第21話 再生の時②

 1.



 雷鳴のような音が鳴り響き、嵐か竜巻が来たと思った人々はすぐさま空を見上げた。

 外壁の外で漁や仕事をしていた者は尚更驚いたことだろう。

 だが振り仰いだ空には太陽が砂雲の中から地を焼き尽くそうと覗いているだけで、地平線には灰色の壁も天まで伸びる砂の柱も見当たらなかった。

 砂嵐や竜巻の兆候はどこにもなく、人々は胸をなでおろした。

 見上げた空にサウンドストームが、その姿を現す。大気を震わす音の正体に彼らは気付くのだった。

 幾度となくロンダサークの上空をサウンドストームは飛んでいたが、人々はまだその音に慣れていない。

 五家に苦情を申し立てた者もいるほどである。

 少女自身、サウンドストームは試験飛行段階なので、何が起きるかわからないので、高高度飛行もロンダサークの城壁の内側を飛び越えるようなことはしていないが、そういった話もあると聞くと少女達はなるべく城壁から離れて試験飛行をするようにしていた。

 サウンドストームは石切り場の上空に姿を現すと翼を振りながら何度か旋回してみせる。

 ロンダサークの西部から北西部にわたって広がる砂岩地帯と呼ばれるところである石切り場は劇場の客席のような石段が底まで続いていて、隣接する下町と比べて見ても相当な広さであることが上空からは判る。

 サウンドストームは着陸地点を確認したのだろう、平らに整備された場所へとなだらか徐々に高度を下げ、砂の上を砂上船が滑るように滑らかに降りていく。スムーズな着地であったが、それでもまき上がる砂ぼこりに顔をそむける人や、エンジンが上げる咆哮に耳を塞ぐ者がいた。

「どうだ、トーラムよぉ!」

「お、おう。おお! 話には聞いていたが間近で聞くと雷よりもひでぇ音だ」

「これがいいんだよ。腹に響く重低音がたまらねぇじねぇか」

「そ、そうかぁ?」

 マサに言われトーラムは顔をしかめる。

 それでも彼は機体から目を離すことが出来なかった。

 彼らの目の前でその機体はゆっくりと形を変え始めたのである。翼が機内に収納されていき、尾翼も内側に折りたたまれると足らしきものが現れ機体がゆっくりと持ちあがって行く。収納されていたアームが伸び、ウォーカーキャリアの姿になっていくのだった。

「これがウォーカーキャリアか……たいしたもんだな」

 トレーダー以外の人間が宙港に近づけないため、ロンダサークの住人が間近でウォーカーキャリアを目にすることはなかったのだから、その姿に圧倒されてしまう。

「ああ、すげえんだぜ」

「お前、本当に嬉しそうだな」

 身振り手振りを交えウォーカーキャリアのことを話すマサを呆れるようにトーラムは見つめる。

「そりゃあ楽しいに決まっているだろうが」

「いや、そうじゃなくてな。そう、例えるなら孫が生まれた時のデレデレする爺さんみたいに見えるぜ」

「そんな顔してるか?」

「ああ、しているね」トーラムは苦笑する。「それにしても、これをマサたちが作ったのか?」

「作った。って言いてぇところだが」マサは肩をすくめる。「元のフレームがあって、おれたちはそれを復元したにすぎないんだよな。確かに失われていた細かい部品なんかはあったりしたが、エンジンやシステム、電装系に関しては今でもおれたちは判らないことだらけだ」

「そ、そうか、それでもすげえじゃねぇか。ヴィレッジにだってできねぇことをやってのけたんだろう」

 このプロジェクトに参加した者達の苦労話はトーラムの耳にも届いていた。

「あんな連中と一緒にすんなよ。おれたちゃ、誇り高き工の民だ」

「そうだな。そういうことにしといてやる」

「なんだよ、その言い草は」

「あのマサがさ、小さいとはいえトレーダーや元はヴィレッジと手を組んだんだから驚きだったよ」

「まあ、おれもこんな展開になるとは思いもよらなかったがな」

「お前さんがいうか」トーラムは呆れ、にや付くのだった。「とはいえ、マサの性格も判っているからな」

「そういうことにしといてくれ」

 マサは顔をそむけ答えた。

 飛行形態から歩行形態へ変形を完了したサウンドストームは砂地を歩き始めると、硬い岩盤を踏みしめる音がする。

 地鳴りのような音だった。

 一見そこは砂地に見えるが砂は表面だけで掃えばすぐに岩盤が姿を現す。ロンダサーク北西部にある石切り場は外壁から数十キロにわたって岩盤地帯が続いているて、さらにその周辺には砂鉄などの鉱物資源が含まれた砂地が広がっており、工の民が採取などの作業を砂上船からおこなっている。

 トーラム・メサダは石工の筆頭をしている。

 ロンダサークで現在、石材が採掘できる場所はここしかなく彼は石材の確保と採掘場保全といった責任ある立場にいた。

「小さいとは聞いていたが、間近に見るとそれでもでかいな」

 マサとトーラムの近くまで来るとウォーカーキャリアは脚の関節部分を人のように折り曲げ姿勢を低くする。

 二人のうしろに採掘場の人々が集まり始める。

 砂鉄集めをしていた砂上船も近づいてきていた。

 キャノピーが開き、少女は軽やかに地面に降り立つ。

「どうでした、マサさん?」

 ヘルメットをとりマサの元に駆け寄ると少女は訊ねた。

「問題ねぇぞ。風切り音もいいし、機体も震えていた様子はなくエンジンもビビッてねぇ」

 マサの言葉に満面の笑みに少女も嬉しそうであった。

「さすがマサさんですね。どんどん良くなっています」

 少女も操縦していて確実に手ごたえを感じていた。

「おだてるなよ、お嬢。こいつはまだまだ修正しなければならないところがあるんだからよ」

「ですが、クロッセもエンジンには問題がないといっています。そろそろ補助席を取りつけるころあいかと思います」

「おっ、いいねぇ。一番乗りはおれだぜ」

「それはみなで決めてください」

 サウンドストームに興味を示すものは多く、乗ってみたいという申し出も多かったのである。一番という響きに心躍る気持ちは判る気がするけれど、少女は飛ぶ意味と紙飛行機を教えてくれたシェラに最初に乗ってほしいと思っていた。

「マサさんだけでなく師やクロッセ、シュトライゼさんも一番乗りに名のりを上げているのですから」

「そいつらはおれが蹴散らしてやるよ」

 マサは力こぶを作って豪快に笑った。

「おてやわらかに」

 力勝負ではマサにかなうものはそうはいないだろう。少女は苦笑するしかなかった。

 そしてトーラムに向き直ると手を差し出すのだった。

「エアリィ・エルラドです」

「おっ、おう、トーラム・メサダだ。うわさはマサから聞いてるよ」

 マサと少女のやり取りをただ呆然と見ていたトーラムは慌てて少女の手をとる。

「どのようなうわさですか?」

「いやまあ、なあ。いろいろとな」トーラムもマサも同じ工の民というのもあって旧知の仲だった。「マサが気にいったっていう子だ。オレも会ってみたかったんだよ」

「うれしいです」

「こいつは石工の筆頭だ。ロンダサークで石を切らせたらこいつにかなうやつなんていやしねぇ。おれが鉄板なら、トーラムは石で何でも作っちまうんだよ」

「ウォーカーキャリアもですか?」

「可動はしねぇが、本物そっくりに彫れるぜ」

「すごいですね。それはみてみたいです」

「凄かねぇよ。そんな芸で喜ぶのは旧区のやつらだけだ」トーラムはどうでもいいという感じだった。「それにしてもウォーカーキャリアってのはすげぇな。今の話しじゃ空を飛ぶだけじゃなくて人まで乗っけてしまうのかい?」

「もともとサウンドストームは二人乗りで設計されていたようです」

「なるほどねぇ」

 頷きながらもトーラムは複雑な表情でマサを見る。

「なんでぇ?」

「こんな小さなアームで石が持ち上げられるのか?」

「この腕じゃ無理だが、こいつのパワーをバカにするんじゃねぇぞ」

「だってなぁ……本気なのか?」

「本気だぜ。なぁお嬢?」

「はい。この子ならできます」

 少女は力強く頷く。

「だってよぉ。城壁の基部になる石だぞ。どれだけの大きさと重さになると思っているんだよ」

 巨大なウォーカーキャリアを何台も使って運び出して積み上げたのが、ロンダサークの城壁である。土台になっている石は積み上げられた石よりもさらに巨大だった。

「そう言うと思って、こうやってわざわざお嬢に頼んでサウンドストームを引っ張り出してきたんだろうが」

「だけどよぉ」

「それともなにか、今頃になって石が切り出せねぇっていうんじゃねぇだろうな!」

 マサは声を張り上げトーラムに詰め寄る。

 石工の数は最盛期に比べれば格段に減っていた。

 今現在、石材は家の建て替えなどに使うのが主で城壁に使われるような巨大石材の需要はまったくなかったのである。

 筆頭のトーラムでさえ今まで城壁用の石材を切り出したことはなかった。その技法は大切に石工達に伝えられてきたが、彼自身腕をふるう機会があるとは思ってもいなかったのである。

「で、できるさ」

「頼むぜトーラム。お前さんがダメならこの話自体がご破算になるんだからよ」

「わ、判ってるよ。廃棄地区の再生なんて話をぶちあげられちゃあ、やらないわけにはいかねぇ」

 それは工の民にとっての悲願でもあった。

 巨大竜巻によって外壁が破壊されてしまい、砂嵐や竜巻からの防御手段を失った工の民の祖先は生まれ育った地を離れることになってしまった。以来、その地は誰も立ち入ることが許されず、放置され砂に埋もれるままになってしまっていた。

 その廃棄された土地を取り戻すために少女とマサは動き始める。

 少女がマサと交わした約束でもあった。

「よっしゃあ、それじゃあやってみっか」

 多くのウォーカーキャリアの力によって築きあげられてきた城壁だったが、少女とマサはサウンドストームだけで城壁の再生が出来ることをここからしめそうとしているのである。

