第4話 風の行きつく先へ
1.
ガリア。
極熱な太陽が天と地を焦がす。
砂塵が舞い、陽炎揺らめく砂の海が果てしなく続く。
どこまでも乾ききった空は、砂の雲に覆いつくされる。
過酷なる大地。
人はそれでもなおこの地に生きる。
2.
「マーサさん、エアリィはどうしたんだい?」
食堂に姿を見せた館の主は女中頭に訊ねた。
ランプの灯りにともされた部屋には朝食の準備を進めている使用人たちしかいない。普段であればヴェスターよりも早く起きだして食卓についているはずの少女の姿が今朝はみえなかった。
「お嬢様でしたら、昨晩遅くにお出かけになられていますよ」
「おや、いつの間に?」気がつかなかったな。
「先日、お出掛けになるとおっしゃっていたではありませんか。お忘れになられたのですか?」
「そうか……そんな話をしていたような気がするな」
「エアリィ様がいらっしゃらなくて、寂しいですか、ヴェスター様?」
館を切り盛りする女中頭は、物憂げな表情を浮かべた主人を見て少しからかうように微笑んだ。
「うむ……」
そんな顔をしていたかと彼はマーサを見る。
「……寂しいかもしれないな」
「わたくしもそうですよ。館の灯が消えたようです。本当に明るくなられましたね」
そこにいるべき者がいない寂しさは彼女も同じだった。
「そうだな」笑みを浮かべる。「だが、良い傾向ではあるな」
少女がキャラバンを降ろされ、ヴェスターのもとにやって来たときの姿が思い出される。
俯き打ちひしがれ、その瞳は何かに脅えてさえいた。
少女は絶えず周囲を気にし、自分の殻に閉じこもってしまう。頑なに周囲を拒絶しようとさえしていたのである。
「旦那様は、エアリィ様のことを本当に気にかけていらっしゃいましたからね」
「だいぶ嫌がられたがな」
「そんなことは……」
トレーダーはウォーカーキャリアとともに砂漠を渡り、オアシスとの交易を生業とする。彼らは生まれた時から死ぬまで砂漠と共にある。
生きてなおキャラバンを去らねばならないということは、彼らにとって死に等しいことだった。
ヴェスター自身トレーダーであったがケガがもとでキャラバンでの生活が困難になり、ウォーカーキャリアから降りることになった。今でこそエルラド・ファミリーの拠点のひとつであるロンダサークに根をおろしトレーダーとロンダサークとの仲立ちをしているが、抜け殻のような生活をしていた頃があった。
それ故に少女の気持ちが痛いほど判るのである。
「その甲斐があったかな」
「そうですとも。わたくし達使用人にも気軽に話しかけてくれるようになったのですよ」
「本来はそういう子なのだよ」
ここに少女を縛り付けるものはない。
見知らぬ地で孤独ではあるかもしれないが、しがらみのない今だからこそ彼女には自由に生きて欲しかったのである。
「はい。よく判りますよ」
「あの子が見聞を広げるのには良い機会だ」
下町や旧市街区へと連れ出し、様々な場所を見せ、オアシスの知人を出来る限り紹介してきた。
それが少女の糧となってくれることを願って。
エアリィ・エルラドは一時の罰でキャラバンを降ろされただけだった。それが許されれば再びトレーダーとしてキャラバンに戻ることができるのである。
「お友達も出来たそうですよ」
「そうか」少女には人を引き付ける何かがあった。「それに好奇心も強いようだしな」
「本当にバーミリア様に似ていらっしゃいますね」
ヴェスターは思いがけない名を聞き、声を上げて笑った。
「なるほど、そうかもしれないな。あの子は父親よりも母親似かもしれない。そうだとすれば、エアリィも彼女同様駆け抜けていくのかもしれないな」
「旦那様としては嬉しいことなのではないでしょうか?」
ヴェスターはその問い掛けに笑みを浮かべ頷いた。
「昨晩から出かけたとすると、今回は何をしに行ったのかな?」
「なんでも砂上船に乗せてもらうのだとか」
「シルバーウィスパーにか、それは凄いな」
「お帰りになられてから、お話を聞かせていただくのが今から楽しみですよ」
「あの子ならきっと面白い体験をしてくることだろうな」
ヴェスターは窓の外を見ながら微笑んだ。
それは少女がどこまで進んでいくのか楽しみで仕方がないといった表情だった。
闇の中、砂漠を渡る一番風が吹き抜けていく。
聖霊の息吹と呼ばれるそれは夜明けが近い知らせである。
風は次第に強さを増していく。
「なんて寒さなのよ!」
砂上船の甲板に出たエアリィはマントに包まりながらぼやいた。
「仕方がないよ。もうじき夜明けなんだから」
「そんなことは判っているわよ! あたしが言いたいのは、こんな薄着であなた達はよく我慢できるなってことよ」
傍らの少年をエアリィは睨みつけるが寒さに震える姿は様になっていない。
心なしか寒さに凍え、歯もかみ合っていないようだった。
「う~ん、まあ、これくらいなら普通かな」
ソールはマントを広げ自分の姿を見る。使い込まれてはいたが羊の毛で編んだマントは暖かい。
「オアシス生活であたしはひ弱になったのかしら……」
「まだ時間があるから、中で待っていればいいのに」
日が昇る直前が砂漠では一番冷え込む。
彼は自分のポケットから簡易カイロをとり出すと、そのひとつをエアリィに差し出す。顔をしかめつつも少女はそれを素直に受け取るのだった。
「みんな外に出始めているじゃない。たいしたことないと思ったのよ。それなのに……」
大人たちは平然と薄着で甲板へと集まって行った。
だから大丈夫だと思い扉の外へ出たが吹き付ける冷気に頬の皮膚が引きつり痛かった。
「……こんなことだったら、ジャケットを着てくればよかったわ」
「みんなと同じにすると言ったのは、エアリィ、君だよ」
「ええ、あたしよ!」キッとソールを睨む。「仕方がないじゃない。それに……あなた達の砂漠着が安物なのよ」
遮るもののない砂の平原ではオアシスの中よりもさらに冷え込む。
判っていても、それは骨身に染みる寒さだった。
「それ、シェラ姉さんお手製なんだけどな」
そっぽを向く少女に少年は苦笑するしかなかった。
「確かにトレーダーの着ているジャケットは暑さ寒さを防ぐのに優れているからね」
「こ、これも悪くないけれど、ジャケットは機能的だし、動きやすくて丈夫なのよ」
「僕にもあんなジャケットがあったらと思うよ」
「残念だけどあれはあたしのじゃないわ」
「えっ、そうなんだ?」
「キャラバンの物はすべてファミリーの共有財産でもあるの。ジャケットもそう」
年上のいとこから譲渡されたものだった。
微妙にサイズが合わないのは、そのせいでもあった。
そしてジャケットだけがキャラバンを降ろされた少女が唯一持つことを許されたものであり、トレーダーとしての絆だった。
「なるほどジャケットも昔から受け継がれてきたものなのか……すごいなあ」
「そうなの?」
