第3話  異邦の風

 序.



 ガリア。

 それは砂の海が果てしなく広がる大地。

 うねり波打つ砂の平原、乾ききった岩だらけの荒野がどこまでも続く。

 吹きつける風に砂漠やひび割れた岩盤から砂塵が舞い上がる。まるでそれらは大地から放たれる胞子のようだ。

 荒廃し焼き尽くされた空に昇る巨大な太陽。砂雲の向こう側からでも容赦なく放たれる業火が地を焦がしていく。

 砂に蔽い尽くされた世界は生きるもの全てを拒み続けていた。

 不毛なる我らの大地。

 過酷なガリア。この大地に人々は生き続ける。



 1.



 瑞々しい緑の葉が強い光を遮り木陰を作る。

 時おり吹く風に揺れてその向こう側の砂雲が揺らめいているように見えた。

 長い年月を経て育った無数の雄々しい幹が枝葉を広げ、大きな森を形作くる。

 周囲には青々とした芝や色とりどりの花が咲く。

 遠くから聞こえる水音が心地よく体に染み入ってくるようにさえ感じる。

 ロンダサークの中央、旧区と呼ばれる地区は下町や他のオアシスとは別世界だった。

 緑に満ち溢れ、楽園と称する者達もいるくらいだ。

『命の森』の内は聖域とされ何人たりとも入ることを許されていない。神聖なる森の奥から湧き続ける水はまさにロンダサークの人々の生活を支え続けている。

 旧区は一区、農区とともにロンダサーク創成期に作られたとされる。

 ヴィレッジと呼ばれる学舎と居住区があり、旧区の住人は自らをシチズンと称していた。

 本来ヴィレッジは技術を維持管理するために設立されたものだったが、彼らは使命を忘れ、権力や地位のために技術を秘匿し、内部抗争に明け暮れた。

 その為に技術の衰退を招き、他のオアシス民だけではなくトレーダーからも信頼を失ってしまっていたのである。

 それでも彼らは水源を独占することで高圧的な態度で下町に圧力をかけてくるのであった。ヴィレッジは旧区に住むことがエリートの象徴であると思い込んでいるのだろう。『命の森』を囲む白い外壁のように彼らのプライドは高いようだ。


「ここがオアシスの中だなんて信じられないわ」

 エアリィの目に濃い緑が飛び込んでくる。

 静けさ。

 それは砂漠の中にたたずんでいる時とはまったく違っていた。

 肌に刺さるような強い日射しもない。肺を焼き体内から水分を奪い去るような外壁の向こう側とは異質な、潤いに満ちた空間。

 日常とはかけ離れているとさえ感じてしまう。

 それだけに落ち着かない。絵空事の様な居心地の悪さがある。

 ヴェスターに連れられ旧区まで出てきたのはいいが、結局、ヴィレッジの傲慢な態度と息苦しさに耐えられず少女は許しをもらうと一人外へと出るのだった。

 人気のない所まできて、芝に腰を下ろすと幹に背を預ける。

「……どうしてここにいるのかな……」



 泡立つ宇宙(そら)

 星の輝きは白夜の向こうに消え去り

 故郷への道は閉ざされる

 我ら彷徨える孤児となり異邦をさすらう



 ベラル・レイブラリーから教えられた詩の一遍が頭の中で繰り返される。

 月琴の物悲しげな調べとともに少女の心を揺さぶり、想像という名の翼が羽を広げようとする。

 未知の言葉が空想をかき立てる。

 宇宙(そら)には、砂雲の向こうに広がっているはずの星があるはずなのである。そこは目に映るこの風景とどれ程違うのだろうか?

 いくら考えようとも乏しい知識と発想力では、あの夜見た星へは辿り着けない。

 想いは地を這うように砂漠の海を、乾いた大地を渡るのみ。

 まだ何かが足りていない。

 砂雲の果て、平線の彼方に、未知の世界と星があるはずなのである。

 少女はベラルから様々な知識をむさぼる様に吸収していく。

 伝承されてきた歌や詩、そしてロンダサークだけでなくガリアの歴史までも。それに連なる歌はトレーダーにはないものだった。聖霊や水への讃歌から恋歌まであるのも面白い。

 そのどれもが初めての体験であり、未知なるものへの好奇心を駆り立てる。

「弟子か……」

 師の月琴を聴くだけではなく、習い奏でるのは楽しい。

 頭の中を詩や歌が流れていく時、自然と指が弦をつま弾く動きになっている。

 ベラルはオアシスの民でも下町の者でもない少女を弟子にならないかと誘ってくれた。

 後継者にならないかというのである。

 当代随一の語り部であり歌い手、歴代レイブラリーの中でも最も秀でているとさえ称されるベラルの元で習いたいという者は多い。

 誘いは誇らしいものであったが、ベラルのところへ通うようになってまだひと月も経っていないのである。

 出自など関係ない。ベラルはそうエアリィに言ってくれるが、簡単なものであるはずがない。トレーダーが彼の後継者になれるとは到底思えなかった。

 ロンダサークでのエアリィは異邦人だ。

 オアシスの日常に迷い込んだ異物。

 ベラルの前で露骨に嫌悪する者はいなかったが、周囲の人間が少女を見る目は冷ややかに見えた。

 それは少女がオアシスの民を見る目と同じだ。

 ここは自分のいるべき場所ではない。

 オアシスの歌や歴史を覚えていくにつれて少女は自分がトレーダーで無くなっていくような、妙な感覚に囚われていく。溝が大きくなりトレーダーとの間に隔たりができていくような気がしてくるのである。