「簡単に言ってくれるなよ」

「だからよぉ、グダグダ言う前にやってみようっていうんじゃねぇかよ。お前の方こそ準備はできているんだろうな?」

「お、おう。大石は切り出してある」

 建築資材用にばらす前の大石をトーラムは用意していた。

 彼の指さす先、石切り場の底には巨大な立方体があった。

「搬送用のワイヤーも通してある」

「指示通りにやっただろうな? 荷重が均等にならなければバランス崩しちまうんだからな」

「ちゃんとやったよ」

「それでは始めますか」

 少女は微笑んだ。

「もうか?」

「それこそマサさんがいうように、まずはやってみましょう。なにかあったとしたらそれからです」

「そりゃあそうか」

 少女に背中を押されマサも笑った。

 彼は号令を掛け屈強そうな石工達を引き連れ、巨大な立方体が置かれた場所へと降りていく。

 少女はそれを見送りながらヘルメットをかぶるとサウンドストームへと乗り込むのだった。


「でかいな……」

 石切り場の底に降り立ったマサは目の前の石を見上げながら呟いた。

 現在、石が採掘されているあたりは地表から二十メートル近く掘り下げられていたため、はじめは握り拳くらいの大きさにしか見えなかったが、実際に切り出されていた立方体は人の倍以上の高さがあった。

「これだけでかく切り出したのは久しぶりだったよ」

 トーラムはそう言いながら後ろを指さす。

 若い石工が切り出した石をノミとハンマーを手にきれいに成型しては積み上げていた。長屋の壁や土台に使われるもので、普段切り出されている石はこんなものだとトーラムは話すのだった。

「だが、これでも城壁の基部に使うには小さいくらいだ。それに材質も違う」

「小さいってのは判るが、材質だと?」

「マサが鉄板の材質のことをいろいろというのと同じだよ。石は用途に応じて使い分けられる。こいつは長屋のような平屋を造るのに適した加工しやすい材質の石だ。そこそこ頑丈だが、まあそこまでだ。城壁の基部となるともっと強くて耐久性のある岩が必要になる」

「じゃ、それと同じやつを使えよ」

「そう簡単には行かないんだよ」

「なんでだ?」

「ドームにも使われている石と同じもののはずなんだが、その石は切り出しが難しいんだよ。小さなものならおれも採掘して何度か使っているんだがな。これ以上のサイズとなると誰も切り出したことがねぇ」

 引退した老石工に訊いても、記憶にないというくらいだった。

「城壁の基部となると実際に計測してみないと判らないが、これの倍とはいわねぇが、それくらいの大きさが城壁には必要になるんだよ」

「誰もやったことがねぇ? 先人がやっているだろうが」

「その通りだよ。切り出しの方法も判っている」

 口伝ではあったが、その技法は筆頭から筆頭へと伝えられていた。

「知ってるんだったら、それをやってみせろよ!」

「口で言うほど簡単なもんじゃねぇんだよ、マサ」

「なにがだよ」

「一度失われたものを復活させるのは大変なんだぞ。それが高度な技術であればなおさらだ。オレ達には技量も経験も不足しているんだ。見よう見まねだけで物造りが出来るほど甘いものじゃないってのはマサだって判っているだろうが」

「そんなことは承知のうえよ。映像にあった城壁を構築した時代に比べればおれ達の技術なんざ子供みたいに幼稚なものなんだってのは、嫌になるくらい理解しているよ」

 図面を見ただけでは判らないこと、実際に試行錯誤の連続だった。

「それが判っているなら無茶なことは言わんでくれ」

「それでもおれ達はやらなければいけねぇんだよ。そうしなければ本当に衰退する一方になってしまう。現状を見てお前さんだって判らねぇわけじゃねぇだろう? 弟子にしたってそうだ。どれだけ人が減った?」

「仕事がねぇんだ。どれだけ修行したって一本立ちできるかも判らねぇ時代なんだぞ」

「そんなのは工区ではどこもいっしょだろう。だからこそのウォーカーキャリアだ。城壁の再建なんだ。ジリ貧になってしまう前におれ達は伝えられる技術は弟子や下の者たちに継承させなければならないんだ。その上で失われたものは復活。新しい技術を追加できれば最高じゃねぇか」

「それは理想だろう」

「理想だ、夢想だなんて言って立ち止まっちゃいられねぇんだ。今ならおれがいて、トーラムがいる。他にもまだいるんだ。間に合うんだよ。若い連中に物作りの素晴らしさと、匠の技を見せることが出来るんだ」

 拳を握りしめてマサは言うのだった。

「お前……そういうことをいうやつだったか?」トーラムは目を見張る。「いや、変われば変わるものだな……」

「おかしいかよ」マサは鼻の頭を指で搔いていた。「まあ、ちょっと前までのおれだったら、こんなこと考えずそのまま墓場まで自分の技を持っていってしまっただろうな」

 ゆっくりと降りてくるウォーカーキャリアの、そのコックピットを見つめマサは呟くように話す。

 トーラムもその視線の先を追った。

「あれがマサたちの技術の集大成みたいなもんか」

「力の結集ではあったが、集大成にはまだまだ程遠い」

「どれだけ理想が高いんだよ!」

「それでも物作りの楽しさをあらためて思い出させてくれたよ。うまくいかねぇことの方が多かったが、それでもあれが空を飛んだ時は嬉しかったぜ。今までの苦労が報われたってな」

「お前らはすごいよ」

「そう思うんだったら、トーラムもやりやがれ。後生大事にこの採掘場を守ってばかりじゃダメなんだよ。守ってばかりじゃ失われていくばかりなんだ」

「それは判るが、この身動きが取れない状況でオレらは何をやっていけばいいんだよ?」

 大きな仕事もなく、細々と家の補修などを手掛けるしかないのでは、次第に職人は減り、それまで培って来た技術も徐々に失われていく。

「自分で考えるしかねぇんだよ。長老会も当てにはなんねぇからな」

「それで城壁か」

「そういうこった。おれたち工の民は物を作ることしかできねぇ。生きるための仕事だっていうのもあるが、職人としての誇りもある。いいものを作りてぇ、それで喜んでもらえれば最高じゃねぇか。トーラムだってそう思う時があるだろう?」

「そうだな。うまく石が切り出せた時は自画自賛し、いい家が建てられた時は誇らしくもあった」

「いいものが出来た時、何よりもそれを成し遂げた時は充実感があるだろう」

「そんなにあれは楽しかったか?」

「ああ、人生で一度出会えるかどうかっていう体験だった。まだ弟子だった頃にたいした技術もねぇくせに大ボラばっかり吹いて、無茶なこと言っていたあの頃に戻ったようだったよ」

「まあ、あん時は無駄に情熱だけはあったからな」

 実際には出来ないようなことばかりブチ上げては酒を飲んでは仲間とバカ騒ぎしていた頃をトーラムも思い出す。

「それにお嬢を見て思ったよ。若い連中の活力ってやつをよ」

「まあ元気と勢いだけはありまくるからな。特にあの頃のマサはそうだったしな」

「うるせぇよ」マサはトーラムを殴る。「どうしても年をとって来ると達観したくなって来る」

「限界ってやつが見えてきたりするからな」

「ただな、おれたちは勢いだけだったが、お嬢は困難を薙ぎ払いながら進んでいくようだったよ。竜巻のようにな」マサは何かを思い出すようにクスリと笑った。「そして嵐のように周囲を巻き込んでいくだ」

「小さいのに大したもんだな」

「お嬢と会ってみて、お前はどうだった?」

「そうだな。不思議と印象に残るよな。なんかひきつけられるっていうかインパクトがある。だがなぁ。お前さんが弟子にまでしてぇっていうのがよく判らん」

 そんな噂話を耳にしたときには目を見張ったものだった。

「まあ、あれは才能としか言いようがねぇな。石工の仕事をさせてみりゃあ、お前もそう思うかもしれねぇぞ」

「そんなにか?」

「だが、そんなことはさせるつもりはねぇ」

「なんでだよ」

「これ以上ライバルが増えたらたまらんからな」

「よっぽどなんだな」

「初めて本気で教え込みたいって思ったぜ」

 マサはニヤリと笑った。

「マサん所の弟子たちが聞いたら泣くぞ」

「かまいやしねぇよ。あいつらだってお嬢の才能は理解しているはずだ」

「マサがそこまで言うんだ。一度やらせてみてぇな。それにしてもよっぽど気に入ったんだな」

「悪いか」

「ちょっと前のマサだと絶対にあり得ないと思ってな。つい最近までは、世捨て人みたいな感じだったくせによ。今はなんでそんなに晴れやかな顔をしてやがるんだよ」

「そんなに変ったか?」

「トレーダーと組もうだなんてことは絶対にありえなかったよな」

「ああ、それはあるな」苦笑いしながらマサは応えた。「しいて言えば食わず嫌いはやめたんだよ。意地張ってたっていいことはねぇ」

 あのままでいたら後悔しか残らなかっただろう。

「あの子のおかげか」

「ああ、おもしれぇぞ。一緒にやっていて飽きがこねぇな。弟子だけじゃねぇ、グラーやトスガ達にもいい刺激になっているだろうよ」

「工の地区の雰囲気も変わったような気がするよ。そう活気が出たっていうかな」

 寂れていたはずの通りから機械の音や威勢のいい声が響き渡るようになって来ていたのである。

「実際、お嬢から回ってきた仕事もいくつかあるからな」

「そいつはすげぇな。それにしても仕事があるっていうのはいいことだぜ」

「おれ達は物を作ってなんぼのものだからな。使ってもらってこその品だし、技術なんてものは一朝一夕で出来るもんじゃねぇ。このまま何もしなければ先人が守って来たものも築き上げてきたものすべてなくしてしまいそうだからな」

「そうなんだよな。弟子を育てるには手間も時間もかかる」

「ちゃんと教えてやって経験を積まなければいい職人はなりゃしねぇからな。職人が減ったっていうのもあって、ろくに弟子を育てられねぇってのもあるが、今の若いもんは現場が暑いだの辛いだの文句ばっかり多くていけねぇ」