「だって、考えてもごらんよ。ウォーカーキャリアもこの砂上船もはるか昔に造られた物なんだ。今の僕らでは及びもつかない技術で生み出されている。それが今も受け継がれ、動き続けているんだよ」
「そういわれてみればそうよね」
そこにあるのが当たり前すぎて考えたことがなかった。
「誰がどのようにして造ったのか、その技術を手にすることができたなら」
「あなたも探してみれば?」
「そう簡単に言わないでくれよ。確かに探究者にはあこがれたこともあるけどさ……」
誰もがオアシスから砂漠のその先へと行けるわけではない。手足となるウォーカーキャリアがなければ砂漠では死を迎えるだけだった。
「そう……簡単ではないよね」
何も見えない夜空を見上げ少女も呟いた。
砂上船のサーチライトが真っ暗な闇を照らしている。
それは本当にか細い光の道標であった。
砂の上をゆっくりと人が歩くような速度で砂上船は滑るように進んでいく。
船は風の生み出した砂の波頭を抜けるたびに前後左右に揺れる。そのゆったりとした揺れはウォーカーキャリアの動きにも似て、まるでゆりかごの中にいるような感覚に陥る。
懐かしさと寂しさとともに。
「よう、ここにいたのかい。お客人」
野太い声に二人が振り返ると、無骨な顔つきの大男が笑いかけている。
頭はそり上げ、顎鬚だけをうっすらと伸ばしていた。二メート近くあるその巨漢に圧倒される。
「……親方?」
「おうよ」
親方と呼ばれた大男はソールに誇らしげに胸を張り応えた。
「本当はよ。出港前に俺が出迎えたかったんだが、どうしても手が離せなくてな。ゆっくりと話す機会もなくてすまないな」
「そんなことはありません」
二人を出迎えてくれた副長は親切だった。
砂上船は深夜にロンダサークから出航した。
その準備と船出には神経を使うという。日が昇って砂雲の向こう側に太陽を見ることができたなら、それが目印となり砂漠を行く者は自分がどの方角へ向かっているかを知ることができる。しかし、夜には目印となるものはまったくない。
いったん方角を見失えば砂漠に迷うことになるのである。
オアシスを渡り歩くトレーダーでも、よほどのことがない限り夜の砂漠を行くことはない。
だが砂上船は漁のために漁場を目指し夜の間も砂漠を航行するのである。
その難しい舵取りをするのが砂上船の主、親方の仕事だった。
「お客人は、楽しんでいるかい?」
「ええ」
すべてが初めての体験である。楽しくないわけがなかった。
「でも、今は思いっきり寒いわ」
「だろうな」
気後れない答えに親方は豪快に笑った。
「親方。僕たちをこの船に乗せていただきありがとうございます」
「なあに、いいってことよ。他ならぬ先生からの頼みだ」
「先生?」
「クロッセのことだよ。エアリィ」
「そういうことだ。小さな英雄さん」
「え、えいゆう?」
「嬢ちゃんのことはそう聞いているぜ。火の中に飛び込むなんざ、大の大人でもできることじゃあねえやな」
「はあ……」
顔から火が出るような思いだった。寒いはずなのに汗が噴き出してくる。
あの日、火事の中からクロッセを助けて以来、エアリィの名は五十一区のみならず下町中に知れ渡っていったのである。
断りこそしたが、その話を聞きつけた師であり語り部でもあるベラル・レイブラリーは少女の詩を作りたいと申し出たのである。それがまた恰好の話題となる。ヴィレッジでソールを助けたこととともに尾ひれがついて、その名は下町中に広がっていった。
「あたしは英雄でも何でもない! かんべんしてよ」
いい迷惑である。
下町の人々とは親しく付き合ってもらってはいるが、それでも目立ちすぎてトレーダーのジャケットを脱ぎ下町っ子の服装で暮らすようになっていた。
「ほお、先生が言っていたとおりだな」
「またなの……? 本当にあいつはおしゃべりなのね」
彼女の行く先々に良くも悪くもクロッセの影があった。
「クロッセは、この船のメンテナンスも引き受けているんだって」
ソールは少女に説明する。
「そういうことだ。先生がいなければ、この船も廃船になっていたかもしれねぇ。感謝してもしきれねぇぜ」
この銀の砂上船シルバーウィスパーはガリアでも最大級の船とされている。
先日、実物を間近に見た少女は、その大きさもさることながら気品あふれる姿に圧倒されるのだった。
三本のマストに張られた銀の帆に光を受けて砂漠を行く流線形の船体は、無骨な脚で砂漠を歩くウォーカーキャリアとは違い優雅ですらある。
巨大な砂上船はガリアには三艘しか存在していないらしい。
現存しているのは、シルバーウィスパーだけだった。
一艘は五百年以上前に嵐に遭遇し船体に亀裂が入り修復不能となり廃船となっている。残りの砂上船アルゴー二世は行方知れずになっているという話をベラル師から聞いた。
マシンの守り人であるナノボックスをもってしても最古の砂上船の維持は大変なものらしい。特に薄い布のような帆は修復が難しくヴィレッジですらなす術がないという。
「それなのに、あのクロッセが?」
「あのは余計だと思うよ、エアリィ……」
「先生は天才だぜ。俺の代で終わりだと思っていたこの船を直してくれたんだからな。その先生の命の恩人の頼みとあっちゃあ、ぜひにもだな。楽しんでいってくれよ、嬢ちゃん」
大きなゴツゴツとした手で少女の頭をなでる。
「あ、ありがとう」
「なあに、いいってことよ。それよりも、もう少しで目的地だ。漁が始まるぜ」
「今は、どのあたりなの?」
東の方に向かっているのは判っているが、距離感は失われていた。
「そうだな。ロンダサークから東に八十キロといったところか」
「オアシスからそれだけ離れていてイクークが獲れるの?」
砂魚イクークはオアシスの近くに生息する砂中の生き物とされている。
「ここだからこそ獲れるんだよ」
自慢げに笑う親方がいた。
漁場は親方が決める。
砂上船があってこその芸当であり、親方の経験と勘がなせる業であるというのである。
ファミリーを束ねる長としての必要な資質、砂漠における絶対的な方向感覚とその距離感を親方も兼ね備えているということだった。
気が付くと砂上船の動きはかなりゆっくりとしたものになっている。
「さあ、ここが本日の漁場だ。嬢ちゃんもしっかり獲ってくれよ」
親方は少女にイクーク漁で使う竿を手渡す。
使い方はソールが教えてくれていた。
親方の大きな掛け声が響き渡る。彼は漁が始まると再びイクークの群れを追うことになるため、操舵室へと消えていく。
見張り台には双眼鏡を手にした男たちが立つ。
静かだった甲板がにわかに熱気を帯びていくのが判る。
竿を手にした男たちが船側に陣取り、その時を待つ。独特の雰囲気があたりを支配していくのだった。
エアリィも武者震いする。
少女の背丈のゆうに三倍はある長く細い竿の先端の鉤爪を眺める。その先に見える夜空はまだ闇色だった。
「まずは、獲って獲って、獲りまくってやる!」
3.
