ヴェリール・ナハだ」
「祝い。そして祝福なのね」
ヴェリールはかつて祖先が慈しみ師とも祖とも仰いだ人の名であり、ナハは工の民が祝いの場で使う特別な言葉だった。
ハーナは目を細める。
「メーハートにはしなかったのね」
「それも考えたが、今住んでいるこの場所に残るやつもいるし、工の民だけじゃねぇ、今回はいろんなところから人が集まる予定だからな」
「メーハートが二つあっても混乱するだけだからね。でもさ、そうすると工区の開祖と言われる人に怒られるんじゃないかい?」
元々工区は宙港や港湾地区と並んで古くから作られていた区画だった。開祖は八部神のひとりガザロフとも言われ、その弟子であるメーハートが技術を伝え発展させたとされる。その彼を尊び敬うためにつけられたのが工区の名の由来てあった。
「あの世とやらがあるとしたら、おれが行った時、土下座でも何でもして謝るさ」
「そうかい」それはそれでずいぶん先のことなりそうだけどね。
「今日の起工式で正式に発表することになっている」
「あんたもいろいろと考えているんだね」
「なんだかんだ言って頭だし、長老だからな」
「そこまで考えてるなら、宣言の場で言うこともできてるんだろね?」
「決めてるよ。『再生作業を始める』だ」
「あんたねぇ」ハーナは呆れる。「もう少し、気の利いたこと言ったらいいんじゃないかい?」
「おれはこれでいいんだよ。長々と話したって退屈なだけだ。それにベラルやシュトライゼが、おれが考えるよりもずっといい話をしてくれるさ」
「なに他人任せになっているんだい。それにあんたの場合は思いつかなかっただけだろう」
「なんで言葉をいちいち飾り付けなきゃならねぇんだよ。これからやるぞ、野郎ども。で、いいじゃねぇか」
「出来上がった品には、飾りつけだって必要な時もあるだろう? 長老として工の頭として言うことがあるんじゃないのかい? あんただってここまで来たという想いもあるだろうに」
「そりゃああるさ。でもな、そんなこといちいち言葉にするのが面倒くさいっていうか、どう伝えていいかなんて判んねぇんだよ」
「それでも言ってもらいたい時もあるさ。背中で伝えるなんて恰好つけたってさ、伝わらないものだってあるだろうに。それでなくたってあんたはいつも言葉足らずなんだからさ」
「そんなこと言ったってなぁ、だれにだって苦手はあらぁな」
「そういう問題じゃないでしょう。昨日だって、アベルに何も言ってやっていないでしょう?」
「言ったさ」
「なんてよ?」
「おめでとうって」
「たった、それだけ? もっと言うことがあるでしょう。あの子が初めての出展した品評会で優秀賞を取ったのよ。もっと師匠として言ってやることがあるでしょう?」
「よくやったって褒めてやったよ。他に何を言えっていうんだよ? それともなにか、小躍りして抱きつきでもすればいいのか?」
「それはそれで見てみたい気もするけれど」
「そんなことされたって気持ち悪いだけだろうが」
「アベルが卒倒しそうよね。とうとうあんたがおかしくなったって」
「うるせぇよ」
昨日、商工会議所からハルトの工房に使者が来た。
品評会の結果を伝える使者であり、審査の結果、アベルの作品が優秀賞に選ばれたというのである。
使者の話では最も秀でた作品に与えられるナルダン=ガザロフ賞に該当するものはいなかったが、今回の品評会ではアベルを含む三名が優秀賞という栄誉を得たという。
最優秀栄誉賞が出なかったことはマサを落胆させたが、それでも師として弟子が賞を得たことは誇らしかった。
「どんな作品なのかしらね。品評会に行くのが楽しみだよ」
「そうだな」
「なんだい気持ち悪いわね。何ニヤニヤしているんだい?」
「いや、なんでもねぇ」工房ではアベルが何を出品したかを知るのはマサだけだった。「いいこと思いついたぜ。アベルにおれからのご褒美を用意してやるか」
「へぇ。あんたがねぇ」
「われながらいい思い付きだ」
腕組みし何度も何度もマサは笑みをもらし頷く。
その表情や仕草を見てハーナはだんだん不安になってくる。ろくでもないことを思いついた顔つきをしている。
「いったい何をしようってんだい?」
「秘密だ。アッと驚かしてやんねぇとな」
「変なことするんじゃないわよ」
「するわけねぇだろう。おれはそんなに変なことやっているかよ」
「そういうわけじゃないけど……、普通にお祝いしようよ、普通に」
「どんな?」
「工房のみんなでお祝いしよう。盛大に。あたしが料理作るからさ」
「優秀賞でか?」
「だったら、お小遣いあげるとかさ」
「小遣いか、まあ似たようなもんだよ」マサはニヤリと笑う。「と、その前におれは相手を知らねぇんだよな」
「相手?」
「アベルと付き合っている娘だよ。いるんだろ?」
「そりゃあ……ねぇ」
ハーナはイスタリカを知っている。
アベルに止められていることもあるが、まだイスタリカの名前は出していないし、二人の付き合いを詳しくマサに話をしたことはない。
「どこの誰だか知らねぇが、親代わりとしちゃあ先方とも挨拶を交わさねぇといけねぇしな」
「挨拶って……あんたががい?」
「おれじゃおかしいかよ。あいつを預かっているおれらが親みてぇなもんだろうが、当然だろう?」
アベルが弟子入りしてから十年以上になる。
両親と死別していたアベルの面倒を見てきたのはハーナとマサだった。
「アベルのことは確かにあたし達が親代わりになるけれど、それでも手順はちゃんと踏んでいかないと。あんたにアベルから正式に婚儀の話が出たわけじゃないんだろう?」
「まあ、そうだがよ。決まってんならもう話を進めてしまったっていいじゃねぇか」
「あんた!」ハーナは声を上げる。「それはね、アベルが話をあんたやあたしに持ってきてからの話だよ。あんたひとりでやっていいことじゃないんだからね」
怒気を含んだ声にマサは背筋に寒気が走る。
「お、おう」
彼は頷くしかなかった。
「それよりも今日は今日で大事な日になるんだろう? 早目に商工会に顔を出すって言っていたじゃないか。いいのかい?」
ハーナに尻を叩かれ、マサは慌てて工房を出ていく。儀式用の服に着替えるためだった。
手間のかかる大きな子供を相手しているようだとハーナは苦笑し、飲み残しの入ったマグカップを手にハーナも工房をあとにするのだった。
「あの子がどうするにせよ。今の話はしておいた方がよさそうだね」
夜明け前、ネクテリア、カリブス、バガラはレイブラリー邸へと集う。
大きな杉の木の袂にある石碑の前で待つベラルや旗持ちとして集まった各地区の若い衆らとともに開門のための儀式を済ませると、彼らとともに廃棄されていた地へと行進を始める。
色とりどりに染め上げられた旗が上下左右に振られながら数十人から成る一行は下町を進む。
新しい区画が作られ始まるという本来の意味でのこの儀式が行われるのは数百年ぶりだった。下町創世の頃は新しい地が開拓され外壁が外へ広がるたびに行われていた儀式なのである。
行く道々で彼らの列を見守る人々がいる。
祈る者、その歩みに旗を持ち加わる者達も出てくる。廃棄地区が近づくにつれその人数は膨れ上がっていった。彼らは古式にのっとり聖霊へと祈りをささげながら歩いていく。
太鼓を手にした者達が拍子をとり、子供達が彼らの周囲を駆け回る。
ただそれだけのことだったが、人々は晴れやかな気持ちでその行進を見守っている。
その列を閉鎖された地区の門の前で工の民と商工会議所の面々が待っていた。
工の頭マサ・ハルトと商工会議所会頭シュトライゼ・グリエが代表してベラルら五家を出迎える。
向かい合った彼らは簡単な儀式の言葉を交わし、手を取り合った。
ベラルの手からマサへと鍵が手渡され、多くの人々が見守る中、彼は門の前へと進むと鍵を差し込む。
錆びついた錠前には事前に油がさされていたが、鍵を回しただけでは動かなかった。それでも力を入れると軋んだ音をたてながら錠前が動き、錠が取り外された。
マサの合図とともに工の民や若い衆が旗を投げ捨て歓声をあげながら大きな閂を外し、門を開け始めるのだった。