「楽なものなんてありゃしねぇよな。苦労のひとつも知らなければ一人前にもなれやしねぇ」

「だが、結局のところ、後進が育てられねぇのはおれたちにも責任がある。だからこそこいつをきっかけのひとつにしてぇじゃねぇか」

「そいつは判った。だがな、もう一度訊くが本気なのか?」

「お前って、そんなに疑り深かったか?」

「生半端な気持ちじゃ出来ねぇってことだよ。もう長いこと城壁用の大石の切り出しなんてやったことはないんだ」

「だからってビビッてんじゃねぇだろうな?」

「そんなことはあるか!」

「だったらなんだってんだよ、トーラム?」

「これはマサが言い出したことなんだろう? おれ達だけで出来ることなのか?」

「確かにいまんところ長老会は関係ねぇな」

「ボランティアでそんな大事できるのかって訊いてんだよ」

「ただ働きにする気はねぇぞ」

「あてはあるのかよ、マサ」

「なくても作るさ」

「おい」

「それは冗談さ。土地の問題は下町すべての問題でもあるんだ。城壁の再建が可能となれば、長老会だって動かざろうえないさ」

「そう簡単にいくのか?」

「何もやらないで口だけのバカの仲間なのか?」マサの話し方に憤慨しかけたトーラムに彼は言葉を続ける。「まあ、おれもトーラムとあんまり変わらねぇのかもしれねぇがな。とうのおれたちが悲願だなんだと言っているだけで何もしないまま来たのに、縁もゆかりもねぇお嬢がやろうっていってくれたんだぜ」

「それが一番わかんねぇ」

「心意気ってやつだろう。おれはそう信じている」

「まあ、マサがそう言うんなら、そうなんだろうな」

「それにだ、お前らに石を運べなんて言ってねぇよ。その難しい仕事をお嬢が引き受けてくれるって言ってんだ。石切りが本職のお前が泣き言言ってんじゃねぇよ」

「お、おう」

「でなけりゃ、おれやお嬢が石を切り出しをやるからな」

「そ、それはやめてくれ」

「おれは出来ねぇことを言っているんじゃねぇ。トーラムにだからこそ頼むんだ。それとも何か、本当に自信がねぇのか? 出来ねぇのか?」

「本当にマサは容赦がねぇな」

「おれに優しい言葉なんて期待するな」

「そりゃそうだ。嵐か天変地異の前触れだ」

「大きなお世話だ。筆頭のお前さんが言うんだ。難しい仕事なのは判っているがな、それでもトーラムだって職人だろう?」

「だ、誰もやれねぇなんて言ってねぇだろう」睨むマサを見て、トーラムはひるむ。「ただなぁ。今日はこれで勘弁してくれ」

「しゃあねぇな。それにしても、そんだけの石を大昔は切り出してあそこに積み上げていたんだなぁ。やっぱり先人たちってのはとんでもねぇな」

「確かにな。以前映像ってやつで見せられたけど、多くの人とウォーカーキャリアが築きあげたものだったんだよな」

 数十台にもおよぶ巨大ウォーカーキャリアがアームやクレーンを使い数十メートルにわたって積み上げていった映像は衝撃的ですらあった。

「まあ、それを一台でやってしまおうっていうお嬢の発想も凄いがな」

「本気かと疑いたくなるレベルだよ」はじめに話を聞いた時には何の冗談かと思ったくらいである。「よくそんなこと思いついたもんだなマサ」

「おれじゃねぇよ。お嬢がおれらのために城壁を直そうっていってくれたんだぜ。嬉しいじゃねぇか」

「本当に惚れ込んでいるんだな。あんな小さな子に」

 トーラムは目を細める。

「年齢は関係ねぇんだよ」

 顔をそむけながらマサは呟くのだった。

「それにしても、お前さんやあの子を見ているとなんかできそうな気がしてくるから不思議だよな」

「ああ、出来ないと最初からあきらめるよりも、先へ進むことが大切なんだと教えられたよ。今さらだがな」

「本当に今さらだな」

「悪かったな」

「てめぇがいってんじゃねぇか」

「うるせぇよ。何もやらなけりゃ前に進むことはないし、そのままで終わっちまう。まず自分の気持ちじゃねぇか? どうなんだよ石工としては?」

「そうだな、だったらこっちも腹をくくるしかねぇか」

「そうだろう。そうだろう」マサはトーラムの肩を叩く。「男だったらどでかい仕事をやってみようじゃねぇか」

 大石の脇に立つウォーカーキャリアを見上げ、マサとトーラムは頷き合う。

 キャノピーを開け手を振る少女に二人は応えるのだった。


 切り出した石を搬送するための準備は想定以上に手間取ってしまう。

 石工達が用意していた搬送のためのネットの位置にマサが納得しなかったということもあり、重量バランスについての講釈がその場で始まってしまったのである。

 それが終わり、そのネットを指示通りにサウンドストームにつなげた頃にはクロッセも現場に駆け付ける。

 さらにはシュトライゼも姿を現すのだった。

「なんで、てめぇがここにいるんだよ!」

「このような素晴らしいイベントにわたくしが立ち会わなければ何も始まらないではありませんか」

「いらねぇよ! 静かにやるつもりだったのによぉ」

「あっ、マサさん。あたしが頼みました」

 少女がコックピットから元気に手を挙げる。

「ねっ」

 笑みを絶やさずシュトライゼはマサに頷くのだった。

「ね、じゃねぇよ! 意味がわかんねぇぞ」

 マサはシュトライゼを睨みつける。

「わたしくしがいなければ、巨石搬送の事実を長老会や下町の人々に伝える者はいなくなるではありませんか?」

「てめぇがただ楽しみたいだけじゃねぇか」

「そうですよ。自分が楽しめなければ意味がないではありませんか」シュトライゼはこともなげに言う。「それはそれとして事実はきちんと伝えますよ。下町の人々に知っていただくためにもね」

「ここはやはり多くの人に知ってもらいたいでしょう?」

 少女も頷く。

「お嬢よぉ。おれは嫌なんだよ。こいつのしつこさがよ」

「わたくしは人が知りたと思っていることを訊いているだけですが?」

「おれの心情やなんざどうでもいいんだよ。もっと他のことを訊け!」

「たとえば?」

「そりゃあお前、技術的なこととかだな」

「それが判る人なら面白いでしょうが、専門的なことは普通の人には理解できないことが多すぎるのですよ」

「感覚的なことなんざ、うまく話せるかってんだ。そういうことを根掘り葉掘り聞き出そうとしやがってよ」

「別にゴシップとか訊きだそうというわけではありませんよ」そういうものを望む方もいらっしゃりますがね。

「そんなことしやがったら、砂まいてやるぞ」

「それにしてもマサにもハーナ以外に苦手なものがあったんだな」

 マサの肩に手を置きトーラムが言ったが、その顔は笑っていた。

「おれはこいつが嫌いなだけだ」

「わたくしはマサさんが大好きですよ」

「いい年したオヤジに言われても気持ち悪いだけだ!」二、三歩引きながらマサは言った。「それにこういうものはインパクトが大切だ。ドーンと見せつけてやりたいじゃねぇか」

「わたくしとてしてはこの巨大な石をあの小さな機体で持ち上げるというのは、たとえ知っていたとしても驚きですがね」

「あたしもです」

「お嬢がそれをいうか?」

「だって、これほど大きいとは思っていませんでしたから」

「それでも持ち上げるんだよ」

「自信が御有りのようですね」

 シュトライゼはマサとクロッセに訊ねる。

「あったりまえだ! でなければ、こんなことやりはしねぇよ」

「頼もしいですね。クロッセ先生は?」

「理論的には可能だと思っていますよ」

「なるほど。エアリィ嬢はいかがですか?」

「マサさんやクロッセがいてくれますから、安心してやれますよ」

 営業スマイルで少女は広報向けの受け答えをする。

「それで、あなたご自身の自信は?」

 シュトライゼのさらなる問い掛けに少女は拳を握りしめマサやクロッセに微笑むと、二人もそれに応える。


「それにしても器用に動くもんだな」

 初めて間近でその姿を見た者はその動きに驚愕し見入ってしまう。ウォーカーキャリアが器用にアームを使いワイヤーロープを機体に絡まないようしている様子を見てトーラムは感嘆の声を上げた。

「これがサウンドストームの特徴なんだろうな。設計図から想像するかぎり、こいつは空を飛ぶだけでなく様々な用途にも使えるように考えられていた節があるからな」

「用途ねぇ。たとえば?」

「いまはまだはずしたままだが、荷物の乗せるためのカーゴスペースもある。それに重機の代わりとしても使えるんじゃないかということだ」

「どうやって? あの華奢な機体で?」

「アームは確かに重いものを持つようには出来ていないが、飛ぶことで重いものを持ち上げることも出来るはずだ。それがクレーンと同じ要領になるし、飛ぶことによって物資を早く効率よく運ぶことが出来る」

 その可能性に最初に気付いたのが少女だった。

 思いもよらなかった発想だったが、クロッセとマサも機体を前に検証してみるとそれを否定する要素は見当たらなかったのである。

「すげえな。オレはそれぞれやれることが決まっているとばかり思っていたよ」

「そうだな。キャラバンの中核として大きなカーゴスペースと居住区画をもった大型のビックキャリーや重機にも使える中型、移動スピードがあり小回りの利く小型のウォーカーキャリアがおれらもよく見かけるものだがな」

「そのどれとも違うものだよな、あれは」

「ああ、なんであんなものが考えられたのか、不思議でしょうがねぇよ」

「空を飛ぼうなんて、普通は思わねぇやな」

「まったくだ。こうなって来ると先人のおとぎ話も本当のことのように思えてくるな」

「ああ、あっちから先人の祖先はやって来たってやつかい?」

 天を指さしトーラムは笑った。

 風の生まれる場所とともに、幼い頃に枕元で聞かせられたおとぎ話のひとつだった。

「先生の話しじゃねぇが、おれらは砂雲の向こう側のことなんて考えたこともねぇからな。それにトーラムよぉ、先人はおれらが思いもつかねぇような奇想天外な力を持っていたかもしんねぇぞ」

「本当にあると思うか、マサよ?」

「おれにそんなの判るわけねぇだろう。レイブラリーですら知らねぇんだ。判りゃしねぇ。ただ……、そうだな。もし触れられるとしたら、その当時の技術ってやつには触れてみてぇな」