イクークはオアシス近くの砂漠に主に生息している。
それは誰にとっても当り前のことだった。
「知っているかい、エアリィ?」作業していた手を止めクロッセは問い掛ける。「イクークのたくさん獲れるオアシスは栄える、という話を」
唐突な質問に何を言い出すのだという顔で少女は彼を見た。
にこやかに笑うその表情からは、クロッセが何を考えているかはまったく読めない。
「まあ……聞いたことがあるわ。イクークの姿が見えなくなったとき、そのオアシスは滅んでしまうということよね」
「うん、うん。この二つの諺に共通するのはイクークだ。これはどうことなんだろうね?」
「あたしが答えを知るわけがないでしょう!」
「砂魚イクークは砂漠に生息している唯一の生き物だ。そして僕らにとってイクークはなくてはならない食料でもある。それなのにその生態を知る者は誰もいない。なぜだろう?」
「だぁかぁらぁ!」
質問の意図が読めない少女は苛ついてしまう。
「何を食べるのか? 砂の中でどういう風に生きているのか? どこからやって来るのか? どうして朝方だけ砂上に顔をのぞかせるのか? 謎を数え上げればきりがない。それなのにその答えを誰も知らないし、誰も知ろうとしない」
「あなたは知ろうとしたの?」
「獲れ立ての生きたイクークを分けてもらったことがある」
「なにか判ったの?」
「すぐに死んでしまって、何も判らなかった」お手上げといった感じで肩を竦めてみせる。「まあ知ることが出来たとしてもそれをどう活かしたらいいかも判らないけれどね。でもさエアリィ、身近にありすぎて知ろうとしないことが多すぎるよね。僕もそうだ。あの映像を見るまでは」
「イクークが砂地を土に変えてったこと?」
あれは不思議な出来事だった。
「イクークがいることでオアシスが栄えるというのはそういうことなんじゃないかと思えてくる。イクークはオアシスを守ってくれているんじゃないかってね」
「守る? 何から? それにどうやってよ?」
「それが判ればなぁ」
少女はクロッセの答えに肩透かしを食らってしまう。
「それにどうしたらそういう考えが浮かぶわけ?」
「仮設だらけで確証なんてないけれど、なぜかそう思えてくるんだ」
「おめでたいわね」
「牛や豚といった家畜と違い、イクークの飼育方法を知る人はどこにもいない。でも農区を生み出した人たちは飼育方法を知っていたのだろうね。あれだけの耕作地を生み出したんだから。オアシスの周囲で漁をしただけではイクークの数が追いつかないほどの量が解き放たれていた」
「しかも全部生きていたものね」
「砂魚はオアシスの食料としてだけ存在しているのではない。もっと別の意味があったのかもしれない」
「たとえば?」
「色々と想像は出来るけれど、本当のところは判らない。昔の人に話を聞くことができたらと思うよ」
「なぜ忘れさられてしまったのかな? 大切なことなのにどうして伝えてくれなかったのかな?」
「人は時間とともに退化してしまっているのかもしれないね」
ヴィレッジが衰退しているのと同じように。
「それは嫌だな」
「僕もそう思うよ。だからこそ知りたいし、考えていきたいんだ」
「まあ、それはいいのですけれど、あたしを巻き込まないでよね」
「イクークがもっとたくさんいたら、この砂漠すべてがオアシスのように肥沃な大地に生まれ変わっていくのかもしれない」
「あたしの話、聞いちゃいないし……」
クロッセのその突拍子のない想像力には呆れるしかなかった。
「あなたって変よ」
「変かな? でもさ、そう考えると楽しいじゃないか」
クロッセはそう言って少女に笑いかける。
そんなやり取りが幾度となく話題を変え行われていく。
イクークは砂漠にいる。
それ以外の何物でもないはずだった。
それなのにクロッセの言葉が、なぜかあの映像とともに頭から離れない。
常識とは何なのだろう?
日常の中にも謎や不思議が潜んでいるのである。
「ホーラ!」
一番竿の声が静寂を破る。
地平線が紫に染まり始めた矢先だった。
舷側にいた男たちが一斉に動き出していた。
男たちが竿を振るうたびに空気を切り裂くような音がする。そして彼らの大きな掛け声が周囲にこだましていく。
瞬く間に何匹ものイクークが甲板を跳ねまわっている。
ソールに声を掛けられるまで少女はその様子を茫然と眺めていた。
我に返ったエアリィは慌ててイクークの姿を求めて目を凝らすが、慣れていない少女はまだ日が昇りきらない暗がりの中で砂魚の姿を見つけることは出来なかった。
「ど、どこに?」
「砂の流れを見るんだ」
竿を握りしめ戸惑う少女にソールはそう告げた。
「な、流れって……」
「砂が風に流れているよね?」
明け方の砂漠を強い風が吹き抜けていっている。その風に流されている砂の動きを見ろというのだ。
砂の流れが途切れたところにイクークは顔をのぞかせているというのである。
ソールは砂上の一点を指さしながら、もう一方の手で竿を振るう。
鉤先が砂を薙いだかと思ったらイクークがかかっている。次の瞬間にはしなった竿の先から砂魚は離れ頭上を越えて甲板に落ちた。
少年はシルバーウィスパーに乗るのは初めてだったが、それでもほぼ毎朝オアシス近くで砂魚漁の手伝いをしていた。
竿の扱いは手慣れたものだった。
「次はあそこ」
少女が砂と砂魚の違いが見分けられないでいると、再び鉤先がイクークをとらえ竿がしなっていた。
引っ掛け方にもコツがあるという。
砂上に顔を出したイクークの頭をうまく捕え砂の中から引き上げる。さらに返す竿で砂魚を鉤から外すことができれば一人前の砂漁師とされている。
ベテランともなれば、その動きに無駄がない。
彼らは一回の漁で五十匹以上は釣り上げるという。
それは一分間に二匹から三匹といったスピードであった。
次第に東の砂雲が紫から朱へと染まっていく。
勢いよく宙を舞うイクークの銀の腹が朱色にきらめいていった。
夜の闇が吹き抜ける風と共に払われていく。
明るくなるにつれて少女の目にも、砂上からほんの数センチ口を上にあげ姿をのぞかせるイクークを見つけることができるようになる。
砂魚は本来砂中に生息する生き物だった。その砂魚が一日に一回だけ計ったように日が昇る直前に砂の中から顔をのぞかせる。
呼吸をするためだとか、餌を取るためだとか言われているが、その理由は定かではない。
ただイクークが姿を現した時が唯一漁をすることができる瞬間でもあった。
日が昇りきるまでの一時間にも満たないわずかな時間の間にどれだけのイクークを狩ることができるかが、その日の漁の成否を決した。
闇色に染まっていたすべての物に色彩が戻ってくる。
「オーラスィー!」
見張りの威勢のいい掛け声が響き渡る。
「東に転舵するよ」
少年の言葉に少女は砂上船が再び動き出したことを知る。
新たに砂中から顔をのぞかせた砂魚の群れに向かっていくという。
のちにエアリィは舷側で位置取りも重要な漁の要素であることを知る。船の動きによっては群れの薄い位置で漁をすることになりかねないからである。
船がさらに動き出したことで、漁は難しいものになっていく。
目測を誤れば竿が砂を引っかくだけとなり、せっかく見つけた獲物も他の漁師にさらわれてしまうことがあった。
フラストレーションがたまっていく。
少女はまだ一匹だけしか獲っていない。それもソールのアドバイスがあってのことだった。