重く閉ざされていた扉が開かれる。
砂漠からの風が一瞬吹き抜ける。
事前に設置されていた砂止めの壁に簡易の階段がかけられた。
二メートルあまりの壁の上でマサは声を上げる。
「ヴェリール・ナハ」
両手を高く掲げ彼は力強くその名を宣言した。
それに応え工の民が大気を震わせるような声を上げる。
「今日からここは生まれ変わるんだ! 再生の時が始まるんだ!」
「本当に広いな」
暑い暑いとぼやきながらガルダはそう呟いた。
天幕ではベラルやシュトライゼの挨拶や祝辞が続いている。
「な~んにもありゃしねぇ」
崩れた外壁の先まで見渡せた。
すべてが砂にうずもれ、一部の高層化していた建物の支柱が見えるのみだった。かつてここに工房が林立し工の民であふれ、活気に満ちていたなんて話は到底信じられない。
「狭い狭い言われていたはずのこの場所も何もなければ、こんなに広いんだな」ガルダは配られたお茶を口に含みながらぼやくように呟いていた。「人なんか集まるのかねぇ」
「集まっているよ」
マサはガルダの呟きに答える。
「なんだ、また抜け出してきたのかよ。式典の方はいいのか? 工の頭さんよ」
「おれがいなくても、シュトライゼが取り仕切ってくれているさ」
何もない砂地の上に建てられた天幕に招かれた者達や工の民が集まり式典が行われている。今は、ベラル・レイブラリーが祝辞を述べているところだった。
「確かにこういうのはシュトライゼがうまくやってくれるかもしれねぇが、マサだって工事責任者だろうが?」
「おれがやることは、工事を進めることだけだ。号令をかけてりゃいいんだよ。式典にまで頭を使ってられるか」
「本当にお前は表舞台に出たがらなくなったな。昔はあんだけ目立ちたがりで、自分でやらにゃ気が済まねぇやつだったのによ」
「向き不向きってのがあるんだよ。自分にはそういうのが向いてねぇって判ったしな」
「そういうもんかね」ガルダはため息をもらす。「まっ、そういうことにしておくか」
口下手なのは昔からだったが、それでも工の頭としてのカリスマ性は昔も今も変わらない。ガルダ老はそう感じている。
「思ったことを伝えるのは難しい」
マサは小さくぼやいた。
「そうだな。それでも伝えなければ伝わらねぇ。話も技術もな」
「技ってものは盗むものだったはずだがな」
「確かにそうやって教えられてきたが、今の若い連中はそんな気概もないのかねぇ」
「それでも、伝えることは年寄りの使命でもあるがな」
「判ってるよ。そのために現役復帰したんだろうが」ガルダもぼやく。「それでマサよ。人はどれだけ集まるんだ?」
「工の民は半分くらいかな」
実際には四割程度になりそうだとマサは思っていた。
「ガラガラになりそうだな」
「密集してねぇ方がいい」マサは頷く。「他の区からの人は来るが、広く場所がとれるからいいんじゃないか」
「そうだなマサ。実際に今のメーハートは身動きが取れなくなっていて、新しい工房を建てる余裕すらねぇからな」
弟子がいたとしても独り立ちさせることすら出来ないときている。
「ガルダもよくここに来る気になったな」
年寄りほど、今の場所に残ることを選ぶ傾向にあった。今ではメーハートが彼らの故郷であり生まれ育った場所なのである。愛着があるというのもあるだろう、長年住んだ場所から離れるのは難しい。
「かみさんはしぶったが、おれ自身はここに通う方が面倒くせぇと思っちまう方だからな」
「そんな理由かよ。横着もんが」
「悪いかよ。何とでも言え」
老人は歯を見せ笑う。
文句を言いながらもこの熟練溶接工は工の頭とともにここまで来てくれていた。彼はマサにとってもなくてはならならない補佐役だった。
「まあ、ここに来るのなんていろんな理由があるさな。そういった意味では野望を持っている奴には丁度いい場所なんだよ」
「野望か、いいじゃねぇか」マサは相好を崩し笑った。
「自分の店や工房を持ちたいってやつには、ここはいい場所になるだろうよ」そんな噂をガルダも耳にしていた。「そうだな。他の地区から入植を希望している奴もどうやら次男坊や三男坊が多いときたもんだ」
「どこもかしこも土地問題は世知辛いからな」
「ロンダサークはもはや外に広がりようがなくなっているからな。その場しのぎなことよりも抜本的な改革が必要なんだろうけどな」
「抜本的な、か。そんなものがあるのかねぇ」ガルダは言った。
「おれには想像できねぇ。頭がガチガチになってやがるからな。出来るのはこんなことぐれぇだ」
「それでもお前さんのやってきたことは凄いことだと思うがね」
誰もが困難だと思いあきらめていた復旧のための工事が始まったのである。
おれには無理だとガルダ老は呟いた。
「おれだけの力じゃねぇ。おれだけじゃできなかった。あいつらがいたからだ」
「まっ、それでもお前さんもいなければできなかった。ひとりじゃないかもしれないが、お前さんもきっかけのひとつであり、この工事の起爆剤のひとつなんだよ」
「起爆剤?」マサは笑った。「確かにおれは怒りっぽいがな」
「そういうんじゃねぇよ。火と油が合わさることで燃え上がるように、お前と誰かさんたちが出会ったから、こうなったんじゃねぇか? 水と油じゃこうはならねぇよな」
「そういう考えもあるか」
「だってそうだろう。お前がいる。お嬢ちゃんがいる。先生がいる。時代のカードってやつが今そろったんだよ。神童といわれたベラル・レイブラリーやマサ・ハルトだけじゃダメだった。そういうことだ」
「たとえそうだとしても、おれやベラルには遅すぎた気がするがな」
「早い遅いなんてあるかよ。生きてきたことに意味があるんじゃねぇか」
「なにもやってねぇのにか?」
「そんなわけねぇだろう。お前さんは工の頭を引き受けた。なんだかんだと文句もいいながら工の民のことは見てきただろう」
「たいしたことはやってねぇ。おれは最低の頭だよ」
「そんなわけあるかい。俺は知ってるぞ。だから、皆がお前についてきてるんだろうが、マサがあいつらのこと引っ張ってきたから、サウンドストームの時にみんなをまとめられたんだろうが。あれは見事だったぜ」
「おれがやりてぇことやっただけだ。ガルダの目は節穴か」
「せっかく褒めてやってんのによ。素直じゃねぇな」
「そんなこと言ったて何も出ねぇぞ」
「期待しちゃいねぇよ。それに遅すぎるって言ったら、俺の方が先だ。なにせ棺桶に片足突っ込んでんだからな。この砂場が人でごった返すところなんて見れる気がしねぇよ」
ガルダは鼻で笑った。
「なに弱気になってやがる」
「マサはまだいい。あと十年、いや二十年先は見れそうだからな」
「そうなればいい。明日なんてどうなるか判らねぇ」
「事故はどこにいても付きものだからだからな。それでもそんなこと気にして生きるような男じゃあるまい」
今は前しか向かないやつだからな。
「運命だとか、そういうのは信じる気にはなれねぇが、それでもこのチャンスは逃す気はねぇよ」
「一生に一度あるかどうかの大仕事だからな」
「そういうこった。それでもだ」マサは言う。「譲れるものは譲っとこうと思ってるよ」
「殊勝なこって。人生を降りる気はねぇんだろう?」
「あったりまえだ。たとえ今はそうしろって言われたってこんな面白い事から離れる気はねぇよ」
「それでこその、工の頭だ。マサ・ハルトだ」ガルダは豪快に笑った。「で、何を譲る気でいるんだ?」
「本当は頭も誰かにやってしまいたいがな」
「そりゃあ無理ってもんだ」
「やっぱり無理か」マサは苦笑する。「長老は任期をまっとうするとして、道筋を付けたら現場監督は若い衆に任せるつもりだ」
「あいつらはそれで納得するかねぇ」
「納得させるさ。いつまでも年寄りがのさばってちゃいいものは作れねぇ」
「もっとも、マサの場合は縛られるのが嫌なんだろう」
「こういうのは自由にいろんなところからみるから面白いんだろうが」
「本当に落ち着きがねぇな」
「落ち着いて全体を見渡せるような奴がいいんだよ」
「シュトライゼに言えば良いんじゃねぇのか? あいつなら現場監督とか似合いそうだ」