 いつファミリーの元に戻れるのか判らない現状の中で募っていく不安と苛立ち。

「あたしはトレーダーなのに……ただ知りたいだけなのに。どうしてなのかな」

 少女は悩みを払うように頭を振ると目を閉じ、昨日教わった歌を口ずさもうとした。

 しかし、その旋律は彼女の耳に飛び込んできた喧騒によって邪魔されてしまう。

 聞きたくなくとも飛び込んでくる罵声の数々に彼女は集中できず怒りがこみ上げてくる。


「ここはおまえのようなゴミが来ていい場所じゃねぇ」

「シチズンだけがここにいてもいいんだよ」

「ゴミがいると水がくさる」

 整備された小道の脇で五~六人の子供たちが一人うずくまる少年を取り囲み罵倒し続けている。

 そればかりではなく足蹴にしている者すらいた。

 少年は抵抗しない。岩のようにうずくまり暴力にひたすら耐えていた。砂嵐が過ぎるのを待ち続けているかのように。

 彼を囲む子供たちもまったく抵抗がないのをいいことにやりたい放題だった。少年からカバンをむしり取ると中身をぶちまけ、破いたり踏みつけたり。

 虐めはさらにエスカレートしていく。

 薄汚れた服やマントを身にまとう少年と白いしみひとつないローブや装飾品、衣服を身に着けた少年少女たち。

 ときおり道通り過ぎる大人も、その虐めがどのようなものなのか見ただけで判ってしまうのだろう、中には少年をあざ笑う者たちすらいた。

 エアリィも初めは彼らの存在を無視したが、止まるところを知らない言葉や力による暴力に、神経が逆なでされていく。

 少女の行動は正義感から出たものはない。

「ヴィレッジだろうが下町だろうが、地根っ子は地根っ子だ」

 ゆっくりと立ち上がったかと思うと、次の瞬間には地を蹴りわずかな物音しか立てずにしなやかな動きで背後から近づき足払いする。

 不意を突かれたひとりは隣にいた二人を巻き込み地面に転がる。

 一瞬のことで何か起きたか判らず狼狽する子供たちだったが、そこに立っていたのが同じくらいの背格好、年頃の少女だと気づくと勢いを取り戻す。

「な、なんだおまえは?」

「じゃまするな」

「やかましいのよ、じゃまなのはあんたたちだ。ここから消えろ、地根っ子ども!」

「な、なに言ってんだおまえ!」

「地根っ子は地根っ子、だって言ってんのよ!」

 エアリィは低く怒りを込めて言い放つ。

「お、おまえには関係ないだろう。それともこいつの仲間か?」

「あんたらがうっとうしいだけよ」

「おれたちは下町のゴミを追い出しているだけだ。じゃまするな」

「そうだそうだ」

 口々に子供たちは声を上げる。

 さらには少女を取り囲もうとする。だがそう簡単に少女は相手を優位にさせない。

 間合いを取り、いつでも次の行動を取れるようにしている。

 相手のほうが人数は多かったが、痩せこけた奴や太って動きの鈍そうな者に遅れをとるつもりはない。

「あんたらのほうがよっぽどゴミだわ」

「おれたちはヴィレッジにかよっているんだ。こんなクズと一緒にするな」

 小奇麗な服やローブを見せびらかせ、ヴィレッジで学んでいることで、自分たちが偉いかのように誇示している。

 大人顔負けの高慢さだった。

 そのことが、さらにエアリィの癇にさわる。

「だからどうだってのよ」くだらないと吐き捨てる。「クズだのゴミだの言っているあんたたちのほうが、よっぽど頭悪そうよ」

「なんだと!」

「おれたちはシチズンだぞ」

「だからどうしたっていうのよ」

 大人の仲間入りをしているようには到底見えない。

 彼らは自分たちの親がいかに偉いかをまくし立てくる。

 エアリィがそのくだらない戯言に呆れていると、一人がエアリィとの間を詰め、羽織っていたマントに掴みかかろうとする。

 その手を勢いよく弾く。

 乾いた音があたりに響いた。

 勝手に倒れ、傷みに泣き叫びのた打ち回る。

「折れてはいないわよ。まったく、ひとりでは砂漠で生きていけないようなやつらがほえるな」

「なんだとぉ!」

 頭に血が上った少年がエアリィにさらに掴みかかろうとするが、その手を難なくかわし足を掛ける。ケンカも知らない子供は勝手にバランスを崩し地面を転がっていった。

 親に言いつけてやるなどとわめき出す始末だった。

 他の者も同調し、数人がかりでエアリィを押さえ込もうと近づいて来る。

「あたしはトレーダーだ! あんたらの親がどれだけ偉いか知らないけどね。トレーダーとやり合おうっていうのなら、かかってきなよ」

 そう言い放つと羽織っていたマントを脱ぎ捨てる。

 エアリィの着ていたトレーダーのジャケットを見て少年たちは怯む。

「それでもいいなら、あたしたちトレーダーがいつだって相手しやるわよ」

 トレーダーの恐ろしさは彼ら少年たちも耳にしている。

 全員殴り倒すつもりで薄ら笑いを浮かべると、少年たちは慌てふためいて逃げ出すのだった。


「ばっかじゃないの」

 少年たちの最後に残していった捨て台詞を聞きつつ、鼻で笑った。

 目には目を、歯には歯を。そう思ったけれど、同レベルでの口喧嘩だと冷静になって気づきエアリィは自己嫌悪に陥りそうになる。

「あ、ありがとう……」

 エアリィの背後から声がする。

 倒れていた少年が体を起こしていた。

「あたしは地根っ子が嫌いなの」

「えっ?」

 射るような冷たい視線、投げつけられた言葉に少年は唖然とする。

「あんたを助けたかったわけじゃない。あたしはあいつらにムカついただけよ!」

 よく見ると少年はあざだらけになっている。

 だが、そんな少年を見てもエアリィは容赦がなかった。

「あんたも、やり返すくらいしなさいよ!」

 少年は弱そうには見えなかった。

 いつもよりもトーンを落とした声が、少年を突き刺すように吐き出されていく。

 それでも彼は黙ったままだった。

 こいつも地根っ子か、そう思って少女は鼻を鳴らす。

 どうでもよくなった少女はマントを拾うとその場を離れようとした。

「エアリィ、何をやっているのかな?」

 振り返るとヴェスターが彼女の元へとやって来た。

 微笑んでいるが、口調は少し厳しかった。

「なんでもないわ」