「そうだなぁ難しくて想像もできねぇが、便利なものも、すげぇ物もいっぱいあったかもしれねぇな」

「空を飛ぶための道具もいっぱいあったかもな」

「確かに、こんなのがいっぱいあったら便利かもな。なんだよその目は、オレがこんなこと言うのが変かよ? だってよぉ考えてみろよマサ、遠くのオアシスまでひとっ飛びでいけるかもしれねぇんだぞ。ロンダサークだけじゃねぇ、トレーダーに頼らなくても他のオアシスとだってもっと頻繁に行き来できるかもしれねぇんだ。オレ達にだってな」

「トーラムにしちゃあいい思い付きだな。そうかもしれねぇ」

「あの嬢ちゃんが乗っているやつも、そんなこと出来るかな?」

「出来るさ」

「おおっ、すげぇ自信だな」

「お嬢を見ていると、出来ねぇことなんてねぇような気がしてくるよ。それに引っ張られるのかもしれねぇが、誰もやったことがねぇことをやってみてぇじゃねぇか」

「先人はとうにやってたことかもしれねぇがな」

「うるせぇな。そんなことは百も承知よ。お前さんの言葉通り簡単にはいかねぇかもしれねぇが」

「マサ達を見ていると、かなり順調にも見えるがな。違うのか?」

「そういうふうに見えるか?」マサは顔をしかめトーラムを見る。「文献もなにもねぇ。設計図しかねぇもんから始めるんだぞ。簡単に進んだことなんてありゃしねぇよ。まさに手探り状態だよ」

 どこまで飛んでいけるかもこれから試してみないと判らない。今回のようにどこまで荷重に耐えられるかもだ。

「先生の話だと飛ぶには大量のエネルギーを消費するんだとよ。一日外でソーラシステムを使ってどれだけエネルギーをためられるのか、それでどこまで飛べるのか試して、それを元にして計算したりしている」

 マサは少女と最後の打ち合わせをしているクロッセを眩しそうに見つめる。そういった細かい計算とかはさすがに元はヴィレッジだっただけはある。

「そ、それは大変そうだ……、一気にガーッとやってしまえればいいのにな」

「基準となるものがねぇんだ。それにウォーカーキャリアは本来歩いて砂漠を渡るものだからな」

「そりゃそうだけどよ。歩くよりも楽かもしれねぇぞ。空には障害物なんてねぇんだからな」

「トーラムにしてはいいこというじゃねぇか!」

 感心したようにマサはトーラムの肩を何度も叩く。

「ひと言余計なんだよ、マサはよ。それにしても、飛べるとはいえ、あんな切り出した石よりも細い体と足で重いものを持ち上げるのは大丈夫なのかよ」

「何度も言わせんな。大丈夫に決まってんだろう! 小さくたってバカにするんじゃねぇぞ!」

「あの子と同じか」

「そういうこった。判ってきたじゃねぇか」

 マサはニヤリと笑った。

「お前さんを見てりゃな」

「それにな誰があれを手掛けてっと思ってんだよ。ウォーカーキャリアはどんなところも渡っていかなきゃならないんだぞ。こんなところで躓いてちゃ外になんか出ていけねぇだろうが。やわなことばかりやっていちゃあ意味がねぇ。おれたちは強きものを造っているんだ。この大地で生き抜くものをな。おれはあいつを砂嵐や竜巻の中でだって負けねぇようにするんだよ」

「嵐の中たぁ、大きく出たなマサよ」

「大切に使うだけじゃ意味がねぇ。鍛えてこそ意味があるんだ。おれは観賞用のものを造ってんじゃねぇからな。おれらが造っている物は使ってもらってなんぼのものなんだからな」

「いいこというじゃねぇか、マサのくせによ」

「ちゃかすな」

「おかえしだ」

「そうかよ」マサは鼻を鳴らす。「実際に初めてのものばかりなんだ。いろいろと試してみなけりゃ始まらねぇし、何も理解出来やしねぇ。たとえそれでどこか壊れたとしたら、そん時は修理すればいいだろうし、何が悪かったのか判れば次にはもっといいものに仕上げることが出来らぁな。そうやってあいつはここまでこぎつけたんだからよ」

「やれやれ、うらやましいね」

「あったりめぇだろう。それを今度はお前もやるんだよ」

「オレもか」

「次につなげるためにな」

「次に、か……。ようやくマサ・ハルトが動き出したんだな」

「な、何だよその顔は」

「動かざること山の如しだったからな」

「すまねぇな。工の頭になっても何もしてこなかったおれだからな。よくついてきてくれたと思うぜ」

「マサだからだぜ。お前さんが号令をかければ寝た子でも跳び起きるさ」

「そんなに強引だったか?」

「そういう意味じゃねぇんだがな。連中にはいい刺激になったんじゃねぇか? はたから見ていても活気があったからな」

「だったらいいがな。あいつらになにか残せたんなら、それでいいがな」

「なに辛気くせぇこといってんだよ。マサらしくねえ」

「なんだかんだ言っても年を取ったよ」

「そのわりには腕相撲ではりきっていたじゃねぇか」

「負ける気はねぇがな。それでも、体は正直すぎてな」

「あ~、それは判るわ」

「だからこそ残してぇし、その先にある可能性を見せてぇじゃねぇか」

「立ちはだかるものが先人やオレ達のような年寄りであれば、後進を造るのもオレ達だからな」

「わかっちゃいるが、弟子を育てんのも楽じゃねぇよ」

「マサの師匠だってそう思っただろうよ」

「悪かったな。ろくでもねぇ弟子でよ」

「そういうのは師匠に言え」

「言えるんだったら言ってらぁ」

「そうだよなぁ。お互いに」

「砂漠の向こう、風の辿り着くところだからな、おれらの師はよ。それでも感謝してもし足りねぇくらいだ」

「まあ、今になって判ることもあるからな」

「そういうこったな。昔を懐かしむようになっちゃおしめぇだぜ、トーラムよ」マサは肩をすくめる。「やだねぇ、年はとりたくねぇぜ」

「お前さんが言い出したんじゃねぇかよ!」

「うるせぇよ。とっとと始めるぞ」

 そういいながらマサはトーラムの背中を叩く。

「こんなところで立ち止まっていられっか。おれたちも前に進むんだからよ」

 コックピットの少女と話をしていたクロッセが機体から離れ戻って来る。

 エンジンの音が周囲にこだまし、砂ぼこりが吹き付けてくる。

 シュトライゼはそんな少女の周囲の様子を黙って追い続けた。


 ゆっくりと上昇用ノズルの出力を上げていく。

 巨大な石の階段を抜け地表へと出ようとした時、グンと機体が引き戻されるような感覚があり、少女はアクセルをさらに踏み込む。

 エンジンが更に咆哮を上げる。

 出力表示がどんどん上がっていった。まだ踏み込んだことのない領域へと。

 それでも目の前に見える景色は動いていない。

 徐々に焦りと不安が芽生えてきた。

 機体が悲鳴を上げているような気がしてくる。バラバラになるのでは……、アクセルを緩めたくなる恐怖心がもたげてくるのだった。

 まだエンジン出力に余裕はあるはずなのに、それを頭では理解していても、いつもとは違う感覚に操縦桿を握りしめている手が汗ばんでいる。

 実際にはほんのわずかな時間だったはずだ。しかし、このこう着状態は永遠に続くように感じられた。

 唐突に体が軽くなり浮くような感じがして、コックピットの外を見ると景色が動き出していた。

 ゆっくりと少女は息を吐き出した。気付かぬうちに息を止めていたようだった。

 高度がゆっくりとではあるが上がって行く。

 だがホッとしている余裕はなかった。

 機体がうまく動いてくれなかった。

 もどかしい。

 機体が地表へと姿を現すと少しの風でサウンドストームは大きく振られるようだった。

 その度にエンジン出力を安定させながら機体のバランスを保っていく。

 空を飛ばすよりも難しい。少女はそう思った。

 風防は開けっぱなしにしている。

 左手でミラーの位置を調整し真下を確認しやすいようにする。

 思った以上に下が見づらくて、距離感が全然つかめなかった。それにミラーは左だけではなく右にも必要だろうか?

 操縦しながら真下を覗きこめないのがもどかしい。

 このままでは正確な位置に石を下ろすのは難しいだろう。

 外壁の修復工事が実現したとしたら、これは問題である。

「いっそのこと、足元をガラス張りにしてみようか?」

 そんなことを言ったら、頭に怒られそうだった。どれだけ手間がかかると思っているんだと。

 十分な高度を取ったつもりだった。

 それでもギリギリだったようだ。危うく淵に石をぶつけるところであったらしい。

 それを聞くと少女は誘導してくれる人がほしいと感じるのだった。


 サウンドストームによる巨石の搬送という試験は成功した。

 ウォーカーキャリアが飛び立ち、切り出した巨岩を持ち上げたその光景は、圧巻だった。その姿は見る者に畏怖の念を抱かせる。

 機体よりも大きな岩がふわりと浮かび上がったのである。

 その事実をシュトライゼはありのまま記事にする。

 そして少女や工の民が成そうとしていることを伝えたのである。

 それは瞬く間に下町に広がっていくのだった。



 2.