「あいつはやらねぇよ」
「お前さんとは相性悪そうだからな」
「そういうんじゃねょ。ただまあそう思っただけだ。それに、工の民がやるんだよ。物を作るのがおれ達だ」
「ほかの連中には任せられねぇか」
「まっ、他の入植予定者にもやってもらうことはあるがな」
「いろいろと考えているようだからな」
「あとは工房も弟子に譲る」
「工房もかよ。隠居するつもりか?」
「そんな気はねぇって言っているだろう」
「じゃあ、何するんだ?」
「サウンドストームに専念する。まあ先生とジャンクかなぁ」
「本気かよ?」
「おかしいか?」
「思い切ったことを考えるもんだ。全部、自分の手でって思い込んでいやがるかと思っていたぜ」
大声で笑いながらマサの背中を何度も叩いた。
「そう背負い込んだって、ひとりの手じゃ何もできやしねぇからな」
確かにそう思い込んでいた時期もあった。だが、ここまでたどり着いたのは多くの力添えがあってのことだ。
「今のお前さんは見ていて飽きねぇぜ。こりゃあのんびり茶なんてすすっている暇はないな」
「あったりめぇだ。誰が軒下で茶なんてすすらせるかよ。思いっきりこき使ってやらぁ」
「お前さんになんか負けねぇよ。本当に今になって面白い時代になったもんだ」
「ああ、その通りだ」
肩をたたき合い笑うふたりだった。
「本当面白れぇや。それにしてもこの砂場は何とかなるのか? 人が手を付けないと、勝手に朽ちていくとは聞いていたが、まさかこんなになっているとはな」
「放置された時間が長すぎるんだよ。残った台座の高さまで砂が堆積してやがるんだ」
マサは言う。
「どれくらい積もってるんだ?」
「深いところじゃ三メートルはあるんじゃないかって言われている」
「そりゃそうか、屋根すら見えやしねぇからな」
「人の手が加わらないとこうも砂に侵食されるんだな。放置しすぎだぜ」
「まあ、仕方ないやな。崩れた壁を修復する手段がなかったんだからな」
「どうだろうな」
何も考えずただ諦めていたのかもしれない。
「大昔の話だ。誰にも判りはしないことだ」
「そんな話をしたって、何も解決しねぇからな」
「それにしたってここにある砂をかき出せるのか?」
「すぐには無理だな。それに今のままだったら完全に砂をかき出そうとしたら十年かかるかもしれねぇ」
外壁のすぐそばでは、外へ向かって放砂機が稼働していて、砂のアーチを作りながら外壁の外へと砂が放出されていた。
「そんなにか」ガルダは苦笑するしかなかった。
「そんなに待っちゃいられねぇからな。やれるところから手を付けていく」
「区割りは決まっているんだったけか?」
「大雑把なものがな」マサは手にした図面を広げはじめる。「まずは高炉だ」
「そうだな」高炉は工の民にとって大切な象徴でもある。「移設させるのはいいが、元通り動くのかねぇ」
真っ先に移設させる一号高炉はもっとも古くから使われているものだった。ここ数年は炉の温度が安定しないなどのトラブルが頻発している。
「古い部品は、今、新しいものを作らせている。メーハートに移設して以来の完全オーバーホールだ。新品同様に動かせるようにしてやる」
「そうでなければここに来る意味もないし、俺らの先もないか」自嘲気味にガルダは笑う。「で、どこ辺だ?」
「あそこだ」
マサは外壁に沿うように張られたロープがあるあたりを示す。
そこでも砂防フェスが張られ、砂のかき出し作業が始まっている。
「先はなげぇな」
図面と砂漠を見比べながらマサとガルダは意見をぶつけ合う。そんな二人の元にアベルが駆け寄ってくる。
式典の終わりが近いようだ。マサはアベルに指示を出しながら、式典のテントへと戻っていく。
肩をすくめたガルダは背筋を伸ばしながら立ち上がると、しっかりとした足取りでそのあとを追うのだった。
「本当に飽きがこねぇ時代になったもんだ」
2.
本格的な工事が始まるとヴェリール・ナハには多くの人が集まってきた。
物珍しく眺めに来る者もいれば、職を求めてやってくる者も多くいたという。
人々の往来は日が高くなっても途切れることがない。何もない荒れ野が活気に満ちている。
廃棄地区での作業は、マサの独断ではあったが長老会での可決決定のその翌日から始まっていた。外壁の土台となる超大型の石材の切り出しと並行して、新港湾施設となる桟橋用の中型から大型の石材も準備が進められてきたのである。
桟橋用の石材の準備は順調であったが、超大型石材の切り出しは予定よりも作業が遅れていた。そのためサウンドストームによる石材の搬送も中型の石材の搬送が主なものになる。
「今日の搬送終わりました」
少女が現場で打ち合わせをしているマサとトーラムに声を掛ける。
「おう。お疲れ様」
「やっぱり嬢ちゃんに手伝ってもらうと作業が早くていいやな」
「砂上船だけでやると、こうはいかねぇからな」
トーラムはマサの言葉に頷く。
実際にはウォーカーキャリアだけでなく、砂上船やモービルでの石材の搬送もおこなわれていたが、そのスピードはサウンドストームには及びもつかないものだった。
「でも、本来運ぶ予定だった外壁用の石材はまだひとつしか運んでいません」
拍子抜けしている少女だった。
もっと早くもっと多くの基礎部分となる超大型の石を運びたかった。そうしなければならないような気がして急いた。
「切り出しが遅れすぎてんだよ」マサはトーラムに何とかしろと言いた気だった。「お嬢だって店があるんだ。そんな中手伝ってくれてんだぞ」
「ああいえ、店は大丈夫です。フィリアと師匠がうまくやってくれていますから」
「そうか……それならいいがよ」
「職人が少なくなっているからな」
トーラムはぼやく。
「お前さんの責任だろう」
「仕事が急に増えても職人の数は変わらないんだ。若手の育成はそう簡単にできるもんじゃねぇ。マサだって判るだろう」
「お前んところは年寄りが多すぎるんだよ」
「いい職人は確保しておかなければならないからな。それに仕事なんてそうそう増えるもんじゃない。おかげで若い者には仕事が行かなくなっちまっていたからなぁ。そのつけが回ってきているって感じだ」
「今が育てるチャンスだろうが」
「判ってるよ。判っちゃいるが、教えてすぐにベテランのように仕事がこなせるようになるわけじゃねぇ」
「知ってるよ。そんなことはよ。まったくうまくいかねぇもんだな」
計画通りに事が運ぶとは思っていなかったが、ここまで遅れまくるとうんざりしてくる。
「マサの方はどうなんだよ?」
「見ての通りだよ。メーハートでの一号高炉の解体作業の方は順調だが」
「こっちはまだ基礎部分にもたどりつけていねぇか」
解体されてパーツごとに分けられた高炉の部品や配管などがメーハートからヴェリール・ナハに運び込まれつつあった。
「そのまま使えるとは思っていなかったが、ここまで砂に侵食されているとは思わなかったぜ」
「まあ、何処も同じか」
「そういうこった」
ため息まじに二人は頷きあうのだった。
「少しずつでもいいから前進していきましょう。今がこの状況でもこれから作業の上積みはいくらでも出来るのですから」
少女自身もどかしくはあったが、自分だけの力で状況を動かせるものではなかった。
「そうだな」
「年寄り二人が嬢ちゃんに慰められるのも情けねぇ話だな」
「そんなことないですよ」
「ぼやいたって何も進みやしねぇからな」
「はい。やれるところからやっていきましょう。ほら、やれることがやってきましたよ」
少女は入口の方を指さす。
パニーシをはじめとする織物工房の一団が大荷物を抱えてやってくるのだった。
「今回の仕事は工房の若い職人に任せてみたのですよ」
パニーシ・ベリオは笑みを浮かべながら言う。
織物工房の長はマサから依頼されていたイクーク搬送用の網の試作品を持ちんでいた。
パニーシの後ろでは、その若い工士達が網を広げている。彼女達は工房長から長老会での話を聞き、自ら志願して網を考え制作したというのである。
「すごくよい手ざわりですね」