「はでな物音とあたり中に響く声が聞こえるから来てみれば、君がいるじゃないか」

「あ、あの、それは……」

 無言でいる少女の変わりに少年が答えようとする。

 エアリィの背後にいる少年を見て、ヴェスターはひとり納得する。

「先に君のところに来れてよかったよ」

 彼が指差すと学舎の中から真っ白なローブを羽織った大人が二人やって来るのが見えた。

 ヴェスターはここで待っているように言うと、彼らの方へと向かっていった。

「こそくなやつら」あの子供たちの差し金だろう。

「……大丈夫かな……」

 ヴェスターが役人とどう話をつけたのかは判らない。それでも十分とかからなかっただろう。ヴェスターは何事もなかったかのように戻ってきた。

 その間もエアリィは少年を無視し続ける。

「さてさて、そちらは大丈夫かい?」

 挑みかかる様な視線を向けている少女に呆れつつ、ヴェスターは放置されている少年に話しかける。

 少年は周囲に投げ出されていたものを拾い集めている。

 足を挫いているのだろう、少年は痛みに顔をしかめバランスを何度も崩す。

 倒れてきた箒の柄でも押さえるようにエアリィは少年の腕を掴む。

「こんなになるまで、なんで殴り返さないのよ」

「まあまあ」

 きつい言葉を投げつけるエアリィを制する。

「私はヴェスター・ヴィクス。君の名前は?」

「えっ、あっ、すいません。ソール・バナザードです」

「ソール君か」ヴェスターはしげしげと少年を見つめると小さく頷き微笑んだ。「なるほどね。こちらの子は」

「エアリィよ」ぶっきら棒に言う。

 挨拶するような態度ではなかったが、ヴェスターは笑みを浮かべ少女を見ていた。

「おやおや」彼は面白がっているようでもあった。「見ての通り、我々はトレーダーだ」

 ヴェスターはソールの代わりに散らばったノートの類を拾い集めると彼に手渡す。

「ソール君は自力で歩けそうにもないかな?」少年の足首に触れ怪我の具合を診てみる。「骨は折れていないようだが」

「だ、大丈夫です。歩けます。一人で帰れます」

 少年は何度も謝り、自力で歩こうとするのだが、その度にふらつきバランスを崩すのでしまいにはエアリィは力ずくでソールを押さえつけた。

 見つめてくるヴェスターの表情に、少女は眉をひそめる。

 嫌な予感がした。

「エアリィ」

「なに?」

「ソール君を送っていってあげなさい」

 その言葉に、なぜと、聞き返してしまう。

「ここでこのまま放置していくことなどできないだろう? 彼は怪我をしている。最後まで面倒を見ないとね」

 議論の余地はなかった。それは有無を言わせぬ笑顔だ。

 諦めソールに肩を貸すと、少女は歩き始めるのだった。



 2.



 学舎のある大きな広場を抜け、水路にかかる橋を渡ると二人は旧区の門をくぐる。

 下町へと戻ってきた。

 日差しが容赦なく照りつけ、石畳の向こう側には陽炎がゆらめく。農区を抜け通りに出ると人の姿はほとんどない。

 灼熱の太陽が過ぎ去るのを待っているのだろう。

 地区と地区を隔てる門を通り抜けるたびに道は細くなり入り組んでくる。ソールの案内で彼の住むという五十一区を目指す。

 エアリィは口を閉ざし、黙々と歩いていた。

 何度か話しかけようとして、その度に少女に睨まれ口を濁してしまう。彼は話し好きというわけではなかったが、それでもこの沈黙は拷問のようなものだった。

 その度にソールはひとりで歩こうとしたが、少女はそれも許さない。

 日陰で何度か休憩を挟むので、歩みはどうしても遅くなる。

 少女は頑なに前だけを見ているかのようだった。

 どれくらい時間が経ったのだろう少女は不意にため息を漏らす。ソールは体をこわばらせ身構えてしまう。

「ヴィレッジって下町の人間でも行けたのね」

 かつては広く門徒を受け入れていたという話も聞くが、今では世襲制に近く地位と名誉のためだけに旧区の住人がそこに巣食っているだけだ。本来のあるべき姿を理解する者など存在しない。

「あそこにいるのは旧区の連中だけかと思っていたわ」

「ぼくは……五家の推薦があったから」

「推薦ね。あんたが下町の人間だから無抵抗だったの?」

 ロンダサークは平等を謳っているが、それでも差別は存在しているという。

 地区という壁が隔たりをもたらしているらしい。

「僕は頑張らなければいけないんだ……」

 ようやく聞こえた声は消え入りそうなものだった。

「どうしてよ?」

「姉さんのためにも」

 もっと楽をさせてあげたいという切なる願い。

「ヴィレッジに入れるように尽力してくれたベラル師のためにも」

「師が? そうか……あんたがベラル師の言っていた優秀な弟子だったわけだ」

 後継者の一人とされていた。

 ヴィレッジで学ぶよりもベラルの弟子である方が有意義なはずなのに。

「頑張らなければいけないんだ」呪縛のように繰り返される言葉だった。「下町から抜け出さなければ、ずっとこのままだから」

「それであんたは楽しい? 誰が幸せになれるの?」

 あのままの状態が続いていけば、ケガだけではすまないかもしれない。

 過去の栄光に縋りついているだけの今のヴィレッジでは先が見えていた。

 それが判らない訳ではなさそうだ。少女の問いかけにソールは言葉を返すことが出来ずにいる。

「まあいいわ」

 理解できない理由があるのだろう。少女は吐息を漏らす。

 再び沈黙が訪れる。


 下町は混沌としている。外周へ行くにつれ道は入り組みはじめ、無秩序に家々が立ち並んでいく。

 年輪のように外側へと拡大していったロンダサークは、貧富の差も外郭に行くにしたがって広がっていくのである。ひとつ、またひとつ門を抜けるたびに、それは目に見えて判るのだった。

 時代とともに技術が衰退していったためだともいわれている。

 ソールの住む地区は西の外れにあり、最下層区、流刑地とも呼ばれていた。

 補修する余力すらないのだろうか、風や嵐にさらされ続けた壁の上部は崩れているところもある。長屋のような家が雑然と建ち並ぶ。レンガならまだマシな方で、泥で作られている家壁ものもあった。