「お前さんは、何がやりたいんだろうな?」

 オーリス・ハウントは頬杖をつきながら呟いた。

 日は登りきっており、通りを行きかう人は減りつつあるようだった。

 目の前の少女は帳簿つけに懸命になっている。オーリス独自の帳簿の管理を教えると少女はそれを貪欲に吸収しようとしていた。

「やりたいことでしたら、たくさんあります」

 顔を上げずに少女はオーリスに答えた。

「若いし可能性もある。いろいろとやってみることはいいことだな」

 皮肉交じりの声だった。

 表の雑踏の音にかき消されそうな呟きであったが、少女はそれを聞き逃さない。

「ありがとうございます」

「褒めてはいない」

「はい。理解しています」

「そうか」

 オーリスは鼻を鳴らす。

 シュトライゼと話をしている時以外にも彼は少しずつ表情を見せるようになって来ていた。

 それが少女にとって嬉しく、彼との会話が楽しくなってきていた。

「やることが派手すぎるんだよ」

「まあ、シュトライゼさんのやることですから」

「シュトライゼ? おれが言ってるのはお前さんのことだ。それにそれを利用しているのもお前さんだろう?」

「どうでしょう。もちつもたれつという感じもしますが?」

「はたして人はそう見るかな?」

「みないでしょうね。あたしはいつも渦中にいますから」

「名を売ること自体は悪いことじゃない。こと商売となるとな。しかしお前さんのやっていることは商売とはかけ離れたところにあるからな」

「別に名を売りたいというわけではありません」

「シュトライゼが意図的にそう仕向けているというのもあるか。あいつに目を付けられたのが運のつきだ。災難だと諦めるしかないな」

「災難なのでしょうか?」少女はクスリと笑った。「それでもシュトライゼさんはすごい人です」

 彼が大会の時に集めた人々やその運営方法を少女は思い出す。

「裏でどんなことをやっているか、判ったもんじゃない」

「それだけの人脈があり交渉材料があるということが尊敬に値します」

「まあ、あいつはそういう奴だからな」小さく鼻を鳴らす。「見習う必要はない」

「あたしにはまねできません」

「そうだろうか」オーリスは少女に聞こえないようさらに小さく呟く。「お前さんも負けていないよ」

「なにか?」

「お前さんは凄いってことさ」素っ気なくオーリスは呟く。「本当に何がしたいんだか」

「壁を壊したいだけですよ」

 少女はサラリと言った。

「よく言う。壁を修復しようとしている奴が」

「ベラル師曰く、人は創造と破壊の聖霊だといいますよ」

「お前さんは聖霊か? そうなりたいのか?」

「あたしはトレーダーですよ」

「その言葉に何の意味がある?」

「あたしの誇りです」

「それがお前さんのアイデンティティか」オーリスは苦笑する。もしかすると面白がっているのかもしれない。「たとえそうだとしてもなぜお前さんはロンダサークのことに関わってくる?」

「理由が必要でしょうか?」

 少女は自分自身の視野が狭かったことだけは理解できる。

 無知から触れてもみないのに汚いと蔑んでみたり、思い込みだけで何も知ろうとしなかったことが恥ずかしい。それでもその理由を聞かれるとその根底にあるものを言葉にすることは難しかった。少女自身も自分がここまでオアシスの人々と交流し肩入れすることになろうとは夢にも思わなかったことなのである。

「理解しがたいだけだ。お前さんは自分をトレーダーだと言う。しかし古今東西、砂漠の民とオアシスの民が交わった話は聞かない」

「下町の建設のときは?」

「協力関係にはあっただろうが、交流があったかは定かではないな。大昔の出来事だ。そんな記録も残ってはいない。おれ達の知るトレーダーは孤高の民であり、脅威と破壊をもたらす恐怖の存在でしかない」

「あたしは恐怖であり、脅威ですか?」

「まあ否定できない部分はあるだろうな。それでもお前さんはおれ達のなんら変わることのない人間だよ」内に秘めたものは桁違いだがと、オーリスは心の中で付け加えた。「だがオアシスではトレーダーは荒くれ者であり、おれ達とは異質な存在でしかない。それ故にお前さんもそうみられるだろうということだ。自分の領域を守ろうとする者達にとっては特にな」

「あたしは革新的なことをしているとは思いません」

「お前さんがどう思おうが、保守的な奴らにはそうは映らないだろうさ」

「そんな連中は砂漠で果てればいい」

 吐き捨てるように少女は言う。

 そのストレートな物言いにオーリスは吹き出しそうになる。そして誰かを連想させる。誰かを……。

「トレーダーだというお前さんは異分子でしかない。今ここにいてもお前さんはオアシスに溶け込もうとはしていないわけだ」

「なぜそうする必要があるのです?」

 オーリスはその答えに目をみはった。

「郷に入れば郷に従えという言葉もあるが、お前さんには無縁なのかもしれんな。いや、迎合しないからこそ今があるか」

「あたしはあたしですよ」

「誰もが妥協の中で生きているというのにな」

「妥協とは何でしょう? あたしは後悔したくないだけです」

「何がそこまでさせるのやら」オーリスは苦笑する。「お前さんは稀人だよ」

「そうでしょうか。あたしよりも先にヴェスターがいます」

「ヴェスター?」

「あたしのロンダサークでの保護者です。彼もまたトレーダーであり、オアシスで商いをおこなっていますよ」

「お前さんの師というわけかな?」

「多くのことを教えてくれますが、師というよりは恩人というべきかと思います」

「シュトライゼはどうか判らないが、おれは知らないな。それにその人物がそうであったとしても多くの民に知られているわけではないだろう? いまの潮流を作ったのはお前さんだ」

 マサとの一件、工の民の奮戦。そしてアームレスリング大会だ。それは少女が発端となり動き出したことだった。

「潮流? 流れですか。そういうものがあったとしても、あたしひとりでできたわけではありませんよ」

「だがお前さんがいなければ始まらなかったことでもある。何がそうさせたかは知らないが、そのせいで下町だけではなくロンダサーク全体の秩序が乱れているのも事実だ」

「秩序というのはどういうものなのでしょうね? あたしの視点からすればその秩序とやらはおかしなことだらけですよ」少女は肩をすくめる。「それでも、あたしがなにかをすることでそれを心よく思わない人も多いのでしょうね」

「大半は面白がっているだけかもしれないが、少なからずそういう奴らもいるだろうな」

「あたしはオアシスの常識を知りません。それにオアシスとかかわらずにすごすこともできました。それでも出会ってしまいました」

 クロッセやベラル師、そしてシェラや多くの人達に。

「難儀なことだ」

「オーリスさんにも、ですよ」

 少女は笑みを向ける。

「おれのことはどうでもいい。だがどうあってもかかわり合いができてしまうのも事実か。それならそれでもいいがこの状況を作っておいてお前さんはどう責任をつけるのだろうな」

「責任?」

「聞けば、お前さんはいつかここを離れるというではないか。この状況を作っておいてすべてを放り投げていくつもりか?」

「あたしがいなくてもなにも変わりませんよ」

「そんな訳はないだろう。お前さんがいなくて最後まで壁の修復とやらをやりとげることはできるのか?」

 少女とウォーカーキャリアがあってこそ成せる計画でもあった。

 口を開きかけた少女をオーリスは制する。

「確かにお前さんがいたとしても本当にそれが成し遂げられるかなんてのは判ったもんじゃない。それに土地の問題は簡単じゃない。技術面だけではなく長老会や金銭面のこともある」

「やれますよ。あたしのサウンドストームを復活させてくれた人たちがやろうとしてくれているのです。不可能ではありません」

「ずいぶんと楽観的じゃないか」

「簡単なことではないことはわかっています。それでもいつか誰かがやらなければならないことです。多くの人を巻き込むことになることにもなるでしょうが」

「そうだな」

 彼は大きくため息をついた。

「ありがとうございます」

「なぜ礼をいう?」

「オーリスさんも可能性があると思ってくれたからです」

「勝手な解釈をするな。おれがやるわけではないんだからな。ただ確率がゼロというわけではないだけで絶対というわけではない。それに長期的に見なければならないことが多すぎる」

「マサさんがいなければサウンドストームの復活はありえませんでした」少女は頷きながら答える。「これはあたしの気持ちの問題です」

「しかし、土地や壁はお前さんひとりでどうこうできる問題でもない。確かにこれは閉塞感を打破する刺激となるかもしれないが、本来、これは下町の民がやらなければならないことだ。それがお前さん頼みっていうのは情けない話だ」

「あたしは部外者かもしれない。それでもあたしを受け入れてくれた人たちになにか返したい。どんなに時間がかかろうとやりとげてみたい」

「お前さんは真っ直ぐすぎるんだよ」

「オーリスさんにそう言ってもらえるとうれしいです」

「褒めてはいない」

「あたしの中ではそう思うことにしています」

「勝手にしろ」

「あたしのようなトレーダーがいてもいいのではありませんか?」

「人を尊ぶことはいいことだ。本来そうあるべきだろう。今のお前さんがそのまま進んでくれたのなら言うことはないだろうな。しかしお前さんがキャラバンに戻ったとしたら、昔のままではないお前さんはファミリーにうまく溶け込めるかな? そして受け入れてもらえるだろうか?」

「そ、それは……」

「そこにはお前さんの恩人とやらもいない。オアシスの民を地根っ子と忌み嫌い蔑む奴らしかいない中でお前さんはそれまでと同じようにやっていけるのかな?」

「……無理でしょうね」

「それでも戻るか?」

「あたしはもどります。あたしは砂漠で学びなおさければいけません」

「何のために?」

「いま足りないものを手に入れるために」

「孤独に苛まれてもか」

「すでに味わっていますよ」

「今の感性や想いを捨ててまで戻る価値があるのか? 栄光や楽しさを知ってしまえば、退屈な日常が待っているだけかもしれない」

「砂漠以上に刺激的な場所はありませんよ」

「環境は苛酷であろうよ。しかし、いままでの生活を捨て去るということはゼロからのスタートでしかないのだぞ」

「望むところです。あたしは過去を悔いている。いままでの自分を捨て去るつもりはありませんが、ここで学んだことを糧に生きていくのだと決めています」

「口ではなんとでも言える。ここでのことなどトレーダーは誰も耳を傾けやしない。おれ達のことを口にするだけで差別され疎外されてしまうだろう。お前さんを受け入れる者はいなくなる。そんなことは出来やしないさ」