少女は網といいながらも巨大な布地に見えるものに触れながら工房長に笑顔を向ける。
「そうですね。よい布地を使っていますからね」
旧市街区の衣類にも使われている絹だという。
「これ、寝床や肌着にも使えそうですよ」
少女はマサに言うのだった。
「イクークには勿体ねぇ代物かもしれねぇな」
「本当ですよ」パニーシも笑った。「手間暇のかかる高級な糸をふんだんに使っていますかね」
若い工士達は材料となる糸からひとつひとつ丁寧に作り上げてくれていたのである。
「これだったら、ちょっとくらいの揺れでも傷がつかないでしょうね」
「それに頑丈なんですよ。どこまで荷重に耐えられるのか実験してみたいくらいです」
パニーシは石材搬送用のロープと見比べながら言うと、それにマサは応えるのだった。
「石材の搬送をあれでやってみるのはかまわないぜ」
「この試験がうまくいったらもうひとつ作ってみてやってみましょうか」
あくまでもこれはイクーク用の物で、試作用であってもまだひとつしかない。石材搬送に使用するのなら、もっと頑丈で破れにくいものを作らなればならないかもしれない。さらに耐久試験も重ねなければならないだろう。
パニーシはうしろに控えていた工士のひとりを手招きする。
工の頭や石工の筆頭の前で緊張しているのか、何度も眼鏡の位置を直すしぐさをする。ホーリィと呼ばれた彼女はパニーシに背中を押され一歩前に出るとおずおずしながらも話を始める。
「まずは、イクークを傷つけ無いようにどのような生地を使えばいいのか考えてみました」
「あの布を見ていると砂も運べそうですね」
「ええ、運べますよ」
ホーリィは少女の言葉に頷く。
「本当ですか?」
「この子たちは港湾まで行って、イクークの生態についても聞いてきたそうでしてね」
パニーシが言う。
「港湾の方々の話では生きたイクークを保存する時に砂の入った箱に入れて鮮度を保つそうです。ですから、そのまま運ぶよりも砂と一緒に運んだ方が生存率は良くなるのではと考え、このような布地にしてみました」
通気性の良い衣服を作るのと同じような要領だという。
ホーリィは実験に用いたという小さな小袋を取り出して一同に見せてくれる。この小袋で工士達は砂と生きたイクークを一緒に入れて振り回してみたりと様々な実験を行ったという。
「空での搬送は大きな揺れを伴うと聞きました」
少女はホーリィの言葉に頷く。
「どうしても風の影響や旋回による遠心力からつるした状態だと網は大きく前後左右に揺れる可能性があります」
「ですから大きな揺れによって傷つくのを布地で抑えようと考えたのです」
「それでこの生地なのかい?」マサは興味深げに見ていた。
「気になっていたのですが、この下についている紐のようなものは何なのでしょう?」
それは小袋の下を紐で縛っているように見える。砂を下に落ちないようにしているようにも見えるが、なぜ一度穴をあけてそれを紐でくくる必要があるのか少女には理解できなかった。
見比べると砂地に広げられた網にも同じようにそれが付いているようだった。
「これはですね」そう言いながらホーリィは足元の砂をすくい小袋に入れ始める。「実際に運んだ時に最後にイクークをどうやって降ろすのか。それに気づいたときどうしたらいいのか悩みました」
網を切り離して下におろすということも考えたけれど、それは現実的ではなかった。
「そうですね。もう少し楽におろせたらいいなと思っていました」
少女は頷く。
「だったら、下に方に穴をあけ、それを紐で縛り砂やイクークを落ちないようにする。おろす時にその紐を引っ張ることで砂地にイクークを放出することができるようにした方がいいのではと思い至ったのです」
ホーリィがその伸びた紐を引っ張ると穴が開き砂が下に落ちるのだった。
再び口を閉じるのは簡単にできる。ホーリィは小袋を少女に渡すとやってみるように促した。
やってみると少女や工の頭は感嘆の声を上げる。その様子をパニーシは嬉しそうに見ていた。
「ウォーカーキャリアには手がありそれが人と同じように動くと聞きました」
「人みたいには動かせないわよ」少女は笑う。「それでもホーリィさんが言いたいことは判りました。サウンドストームがイクークを降ろす時にその紐をアームで引けばいいのですよね?」
「可能でしょうか?」
「それは大丈夫ですよ」
少女が頷くとホーリィは安堵する。
「若い子は面白いことを考え付くものです。私たちは降ろすことまでなんて考えていませんでしたからね」
「あれで実際に実験してみればいいのよね」
「出来ますか?」
「もちろん」力強く少女は応える。「楽しみにしていたのですから」
少女はサウンドストームの元へと駆けていく。
「放砂機を持ってこい!」
マサは近くにいた工の民に声を掛けるのだった。
砂を実際に網に入れての搬送試験の準備が始められた。
サウンドストームに網を取り付けるのにはそう時間はかからなかった。
若い工士達はサウンドストームの規格に合わせて網を作ってきてくれていて彼女達が編んだものは石材搬送用のロープよりも柔軟性があり取り付け作業がしやすかったというのもある。
石材を運んだ経験から括り付ける紐はあまり長くならないように調整する。
放砂機によって砂が小さな山ができるほど入れられた。最初は少量の砂を入れて試験しようとしたが、パニーシが太鼓判を押すのでイクーク搬送を想定した砂を入れることとなった。
遠巻きにパニーシやマサらが見つめる中、サウンドストームは垂直に上昇を始める。やがてピンと張られた紐は荷重に耐え砂の入った網を持ち上げる。
大量の砂が入った網が中空でゆっくり振り子のように揺れていたが、閉じ口からの砂漏れもほとんどない。すべて想定内に収まっているように見えた。かたずをのんで見守っていた若き工士達は実験の成功に手を取り合い飛び跳ね歓声を上げるのだった。
サウンドストームは高度を取るとそのまま空中で静止する。
ホバリング状態が続いた。
何かトラブルでも起きたのではと思わせるような長さである。
打ち合わせでは外壁の外へと飛び出し、ある程度過負荷を掛けた飛行をしてから、砂を上空から投棄してみるはずだった。
機首が外ではなくオアシス中心部へと向きを変えていく。
ドンと加速するエンジン音を残し街中を飛行するように飛び立つのだった。
誰もが呆然とそれを見送る。
そしてすぐにサウンドストームが向かった方向に人は不吉なものを見つけ指さしあうのだった。
「大丈夫みたいね」
ミラーで下を覗き見ながらアクセルを徐々に踏み込んでいく。
急激な力を加えないように注意した。
外壁よりもさらに高く上昇し、空中で姿勢を安定させる。
この高さでも風はほとんどなかった。
「風の影響が少ないのであれば、加速と減速を何度か繰り返して、それから旋回を行って過負荷をかけてみたほうがいいかな?」
方針が固まるとオアシスの外へ向けて飛行を開始しようとしたが、機首を外壁の外へ向け始めようとした時、視界の片隅に灰色の筋が見えた。
一瞬背筋が凍りつきそうになる。
竜の子、竜巻かと思ったからだ。
これまでに管制塔からの警告はない。それでも灰色の筋が視認できるほど接近しているとなると対応が間に合わないかもしれない……。
「違う? 竜巻じゃない?」
見えたのはオアシスの外ではなかった。
その灰色の筋はオアシスの中から上空へと延びていっている。
「煙か、おどかさないでよ」
少女は安堵するが、それも一瞬だった。
町の中から上がる煙の筋は徐々に色を濃くしているように見えた。
「商区の方角?」
少女はアクセルを踏み込むと煙の立ち上がる地点を確認しようとさらに上昇を始める。
フィリアやオーリスはまだ商区にいるかもしれない。
火の勢いが増したのか、煙の濃さが増して黒煙になっている。
たき火とかそんなレベルではない。
大きな火の手が上がっているかもしれなかった。
「どうする?」
警告? いや、あれだけ煙が出ていれば気付かない方がおかしい。
放砂機は近くにあるか? 一台では足りないかもしれない。サウンドストームで運ぶか?