自分の目と腕でイクークを獲るのだと、少女は意地になって竿を振るう。
だが肩に力が入りすぎていた。目測を誤り、ガキッと竿の先端が砂をかむ。
少女は唸り声を上げ悪態をつく。
しかし、竿は何かに引っ掛かったように動かなかった。まだ砂中にいたイクークをとらえていたのだ。しかも重く、逆に竿が引っ張られる。
竿を離さないよう握りしめる。片足を舷側にかけ体重を後ろへと持っていく。
「このぉぉぉぉぉぉぉ!」
折れるのではないかというくらい竿がしなる。
少女の叫びにソールが身を乗り出し竿の先を見ると、巨大なイクークが砂の中から姿を現している。
それは見たことのない大きさの砂魚だった。
「エアリィ、離さないで! 大物だ!」
「死んでも離すものかぁぁぁ!」
歯を食いしばりエアリィは渾身の力込める。
ソールがそれに手を貸した。
砂上で暴れるイクークとの根競べが始まる。竿が何度も持っていかれそうになる。
漁を終えた男たちは甲板で跳ねる活きのいいイクークを船倉へと落とす手を止めその様子を面白半分に見つめる。
いつしか二人の周囲には人が集まりだしていた。
二人掛かりで悪戦苦闘すること十数分、男たちの驚きと歓声に限界に来ていた腕が軽くなる。バランスを崩して少女は甲板に仰向けに倒れ込んだ。
目から火花が飛び散る。打ちつけた後頭部が痛い。
ゆっくりと目をあけると砂色の空が見える。
どうやって砂魚を砂上船まで引き上げたかなんて覚えていない。竿が折れなかったのも幸いだった。
起き上った少女の目の前には二メートルはあろうかという巨大なイクークが尾ひれをばたつかせていたのである。
その日一番の大物である。
「お疲れ様」
ソールは少女に水の入ったボトルを渡す。
「ありがとう」
口を真一文字にし、彼方を睨みつけていたエアリィはそのまま目も向けず少年にひと言礼を言うと、命の水を最後の一滴までも飲み干すのだった。
潤いが澱んだ心までも洗い流し癒してくれる。
日が昇って一時間がたとうとしている。砂雲の向こうでゆらめく太陽は瞬く間に砂漠を熱し、砂の大地に陽炎が揺らめく。
強い陽光を銀の帆に受け、砂上船は明日の漁場へとゆっくりと進んでいく。
どんなにそのポイントが大漁であろうとも、同じ漁場で続けて漁をすることはない。それが漁を続けていく鉄則であるという。他のオアシスでは効率化という名目で砂中に爆弾を仕掛け、その衝撃によってイクークを根こそぎ狩るという荒っぽい漁法も流行りだしているというが、ここロンダサークでは昔ながらの砂上船や竿による漁がおこなわれ続けている。
それもあるのだろうか、今も巨大なオアシスであるロンダサークの台所をイクークが支えているのである。
「どうしたの?」
「両腕がだるいわ」
漁を終えた男たちはすでに船室へと消えており甲板は静かだった。エアリィはひとり、帆が作る影の中に座り込み砂の平原を見つめていた。
「……ぼくも初めの頃はそうだったな」
「ソールは何匹獲ったの?」
「う~んと、十五匹くらいかな」
少年的には近年稀に見る大漁だったが、それでもシルバーウィスパーの漁師に比べると半分以下の成果だった。
「あたしなんか……」
はらわたが煮えくり返るほど悔しかった。
竿での漁自体初めてだったが、それでも十匹は軽いと思っていた。
甘く見ていた。
砂魚を一人で見つけられるようになったのは周囲が明るくなりだした漁も終盤の頃だったし、竿の扱いもうまくいかず空振りばかりだった。
「初めてで二匹は上出来だよ」
少年が初めて漁に出た時は竿を扱うことすら許されなかった。大人たちが獲ったイクークをこん棒で気絶させて網へと放り込んでいくのがあてがわれた仕事だった。
半年たって竿を持つことを許されても獲れない日の方が多かったのである。
「それにあんなに大きなイクークを獲ったんだもの自慢していいと思う」
「まぐれよ」
狙ったわけではない。ただの偶然だった。
その言葉には悔しさがにじみ出ていた。エアリィは情けない顔を隠すように膝に顔をうずめ呟いた。
「運も実力のうちっていうよ」
「だったら次はもっと獲ってやるわよ」
「じゃあ、明日はリベンジだね」
「当り前じゃない」このままでは終われない。
「楽しみにしている」
「その顔は絶対に無理だって思っているわね」
そんなことはないと、ソールは慌てて首を横に振る。
負けず嫌いな少女のことである。今回の漁の間に少年以上にイクークが獲れるようになっていることだろう。
勝負を挑んでくるエアリィにソールは手を差し延べる。
「親方が呼んでいる。とびっきりのイクーク料理を食べさせてくれるって」
食堂へと連れられて行くと席の大半が埋まっていた。
船で手が空いている者は全員テーブルについているという。
主賓が来ると親方は宣言する。
「では、大漁を運んでくれた小さな英雄さんに乾杯だ!」
親方の音頭に漁師たちが祝杯をあげる。
テーブルの上には獲れ立てのイクークを使った料理が並んでいる。
イクークをその場でさばいて刺身にしたのや贓物と身を和えたものから、脂の乗ったイクークをそのまま丸ごと焼いたものまである。他にもボイルしているものや、野菜に混ぜてスープにしたものもある。中には見たことのないイクーク料理もあった。
親方をはじめ全員が上機嫌だった。
今朝の漁は近年稀にみる大漁であったという。
ほとんど役に立っていない少女は、本日一番の大物を揚げたと言われても居心地が悪いだけだったが。
それでもがっしりとした体格の荒くれども達の中にいると、その雰囲気になじんでしまいそうになる。どこかしらファミリーの者たちと同じ雰囲気を持っているからなのだろうかと少女は思ってしまう。
「さあ、自分で獲ったイクークだ。存分に食ってくれよ」
「これ、あたしが獲ったものなの?」
底の浅い丸皿には見事に盛り付けられた刺身が乗っている。まるで半透明な花弁を見ているようだ。
手をつけるのがもったいないほど鮮やかな盛りである。
「そうだぜ」
「親方の手料理なんて滅多に食えるもんじゃねぇ、嵐が来るぜ」
「なんだとぉ、てめぇら!」
「だが、その顔で料理の腕は一流だ」
「顔は余計だ!」
酒を飲んでいる連中はすでに出来上がっているのか、親方を囃し立てる。
「こ、これ親方が作ってくれたの?」
繊細な盛り付けと親方とが結びつかない。
「おうよ。それにその隣にあるのは滅多にありつけない珍味だ」
勧められるままに口に運ぶと小さな粒々がコリコリとした歯ごたえを与え豊潤な甘みが口の中に広がる。
「おいしい……」
頬っぺたがとろけ落ちるというのはこういうことを言うのだろうと少女は思った。
「だろう。この刺身盛りが俺の自慢の料理のひとつだ」
「その顔で包丁さばきは誰にも負けねぇときたもんだ」
「うるせぇぞ! 金輪際てめぇらになんざ食わせるもんか」
ブーイングが巻き起こる。だが聞けばそのやり取りはいつものことらしい。
「まあ、それはさておき一番脂の乗ったうまいところだ。食ってみな」
先の珍味もだったが、これは大物を獲った者だけが許される特権だという。
生のイクークをその場でさばき刺身にすることはトレーダーでもよくやっている。それが醍醐味だと大人たちは言っているが、少女にはその美味しさはまだ判らなかった。
親方に言われるまま醤油につけて食べてみる。
「えっ……?」
イクークの身が口の中で溶けていくようだった。