 その言葉は胸に突き刺さって来るかのようだった。

「よくご存じですね?」それには答えずオーリスは鼻を小さく鳴らすだけだった。「それはオーリスの経験ですか?」

「おれの言葉なんて忘れてしまえ。おれの経験なんてろくなものではない」

「どのような生き方にも意味はあるとベラル師は言っています」

 人は環境によって時とともに変わっていくが、それでも変わらぬ魂があるはずだと、そうベラル師は教えてくれた。

「あるものか。埋没した人生を送っている奴だっている」

「それでも人は誰かとかかわりあっていますよ。今この時のオーリスさんとあたしのようにね」

「それこそ忘れてしまえ」吐き捨てるようにオーリスは言った。

「今この時起こったことの大半は忘れてしまうかもしれません。それでもあたしの特異な立ち位置と責任は胸に刻み込まれました。ありがとうございます」

「口でどのようにでも言えるものさ。おれの言ったことは無責任な戯言でしかない」

「そうであっても、何気ないひとことで思い知らされることは多いですよ」

「お前さんは幾つだ。年相応には見えんな」

「成長できているのでしょうか?」

「おれには評価できん。前のお前さんは知らないからな」

「ではそれが理解できるだけあたしを観察してください」

「ごめんだね。そんなのはシュトライゼに任せるよ」

「残念です」心底残念そうにいう。「仕方がないので、この帳簿の付け方を採点お願いします」

 少女は書き上がった帳簿をオーリスに差し出した。

「おれにか」

「帳簿の付け方をあたしに教えてくれたのはオーリスさんですよ」

「おれとしてはお前さんの収支管理に驚きだよ」

「あたしたちには通貨という概念があまりありませんでしたから」

「基本は物々交換というのは判るが、それでも通貨は理解しているようだったが?」

「オアシスとの取引には必要でしたから。それだけですよ。たとえばロンダサークの通貨がほかでは役には立ちませんからね。通用するとしたら、金貨くらいです」

「そうだったな」

「こうしてあらためて教えてもらうと、帳簿の重要性がよくわかりました」

「品物を管理するのと同じだ。こうしてまとめておけばあとあと楽だし、人や物の流れが見えてきたりするときもあるからな」

 オーリスは少女から帳簿を受け取るとページを開いていく。一枚一枚、彼は注意深く数字を追いかけているようだった。

 沈黙が長い時間続いているような気になってくる。

「あの」

 声を掛けてきたのは店番を任せていたフィリアだった。

「なに?」

「オーリスさんのことを訊ねてきている方がいらっしゃるのですが」

 少女が店先を見ると中を何度も覗きこんでいる女性がいる。

 店の奥は薄暗い。灯りは少女の手元あるランタンだけであったし、オーリスは黒い衣装に加え店中でもフードをはずそうとしなかったので判断が付かない様子であった。

「おれを?」

 声をさらに低くしオーリスは訊ねた。

「そうなんです。どうしたものかと」

「なんて答えた?」

「まだ何も……確認してからにしようと思いまして」

「それはいい判断だ。そんな奴はいないと伝えてくれ」

 フィリアは困惑しながら少女を見る。

「わかりました」

 少女は立ち上がると自分がそう告げてくると言うのだった。

 店頭に出ると訴えかけてくるように話してくる女性に少女は首を振りながら何度か受け答えしていた。少しして女性は納得したか店先から消えていった。

「お知り合いですか?」

 戻ってきた少女はオーリスに訊ねる。

「いや」見覚えはなかった。少女の問い掛けに彼は首を横に振る。「何か言っていたか?」

「特には。人違いですといったら、納得してお帰りになりました」

「そうか。ならいい」

 オーリスは話題を切り替えようと帳簿を少女に指し示す。

 少女はフィリアにまた店番を任せるとオーリスの話に耳を傾けるのだった。


 店の表側はフィリアに閉めさせると少女は戸締りを確認し裏口から出た。

 店と店との隙間は人がひとり通れるほどしかない。少女くらいの体格ならさほど問題ではないが先に出ていたオーリスはかなり窮屈そうに隙間を抜けようとしている。

「お嬢さま、準備できました」

 通りへの出口でフィリアが両手で大きく丸を作りながら声を上げる。

 オーリスが顔を向けると、彼の行く手には人が立っていた。

 先程の女性だろう。

 立ち止まって動こうとしないオーリスの背中を少女は体当たりでもするかのように無理矢理前へと押していく。

「お、おい! これはどういうことだ?」

「逃げられないようにしただけです」

 なおも少女は力任せにオーリスを前へと押す。

「オーリス・ハウントさんですね?」

 女性は静かな声で彼を呼ぶ。

 しかし、オーリスはそれに応えようとしない。顔をそむけ目を合わせないようにしているようであった。

「あの人はオーリスさんにお礼をいいたいそうです」

 少女の言葉にもオーリスは無言だった。

「申し遅れました。わたしはマロリーと申します」深々と彼女はオーリスに頭を下げる。「ハウントさんが商区に戻られたと聞き、こうしてうかがった次第です……ようやくお会いすることが出来ました……わたしは……」

 あふれ出す涙をぬぐおうとするのだが、それでも涙はとめどなく流れてくる。あとは言葉にならなかった。

 オーリスは前に進み出て彼女を軽く抱きしめて背中を叩く。

 さらに嗚咽がひどくなる。

「すまない。場所を借りてもいいだろうか?」

 オーリスは振り返ると少女に助けを求める。

「ちゃんと話をしてくださいね」

 少女はそう言って頷くとカギを開けオーリスとマロリーを店内に招き入れた。そして二人きりにするとフィリスと少女は外でオーリスを待つのだった。


 少女はフィリアが買ってきた水菓子を受け取ると一口頬張る。

 スティック状の菓子で表面はカリッと油で揚げられているが、口の中で蜜のような甘さがあふれてくる。小腹が空いた時や糖分を補充したい時にいい。

「ずいぶん甘いわね。どこの?」

「アヤックスさんのところのです」

「あたしはミズウルスの店の方が好きかな。甘すぎず濃すぎずちょうどいいわ」

「え~っ、わたしはこの甘さが好きなんですけど」

「あたしはミズウルスの方が人気だと思っていたわ」

「アヤックスさんやホーヘンハイムさんの店も水菓子は有名ですよ」

「なるほどね」自慢げなフィリアに少女は頷くと「フィリアが買い物ついでに買い食いしているのが、よくわかったわ」

「お、お嬢さまぁぁぁぁ……」

「いわないわよ」

 少女はもう一口、水菓子を頬張りながら微笑む。

 日はだいぶ高くなり通りは陽炎が揺らめいている。ひさしの影で二人はぼんやりと水菓子を食べ、道行く人を眺めていた。

「どういうご関係なのでしょうね?」

 店の入口を見つめながら訊ねるフィリアに少女は首を横に振る。

 店の中に入ってかれこれ三十分は経とうとしていた。

「昔、診療所で命を救われた方ではないでしょうかね」

 不意に声を掛けられ振り向くと息を切らせ額に汗をにじませたシュトライゼがいた。

「あなたの店の前で泣いている女性がいるという話を聞きましてね」シュトライゼは店を見る。「オーリスは中ですか?」

 少女は頷く。

「やはりオーリスを訪ねて来た人がいたのですね」

 遅かれ早かれそうなると予測していたようでもあった。

「十年前のお礼がいいたいといわれました」

 あの様子からそのまま話を通しても逃げられると思った。だから店の外でしばらく待ってもらっていた。

「そうですか」

「シュトライゼさんのお知り合いですか?」

「違うでしょうね。オーリスも知らない方ではなかったですか?」

「そのようでした」

 少女の答えに静かにシュトライゼは頷く。

 普段なら嫌でも耳に入ってくる雑踏の音も聞こえてこないような感じがして、静寂の中にいるような気がしてくる。

 しばらくして裏口の扉が開くと、オーリスと婦人が姿を現す。

 通りに出ても彼女は何度も何度もオーリスに頭を下げ続ける。オーリスは黙ってそれを見ているだけで、その顔は面のように表情がない。

 最後に彼女はオーリスの手をとり感謝の言葉を告げ、そして何度も振り返り頭を下げながら彼女は去っていくのだった。

 その姿が人混みにまぎれ見えなくなるとオーリスはゆっくりと大きく息を吐く。

「御苦労さま」

 声を掛けたのはシュトライゼだった。

「これはお前の差し金か?」オーリスは首を振る。「違うな。お前さんだったらもっと前に仕掛けていたか……」

「ずいぶん長く話されていたようですね」

「なかなか泣きやんでくれなくてな」

 素直にオーリスは答えた。

「よほどあなたにお会いしたかったのですね」

「おれにじゃない……」

「そうですか、ティナにですか。会ってもらったのですか?」

「拒む理由はない」

 オーリスは胸に手をあてている。

 亡き家族の遺灰か遺骨の入ったペンダントを彼は身につけていることに少女は気付かされる。

「ずっとあなたを捜していたのでしょうね。それにあなたのことを気にかけていた」

「おれのことではない。それにおれは話を聞いていただけだ」

「それでもあの方はオーリスに感謝したかったのでしょうね」

「人の話を聞いているのか?」

「伝えられるのはあなたしかいない。そしてあなたが彼女にそれを伝えるしか術はない。それにあの方はオーリスが商区に戻ってきてくれたことを喜んでいた。また商いをはじめてほしいと願っていたではありませんか? ティナだけではない。あなたも感謝されていたのではありませんかね」

「なぜだろうな……」

「そういう方がまだまだ下町にはいるはずですよ」

「おれには判らん」

 砂色の空を見上げオーリスは呟く。

 彼はフードを目深にかぶると、手を振りひとりで通りを歩きだした。

 シュトライゼも少女も黙ってそれを見送る。

「シュトライゼさん、さっきの話ですが」

「ティナのことですか?」

「そのお話し、もう少し詳しくうかがってもよろしいでしょうか?」

「そうですね……わたくしの知るかぎりでよろしければ」

「それでかまいません」

 シュトライゼはジッと少女を見つめる。

「なにか?」

「あなたは本当に世話好きですね」

「世話好き? そうでしょうか?」

「物好きで、そして好奇心のかたまりですよ」

「それって、ぜんぜん世話好きと関係ないですよね」

「ではお節介ということで」

 シュトライゼの言葉に少女は唖然としフィリアは吹き出しそうになっていた。

「まあ知らないでいるよりはいいこともありますしね」シュトライゼはいつものように微笑んだ。「これから時間はありますか?」

「作ります」

 本来ならすでにこの時間にはレイブラリー邸にお邪魔して師の話を聞いている時刻であったが、少女は即答した。

「ではわたくしとの散歩にお付き合いください」

「あのぉ、お嬢さま、シュトライゼ様、わたしもご一緒してもよろしいでしょうか?」

 フィリアは恐る恐る二人に声を掛けると、少女は無言で頷く。

「少し退屈な散歩になるかもしれませんが、それでよろしければ」

 シュトライゼはそう言うと二人を伴い歩きだすのだった。



 3.