いっそ、サウンドストームで延焼をくい止めるために入るか? 降りられて活動できるスペースがあるかどうかが問題だ。
商店が林立する場所では降りられそうにはない。
少女は一瞬の間に様々な可能性を探り、そして気が付いた。自分が今何をしているのか。
「やれる?」
初めての作業でうまくできる保証はないが、それでもやってみる価値はあった。
少女は機首を火災現場に向け、飛行を始めた。
迷路のような道を行けばかなりの時間を要するものも障害物のない空の上からだとすぐに到着できた。
現場周囲には人だかりができていて、消火作業も始まっていた。
バケツリレーによる砂まきが始まっているが、黒煙はひどくなりその中からときおり炎が見えた。油や発火性のあるものが燃えているのだろうか。
そのせいで建物の解体作業班が近づけず延焼をくい止める作業ができずにいる。
少女は建物の上空まで来るとホバリングで機体を安定させさせようする。
煙で視界が遮られ下がよく見えない。
気流が変化し砂を入れた網が揺れ始める。
少女は拡声器でどなった。
今から砂を落とすので退避してほしいと。
本来なら直接火の上に砂を落としたかったが屋根は倒壊していなかったので、建物を埋めるつもりで砂を落とそうとする。
網が揺れ安定しない。
周囲にいた人々が、騒音に耳をふさぐ。
サウンドストームはギリギリまで高度を下げ、そしてアームで紐を引く。
大量の砂が一気に落下すると火の手が弱まったように見えた。
その瞬間、人が建物の中から転がり出てきた。
弱まったのはほんの一瞬でまだ火の手が見え黒煙が強くなってくる。
しかし、これは有効な手段だった。少女は拡声器でもう一度砂を運んでくると伝え、一気に加速しヴェール・ナハに戻るとすぐに着陸する。
「砂をもう一度網に入れて!」
少女はコックビットから怒鳴った。
「火事か?」
マサが大声で聞き返す。
「ええ、商区よ。炎の勢いが強いわ。網はどう?」
網の状態を見ていた工士に訊ねる。
「問題ないようです」
元の状態に戻すのに少し手間取ったが、二台の放砂機による作業で網はすぐに砂でいっぱいになった。
マサは工事を中止して、手が空いた者から火災現場に向かわせていた。
サウンドストームは再び空へと飛び立つ。
現場近くの屋根に消火作業の人々が上がっていた。彼らは危険をかえりみず火災現場の屋根に穴を開けようとしていたのである。
サウンドストームの姿を確認すると、作業を急がせる。
小さいが穴を確認するとそれを目標に少女は砂を落としていった。
その後三度目の砂の大量投下で火は消し止められた。
火災発生から約二時間で消火作業は終了し、隣接した店舗への延焼も最小限で食い止められる。
「お疲れさん」
マサは少女の肩を軽くたたく。
「うまくいってよかったですよ。サウンドストームでこういうことも可能なんだなと思いました」
「運び屋だけじゃない。使いようはいろいろとあるってことだな」
「そうですね」少女は微笑む。「火災はイレギュラーでしたが、良い試験ができました。あの網は使えます」
「そうだな。細かいところでトラブルはあったようだがな」
若い工士達が網の状況を細かく点検している。
「解決してくれますよ。使用に問題はないでしょう。次の漁でイクークを運んでくることができます」
網の振幅など問題点はあるが、それは改良することは出来るだろう。
「だいぶ疲れているようだな」
「誘導してくれる人がいませんでしたから、うまく砂をまけるのか神経を使いました」
「おれはやったことがねぇから判らんが、精密な操縦は大変なんだろうな。本当にお疲れさん。今日はゆっくり休めよ」
そういってマサは少女を解放させる。
サウンドストームに乗り込もうとすると多くの人々が声を掛けてくる。
この日の出来事はすぐに噂話として下町中に広がった。消火作業に貢献したサウンドストームと少女の功績を下町の人々は讃えあうのだった。
3.
「昨日はお手柄だったそうじゃないか」
オーリスは店に顔を出すとそう言った。
彼の目は笑っている。
少女の店にオーリスが現れたころには閉店の札が出ていて今日も盛況だったようだ。
「恐縮です」
「いらっしゃるお客様全員がお嬢様を褒めてくださるんですよ」
フィリアは自分のことのように喜んでいる。
昨日の商区での少女とサウンドストームによる消火作業の噂はすぐに広がり、下町のほとんどの人が知っていた。
今朝は開店からひっきりなしに客がやってきては少女と話をしたがった。声を掛けてわざわざ握手を求める人もいて、さらには少女の店の商品を買うことで幸運を分けてもらおうと考えた者も多くいたようである。店の品はいつもよりも早く完売した。
それが判っていたのかオーリスは日が昇ってから店の方に顔を出したようだった。
「それはそうと、シュトライゼ様がオーリス様をお探しになっていましたが?」
「あいつが?」
「今朝早く顔を出して、来ていないのか訊ねていかれました」
彼はオーリスがいないと判るとすぐに店をあとにしたのだった。
「まあ、ろくなことじゃないだろうな」オーリスは口元を歪め笑う。「あいつのことだ、また顔を出すだろう。それにしてももう商品が売り切れか? なかなかの活躍だったのだろうな」
「大火事になるところが、建物ひとつで済んだのですから、すごいですよ」
フィリアはさも見てきたかのように身振り手振りを交えて消火の様子を熱く語るのだった。
「なるほどな」
商区でもその話で持ち切りであり、道々オーリスは彼らの噂話を耳にしていた。
「延焼が食い止められたお店からはお礼の品が届いたんですよ」
店の奥には塩や燻製など隣接していた店が商っていた商品なのだろう、それらが少女にお礼の品として届けられている。狭い店がさらに狭くなっていた。
「そりゃあ、そうだろう。商いができなくなって大損するかどうかの瀬戸際だったんだ。これくらいの品、持ってきて当たり前だ」
「オーリスも少し持っていきませんか?」
「ありがたい話だが、いいのか?」
「かまいません。あとで工事現場の人にとり来てもらって、みんなに分けてもらおうと思っていたところでしたから」
「なら遠慮なく貰って行こう。それにしても気前がいいな」
塩の入った瓶を彼は手に取りながら言う。
「そうでしょうか?」
「ずいぶん冷めているな。成したことに対しての報酬なんだ。もっと喜んでもいいところだろうに」
「たまたまです。本当にたまたまです。それにお客様方に握手とか求められるとどうしても冷めてしまいますよ」
「あれもここのゲン担ぎのようなものだからな。お前さんにあやかりたいんだろう」
「オーリスもありましたか?」
「商売敵にばかりだがな」
彼は苦笑いする。
「ある意味商魂たくましいですね」
「そうでなければ生きていけないからな。ここは閉じた世界だ。商いは限られたものを奪い合う世界だ。運も実力のうちというし、あやかりたい気持ちになるのも判る。ましてや火事ですべてが投げ出されれば、それこそ次の日から生きていく糧がなくなってしまい路頭に迷うだろうからな」
「そうですよね」
「なんか浮かぬようだな。もっと喜んでいるかと思ったが」
「確かにうれしいです」
ウォーカーキャリアを敬遠していた人達からも称賛され、役に立てたのだから嬉しくないわけはない。
「じゃあ、どうした?」
「大量の砂と瓦礫の撤去が大変な様子でした」
五回に及ぶ砂の投下で燃えた建物は砂で半分埋まり、その砂は通りにあふれていた。その撤去作業はこれからだという。
「後始末くらい厄介なものはないからな。特に好き放題やったあとはな」オーリスは苦笑する。「それでも何もかも無くなってしまうよりはいい。不平不満が言えるというのは生きているということであり、それを実感できるのだからな」
「あと片付け嫌ですものね」
フィリアも同意する。
「それから気になることがあります」
「何かあったのか?」
「火災した建物から転がりだしてきた人をあたしは見ました。その人がどうなったのか」
「そいつの店だったのかな?」
「わたしはお客さんから空き店舗だったと聞きましたよ」
「そいつによって放火されたか、失火が原因だとしたら、罪に問われる可能性があるな」
オーリスが言うとフィリアも頷く。
「罪ですか?」
苦々しい言葉だった。
「まあケンカから、人にケガをさせたとかいろいろとあるさ、それに対する罰則だな。トレーダーだってあるだろう?」
「ケンカはよくありますね。それに対して罰を与えることも」
血の気の多い連中ばかりだ。
「ここでも何かあった時の法があるのさ。そうしなければ秩序は守れないからな」
「そうですね」
「ここにいたのか。オーリス!」
シュトライゼが息せき切って駆けつけてきた。
「どうしたんだ、シュトライゼ。そんなに血相変えて」
「なかなかお前が見つからなくてな」
三十九区や彼の立ち寄りそうなところを探していたという。
汗だくになり、息を切らすシュトライゼに慌ててフィリア水を差し出す。
彼はゆっくりとそれを口に含むと何度か深呼吸する。
「本当にどうしたんだ?」
「グッダを覚えているよな」
「当り前だろう」
「グッダが別邸にいる」
「あいつ、何をしたんだ!」
「昨日の火災だ。失火の原因は彼なんだ」
「はあ!」オーリスの顔が一瞬で青ざめる。「なぜ……どうして……」
彼が手にしていた塩の入った瓶が地面に落ちた。