その食感と味に全身が震える。
「い、今まで刺し身は食べてきたけれど、こんな感覚は初めて……すごく、すごくおいしい!」
「そいつは嬉しいねぇ」
少女の反応に満足げに親方は頷く。
「誰が切ってもうまいところだが、それを損なわないようにするのには包丁さばきにコツがあるってものさ」
「知らなかった……、それってあたしにもできるかな?」
「ほお、興味があんのか? コックにでもなろうっていうのか?」
「そんな気サラサラないわ」あたしはトレーダーだ。「イクークがこんなにおいしく食べられるのなら、そのコツ知りたいだけ、そうしたらいつでも美味しく食べられるじゃない」
「そりゃそうだ」親方は面白そうに笑った。「どうしてもか、嬢ちゃん?」
「あたしはエアリィ。エアリィ・エルラドよ」
どちらも嬉しそうに楽しそうに満面の笑みを浮かべている。しかし、その眼は挑みかかるようでもあった。
「よし、気に入った!」
親方は大声をあげて膝を叩く。
「エアリィ、俺が直々に船内を案内してやろう。その時に教えてやる。それでいいな」
漁師達から歓声が沸き上がる。
続いてエアリィの名を呼び、一斉に乾杯が始まるのだった。
少女はただ茫然とそれを眺めていた。
初漁で大物を釣り上げたということもあるが、親方に名を呼ばれることで一人前だと認められたのだと、のちに少女は副長から教えられた。
細い鉄製の階段が下まで続いていく。
薄暗い船内に足音が妙に甲高く響いてくる。
「ロンダサークには何万という人が住んでいる。その胃袋を満たしてやれるように俺達はイクークを獲る。人や物を動かすのがトレーダーなら、俺達砂上船乗りはオアシスに食い物を供給するのが役目だ」
親方は豪語した。
砂上船の最下層は大きく三つのブロックに分かれている。
船を動かす機関部とイクークの貯蔵庫、そして調理加工のための施設がある。
漁で獲れた砂魚は最初にこの調理施設にすべて集められ、そこでサイズごとにふるい分けられ様々な形に調理加工されていく。
砂上船はオアシス近くでの漁と違い、長い時には一週間から十日位漁に出るという。漁で獲れた砂魚はその間に加工されオアシスへともたらされる。
船倉の大半を占める貯蔵施設を満載にできれば、ロンダサークのイクーク消費量の一月分を賄えるというのである。
船倉は思った以上にひんやりとした空気が漂っている。日が暮れてしばらくたったような時間の中にいるようだった。
様々な機械が並ぶ調理室の中を男たちが忙しく動き回っている。
船には調理を専門とする人々も乗り込んでいた。コンベアで大中小、三つのサイズに分けられたイクークは彼らの手で手際よく内臓が取り出され、骨が取り除かれていく。
内臓は乾燥させてロンダサークで薬草などと一緒に調合され薬となる。骨はすり潰され粉末となり家畜のえさとなったり、素揚げにされて菓子にされたりする。イクークは血の一滴までも無駄にされることなく消費されているといってもいい。
「どうだ、凄いだろう」
我がことのように嬉しそうに親方は船内の設備を見せてくれる。
「う、うん」
調理している作業の流れにも目が釘付けになったが、見たこともない機械の数々に驚きを禁じ得なかった。
「それにここは夜のようだわ」
ジッとしていると寒さに震えが止まらない。マントをもってくればよかったと思った。
それに気付いたか親方が調理施設用の白いマントを貸してくれた。
「太陽に向かって広げられた帆から得た力で冷やしているんだって、ウォーカーキャリアもそうなんでしょう?」
ソールはクロッセからそう教えられたという。
「確かにそうだけど……ウォーカーキャリア内部をここまで冷やすことはないわ。それに帆から力を得るって、あの帆から?」
「そうだぜ。まあ仕組みなんか誰も判からねぇがな」
「船が砂の上を走るだけでもすごいのに、なかにこんな設備があるなんて……」
「自慢の船だからな」
「ヴィレッジでさえ、知りえない技術もここにはあるって話だよ」
ソールも興味津々で機械類を眺めていた。
「小さなサイズのイクークは、ここで頭や尻尾を切り落とし、たたきにして練り物にする」
リズミカルに包丁がまな板をたたく音がする。
細かくミンチにされたイクークの肉がゴロゴロと石臼のようにゆっくりと回転している機械に次々と放り込まれていく。
機械の先では小さなボールのような練り物がテンポ良く生み出され調理される。
「このとき注意するのは、内臓をきちんと処理することだ」
特に砂道と呼ばれる部分が少しでも残っていると苦みが残り砂を噛むことになる。誰もが一度は経験する失敗したイクーク料理の出来上がりである。
調理師たちは素早く、鮮やかにそれらを取り除いていった。
「中型のものは干物や燻製だ」
今頃は開きにされたイクークが甲板で干されているころだという。
この船で獲れるイクークはオアシス近くで獲れる物よりも一回りも二回りも大きく、上質のものだった。
帆の影で半日も干せば立派な干物が出来あがる。
干物の他にも燻製や瓶詰め保存食が作られるという。
「大型のものはどうするの?」
「まず先にここで食われることになるな」
それが漁師の特権であるという。
「残った物は保冷庫に入れられ保存される。まあ、高級品として扱われるな」
旧市街区の金持ちの口に入ることが多いらしい。
エアリィが食べた白子と呼ばれる珍味も珍重されていると聞かせられる。
一か月は楽に暮らせる値が付くときもあると知り、二人はとんでもないものを食べたのだと実感するのだった。
「そして、この船自慢の調理機がこれだ!」
「これもすり身?」
「まあ見てな」
これから生産ラインが動き出すところだったようだ。
練り物と違い上質な白い身だけが機械に入れられて行く。
その先から出てきたものを見てエアリィは驚きの声を上げる。
「魚肉ソーセージ!」
「さすがトレーダーだな。イクークの腸詰めソーセージだ。美味しいぜ」
「知っているわ。ここで作られていたのね……」
少女の好物のひとつであり、干物や瓶詰めと並んでロンダサークの輸出品目のトップに来るものだった。
目を輝かせ二人の客人は調理施設を眺めていく。
親方は満足げにそれを見つめ、包丁の入った棚から自分用の物を取り出すと、エアリィとソールを呼んだ。
「切るっていうのは、トレーダー風に言わせてもらえば風を読むのと同じようなものだ」
鮮やかな手つきでイクークの腹をさき内臓を取り出していく。五十センチほどの大型のイクークが部位ごとに切り分けられていった。
「イクークの身もな、それと同じようなもので切る方向があるのさ」
同じように切った身を二人に差し出す。
それは食堂で食べたものと同じように口の中で甘みが広がりとけていくよう食感だった。しかし、次に渡された物は、舌にざらついた感じが残った。
「あれ……、なんで?」
「ただ切ればいいってものじゃない」
親方は包丁をエアリィに渡す。
まずは試してみろと言っているのだ。包丁を入れる角度、そして年輪のような筋の見方などを享受していく。
晩御飯用の切り身を作らされていると気付かされた頃には十匹以上のイクークをさばいていたのだった。その間、親方は楽しげに船よりも巨大な砂魚や砂漠に咲く花の伝説、幻の砂漠の都サマルカンドの伝承といったほら話や蜃気楼、流砂の造形物など珍しい話を聞かせてくれる。それは楽しいひと時でもあった。
4.