 長屋は広いところでも部屋が二間と台所くらいしかない。

 また水の事情も外周部へ進むにしたがって悪くなっていくのであった。

 もともとロンダサークは旧区と農区、一区を想定して作られたオアシスである。ガリアでももっとも豊富な水資源を誇るロンダサークであっても想定された面積の十倍以上もの広さをカバーするのには無理がある。当初の優れた技術があれば一区や農区のような整備された水路を築くことも可能であったのかもしれないが、ヴィレッジがその本来の輝きを失い続けたため、新たに拡張された地区の姿は一変していく。

 水は共同の井戸に蓄えられ一日一度の給水のみになっている地区すらあった。

 その水でさえ旧区のような透き通ったものでなく砂がまじり、濁っていたりするのである。

 五十一区に近づくにつれ少年の足どりは重くなる。ケガの事を気にしているのだろう。

 巨大な太陽は西に傾き夕暮れがしばらくすればやって来る。

 家の中にこもっていた人々が再び活動を始める時間でもあった。

 人もまばらだった通りに住人たちが姿を現し、徐々に下町は活気を取り戻し始める。

「お帰り。今日はどうしたんだい?」

 五十一区に入ると、住人たちが声を掛けてくる。

「友達かい?」

 気軽に話しかけてくるが、返答に困る。

 ジロジロと見られたりするよりはマシだったが、それでも居心地が悪い。

「嬢ちゃんがソールを助けてくれたのかい」

 そう言って老婆は少女の手を取ると、力強く握り締めた。乾いたごつごつした手だった。女性はありがとうと言うと、手に持っていたイクークを包みごと渡してくる。

 誰もが人懐っこすぎた。

「あんたの家族?」

「地区のみんなは顔見知りだから」

 誰もが顔なじみであるという。

 この地区の人々にとってヴィレッジに通うソールは誇りであるのかもしれない。

「ファミリーみたいなものか」

「そうかな……」

 ソールにとっては当たり前のことだった。ヴィレッジのような社会のほうが異質でよそよそしい。

 エアリィも見ず知らずの人から声をかけられたり、挨拶されたりする。気恥ずかしさも手伝ってかソールを引きずるように引っ張っていくのだった。


「弟のこと、本当にありがとう」

 少女がトレーダーだと知ってもなお、優しく抱きしめてくれる。

 ソールの姉、シェラ・バナザードは不思議な女性だった。

 立ち姿は清楚で儚げにも見えたが、彼女はトレーダーの女性にも劣らないくらいパワフルだ。

 怪我をした弟を見ても慌てず騒がず、手当てをしたかと思うとベッドに押し込むのである。その手際のよさは神業であった。

「変わった姉でしょう?」

 呆然とする少女に彼は話しかける。自慢の姉だと言う。

「綺麗な人ね」

 長い艶やかな髪と整った顔立ちが目を惹く。さらに押しの強さも商人顔負けだった。

 ソールを送り届けたあと、少女は早々に立ち去るつもりでいた。それなのに引き留められた。シェラは是が非にでもお礼がしたいと感謝の言葉とともに抱きついてくるのである。エアリィが承諾するまで離してはくれなかった。線の細い体のどこにそんなパワーがあるのだろうと思えるくらい力があった。

「足の具合はどうなの?」

「姉さんが診てくれたからね。明日の朝には歩けると思う」

「本当に?」

「彼女は療法士なの?」

「違うけど姉さんはすごいよ。何でもできるし、知っている」

 得意は織物だという。窓や入口の布に施された刺繍は見事な出来栄えだった。

 嬉しそうに話すソールの表情からも誇れる姉なのだと判る。

「どこかで教わったのかしら?」

「そんな時間はなかったと思う」

 ソールの両親は早くに亡くなっている。幼かったソールを育てるためにシェラは小さい頃から懸命に働いてきたというのである。

「そういうことなのね。でも心配かけるだけのようにしか見えないけれど」

 ソールは俯くだけだった。

 日は落ち、砂漠を渡る風が冷気を運び始める。

 イクークの油を使った炎に浮かぶ少女の姿はどこか所在なさげだった。

 残ったことへの不安と後悔。

 罰を受けキャラバンを降ろされ、ひとり見知らぬ土地に置き去りにされてしまった今。儀式では深い森を一人さ迷ったあの夜と同じ孤独と恐怖。様々な感情がない交ぜになっていく。

 強気な表情は影を潜めている。

 足元には色あせ擦り切れかけた絨毯があり、家具と呼べるものはほとんどない。窓や入口にも冷気を防ぐための厚手の布が玄関と窓のところに掛けられているだけだった。

 狭いキッチンからは夕食の準備の音が、シェラの歌声とともに流れてくる。

 聞き惚れてしまうほどの歌だった。

「もったいないわね」

「そうだね。姉さんだったら名の知れた歌い手や語り部にもなれるよ」

「今からでも遅くはないと思うけれど?」

 ベラル師だって認めてくれるはずだ。

「ぼくらは五十一区だからね」

「それがどうしたの? わかるように話してくれないかな」

「君のぼくに対する態度もそうなのかと思ったから、知っているとばかり」

「オアシスのことを気にするトレーダーはいないわ。それにあたしはロンダサークに来たばかりなのよ」

「宙港にいるの?」

「トレーダー地区よ。それで?」

「ぼくらは流刑者の子孫なんだ」

 犯罪者もいたが、そのほとんどはヴィレッジでの抗争に敗れた者たちが罪を着せられ送り込まれていたという。

 当初は宙港やトレーダー地区と同じでロンダサークとは離れた位置に建てられていたが、外壁の拡張にともないロンダサークの一部として吸収されていったのである。

「何百年も前の話で、今はちがうのでしょう?」

「そうだけど、過去のイメージはぬぐえなくて、今も五十一区だと知られるとね……」

 差別だけでなく迫害すらされるというのである。

「数百年も前のことをいまだに言われ続けているというわけね」

 少女は鼻を鳴らす。

 だがそれは少女自身にも跳ね返ってくる言葉でもあった。

「姉さんも仕事場から追い出されたことがあったらしい」

「雇主も見る目がないわね。弟子だったのならベラル師に頼めばよかったと思うけど?」

「何があったか判らないけれど、姉さんは頼ろうとはしなかったみたいだ。ぼくが師のところに通うことになっていたくらいだし」

「それが今はヴィレッジに通っていると」少女はソールを見つめる。「あんた、友達はヴィレッジにいるの? そう。ならかまわないわね。ソール・バナザード。今後あのような場面に出くわしたのなら、あたしの名前を出しなさい」