「グッダとは? オーリスとはどういう関係の方なのでしょうか?」
少女はシュトライゼに訊ねる。
オーリスに訊ねても彼は答えてくれず、そのまま両手で顔を覆い座り込んでいたかと思ったら、急に立ちあがり脇目も振らず何処へか駈けていった。
茫然と彼を見送った後、仕方なく少女はシュトライゼに訊ねることにした。
「グッダはオーリスの店で番頭をしていた方です。彼の先代から店に奉公していて実によく働いてくれていました」よく店を空けていたオーリスやティナになり替わり店を切り盛りしていたという。「商いの方向性を示したのはオーリスでしたが、仕入れや店の管理はグッダがいなければ成り立たなかったのですよ」
「店の守り人のような方だったのですね」
「そうですね」シュトライゼは微笑む。「ティナはオーリスの原動力であり、彼のかじ取り役でしたが、グッダは先代の信頼も厚かったこともあり、オーリスを堅実に支える役割を担っていました。彼にとっては商いの師匠のような方であったと思います。オーリスが姿をくらましたのちも店を支え、残った従業員の面倒を見ていましたよ」
「そのような方がどうして、別邸などに?」
「グッダは店を潰しているのです」
「ええと、引き継いだ店をですか?」
「そうです。堅実すぎたのですよ。わたくしの視点で言わせてもらうとグッダにはオーリスのような商才も独創性もありませんでした。彼は堅実ではあったけれど、それだけの人だったのだと思います。最初はね、オーリスのやり方を踏襲してうまくやっていましたし業績も良かったように見えました。ただそれはオーリスの考えが独創的で時流に乗ったやり方が出来たからこそであって、決してグッダに出来ることではなかったのです。商品となって流通してしまえば、その仕組みさえ理解できれば他の人でも容易にまねをすることは可能でした」
「永久に独占し続けることなど不可能ですよね。誰かがもっと良いものを考え付く」
「そういうことです。同じことやっていては大店にはかないません。いつしか店の売り上げは落ちていったようです。落ち込んだ売り上げを取り戻そうとグッダなりに目新しいことをやろうとしたのでしょうかね。彼らしくないとはわたくしも思いましたよ」残念ですとシュトライゼは言った。「立ちいかなくなった彼は商工会議所に貸し付けを受けに来ました」
「それでもうまくいかなかったのですね?」
「グッダとは知り合いということもあり、信用してわたくしたちもお金をお貸ししましたが……店は潰れその後グッダは姿をくらましました」
「それは罪になりますよね?」
一緒に聞いていたフィリアは心配そうに訊ねる。
「夜逃げした後、残されたものから回収できるものは回収したつもりですが、すべてが回収できたわけではありません。ですから五家には申し立てをしました」彼は冷たく言い放つ。「当然です。前例を作るわけにはまいりません。それにこれはオーリスが決めたことでもあります。商工会は商人や工人への援助をおこないますが、それは慈善事業ではありません」
「あたりまえですよね。それでグッダという人はどうなったのですか?」
「こんな街でも隠れる処は多々ありますが、それでも逃げおおせるわけではありません。ひと月後、彼は別邸入りでした」
「別邸って何?」
少女はフィリアにこっそり訊ねる。
「え~と」フィリアは少し頭を巡らせる。「罪を犯した人や告発された人を拘束する部屋のことです」
「牢のことね」
フィリアは少女の言葉に頷く。
ケンカなどで入れられる者もいるらしい。
「なぜ逃げたのでしょう? 罪が重くなるだけでしょうに」少女は呟き、それから訊ねた。「刑は?」
「初犯ということもあり無償労働です。貸し付け相当分の労働はしていただきました」 量刑的には軽いものだったらしい。「その後、彼を商区で見ることはなくなりました。年も年でしたからね、隠居したものとばかり思っていました」
「それが何で?」
「判りません。あそこは空き店舗だったのですよ。どうやらそこをねぐらにしていたようです」
「不法侵入にならないの?」
「なりますね。そして火災です」
「二度目ですよね」
フィリアは心配層にシュトライゼに訊ねた。
「そうです。二度目ですね」
「二度目だとなにがあるの?」
下町の刑罰について詳しくない少女は訊ねる。
「火災はかなり重い刑になります。彼は二度目となると量刑がさらに重くなるでしょう……」
「どうなるの?」
「追放もありうるでしょう」シュトライゼはあっさりとその言葉を口にした。「まずは別邸に逗留されて五家による裁定が出るまで、そこに置かれます」
「オーリスはどうするつもりなのでしょう? 出来ることはあるのでしょうか?」
少女は絞り出すような言葉で訊ねる。
「あるかもしれませんが、今の彼には難しいでしょうね」
「追放になるのですか? どれくらいの期間ですか?」
「二度目ですからね。軽ければ三日程度で済みますが、ロンダサークからの永久追放もあり得ます」
「そんな……」
フィリアは絶句する。
「そうなり得ることもあるということです」
「オーリスのあのような姿は初めて見ました。よほどグッダという人はオーリスにとった大切な人なのでしょうね」
「そうですね。彼がハウント商会の養子だったという話は聞いていますか?」シュトライゼの問いかけに少女は頷くがフィリアは首を横に振る。「里親よりもオーリスは店の者達にかわいがられていました。グッダは特に懐いていたようで、彼も信頼していましたから、父親のような存在だったのかもしれません」
「そのような人がなぜ?」
「どうしてなのでしょうね。グッダが失踪したオーリスの後を引き継いだのは元々、自分の店を持つという野心があったのか、それとも従業員達を一手に引き受けるために仕方なくだったのか……」
「彼の帰る場所を守りたかったということは?」
「それは彼に聞いてみるしかありませんね」シュトライゼは肩を竦める。「自分の店を持つということは番頭をやっているのとは違うのでしょうね。グッダは自分の店を持ったばかりの頃は本当に順調なくらい店を繁盛させていましたよ。出来すぎなくらいですね。オーリスがやっていたことをうまく踏襲しただけだったことに気付けなかったのかもしれません。それともうまくいき過ぎて感覚がマヒしていたのか、自分の実力以上のものを持っていると過信したのか。傾きかけた店を立て直すために彼は新しい事業に活路を求めようとしました。オーリスはある程度計算してそれを進めましたが、そんな下準備もなしに始めたのがよくなかったのでしょう。見る間に業績は悪化し店は潰れました。転がり落ちるのは本当に簡単です」
「……怖いですね」
フィリアの声は震えていた。
「全くです。まさか、今になってこのような形でグッダの名を聞くことになるとは思いませんでしたよ」
しんみりとシュトライゼは言う。
彼は水を飲み干すと礼を言い少女の店を辞した。
少女は夕暮れ時になってレイブラリー邸を訪れる。
「こんな時間にお主が来るのも珍しいことだな」
「すいません。どうしても工事を手伝っていると時間が取れなくて……」
少女はすまなそうに謝った。
事前の連絡もなくぶしつけな来訪となってしまう。
サウンドストームを館に置いてくると急いできたのだろう息は整えているようだが髪が額に張り付き乱れている。
「かまわん、かまわん」
「そうですよ。ベラルはあなたが訪ねてこないと寂しがりますからね」
「そんなことはないぞ、そんなことは……」
「そういうことにしておきましょう」
ドロテアは少女に目で合図すると、キリルの茶を少女とベラルの前に置くのだった。
「本当に来てくれてうれしいわ。夕食も食べていくでしょう?」
「そうしなさい。そうしなさい」
「そ、それではごちそうになります」
「腕によりをかけて美味しいものを作るわね」
上機嫌でドロテアは書斎を出ていく。
「昨日は大活躍だったそうではないか」
「そんなことはありません」
「謙遜するな。お主はそれだけのことをやってのけているのだ」
「そうでしょうか?」
「消火がどれほど大変なものか知らないわけではあるまい?」
「あたしはあたしのできることをやっただけで、みんなの協力があったからできたことです。あたしだけの力ではありません。ほめられるのなら網を作った工房の工士さんたちや工事現場の人たちもいっしょです」
「そうかもしれんな。お主が正しいな」
「あたしだけがほめられるのはどうしても納得できません。あの網がなければ大量の砂を運ぶことは不可能でしたし、商区の消火班の的確な判断、屋根に穴を開けてくれるという決死の行動がなければあんなにうまくいかなかったはずです」
「様々な人達の行動があってこそか」ベラルは微笑む。「しかし、人は見聞きした結果でしか物事を判断できないのかもしれんな。実際に行動を起こしたのはお主であって、やはりお主がいてこそ消火は成り立ったのだと思うのだよ。お主の言う質の良い網があったとしてもウォーカーキャリアと結び付け消火に当たると瞬時に判断できる者はどれだけいるだろうな。ましてや誰もやったことのないことを、すぐさま行動に移すことは難しいことだろうて」
簡単なことではなかっだろう? ベラルはそう少女に訊ねた。
「リスクもありますが、そのようなことを考えるよりも行動した方がいいはずです」
「迷うより、行動を起こすことの方が大切か」
「そう信じます」