「十年前、ロンダサークでスラド熱が大流行する兆しを見せたのですが、話は以前お話ししましたよね」

 シュトライゼは語り始める。

「フィリアは知っている?」

「生まれてはいましたが記憶はありません。ですが、お爺から身内にもそれで亡くなっている者がいたと聞かされました」

「少なからぬ人が亡くなりました。それでも過去に流行した時よりは被害は少なく済みました」

「診療所のおかげだとお爺から聞きました」

 フィリアの言葉にシュトライゼは頷く。

「その礎を作ったのがティナであり、下町診療所の初代所長が彼女でした」

「八区に突然出来たって、お爺は言っていました」

「まあ建設は急ぎましたからね。そう見えたのかもしれません。治療を担当する療法師、薬師、そして看護を担当する者、すべては寄せ集めの急造チームで始まりました。なかなか理解されないところもあり最初は大変でした」

 それまでの医療はその地区にもともといる医術の心得がある者達が担ってきていた。それはまとまりに欠けるものであり一度失ってしまえば補充がきかないものでもあった。診療所はそのバラバラだった地区の医療体制をまとめることを目的とし、総合的な施設として作られたのが場所であった。

 ただ診療所の理念は高尚なものであったが、下町の人々にすぐに受け入れられたわけではない。

「いまだ祈祷などに頼った治療を信仰している地区もあったりするくらいですから同じ療法師からも最初は奇異の目で見られたりしていました。心ない人々には無用の長物だと罵られたこともありました」今でもそう思っている人は少なからずいるだろう。

「縁者には病気の者が集まる場所を農区の近くに作るなんて、それだけで汚らわしいなんて言っている人もいました」とフィリア。「それでも、わたしは病気になると普通に診療所に連れて行かれました」

「外周部に建てなかったのはきれいな水が必要だったからです。それに風向きが変わったのはスラド熱の流行のあとですよ。スラド熱の治療に寄与したことで人々の信頼を得たのだと思います。皮肉なことにね」シュトライゼは静かに言う。「オーリスはスラド熱の流行を予言していたのですよ」

「そのようなことができるのですか?」

 少女もだがフィリアもその言葉に驚き、シュトライゼを見つめる。

「普通なら無理でしょうね。ですが、彼は過去にスラド熱が流行った歴史や文献から、それを予測したと言っています」

「文献ですか? それならベラル師も気づいていそうですが?」

 レイブラリーは下町の歴史を記憶し紡いできた。少女はベラルからその歴史の中でスラド熱のことも聞き及んでいた。

「そうあってもおかしくないですね。ですが歴代のレイブラリーでもその法則、と言ったらいいのでしょうかね、それに気付かずに来ていた」

「なにか特殊なものでもあったのでしょうか?」

「判りません。それを彼はわたくしやフタさんに説明はしてくれましたが、どうにも難しくて理解できませんでした」

「そのような話、聞いたことがありません。それに確証がなければ誰も信じてはくれないのではないでしょうか?」

「確かにエアリィさんの言うとおりです」シュトライゼはその当時を思い出しているのか苦笑する。「にわかには信じがたいことでした。ですが、過去に何度もスラド熱はロンダサークを襲っているのです。そのための備えは必要であると彼は我々に説くのですよ」

「そなえですか?」

「スラド熱に必要な薬や血清は作り置きできないことはご存じでしょう? ですがその材料となる薬草は長期の保存が可能です。オーリスは下町に住む人々すべてに行き渡るように備蓄しようといったのです」

「全員ですか? それはむずかしかったのでは?」

「誰もが無謀だと思っていました。どれだけ必要になるのか、資金やそれらを管理する組織のこととか」シュトライゼは指折り数える。「問題は山ほどありました」

 診療所はいまでこそ日常的に当たり前のような存在になってきていたが、その設立までの道のりは困難の連続であった。

「それでもオーリスさんは?」

「諦めませんでしたね。わたくしやフタさんを説くのですよ。最初は三人から始まりました。大事にはできませんからね」

「そうですね。混乱させてしまう。フィリアだってこの話を聞いたらうたがいたくなるし、さわぎたくなるでしょう?」

「信じたくないです」

「無用な混乱だけは避けたかった。はじめは診療所の母体となる商工会議所内での組織作りから始まり、地道な医療活動をおこなっていったのですよ」

「なぜ商工会議所だったのでしょう?」

「薬のことだけでなく、保存食や仮設の治療施設のための資材など、多種多様なものがあの時必要になりました。それらを確保するための流通や備蓄するための施設は我々商区が担わなければならないというのがオーリスの持論でしてね。診療所は医療に専念し、そのバックアップを我々商工会が行うとね」しかし大店が支配的だった当時ではそれは難しかった。「幸い、資金は工面できましたし、組織作りもなんとかうまく行きました」

 シュトライゼは軽く話を進めるが、それほど簡単な道のりではなかったと少女はのちに知ることになる。

「順調とは言い難かったですが、それでも来たるべき日に備えて準備は進められました」

「それで、その予測は当たったのですね?」

「いえ」シュトライゼは首を横に振る。「当たりませんでした。彼の予見よりも早かったのですよ」

 その誤差は一年であったという。

「それでも準備は進められていたのでしょう? 多少なりとも心がまえがあれば対処はできたのでしょうから」

「わたくしもそう思いますが、オーリスは悔いています。自分の予測が正確でなかったことにね」

「だれもできなかったことをやっているのですから、正確を期することはむずかしいことではないでしょうか?」

「彼は信じて疑いませんでしたから、ショックは大きかった」第一報がもたらされた時のオーリスの青ざめた表情はいまでも忘れられなかった。「それでもうまく対応できたと思います。彼の予見がなければもっと多くの人が命を落としていたでしょうから」

「オーリスさんは英雄なんですね」

「わたくしはそう信じています」フィリアの言葉に彼は素直に頷く。「彼の示した予見と対策がなければ今のロンダサークはありえなかった」

 二十年も前に誰も思いもしなかったことをオーリスは考え、実現しようと動き始めたのである。

「商工会議所はわたくしの名前だけが前面に出ていますが、基本構想はオーリスの手によるものでした。大店による独占的支配ではなく商工業がひとつにまとまることによって下町の発展に寄与することが出来る。商工会議所は商工業に従事する人々の福利厚生という面もありますが、それだけではなく工業の発展と技術の継承、そして商区における流通の強化とともに情報網を確立することでした。何らかの天災が起こった時に必要な資材など集め、対応することが出来るようにすることにあるのです」

 その資材は工の頭と少女の勝負やアームレスリング大会でも活用された。

「ああ。だから近くのお店さんと連絡を取り合ったりつながりが出来ているんですね」

 フィリアは納得したように頷いた。

「簡単なことですがつながりはむずかしいですよね、シュトライゼさん」

「広い商区をすべてまとめるのは本当に難しいですよ。それだけでなくオーリスは緊急時の保存食や仮設テントといった資材の他に医薬品や医療品などの備蓄まで考えていた。商工会議所がやらなければならいことは多岐にわたっているのです」

「ですが、そのようなものをどこに?」

「商工会議所の中に、ですよ」

「あの建物はそういう意味があったのですね」

 少女は普段使用されていないスペースが多いことに疑問を感じていたが、それで納得した。

「誰もが自分が生きていくことだけで周りを思いやれなかった時代にオーリスは下町全体のことを、その将来を見ていた」

「シュトライゼさんもそれに共鳴したからいまがあるのですね?」

「半ば彼に引っ張られるようにでしたし、半信半疑でありましたがね」彼はこっそりと打ち明け話をする。「わたくしは大店が幅を利かせ衰退している商区の状況が気にいらなかっただけで、自分の利益を考えず人に施すなどということが信じられなかった。最初の頃はそんなことはどうでもよかったりしましたね」

「いまは違いますよね?」

「まあ、あの惨状を知ればね」

 シュトライゼは肩をすくめる。

 彼らが信じたロンダサークを守らなければならない。その想いは胸に刻み込まれていた。

 現状ではスラド熱などの伝染病が大々的に流行した時に、いまの衰退しつつあるロンダサークでは対応できなくなりつつあると思い知らされたのである。活性化させようと人を集め手を打とうとしても状況はなかなか好転してはくれない。

 不安と焦りが募っていったそんな時にシュトライゼは少女と出会った。

 少女の出現によって商区だけでなく港湾や工区も変わりつつある。シュトライゼがそれを利用しない手はないと思うのは至極もっともな考えであったといえる。

「これがティナが心血を注いで作り上げた診療所です」

 少女も農区へと足をはこんだ時に何度も目にしていたが、それは水辺に浮かぶ小さな城のようであった。



 4.



 下町に大きな診療所が開設されたのは、十二年ほど前になる。

 それまでは各地区に医療の心得がある者がいるだけで、病気やケガの治療は彼ら頼みであったという。療法師達の間には交流もつながりもなく、その治療法は地区によってまちまちだった。

 そんなバラバラであった医療体制を見直し、さらにはその知識をまとめ後進の育成も行っているのが診療所だった。

「それぞれの地区の医療をなくそうというわけではなかったのですが、そう考えた人も少なからずいました。彼ら療法師の助力なしには成り立たないのも事実でしたので各地区の住民の皆さんの理解を得るのも大変でした」

 ティナの考えに共鳴してくれる関係者は多かったが、当時から医療に従事する者が不足していたため、自分達の地区から医療が取り上げられると思った住人も少なくなかったようである。

 そんな中、診療所は旧区寄りの第八地区に建設された。

「さきほどフィリアさんが言われたような声も大きかったのですよ。当初は外壁の外に建てるという案もあったのです」

 シュトライゼは苦笑する。

 それでは利用しづらいということで長老会や農区の有力者達と協議に協議を重ね農区に隣接するこの地区に建てることが出来た。それは貯水池に何本もの鉄柱と石柱を立てその上に建てられている。ロンダサークでは斬新な作りで水上に浮く奇妙な建物にも見える。

「工の頭や石工の筆頭の助けがなければ建設は不可能でしたよ」

「あたしは利用したことはありませんが、本当に不思議な建物ですよね」

「わたしも何度か診療所に来ていますが、中も明るくてきれいですよ、お嬢さま」

「人は健康であることに越したことはありません。ですが、どうしても病気なり怪我をしてしまうものです。そんなとき人はどうしても暗くなりがちですからね。そうならないようせめて建物くらい違った雰囲気にしたかったそうですよ」