「君の?」

「そう。あたしエアリィ・エルラドがついているとね」

「な、なんで?」

「これ以上いじめられないためよ。うしろにトレーダーがいると知れば近づいてこないでしょう」

 もっとも誰も近づいてこなくなるかも知れないが、と少女は付け加えた。

「そ、そんな、どうして?」

「あんたのプライドなんてどうでもいいわ。姉を悲しませたくないならそうしなさい。次にあんたの身体にアザやケガを見つけたら、あたしがヴィレッジにのりこんでやるわ」

 ふんぞり返った豚のような連中には負けないとエアリィは豪語する。

 その迫力に気圧されてかソールは頷くことしか出来なかった。



 3.



 シェラが少女の前に出してきた料理はどれも見たことがないものばかりだった。

 質素といえば聞こえがいいが、見栄えの良いものではなかった。

 少女はいかに恵まれているのかを思い知らされる。

 それでも大皿に盛られたイクーク切り身と野菜と和え物は酸味が強かったが美味しい。切り身はジャガイモや玉ねぎと一緒に炒められていた。発酵させて作ったというスープもある。

「あり合わせのもので、ごめんなさいね」

「姉さんの料理はおいしいから大丈夫だよ」

 確かにスパイスの効いた香りに食欲がそそられる。

 ベラルの館でも似たような料理は出されたことがあり、味も問題はないはずである。

 そして差し出された水。

 貴重な水なのは判っているが……。

「何か苦手な物があったかしら?」

「……」

 濁ったように見える水はとても衛生的には見えない。

 古く腐った水でキャラバンが機能しなくなったという話だってある。

 ウォーカーキャリアに常備されているろ過機がオアシスにあるはずもなかった。

 招かれた席で出されたものを口にしないことは失礼にあたると少女は理解している。

 意を決しエアリィはカップの水を飲む。

 少し冷たい感じが口の中に広がり、考えていたような妙な舌ざわりも味もしなかった。

「えっ、おいしい……」この感覚は……。

「よかったわ」

 シェラは喜ぶ。

「で、でも、これ」

「彼がキャラバンで使われている機械を使って井戸の水をろ過してくれているの。水が美味しいと改めて知ったわ」

「本当にろ過機を使っているの?」

 ソールも頷く。

「キャラバンで使っている機械のように真水にはまだ出来ないらしいのだけれど、でもこれくらいなら、私は気にならないわ」

「いったいだれがそれを……」

 言いかけて、すごく嫌な予感がした。

 シェラが口を開きかけた時、振動とともに派手な爆発音がする。

 壁にひびが入り天井から何かが降ってくる。

 エアリィの反応は早かった。

「外へ出て!」

 素早く立ち上がると、シェラの手を取りソールに肩を貸すと急いで家の外へ出る。


 まさに爆発現場は彼らがいた長屋と細い路地を挟んだ隣だった。

 黒煙が窓からとめどなく溢れてくる。異臭さえした。

「クロッセ!」

 シェラの悲鳴にも似た叫びに少女は顔をしかめしまう。

「もしかしてお隣さん。クロッセ・アルゾンなの?」

「彼を知っているの?」

「いやというほど」どこへ行っても彼の名は付いてくると思ってしまうほどだった。「ここに住んでいるなんて」

 爆発音と黒煙に人が集まり始めている。

 小さな爆発音が何度も聞こえ、布のカーテンに火がついた。乾燥しきっているので火の回りが速い。

 消火用の砂を持って来いと誰かが叫んでいる。

「クロッセぇ! いるのぉお!」

「お昼ごろ、物音がしていたからいるとは思うのだけど……」

 シェラが不安げに煙の向こう側を見つめる。

 声を張り上げて呼びかけても反応はなかった。

「本当にいるの? それとも、もう」

「そんな……」

 シェラは動揺する。

 小さな破裂音が何度か響いてくる。

 外壁の上では砂をくみ上げるための機械が準備されホースが下ろされていく。延焼だけは避けなければならなかった。

 ハンマーなどを手にした自警団らしい大人たちがやって来る。

 砂をまくには家の壁や屋根を崩さなければならない。

 だが中にはクロッセがいて、まだ生きているかもしれないのだ。

「まったく、今度はなにをやったっていうのよ!」

 問題は微かな異臭とわき上がってくる黒煙だった。有毒である可能性が高い。

 助けに中に入ろうとしても、誰もが躊躇していた。

 黒煙を見てエアリィも足が震えた。物心ついた頃に見たキャラバンでの事故、巨大なウォーカーキャリアが内部から燃え上がり多くの命を失った。

 流れ行く砂塵の中に立つ墓標、優しかった手は今ないことを知ったあの日……。何も出来ずにいた小さな自分。

 後悔はしたくなかった。

 歯を食いしばり黒煙の先を見つめ、拳を握り締めた。

「あたしが行くわ」

 止めようとするシェラや大人たち。

「あたしはトレーダーよ! こんな煙くらいどうってことないわ」

 自らを鼓舞するようにジャケットの内側から砂塵よけのマスクとゴーグルを取り出すと、グローブとともに身に着けていく。

 フードで頭を覆うと、気合を入れ深呼吸しようとした時、頭の上から思いっきり水を掛けられる。

「これで少し火には耐性が」

「大切な水を」

「クロッセの命がかかっているのですもの、安いくらいよ」

 シェラは亀にためていた水を惜しげもなくエアリィにかける。

 集まってきた長屋の人々もその行為に呼応し、人々は慌しく動き始める。

「ありがとう」シェラと水の聖霊に感謝する。

 トレーダー式の合図で、少女は任せてと笑った。


 水を滴らせながらエアリィは煙の中に飛び込んだ。

 家の中は煙が充満し、先はほとんど見えなかった。足元で何かが砕ける音がする。

 少女は胸ポケットからペンシル状の蛍光ライトを取り出す。

 先を折ると緑色がかかった強い光を発する。

 屈むと足元が見える。ガラス製の容器を踏みつけたようだ。

 煙は幸い軽いのだろう、足首辺りまではハッキリ見えた。息も出来る。

 実験用の器具や本などが散乱し動きづらかったが、這うように石床を進んでいく。クロッセの部屋は長屋の壁をひとつ壊して他よりも広くして使っていた。机や見たことない家具が並び見通しが悪い。