どれかひとつが欠けても少女の行動は成り立たなかっただろう。それが成立するのは少女の持つ力なのかもしれない。
「織物工房や工の民には謝辞を送ろう。そしてお主にも私から贈ろうではないか」ベラルは少女の頭をなでる。「よい判断だった。よくその場をまとめ消火に当たってくれた。下町を代表して感謝する」
「ありがとうございます」
少女は少しうつむき、顔を赤らめながら答える。
「もっと素直に喜べ」
「すいません。ひねくれていて」
「それで、何があった? 私で答えられるものなら話して聞かせるし相談にものろう」
「お願いします。あたしはこれだけの時間をオアシスで過ごしながらやはりオアシスのことを知らなさすぎます」
「そういうことがまたあったのだな?」
少女は頷くと、今朝のシュトライゼとオーリスのことをベラルに話して聞かせるのだった。
ベラル・レイブラリーは少女の言葉に耳を傾ける。
「オーリスはひどく動揺していました」
「身内だった者に起きた不幸なのだろうからな」
「火災を起こしたものはどのような罪になるのでしょうか?」
「失火と放火では罪状はことなる。放火はもっとも罪深い。死者が出ればなおさらだ。その者には死をもってあがなってもらう」
「失火は?」
「程度にもよる」ベラルはそう前置きする。「ボヤ程度なら刑も軽いが、延焼を起こし死者まで出たとなると軽いでは済まされない」
「それが追放ですか?」
「追放は最も重い刑だ。二年から五年程度の無償労働などが科せられるのが普通だ。賠償金が課せられ現場の復旧にもあたってもらう」
「自分のしでかしたことは自分でつぐなうのですね?」
「そうだな。追放か。その者の現場はそうなるほどの火災であったか?」
「炎の勢いは強いものでした。油かそれに類するものがあったのでしょう。うわさでは失火であろうという話でしたが」
「あるいは自殺ということもあり得るか……」
「それは考え付きませんでした。ただそうなると周りに迷惑をかけるなと、言いたくなりますが」
「追放とはな、一日分の水を与えられ、ロンダサークから追放されるのだ」
水は慈悲であるという。永久追放でも運が良ければ他のオアシスにたどり着くことができるかもしれない。
「どれだけ距離があるとお思いですか?」少女は師の言葉に軽い怒りを覚える。「砂上船もモービルもない。歩きで砂漠を渡ることなどできません。希望を持たせるだけ酷ではありませんか」
「判っておるよ。その昔は五十一区なら受け入れてくれたという話もあったがな」
それは五十一区がロンダサークから離れは場所にあり、孤立していた時代の話である。
「追放とは名ばかりではありませんか」
みせしめだった。
日数など関係ない。炎天下の砂漠に放置されれば死しかない。
「そう思うか」
「今回の場合、消火が早くすんでいます。隣家の壁を焼いたりしていますが、それだけで延焼も起きていませんし、死人も出ていません。追放という話にはなりませんよね?」
「その者の罪が今回だけはないというのが問題だろうな。再度の罪は重いものとなる」
「知っているのですか? 最初の件は商工会議所が告発していると聞きました」
シュトライゼから聞いた話をベラルに語って聞かせる。
「詐欺もまた忌むべき罪だ」
「しかし、そのようなことは常々起きていると聞きますが?」
少女の言葉に苦々しい顔をするベラルだった。
「……告発があっても、それが明白なものでければ罪には問えないというのはあるが」
訴えだけで罪に問えないことは理解できる。たとえそれが事実であったとしても裁定者を納得させるような証拠を示さなければ罰せられない。さらに言えば旧市街区の住人を下町の者達が裁くことは出来ない。彼らとつながりのある者が裁定者に話を付けたり、賄賂をおくっているのではという話もあるくらいである。
「二度目だとしてもそれが故意ではなかったとしたら、チャンスは与えられないものなのでしょうか?」
「今回の場合、情状酌量の余地があるとすれば、更生の機会も与えられるだろう」
「本当ですか?」
「裁定を下すのはジェドクリアのバガラだ。彼がグッダの罪をどう見るかだろう」
「師の見立てではどうなのです」
「私のか」ベラルは少女の目を見つめ一瞬遅れて答えた。「空き家だったとはいえ不法侵入していることは罪として軽くはない。さらに火が故意でなかったとしても商区全体を危険にさらしたことは明白だ。これまでの裁定からしても追放が妥当であると思えるな」
その言葉は裁定者のものであり、淡々としたものだった。
「……そうですか」
「お主はどう感じるか知らぬが、その者は商区を危険にさらした。商区の多数の店舗に被害が及べば商区の活動が危うくなりそこを利用する下町全体にも影響を及ぼすだろう。それはあってはならぬことだ」
「確かにそうですね」
下町のライフラインともいえる機能を低下させるわけにはいかない。
「農区や織物区、工の民の地区などは下町にとって重要な区域になる。産業のどれも欠くことは出来ぬ。長屋とは別格になる」
「居住区とは別になるのですか」
「本来はあってはならぬ差別にもなるがな。これは暗黙のルールになる。罪や罰則はトレーダーにもあるだろう。そして重要なものもそこに含まれているだろう?」
「……そうですね。ウォーカーキャリアやそれに関するもの。そして水や食料に関しての罰則は他をうわまわります」
「共有する財産やそれに準ずるものにはそれを守るためのルールが存在する。それは生きるために必要不可欠なものだ。それを守るために罰則が存在し、どうしても厳しいと思われるものも出てくる。そのようなことがなくても守れればよいのだがな」
「どうしても人は自分を中心にして考えてしまいがちになってしまう。どのような結末になるのかかえりみることは出来ず、盲目になってしまいます」
少女自身がそうだったように。
「それがまかり通ってしまえば無秩序な世界、力による独裁になってしまう。それに対するルールがあるのなら私情をはさむ余地はない。それが罪を抑止する力にもなるからな」
「ではクロッセは?」
誰にも聞かれぬよう小声になってしまう。
「彼が? どうかしたかね?」
「クロッセは五十一区で数々の問題を起こしています。火事も起こせば爆発で隣家の壁も吹き飛ばす。そんなクロッセが罪に問われないのはなぜなのですか?」
「そのことか」
ベラルはにこやかに笑った。
「なにがおかしいのですか?」
「いや、すまぬ。我々にとっては当たり前だったことがお主には違って見えるのだなと改めて思い知らされたよ」
「彼が問題を起こすことかですか?」
「違う、違う。クロッセ君の立場だよ」
「ほかの人となにが違うのですか?」
「判っているだろうが彼はヴィレッジだ。今でこそ下町に住んでいるが、立場は変わらぬ」
「なぜです?」
「彼が下町の住人であると自ら宣言しようとも、クロッセ君はヴィレッジの生まれであることに変わりはない。お互いに積極的にかかわりを持つことはないだろうが、それでも我々の法で彼を罰すれば、それを口実にヴィレッジは圧力をかけてくるだろうな。彼がどうなろうと関知はしないだろうが、その結果だけをもってヴィレッジは何かあった時、有利に話を進める口実にするだろうて」
「そんな理由ですか……それでいいのですか?」
「良いも悪いもないな。我々もヴィレッジのなすがままにされるつもりはないが、旧区と下町の関係は根深いものだ。立場はクロッセ君も理解はしているだろし、下町のためにやってくれている」ベラルは少し困ったように微笑む。「彼は下町の一員だよ。それにだ、彼の起こす問題にたいして五十一区の者達は不平や苦情を言っているだろうか?」ベラルの言葉に少女は首を横に振る。「こういう言い方はお主の怒りを買うかもしれないが、五十一区にいることで、彼は罪人とされていると思われているのだよ」
「五十一区の状況をうまく利用しているようで嫌ですが……」
「すまぬな。だが五十一区の住人達からは告発されていない。彼はあそこで慕われているし、あがめられているからな。彼の起こす問題も含めて彼らはクロッセ・アルゾンを受け入れてくれているのだよ」
「納得できかねる部分もありますが、理解するしかありませんね」
「すまぬな」
少女は首を横に振る。
「裁定者が仮に判断を下したとして、それを変える方法はありますか?」
「ないわけではない」
「どのようなものでしょう?」
「それを訊いてお主はどうするつもりだ?」
「あたしが口をはさむレベルではないのでしょうね」そういいつつも聞かずにはいられなかった。「オーリスやシュトライゼさんを見ていると可能性は低そうだとしても何かしらの方法があるように感じられました」
「可能性か……ゼロではないが難しいかもしれないな。それにお主が手助けできるものでもない」
「それでも教えてください」
「相変わらずだな」
ベラルは暖かい目で少女を見つめる。
日が落ち砂漠から冷たい風が吹き付け始める。
少女はマントを羽織るとレイブラリー邸をあとにする。
レイブラリー邸のある旧区の白壁に近い地区は家々も少なく明かりに乏しい。夜の闇に目が慣れると少女は手にしたライトの明かりを消し、空を見上げ歩き始める。
星はやはり見えない。
それは永遠の謎であり憧れだった。
いつかまた無数の星の輝きを見たいとエアリィは願う。