容赦なく照りつける強い日差しに銀の帆がきらめく。
甲板にはイクークの開きが乗った板が所狭しと並べられている。
今日もまた大漁だ。
手の空いていた漁師までも加工の手伝いに駆り出されているくらい船倉は大忙しだった。
ヒュンと乾燥した空気を切り裂く音が静かなデッキに何度も響き渡る。
「ここにいたのかエアリィ。何をしているの?」
帆の影になったところで少女は何度も竿を振るっていた。
「練習よ」見てわからないのかと少女はソールを見つめる。「コタハっていうおじさんに竿の使い方を教わったの」
聞けばコハタはこの船でもベテランの漁師だという。
少女の人を見る目は確かだ。彼はこの日も五指に入る量のイクークを獲っている。
今朝の漁でコハタの隣に陣取ると竿を振るう動作を盗もうとする。教えられるよりも実際の動きから少女は学ぼうとしていく。
そんな少女に漁を終えた老漁師は手首の返しや細かいコツを伝授してくれたという。
「闇に眼を慣らす方法や砂の流れの見方、すごく参考になったわ」
「それはすごいや」
親方に認められたとはいえ、そう簡単に自分の技を教えてくれるものではなかった。
「だから、忘れないうちに練習しているのよ。これで明日こそは!」
日に日に少女が獲るイクークの量は増えている。それでも満足せず少女はトップを目指しているようだった。
「そっか、でも気をつけてね」
「なにを?」
「水は限られているから」
ソールに指摘され気付いた。少女の持つ水筒の中身は半分くらいに減っている。
こと移動中の水は制限され、一日の割り当ては決められていた。
「気がつかなかったわ……」
それだけ夢中になっていたのだろう。汗だくだった。
少女は水の聖霊に感謝しつつ、一口水を含むと転がすように喉をうるおし最後にいとおしみながら飲み込んだ。
「日差しも強くなってきたし、中に入って休んだ方がいいよ」
「そうね」
感触を忘れないようにもうひと振りしようとする。
その竿の動きが止まった。
動かない少女をいぶかしげに見ていると、エアリィの表情がこわばっていくのが判る。
「ど、どうしたの?」
「……竜の子……」
少女のさす竿の先に見える地平線には、小さな灰色の染みが見えた。
竿を投げ出し、操舵室へと駆けていく少女をソールは慌てて追うのだった。
「風はどこから吹いてくるのかな?」
それは館の中庭にできた日陰で昼食をとっている時のことだった。
クロッセの問いかけに少女はうんざりしながら彼を見る。
ふとした思いつきや問いかけは時と場所を選んでくれない。
「まさか風の聖霊が東の果てから息を吐いているなんて言わないよね?」
「い、いうわけないでしょう!」
少女は真っ赤になりながら否定するが、図星しだったようである。
「人が生まれてくるように風が生まれる場所があるはずなんだよね」
「風が生まれる場所……」
それはおとぎ話や伝承に出てくる場所でしかなかった
「風が生まれる条件やそのメカニズムを知ることができたら」
「できたら?」
「何かの役に立つかもしれない」
「あのねぇ」
「朝晩吹き抜けるような風だったら問題ないけれど、竜巻や嵐になるとオアシスにも被害が及んでしまうよね」
「それで大きな痛手を受けて、人が住めなくなってしまったオアシスもあるくらいですもの」
「そうなんだよね」クロッセは少女を手招きすると水をたたえる噴水の中へと入って行った。「こんなことをすると水の聖霊に嫌われるかもしれないけれど」
水を玩具にしたり粗末にすると水の聖霊に呪われて水に事欠くと子供の頃から言われ続けている。
少女も父親に怒られた経験があった。
「竜巻っていうのはこういう感じかもしれない」
クロッセは水の中で人差し指を水面に向けて回転させる。
「竜巻のような形……」
渦巻くそれは天高く咆哮を上げる竜巻の形にそっくりだった。
「こういう力が作用して、もしかすると竜巻は生まれているのかもしれない」
クロッセが回転を止めてもほんの少し渦は続き回転する方向にずれていった。
「風の向きと回転する方向が判れば、竜巻の進行方向を知ることができるはずなんだ」
「トレーダーは砂雲の流れで竜巻を避けたりする時があるけれど……」
「その時、回転している方向が判ればもっと進路は読めるよね」
「う~ん、実際に見てみないと判らないかな」
「それに風の発生する原因が判れば、予報士のそれよりも早く嵐を見つけ出し避けることも可能になるんじゃないかな」
「どうやって知るの?」
「方法がないか模索中」
「だったら実地で体験して見たら?」
「砂漠に出たことは一度ある。船の揺れがひどくて気持ち悪かった……あれはもうごめんだな」
それ以来クロッセは砂漠に出ていないという。忙しい中でも実験器具を考案し検証していきたいと彼は嬉しそうに言う。
それは先の長い話だった。
でも、その考えは面白かった。終りがあれば始まりもある。
風はどこから生まれ、どこへ消えていくのだろう?
本当にそのような場所があるのなら、確かめに行きたいと少女は思うのだった。
『まちがいありやせん。竜巻です』
くぐもった声が伝送管から聞こえてくる。
「間違いないんだな!」
マストの先にある一番高い見張り台からの返答が一拍以上遅れて返ってくる。
親方の指示で高見の見張り台へと人が登っている間も少女は地平線の小さなシミから目を離さなかった。
「よく見つけてくれた。さすがはトレーダーといったところか」
「そんなことないわ……」
褒められても嬉しくないようだった。
「どうしたの、エアリィ?」
「気づくのが遅すぎたくらい」勘が鈍っているのだろうか?
「あんなに離れている竜巻を見つけたのに?」
「ファミリーの見張りだったら、地平線の砂流雲の動きから竜の子の誕生を予測するわ」
少女の指さす先には竜巻へと連なる砂雲の作りだす筋が見える。
「あれだけで見つけることができるの?」
「先読みがキャラバンを救うことだってあるのよ! 時間は待ってはくれないの!」
少女のきつい言葉にソールは驚き、肩を落とす。
「まあそういうことだな。とはいえエアリィが見つけてくれたおかげで、俺達も早めに回避ができるってことだ。そういうことだろう?」
「まあ……砂雲の方向と目測からだけど、このまま舵を切っていれば、竜巻に直撃されることはないだろうけれど……」
少女の答えにブリッジの誰もがホッと胸をなでおろす。
「まだ何かありそうだな?」
その表情を見て親方は訊ねる。
「竜巻は単体では発生しないわ。あの後ろには嵐の壁がある」
「やっぱりか……」親方は眉をひそめ、ため息をつく。「そいつは避けられそうか?」
「壁がどれだけの大きさなのか、もう少し時間を見ないとあたしには判らないわ。それにこの船の最高速度も知らない」
「最大で八ノットだ」昔はもっと速度が出たがな。
「そんな単位を使っているの? 信じられない」
「船乗りは今でも伝統的にこれを使っているのさ、エアリィこそよく知っているな?」
「まあ一応」古い単位まですべて頭に叩き込まれている。
「それでどうなの?」ソールは訊ねずにはいられなかった。
「もう少し先にならないと断言できないけれど、その速度では嵐の壁からは逃げ切れないわ。風の層が薄いところを探していくしかないわね」
「それが判れば苦労はしねぇがな」
親方は苦笑いする。
ここには誰も風や砂雲を読む者はいないことに気付かされる。
「それはあたしがやってみるわ」
少女は真っすぐ親方の目を見つめる。
「判った」親方は頷くと指示を出していく。「ケリオス、嬢ちゃんと見張り台へいけ」
嵐の壁を乗り越えるための準備が始まる。
南西の空は見る間に灰色に濁っていく。
厚く不気味な砂の壁が地平線に広がりつつある。少女の予想よりも砂嵐の足は速かった。
砂流雲は触手のように不気味に濁った腕を伸ばしていっているようにも思えた。
オアシスの中からしか砂嵐を体験したことがないソールは灰色に染まっていく雲と暗くなっていく地平線を不安げに見つめた。
「親方はどうするの?」
思案気に地平線を見つめていた親方は、エアリィの問いかけに腹をくくったらしい。
少女の予測から進路は決まった。
「嬢ちゃんの前で下手な操舵はできねぇな」
キャラバンなら、弱い嵐に歩みを止めない。しかし、より強い砂嵐であれば足を止めて嵐をしのぐ。
機体を砂上におろし飛ばされぬようにアンカーで固定するのが普通だった。
最悪砂に覆われてしまうこともあるが、横転させられない限りウォーカーキャリアであれば単体での復帰は可能だった。
だが砂上船はどうやって砂嵐をしのぐのだろう?