 何かが破裂する音がする。

 歯を食いしばる。何も起きないのを確認すると、再び前進を始める。

 奥の部屋が実験をするところであることは聞いていた。

 黒煙の濃さが増してきた。やはり何かが起きたのは奥の実験室だった。

「クロッセ、いるの!」

 反応はない。

 五分? 十分? どれくらい時間がたっただろう。

 不安と苛立ち。

「返事くらいしなさいよ」

 悪態をつきながら進むと机の影から彼の手らしきものが見えた。

 立ち上がると息を止め駆け寄る。

 腹ばいになり顔を向こうに向けに倒れているクロッセがいた。

 わき腹のあたりが動いている。生きている。

 エアリィは外へと彼が無事なことを大声で伝えるのだった。

 何かが崩れる音がして再び小さな炸裂音がした。少女は深く息をしてクロッセを引きずるように外へと脱出を始めようとする。

 痩せこけているとはいえさすがに大人を運ぶのは難しい。

 その時、近くの壁が崩れる。

 とっさにクロッセをかばうようにすると、黒煙が外へと流れて行き、エアリィとクロッセを呼ぶ声がする。

 二人を救出するためにまず壁に穴があけられたのだ。

 飛び込んできた大人たちに手伝ってもらいクロッセを外へと運び出す。

 彼らが外へ出ると大掛かりな消火作業が始まった


 壁や屋根が崩され、そこからリレーで運び込まれた砂が撒かれていった。

 多くの人がそれに携わっていた。

 狭い路地が続く下町では重機が入り込むことが出来ない。そのため、火災や風災が起きた際、多くの人が協力しあい消火や救済にあたるのだった。

 その様子をエアリィは座り込みながら見つめていた。

 クロッセはシェラが様子を見ている。

「大丈夫、寝ているだけのようだわ」

「寝ている……」

 徹夜で実験を続け倒れるように寝てしまっていることはよくあることらしい。

 床に倒れ込むように寝ていたため実験台の陰になり爆発にもさらされなかったようだ。

「……はた迷惑なやつ……」

「本当にね」あふれる涙をぬぐおうとせずシェラは同意した。「ありがとうエアリィ。クロッセを助けてくれて」

「後悔したくなかっただけよ」ポツリと少女は小声で答えた。「何もできないあたしがいやなだけ……」

 思考は麻痺していた。やり遂げたという達成感も喜びも、今はまだない。

「そんなことはないわ。あなたは一人でやり遂げた。英雄よ」

 シェラは少女を抱き寄せ、落ち着かせようと背中を軽く叩く。彼女の肩にエアリィは頭を預ける。

「あたしが英雄なわけがない……」

 彼女たちの周りに人々が集まり始めた。

 なにが起きたのだろうか? エアリィは身構える。

「確かに小さな英雄さんだ」

「な、なに?」

「あんたが先生を助けてくれたんかい?」

「えっ、ええ」

 少女を伺うように覗き込んでいた中年男がその答えに破顔する。

「そうかそうか、はた迷惑な人だが、うちらの大切な先生だ。助けてくれてありがとうな」

 中年の男はがっしりとした手でエアリィの手を握り締め、深く感謝するのだった。

 それを皮切りに人々は少女の手をとり握手をするか、頭を撫でていく。

「よく頑張ったな」

「小さいのに、大人にも出来ないことをやってのけたんだ」

 口々に褒め称える下町の人々。誰もが少女を温かく迎え入れる。

 戸惑う少女にシェラは頬に手を当てると「あなたはそれだけのことをやったのよ。誇ってもいいのよ」

「だけど……あたしは……」

「そんなことは関係ないわ。一人の人間として誇れることをやったのよ」

 頷き微笑むシェラを見た瞬間、何かがはじけた。

 その温もりが頑なだった少女の心の壁を溶かしたのかもしれない。

 エアリィの視界はぼやけていく。

 自分が泣いていることに気付くのにしばらくかかった。

「怖かったんだな」

「無理もない」

 周囲の大人たちは嗚咽を漏らしすすり泣く少女の姿に、今になって恐怖が襲ってきたのだと思い込み、頷き合う。

 違う、違うの。エアリィは声にならない声を上げて泣いていた。

 欲しかった言葉と温もりをくれる人がいる。

「大丈夫、あなたはここにもいていいのよ。私達は家族なのだから」

 ひと目見たときからシェラは少女の心の内を理解していたのかもしれない。

 少女を抱きしめ優しく包み込む。

 欲しかったものを求めるかのように少女は強く温もりを求め、大声で泣きじゃくる。凍てついたものを吐き出すかのように。

 シェラは全てを受け止め少女を癒してくれた。

 その姿を誰もが温かく見守るのだった。



 4.



 ここはどこだろう?

 徐々に目覚めていく意識の中、目に映るものが見知らぬ壁や天井であることに気付く。

「夢じゃなかった……」

 ベッドからゆっくりと体を起こす。

「おはようエアリィ」

 静かに起きだしたつもりだったが、壁の向こう側にあるキッチンにいたはずのシェラには気付かれてしまったようだ。

 昨晩のことを思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしい。

「お、おはよう」

「よく眠れたかしら?」

 キッチンから顔を出したシェラは優しく微笑みかけてくれる。

「ソールは?」

「あの子は今、漁に行っているわ」アルバイトだという。

「漁って、足は?」

「普通に歩いていたから大丈夫よ」

「信じられない」本当に一日で回復したということはどの療法士よりも凄いことだ。

 底が知れないシェラの魅力にますます惹かれていくのが判る。

 外を見れば、もう日が昇っている。夜明け前に起きられなかったのはいつ以来だろうか?