巨大ドームにある広場で空を眺めようかと思い、路を抜け巨大ドームへと出る。人気はないだろうと少女は軽くステップを踏むと歌を口ずさむのだった。
広場へ入ると、そのベンチのひとつに見覚えのある人影があった。
「オーリス?」
思わず声を掛けている。
「なんだお前か。どうした、こんなところに?」
力ない声が返ってきた。
「ベラル師に会っていました。その帰りです」
「そうか……相変わらずだな」それだけでオーリスは何かを察したのだろう。「得るものはあったか?」
「聞きたいことは聞けたと思います」少女は答える。「あれからずっとここにいたのですか?」
「そんなわけはないだろう。そんなわけは……」
憔悴しきっているようにも見えた。
「ではいつから?」
「お前はおれのおふくろかよ」
少女はポケットから携帯食料を取り出しオーリスに差し出した。
「それくらい言い返せるようでしたら大丈夫のようですね。別邸には行かれたのですか?」
「ああ」受け取ったイクークの燻製を彼は口にすると。「行ったよ」
グッダとは面会できたし話もすることが出来たようだ。
「そのあとはここに?」
「あいつの親族を探していた」
オーリスの様子からは徒労に終わったように感じられた。
「可能性はありますか?」
「お前さんはどう思う?」
「保証人と保釈金が必要なのですよね?」
「助けられるとしたらそれしかない」
「ですが、どちらもオーリスでは要件を満たせるとは思えません」
「金はなんとでもなるさ」
「本当ですか?」
「金ってのはそういうもんだ。あるところにはある。今のおれには無縁だがな」そう言いつつオーリスは口を開きかけた少女を手で制する。「お前さんが言いたいことは判るが、おれにはそんな資格も才覚あるようには思えねぇんだよな。お前らおれを買いかぶりすぎだ」
「そんなことは……」
「問題はあいつを身請けしてくれる保証人だ」
「家族や一族といった親族でなければならないのですよね?」
「そうだ。もし再び罪を犯したら当人だけではない、保証人となった家族、もしくは一族まで追放という憂き目にあうんだ」
「ふたたび罪をおかさないようにという意味合いだと聞きました」
「まあ、趣旨はそうだな。身内による監視だよ。昔は一族ぐるみでの犯罪もあったと聞くしスケープゴートに罪なき者を罪人として差し出していたということもあったらしい」
「お金さえ積めば助かる。そういうことをなくそうとしたのでしょうか」
「判らんよ。誰がそう考えたのかなんてのはな」もしかすると罪状にかこつけて人減らしをしていたのかもしれない。「法はその時々によって変化していく。上に立つ者の考えや解釈によってな」
「それでは意味がないのでは?」
「変えようのない法もあるだろう。だが裁き判断するのは人だ。感情を持った人だからな」
憎しみばかりではないとオーリスは言った。
そこから少女は自らの立場を省みることになる。
「だから、あたしもここにいるのかもしれません……いられるのかも」
いまでも追放みたいなものだったが、それでも頭目の考え方次第では砂漠の砂となって朽ち果て命すらなかった可能性もあるのである。
「なぜお前さんがここにいるのか、その理由は判らんが生きていれば可能性だけはあるからな」
「そうだったのでしょうか?」
父はあの時、自分のしでかしたことに苦悩したのだろうか? 死してつぐなうことを望むものもファミリーの中にいたのだろうか?
「機会があったのなら訊いてみるといい。そうできる可能性はあるのだろうからな」
「グッダさんにはありますか?」
「あいつの話を信じるなら、あれは失火だったのだろう。再起をかけてコツコツと商いの品とかあそこでため込んでいたらしい」
「またやる気だったのですか?」
「もう年なのにな。諦めが悪いというか執念深いというか」
「それが燃えてしまったと?」
「転がり落ちると、底なしなのかもしれんな。彼に家族はもういない。遠縁にあたるが親族を見つけたが、保証人にはなってくれそうになかった。迷惑がられたよ」
「そこまで……オーリスにとってその人は大切な方なのですね」
「おれにとっては商いのイロハを教えてくれた師匠みたいな人だからな」
オーリスはひとつひとつ懐かしむようにグッダとの思い出や商いのことを語ってくれた。
「恩人といってもいい。ひねくれ者で歪んだ見方しかできないおれに堅実で実直な商いを見せてくれた。商いに基本というものがあるとしたら、グッダはそのお手本みたいなものだったよ」
「その流れをあたしにも見せてくれたのですね」
「どうだろうな。お前さんにはお前さんのやり方がある。それを消すのはもったいなかったからな。それでもここはロンダサークだ。奇抜なもの斬新なものは当たれば大きいが、受け入れられないというリスクもある。ヒットするものなんてそう簡単に作れるものじゃないからな。おれは堅実なものの中に変化を入れていく」
「そのような手法をオーリスは確立したのですね」
「売れるか売れないかはバクチみたいところはあるからな。こちとら家族だけじゃなく店の従業員も養っていかなければならない。だから堅実な路線やお得様はグッダに任せた。おれは商工会や診療所のために稼ぐことを考え続けた。中堅どころじゃ大店と同じことをやっても太刀打ちなんてできやしない。その上を行こうとするなら質を保ちつつ大店にはできないことをやってのけなければいけなかった」
「その方がいたから、アクティブに動くことができたと?」
「そういうことだ。あるていど規模があるとお前さんのような個人経営やっている奴らのようには動けないからな。後ろがしっかりしているから好き勝手出来た」
「なくてはならない存在だった。いいですね」
「ああ、店を閉めて全員に暇を出した後、シュトライゼに奉公先を探してもらえといったのだがな……」
「そうではなかった?」
「あいつにも野望があったんだろうな。自分の店を持つという」
「やはり見るべきものが違ってくるのでしょうか?」
「そうだろうな。お前がフィリアひとりに店を任せた時、あの子はオロオロしていたよ」
「あたしにかわって店をやると言っていたのにですか?」
「そうだよ」オーリスは苦笑する。「ひとりですべての面倒を見るんだ。想像していたものとは違ったのだろう」
「やはりオーリスに見てもらって正解でしたね」
「あの時ははめられたと思ったよ」オーリスは力なく笑った。「誰もが成功できるものじゃない。店を開くのは簡単だ。開店資金さえあればいいのだからな。難しいのはその先だ。客を呼び込み利益が出るまでが長い道のりだ」
「それでも順調だったのでしょう、グッダさんは?」
「らしいな。それまでのおれがやっていた店のお得意さんなんかに声を掛けたりして商いをしていたようだ」
オーリスは彼の店で奉公していたものを探し、当時のことを訊いていたようだった。
「どうしてダメだったのでしょう?」
「最初からうまくいき過ぎて周りが見えていなかったのかもしれないな。それとも質が保てなかったか、大店に顧客を切り崩されたか……理由はいろいろとあるのかもしれない。運転資金もままならなくなり借金までして起死回生のバクチを打とうとした……、グッダらしくないな」
「その方も家族なのですね」
「家族か……。そうかもしれないな。もうすべてなくしたものと思っていたのにな。店もそこにいたみんなもおれにとっては大切なつながりだったのかもしれない」
「オーリスはどうするつもりなのですか?」
「どうするべきなんだろうな」
たぶんオーリスには目算があったのだろう。もう一度、彼が道を踏み外したとしても連帯責任を問われるのは自分だけであり、オーリスには家族と呼べるものはもうなかった。それ故に他に迷惑がかかることはないだろうと考えての行動ではなかったかと思われる。
オーリスは裁定者達を相手に、彼をグッダの身内であると納得させるつもりのだろう。
「ここであったのも縁か」
「オーリスらしくない言葉ですね」
「悪かったな。もっとも最初からお前さんに頭を下げるつもりでいたがな」
「シュトライゼさんではないのですか?」
「あいつは胡散臭いからな。何されるか判ったもんじゃない」
「シュトライゼさんが聞いたら文句を言いそうですね」
「かまわねぇよ。本当のことだ。それにお前さんの方がおれを高く買ってくれそうだからな」
「本気ですか?」
「頼む。トレーダー。おれを好きにしていい」
地に頭をこすりつけんばかりに深々と頭を下げた。
どれくらいの時間、考えただろうか。よく覚えてはいないが頭の中を様々なことが駆け巡ったような気がする。
「ですが、それで助けられるのですか? それがもしうまくいったとして、あなたも追放される可能性があるのですよ」
「その時はその時だろう。おれに人を見る目がなかったということさ」
オーリスの目は、どうする? 少女に決断を促しているようだった。
以前のようにその瞳に濁りは無かった。
「わかりました」
少女は頷いた。声がのどの奥で引っかかる。冷気の中にいるはずなのに汗ばむような感覚だった。
オーリスは立ち上がると少女に手を差し出す。
「よろしく頼む」
「頼まれました」
その手には力強さがあった。
立ち去るオーリスを見つめていると、風が、もう大丈夫、そう言っているような気がした。
〈二十四話 了 二十五話へ続く〉
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