「よし、両舷のフロートを準備しろ!」
親方の矢継ぎ早の指示が操舵室に響いていく。
「あたしは何をすればいいの?」
「あとのことは俺たちに任せろ! 二人は船室で待機だ」
もう少女に出来ることはないということだった。判ってはいてもきつい言葉だった。
こぶしを握りしめ踵を返すと操舵室を後にする。
そのあとを慌てて少年は追いかけた。
少女の背後で親方の怒鳴り声が聞こえ続けた。
船倉での作業は中止され、全ての船員が砂嵐に備える準備に追われるのだった。
砂上船の命ともいえる帆が慎重に降ろされ収納される。三本のマストも短くなり根元の固定用ボルトが外され甲板に倒してフックで嵐にも動かないように固定されていった。
他にも砂除けのカバーがされたり、固定できるものはすべて固定して収納できるものは船内へと収められていく。
待機していろと言われたが、少女は嵐が来るまでの間、人手の足りないところへと渡り歩き体を動かし続けていた。
真鍮丸窓の外では砂嵐が吹き荒れ、視界は数メートルもない。
横殴りに吹き付けてくる砂粒が窓ガラスに当たり、ざらついた音を立てている。
日差しもさえぎられ空は濃いグレーに染まり昼間であるはずなのに薄暗かった。
分厚い砂のカーテンの中に砂上船はいる。
船体は強く叩きつけるように吹く風に翻弄され、何度となく激しい揺れに見舞われ続けている。
横転することになれば船体も無事では済まない。砂漠のど真ん中に放り出されてしまえば確実に死に追いやられる。
「ソール、大丈夫なの?」
少女は少年の背中をさすりながら訊ねる。
「エ、エアリィは、よく……平気だね」
「こんな嵐くらいだったら、よくあることよ」
「ぼ、ぼくは……」
慌ててソールは口を押さえる。
もともと物静かな少年であったが、船酔いにさらにぐったりしていた。
「気持ち悪いのだったら、トイレにこもっていれば?」
「い、行こうと思ったんだけど……」
揺れてうまく立ち上がることすらできずへたり込んでいるという。
「わかったわ。袋をもらってくるから、それまで我慢するのよ」
ひとりで行かせてケガでもされた方が大変だった。
真っ青な顔で頷く少年を見てエアリィはため息をつく。
「急いだ方がよさそう」
この状況に慣れていないのは、ソールただ一人だった。
絨毯がひかれたフローリングの上を上手くバランスをとりながら少女は歩いて行く。
まるで足の裏に吸盤でもついているようだった。
一度はかなり大きく船体が右に傾いたがエアリィは意に介さない。
怖いと感じる以上にワクワクしている自分に少女は気付く。窓に映るエアリィの口元は微笑んでいるかのようだった。
砂漠に帰って来たのだと五感は感じ取っているのだ。
食堂で袋を見つけるとすぐにソールの元に戻った。
「どう?」
部屋の隅に移動させると好きなだけ吐かせる。
「す、少し楽になった」
袋から口を離し少年は力なく笑った。
「横になっているといいわ。それから」
これを飲めば楽になるからと、内ポケットから丸薬を二種類取り出すと無理やり少年に飲み込ませた。
「す、すごい臭いだし……苦い……」
「腹痛や酔い止めに効く薬よ。我慢して」
砂上船が揺れている状態では無理があるが、楽な姿勢でソールを寝かせる。
「……いつまで続くんだろう……」
「ここにいては判らないわね。見てこようか?」
「む、無理はいけないよ」
「あたしならそう簡単には飛ばされないわよ」
「そ、そうだとしても……」
「判っているわよ。あたしも親方には怒られたくないからね。まあ、この砂嵐は続いてもあと四、五時間くらいかな」
嵐に飲み込まれるまで砂雲を観察し続けた少女の予想だった。
「嵐のいちばん薄い当たりで遭遇しているから」
「こ、これで……? オアシスでは考えられないことだ……」
「あそこは、外壁があるからゆりかごだもの。砂漠ではもっとひどい砂嵐だってあるわ。それに竜巻に襲われたことだってね」
ウェーカーキャリアでさえ、その衝撃で機体を破壊されたこともある。
「この船は大丈夫かな……」
「たぶんね。だから、みんなもああしてのんびりしているでしょう」
船倉での作業も中止され、砂上船に乗り組んでいるものは操舵手や甲板員をのぞけば、思い思いに休息をとっている。広い船室で輪になりトランプに興じている者達もいれば、酒を飲んで寝ている豪気な者さえいた。少女も砂嵐の間はキャラバンの同じ年代の子たちとゲームをしたりして時間を潰していたものだった。
「そうか、そうだよね」
ホッとする少年、少し顔色が戻ってきているようにも見える。
もう一つの丸薬の効果もあってか、ソールはしばらくすると寝ついた。
「こういうときは寝てしまうのが一番よね」
甲板へのドアを開けると、風の咆哮が直接響いてくる。
見渡してみても嵐の壁の終わりは見えない。
手すりにつかまりながら強風と砂に足を取られないように甲板をすり足で進んでいく。
操舵室の中を入口の小窓から覗こうとすると、扉が開き中から怒鳴り声が聞こえてくる。
「気を付けて行け! 落ちるんじゃねぇぞ!」
ゴーグルに防塵マスクをした男が飛び出してきた。
「なにかあったの?」
「船尾にいる見張り台のやつと交替なんだよ!」
「そうか、気を付けてね」
「任せとけって、嬢ちゃんもあまり出歩くなよ」
見張りは体を船体にしばりつけ、風に耐えながら嵐の状況を観測する過酷な任務だった。男は笑いながら親指を立てて船尾へと足早に進んでいく。
砂上船も弱い嵐であればアンカーを砂地に打ち込み砂嵐をやり過ごす。しかし、アンカーは不安定な砂漠に打ち込むため、強風や竜巻にはあまり役に立たない。横からの風に弱い砂上船は横転させられる危険が高くなる。
親方の判断にもよるが、今回のように砂上船は砂嵐に正対するように動いていくことを選ぶ。親方自ら舵を握り、横風から船を守りながら砂漠を横断していくのである。
こっそりと少女は操舵室の扉を閉めながら中に忍び込んだ。
船員は仕事に忙殺され誰一人気付いていない。
四方の窓には双眼鏡を手にした見張りが立ち、親方の目となり耳となり情報を伝えている。
「右、三度転舵!」
親方の声に、航路図に定規と分度器をもった男が進路を書き加えていく。
計器盤に張り付いた男がそれに船の速度などの情報を加えていった。親方さえ方向と距離を見失わなければ無事航海は続けられる。万が一位置を見失ったときのこれは備えだという。
「ケリオス、お前も位置をきちんと把握しているか!」
「しています!」
親方の隣で双眼鏡を手に立つ大柄な男が負けずに大声で返事を返す。
「ちょっとでもズレてみろ、ただじゃおかねぇぞ! 次はお前がこの船を操る番なんだ。その目でよく見ておけよ!」
副長格の男、最初にエアリィとソールを迎えてくれた彼に容赦なく親方の怒声が響き渡る。
「それから、エアリィ!」
後ろを振り向いたわけではないのに親方が少女の名を呼ぶ。
エアリィはなぜわかったのかと驚き、他の者の視線に焦る。
「ご、ごめんなさい」
「船はもっと揺れるかも知れねぇ、そんなところに突っ立ているとあぶねぇぞ!」
ケリオスに手招きされ、エアリィは他の物に触れないように慎重に進み、近くにあった手すりにつかまる。
「まあ、心配なのは判るが、ここは任せておけって言っただろう」
前を向いたまま親方は舵を切り方角を伝えた。
張りつめた空気が支配する中、親方はどっしりと構えていた。その表情は余裕すらあるように見えた。
不測の横風によって船体が何度も横に大きく傾く。
両舷に展開したフロートがそのたびに砂をける。船体とフロートを結ぶアームが伸縮し、その反発力で船が横転しないように保ち続けている。
「このくれぇの砂嵐じゃびくともしねぇんだ。安心して見てな!」
声には淀みがない。
その背中が何よりも悠然と物語っている。
エアリィはしばらくすると交代要員とともに操舵室を後にした。娯楽室に戻り寝ているソールの隣に腰を下ろし、目を閉じる。
波うつ砂漠に船首が砂の波頭を削り、一瞬船体が持ち上がったかと思うと船底をぶつける。
ローリングする船の動きを、ゆりかごの揺らめきの様に感じながら、ゆっくりと時が過ぎるのを待つ。
砂漠の子守歌を心の中で奏でながら。
5.