「もう少ししたら新鮮なイクークが届くから待っていてね」

 初めはどう受け答えしていいのか判らなかったけれど、シェラの笑顔を見ているうちに、ありのままの自分でいいような気がしてくる。

「どうしたの?」

「な、なんでもない」そう、なんでもない。

「じゃあクロッセを呼んできてもらってもいいかしら?」

 強く頷いて笑い返す。

 シェラから返ってくる何気ない笑顔がなぜか嬉しかった。

 外へ出ると熱気が戻り始めていた。

 いつ自分が寝てしまっていたのかも憶えていない。

 消火を終え、現場の片付けなどが済んだあとが大変だった。

 エアリィたちが食事の途中であったことを知ると、近所の長屋の人々が料理を持ち寄ってくる。あとは小さな広場で宴会だった。

 エアリィを囲み新たな住民を祝うものだと言っていた。

 自分はトレーダーだ。住んでいる地区も違うと抗議したが、ロンダサークに住んでいれば同じだと笑い飛ばされてしまう。五十一区全ての住人が集まっていたのではないかと思われる。入れ替わり立ち代り戸惑う少女に声を掛けたり抱きしめてくれたりした。

 長老が少女を新しい家族であると宣言すると、夜空を震わすほどの歓声が沸き起こる。

 熱に浮かされたような不思議な時間だった。

 いつの間にか少女も人々の手拍子に合わせ、トレーダーの歌を披露していたのであるから。

 思い出すたびにエアリィは気恥ずかしさとともに笑みがこぼれ落ちてくる。

 向かいの家の前で洗い物をしていた老女が挨拶してくれる。道行く人が少女の名を呼び、声を掛けてくれた。

 足どりが軽い。崩れた入り口から奥に向かってクロッセを呼ぶと、欠伸をしながら彼はくたびれた姿で現れる。

 彼もまた大変だった。

 意識が戻ると、シェラは再び気絶するのではないかと思えるくらい力いっぱい彼の頬を張り飛ばした。誰もが呆然としている中、次の瞬間にはクロッセの胸に飛び込み泣き出したのである。

 その成り行きに誰もが毒気を抜かれてしまった。

「やあ。おはようエアリィ」

「あれからずっと起きていたの?」

 見ると目は真っ赤だった。

「機械が砂まみれになってしまったからね。最初からじゃないが、やり直しだ」

「自業自得よ」

「本当に」彼は苦笑する。「みんなには迷惑かけているよ」

「わかっているのなら、もう少し注意することね」

「気をつけるよ」彼は笑いかけてくる。「次は、もっといいものを造ってみせるさ」

 新しいろ過機を造っていて、その途中で力尽きてしまったと彼は言う。実験途中で放置されていた薬品が加熱されてしまい爆発が起きたようだと、彼は部屋の被害状況から分析するのだった。

 はた迷惑な存在だったが、下町のためになる物を作り、機器や重機の修理などにも尽力している。だからこそ多くの住人に慕われているのだろう。

「もうすぐ朝食が出来るって、シェラが」

「そうか」少女の楽しそうな様子を見て、クロッセは、おやっと思った。

 こんな無邪気な笑顔を初めて見る。

「なあエアリィ、ここは楽しいし、面白いだろう?」

「あなたほどじゃないけれどね」

「それは酷いな」

 彼は少女の様子を面白がっているようにも見える。

 五家からの依頼でたまたま訪れたこの地区の人々と触れ合ったクロッセは、のちにヴィレッジを抜けた時、ここ五十一区に居をかまえジャンクを営むことを決めたという。

「クロッセはどうしてここにいるの?」

「唐突だね」

「あなたはヴィレッジだったのよね。それなのにどうして?」

「君の聞きたい答えなのかは判らないけれど」クロッセはそう前置きする。「ここは僕を温かく迎えてくれた。身分なんて関係なく一人の人間として。この地区の歴史を考えたらもっと閉鎖的で用心深くてもおかしくないはずなのにね。凄いことだと思わないかい?」

「あたしには無理」

「そうだろうか? まあ僕にだって、いまだ偏見はあるし、染み付いてしまった感情はそう簡単に拭い去れるものじゃないけれど。自分は場違いだとか、他とは違うと意固地になってしまっていると、いつまで経っても周りのことは見えてこない。孤独なままになってしまう。何かを知ろうとするのなら、付き合っていくのならプライドなんていらないし余計なものなんだよ」

 クロッセは最後には自分の言葉に照れたように笑いながら言うのだった。

「そうかもしれない」

 そうでなければベラルに教えを乞うこともなかったし、ここに来ることもなかっただろう。

「一人じゃない。ここは僕や君だけで世界が回っている訳ではないからね」

「ここにはシェラもいるしね」

「おいおい」顔を真っ赤にするクロッセ。「からかうなよ」

「あたしはどうなのだろう?」

「今、エアリィはここにいる。その事実は変わらない。例え君がいつかロンダサークから旅立とうともね。トレーダーもヴィレッジも呼び方であって元を正せば同じであり意味はない。誰だって知らない相手がいれば手探りになるし、どんな人間か用心深く観察してしまったりする。例えばだけれど、自分の生活の中に異物が突然入り込んで来たらどうする?」

「排除するかな」

「そうする時もあるよね。異質なものは受け入れづらい。でもそれは異物だと思われている方も同じなんじゃないかな? 君の生活の中に入り込んでいった僕が異質な者だったように、僕の視点から見ればエアリィの方が、異質なものになるからさ」

「あっ……」その言葉に気付かされるものがある。

「僕は自分の生まれた側から教えられた偏見に満ちたオアシスやトレーダーしか知らなかった。先入観だけでしか下町の暮らしを見ていなかった。自分の暮らしが普通で、下町には落ちこぼれた者たちが住むところなんだと思い込んでいた。恥ずかしいことではあるけれど、君もそうだったんじゃないかな?」

「……あたしは嫌いだった」少女はたまっていたものを吐き出すかのように告白する。「こんなに広い世界があるのに、ちっぽけな場所に必死にしがみついている連中が。あたし達がいなければ生きていけないくせに、自分達が一番偉いとふんぞり返っているやつらが」

「でも、それは君が実際に体験したことから来ているのかな?」

「ちがう」それは周囲から教え込まれたものでしかなかった。誰もがそう言っているから、そうだと思い込んでいただけにしかすぎない。

「根本的に好きになれない奴はいるよ」

「クロッセも?」

「いたいた」それは相手から見た自分の姿でもあったかもしれない。「でも、そうじゃない人もたくさんいるだろう? 僕はそれまでトレーダーが怖かったな」

「なんでよ!」

「小さい頃から人の話も聞いてくれない荒くれどもだって教えられてきたからね。君たちのいう地根っ子と同じようなものさ。でもそうじゃなかった。人として付き合ってみると、やっぱり怖い人もいたけれど、それ以上に楽しかったし面白かった」

「面白いって……」

「それだけじゃないよ」慌ててクロッセは付け足した。「だからかな風評や噂話を聞くよりも、自分で体験してみないと判らないものだってね」

「……」

 少女は彼の言葉が正しいと理解できても素直には頷けなかった。そうすることで何かを失いそうで怖かった。

「クロッセは、よくヴィレッジをぬけることができたわね」

「そう簡単なことじゃなかったよ。無くしたものも多かったけれど、得たものもたくさんある。だからここにいられる。ここに住む人たちは、生まれや育ちは違えども同じ人間なんだって思えるんだ」

「地根っ子もヴィレッジも同じだって言うの?」

「元を正せばね。優れているとか、劣っているとかなんて、決め付けられないんだよ」

「優劣はあるわ……」

「誰にも決められない。もし決め付けてしまったら偏見だけを口にする者達と同じになってしまう」

 昨日の光景、ヴィレッジの子供たちの姿を思い浮かべる……。

「不服かな? だけど僕はここへ来てそのことを知ったんだ。まあ、先入観はなかなか払拭できることではなかったけれどね」

 自嘲気味にクロッセは笑った。

「今も?」

「どうだろうね。自分から門は閉じたくないし、閉鎖的な人間にはなりたくない。僕は君たちのように広い世界を見ることは出来ないけれど、旧区も下町も関係ないそんな生き方が出来るようになりたいんだ。それがまあ、うまくやれているかどうかは判らないけれどね」

「そうねぇ。はた迷惑なところをのぞけば、それなりじゃない?」

「ありがとう」

「ほめてないよ」

「判っている」

「そっか……。いいわね」

「エアリィにもやれるさ。オアシスには素晴らしい先生がいる。教えられることばかりさ」

「どうだろう? それにそんな簡単に言っていいの?」

「その気持ちがあればできるよ。知りたいと思えばどこへだって行ける。知ってもらいたいと努力すれば、きっと自分の殻も破れるし、相手の壁すらも乗り越えられるさ」

 少女は凝り固まった大人たちとは違う。柔軟な思考さえあれば可能性はいくらでもあるはずなのである。

「でも、どうしたらいいかわからないじゃない?」偏見だけでオアシスを見ていた自分には戻りたくないけれど。「クロッセはどうしたの?」

「郷に入れば郷に従えって感じだったかな。上からの目線で人を見たり、それまでの暮らしとここの人たちを比べてみたり、過去を自慢したりすることは止めた。対等に付き合って行こうとした」

「対等か……」

「だけど、この年齢になると、それまで染み付いたものがなかなか抜けてくれなくて、気が付くと相手を不愉快にさせたりしているんじゃないかと思ってしまう。その度に自分が恥ずかしくなる。僕もまだあいつらと同じだ。ここにとけ込めていないってね」

 苦笑いするクロッセを少女はうらやましげに見ていた。

 そんな二人に声を掛けてくる人がいた。

「でもあなたはそれを忘れないでいてくれるわ」

「シェラ!」

「いつからそこに?」

「なかなか戻ってこないので迎えに来てみたら、二人が楽しそうにお話をしているが見えたの」

「仲良く楽しそうになのかな?」

「そう見えたのかな?」

 クロッセとエアリィは囁きあう。

「あなたは皆とともに歩んでくれている。ここの暮らしを大切にしてくれる。だから私達は共にいられるのよ」

「そ、そうかな……」

「ええ、私の言葉を忘れないでいてくれた」まだまだ危なっかしいけれど。「一生懸命考えてくれて頑張ってくれているわ。だからかな、異邦の者同士であっても、ともに手を取り合える。そんな日が来ると思えてしまう。きっと」

 彼女の微笑に、顔を真っ赤にしながらクロッセはバタバタと手を振るだけだった。

 二人の姿がまぶしく見えた。

「だけど、あたしは……」

 聴こえないように囁いたつもりだった。

 それなのにシェラの手が頬に触れる。

「大丈夫、あなたにその気持ちがあるのなら、その心を忘れないでいてくれるのなら、ここもエアリィの居場所なのよ」

 その瞳は、答えがきっと見つかる。そう微笑んでくれているかのようだ。

「う、うん」

 今はその気持ちが嬉しかった。

 ここは少女の居続ける世界ではないのかもしれない。

 それでも彼女が過ごすこととなる場所でもあった。異邦人であるエアリィを、初めて温かく迎え入れてくれた人々がいる。

 誰もが己の道を歩んでいく。

 その軌跡の中で人々と交わり、様々な知識と経験、出会いをもたらしてくれた大切な場所となるのである。

 今ここにいる少女は、ロンダサークにいることを実感し、ここにいてもいいのだと漠然と感じているだけだったが。

 その心は、この地に降り立ったときよりも軽やかになっている。

 クロッセに肩を叩かれ、その先を見ると、狭い路地の向こうからソールがやって来る。

 その向こう外壁の向こう側から巨大な太陽の揺らめきが見え始めていた。

 いつもと同じはずなのに、何かが違う。そんな朝になる。

「ソール、遅いぞ! 早く、早く!」

 嬉しくなって、あたりに響き渡るくらい大きな声でエアリィは少年の名を呼ぶ。

 それがいかに大切なことか、少女がその変化に気付くのはまだ先の話だった。

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