遠くの空で低く唸るような音がする。
彼方に強い砂雲の流れがあるようだった。
「ここじゃないか……」
それでも諦めきれず、少女は夜の空を眺めている。
「嵐の後、強い砂雲の流れがあったから、ここから見れるかもしれないと思ったのに」
淡い期待だった
体の芯まで冷えて来た。
「どうした。エアリィ?」
「親方……?」
「明日の朝も漁があるんだ、寝とかなくて大丈夫か?」
「それなら平気よ。嵐の中で寝ていたもの」
「そいつはいいやな」
どこまでも響くような声で親方は笑った。
「親方こそどうしたの?」
「俺か? 俺は寝れねぇんだ。嵐の中を操舵した後はいつもこうだ。神経が高ぶって、おさまってくれねぇ」
研ぎ澄まされた神経は船と一体となり、船の内外を感じ取っているという。
エアリィの入室に気付いたのもそのためだったらしい。
「嬢ちゃんこそ、こんな夜中に外にいるなんざ、闇の聖霊に魅入られでもしたか?」
「ううん、そうなんじゃない」
「そうか」
真剣な眼差しに気付いたか親方はからかうのをやめる。
「ただ、探し物をしていたの」
「見つかったか?」
「難しいかな」
「そいつは残念だな」
煙草に火をつけると深々と煙を吸い込む。
肺の奥から吐き出された煙は白い息とともに闇に消えていった。
「ありがとよ。エアリィ」
「礼をいわれるようなことは」突然の礼に少女は驚く。「あ、あたしは何もしてないわ」
「いや、十分なことをしてくれた。だからまずは礼を言わせてくれ」
親方は少女に頭を下げた。
「お前さんが嵐を早く見つけてくれたおかげで、俺達は十分に逃げる準備ができた。そうでなければ、船はどこかしらやられていたかも知れねぇんだ」
帆を傷めずに収納するのは大変難しい作業らしい。
「でも嵐からあたしたちを救ったのは親方よ」
「ああ、それが俺の仕事だからな」やれて当たり前の仕事だ。
「うん」
その背中は頼もしかった。
「エアリィ、お前さんはお前さんが出来る仕事をしてくれた。もし船のことを何も知らねぇ人間が、この船のことに手出ししてきたら嬢ちゃんは嬉しいか? だろう。じっとしているのも仕事のうち、とはいいたくないがここは俺達の領分だ」
余計なことに口を挟んでいたことに気付かされる。
「ごめんなさい」
「いや、あやまることじゃねぇ」
「でも……」
「嬢ちゃんが手伝うと言ってくれたのは嬉しかったぜ」
「あたしは後悔したくなかったから」
「そうだな。そう出来たらいいだろうな。俺が嬢ちゃんくらい頃、もうこの船に乗って漁をしていた。でも粋がっているだけで何も出来なかった。最初の嵐のときなんざトイレにこもりっぱなしで胃の中が空っぽになっていたな」
「でも、ファミリーの予報士ならあたしよりも一時間は速く、もしかすると朝の時点で嵐を予測していたかもしれない。あたしは竜の子が見えてようやく気付いた。それでは遅すぎるの」
「何事も経験てことだな。誰だって最初からできるやつなんざいねぇ。何度も失敗しながら這い上がってくるんだ」
「親方も?」
「ああ、そうさ。それが生き残るコツってもんだろう?」
用心深く生きるのも大切だが、失敗の中から学び活かしていくことが次に繋がる。
「人生とは学び続けることだって、ベラル師に教えられた」
「いいこと言ってくれるね。そういうことだ。俺達はこうして砂漠をいくがトレーダーのような砂漠の民じゃねぇ。まあ言っちまえば中途半端な存在さ。砂漠を渡るには根性も知識も足りねぇ」
「そんなことはないよ。絶対に」
トレーダーでは知りえない知識がここにはある。
「ありがとよ、嬢ちゃんはいいトレーダーになるぜ。俺が保証する」
「そうだといいな」
「この船はもう長いことはない」
「えっ?」
突然の言葉に驚き親方を見上げた。
半分闇に溶け込んだ表情からは何も読み取れなかった。
「先生がいてくれる間はもつかもしれないが、そのあとは……」
「でも、あの嵐も乗り切れたし、どこも壊れていないよね」
磨き抜かれたような外観は美しく優雅だ。
「外見はな。今日も判るんだ」
神経を研ぎ澄ました時、船と一体になった親方は船の声を聞くのだという。
「強風にゆすぶられるたびに船体が悲鳴を上げているんだよ。あと少しで船体がばらばらになりそうだって言っているんだ。だが、それでも踏ん張ってくれている。俺達を守ってくれているんだ」
欄干を握る手に力がこもる。
「俺はこいつに何にもしてやれねぇ……」
「親方が船を操ってくれているから、船は持ちこたえられたのよ。そうでなければ、本当に横倒しになっているか、船体がバラバラになっていたかもしれないわ」
「それでも、こいつを痛めつけていることに変わりねぇんだよ。本当はもう休ませてやりてぇ」
だがシルバーウィスパーに代わる砂上船はない。
そしてロンダサークの食糧事情がそれを許してはくれなかった。
「次の漁には出られないんじゃないか、一度エンジンを止めてしまったら、もうこいつは動いちゃくれないんじゃないか……夢に見ちまうことだってある」
「そんなことは……そんなことは……」
親方もトレーダーと同じなのだ。船を失うことは自分の体を失うことに等しいのだ。
少女自身ウォーカーキャリアを失うトレーダーの姿を見ていた。悲痛な姿を。
もしかすると少女は泣きそうな顔だったのかもしれない。それに気付いた親方は優しげに笑ってくれた。
「すまねぇな。辛気臭い話をしちまって」
「ううん。大丈夫だよ。下町にはクロッセがいるのでしょう? それに聖霊はきっとこの船を見守ってくれている」
「ありがとよ」嬉しさがこみ上げてくると同時に折れそうになってくる心が支えられているように感じてしまう。「だけどな確実に誰にだって最後はやってくる。だからもし、この船の最後が近くなったら、俺はこの船で風の生まれる場所へいってやろうと思っているんだ」
「風の生まれる場所って……それはおとぎ話で」
「判っているさ。おとぎ話だっていい。行ってみてぇんだ。エアリィにだってあるんだろう?」
「う、うん」
「そんな眼をしていたよ。俺にも夢があるんだ。それが嘘だっていい。地平線の彼方まで、こいつと帆を広げてこの大砂漠を渡りきってみてぇんだ。もっと果ての地平線をこいつにも見せてやりたい。最後に大きなことをこいつとやってみたいのさ」
笑い話にしてくれていいぜと、親方は呟いた。
少女は首を横に振る。
「笑わない。絶対に」
親方は自分が砂漠の民ではないと言った。それでも親方の心は砂漠にある。
「そうか、ありがとな。今日は気持ちよく寝れそうだぜ」
短くなった煙草を指ではじく。
小さな赤い光点が闇の中に軌跡を描き消えていった。
「俺の名は、コードイック・ドルデン。商いのことや市場のことで相談があった時は俺を訪ねてこい。力になってやるぜ、リトル・トレーダー」
「ありがとう。ドルデンさん」
どちらからともなく手が差し出される。
「どうした?」
何かを口にしかけた少女を見て親方は微笑んだ。
「なんとなく、そう思った」
「そうか、ありがとよ。うれしいじゃねぇか」
親方はその小さな手を握りしめる。
それはどちらからともなく出た言葉であり、二人の想いは重なり合った。
『魂の同胞よ』
彼らの通じ合った言葉は砂漠を吹き抜けていく風とともに闇の聖霊の元へと届けられていくのである。光あれと。
<五話 了>
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