 シュトライゼはそう言いながら二人を誘うように診療所への橋を渡り始める。

 橋の欄干から貯水池を見れば水門からたえず水が流れ続け、水面が光に反射している。水は青く澄み底まで見えそうだった。

 開放されている入口から中にはいると、昼近くになりつつあったが、多くの人が待合室で順番を待っている。そこは開放的な空間で息苦しさはなかった。

 下町の誰もが安い治療費で診療を受けられるようになっていて、老人から赤子まで様々な地区から人が訪れている。

 看護の者がたえず待合室を回り患者達に注意をはらっているようだった。

「これはティナさん? それともオーリスさんの考えでしょうか?」

「ティナですよ。彼女は診療所の創設者であり中心的な役割を担っていました」シュトライゼは一呼吸置いた。「そしてオーリスの奥方であり、彼女はわたくしの幼なじみでもありました」

 ティナは薬師の家系に生まれた。

 商区で薬草などを売る仕事を生業としていたため、シュトライゼとは家同士の付き合いがあり、年齢が近いこともあったため一緒に幼年期をすごしてきたという。

「オーリスさんともその頃に?」

「古くからの友人ですが、オーリスはハウント家の養子に入った時に知り合いましたね」商才もあったが、それよりも斬新な思考がオーリスとシュトライゼを結びつけた。「あの口調は昔からでしてね。いくら注意してもあれだけは治りませんでしたね」

 シュトライゼは楽しそうに笑う。そして彼のティナを懐かしむ口調は特別な想いがあるようにも感じられた。

「そうだったのですか」

「商才も、ハウント家があいつを招き入れただけあって確かなものでしたが、それ以上にこういったことへの才能は人一倍ありましたね」

 シュトライゼが待合室に入っていくと診療所のスタッフは次々と彼に挨拶して行く。

「ここもシュトライゼさんのテリトリーなのですね」

「我々商工会がここの母体となっていますからね」

 この場所に診療所が出来るまでは商工会議所が療法師たちの本部だったのである。

「長老会や五家ではないのが意外です」

「彼らの支援を待つほど悠長にかまえていられなかった。彼の予測から時間は限られていましたのでね。資金は我々が持ち責任を持って運営することで長老会を納得させました」

 そのためにシュトライゼとオーリスは私財を投じたという。

「すごい行動力ですね」

「まったくです」他人事のようにシュトライゼは頷く。「診療所のシステムはティナが中心になって築いたものですが、ここに至る道筋は彼が切り開いたと言っても過言ではないでしょうね」

 受付に話をすると、シュトライゼは少女とフィリアを伴い診察室を抜けさらに建物の奥にはいっていく。

 診療所は二層にわたる建物で一層は待合室と療法師の診療室と薬師の部屋などが置かれ、二層目は長期にわたる療養者達のベッドなどの部屋が準備されている。壁は石で造られているにもかかわらず木目を感じさせる彫り込みが施されぬくもりを与えてくれる。安らぎを感じさせる不思議な造りだった。

「奥にはいるのはわたしも初めてです」

「このようなシステムはロンダサークでしか見たことがありません」

「では、誇るべきものなのでしょうね」

 シュトライゼは微笑むと一番奥の部屋の扉をノックする。

 中から応えがあると彼は扉を開け、二人を招き入れながら部屋にはいるのだった。

 かなり年配のふくよかな女性がディスクから立ち上がってくると、シュトライゼと抱擁を交わすのである。

「サリア、今日もお元気そうでなによりです」

「本当に」彼女の笑みは温かかった。「あらあら今日は可愛らしいお連れさんがご一緒なのね」

「ええ、ご紹介します。トレーダーのエアリィさんとお付きのフィリアさんです」

「あらあら、この子が噂のトレーダーさんね。話はよくシュトライゼさんから聞いていますよ」

「はじめましてエアリィ・エルラドです」

 少女は手を差し出そうとしたが、それよりも先にサリア女史に抱き付かれ抱擁される。

 薬草の香りがした。

 そしてシェラと同じような癒しの手を感じる。

「こんにちは、わたしはフィリアです」

 サリアはフィリアの瞳をジッと見つめる。

「トリアード農園さんの娘さんよね」

「覚えていらっしゃるのですか?」

 何度かフィリアの実家に招かれたサリアを彼女は見かけたことがあったが、遠巻きに見ていただけで言葉を交わしたことはなかったはずである。

「ええ、あなたの出産に立ち会ったのは私ですからね」

「ええっ!」

 フィリアは驚きの声を上げる。

「私はここに来る前に農区の人たちの治療の他に助産婦の仕事もしていたのですよ」

「そ、そうだったんですか……」

「大きくなりましたね」

 そう言いながらサリアはフィリアの頭をなでると、彼女はくすぐったそうに笑みを漏らすのだった。

「彼女はサリア。この診療所の所長です」

「はじめましてお嬢様たち」

 子供が大好きなのだろう、サリアはあらためて二人を抱き寄せる。

「熱烈な歓迎ですね」

 シュトライゼは苦笑する。

「あらあら、あなたも大歓迎ですよ」

 まるで子や孫を愛でるような感じであった。それから三人に席を勧めると自らお茶を入れ始める。

「今日はどうしたのですか?」

 手焼きのクッキーをお茶うけに朗らかにサリアは話を続ける。

「ティナとの思い出をあなたと語ろうと思いましてね」

 ひと呼吸置くとシュトライゼはそう言った。その顔は笑っているようにも見えたがその目はせわしなく周囲を見ていた。

「そういうことですか」

 何かを理解したようにサリアは静かに頷く。

「それと話すのが遅れてしまい申し訳ありませんが」シュトライゼはそう前置きする。「このエアリィ嬢のお店にいま、オーリスがいるのですよ」

「本当ですか!」サリアは驚き、隣に座るシュトライゼの手をとる。「本当にオーリスが?」

 目にはうっすらと涙が見てとれた。

「ようやく関心を示してくれました。エアリィ嬢のおかげですよ」

 その言葉に今度はテーブル越しに身を乗り出し少女の手をとるのだった。感謝の言葉とともに。

「い、いえ、あたしはなにも……。オーリスさんには商いのこととかいろいろと助言をもらっています」

「無事なことはシュトライゼさんからうかがっていましたが、本当に良かった。オーリスがまた商区で商いをしてくれるなんて」

「サリア、そこまではいっていませんよ。あいつはまだ宙ぶらりんのままです」

「そうですか……」

「十日程前にシュトライゼさんに紹介していただいたのですが、最初に会ったころよりちゃんと話をしてくれるようになりました。興味ないような感じにしていますが言葉以上にあたしをよく見てくれていて先日から帳簿の書き方を教わっています」

「進歩ですよ」とシュトライゼ。「ようやくではありますが、自分以外の世界を知覚してくれるようになったのですからね。今日は彼の噂をどこからか聞きつけたのでしょう。オーリスを訪ねてきた人がいました」

「どなただったのでしょう?」

「判りませんが、それでも彼とティナに感謝していましたよ」

「二人に命を救われた方は多くいますからね」

「エアリィさんが、そのことをお聞きしたいそうなのですよ」

「あの娘のことをこうして話すのは、そう初めてかもしれませんね」

 サリア女史は後ろを振り返り、壁に掛けられた小さな肖像画を見て言うのだった。

 肖像画の中のティナは少女を見つめ笑いかけているようにも見えた。

「診療所でともに歩み、最期にあの娘を私は看取った。そのことを……」


 リトルトルネード。

 それがティナについた仇名だった。

「真っ直ぐで、常に前を向いていましたね。不器用な娘でしたが」

 診療所を作り上げるために自ら道を切り開いていった。

「愚直すぎましたよ」シュトライゼは言った。「どうしてそこまで真っ直ぐになれたのか」

「純真なのですよ」

「そうでしょうか?」

「そうですよ」サリアは微笑んだ。「ティナはあなたに、エアリィちゃんに似ているかしら」

「あ、あたしに! ですか?」

 唐突なサリアの言葉に少女は驚きの声を上げた。

 肖像画からそんな感じはしない。

「ああ、そうかもしれません」シュトライゼはしばし少女を見つめ頷く。「顔立ちや姿がというわけではなく、雰囲気でしょうね。突っ走るところとか、パワフルなところとか似ているかもしれません」

「あたしはそう見られているのですか?」

「違うとは言い切れないと思いますが?」

「……否定はしません」

 ティナはそう、天真爛漫な娘だった。

 小柄だったが、どこにそれだけパワーがつまっているのだろうかと思えるくらい元気に全力で物事に立ち向かっていき、明るくパワフルだった。じっとしていられないのだろう。常に動き回っていたような気がする。小さかった頃からとにかく世話好きで誰にでも明るく、そして優しかった。

 子供の頃からお得意さんだった療法師のところや治療院へ薬草を届けると、そのまま手伝いまでしてしまうくらい熱心で、そんな中で医療の知識を蓄えていったようである。

 常に薬草や薬を携帯し、草の香りがしたのがティナだった。

「病気やケガを放ってはおけない娘でした」サリアとティナはその頃に知り合ったのだという。「私の後継者にしたいくらいでしたよ。大変な仕事なのに嬉しくて楽しくて仕方がないようでした。ティナは将来、家を継ぐのではなく療法師になりたいと言っていましたからね」

 ティナは持ち前の行動力でつながりの薄かった療法師達を引き合わせたり様々な療法を伝える役割をはたしていった。

「わたくしにも、療法師を増やしたい、もっと治療のための大きな施設が欲しいと言っていましたよ」

 今の診療所を作るのがティナ・ハーフェンドの夢だった。

 それはあくまでも夢でしかなく、場所もなく人もいなかった。

 地区には大なり小なり療法師はいたが、個人的なものでありそれだけを生業としている人は少なかった。

「人の助けになるのが好きだったのでしょうね」

 サリアは遠くを見つめるように言った。

「本当にお節介でした」

「それに命の大切さも知っていました」

 少なからず両親の死が関係していたとシュトライゼは考えていた。ティナは早くに両親を亡くし薬師だった祖父母の元で育てられていたからである。

「なぜティナが診療所という考えに至ったのか、たぶんその道筋を立てたのはオーリスでしょうね。彼にとって商工会議所はついででしかなかったのかもしれない」

「あの二人が一緒になるという話を聞いた時は驚きました」

 サリアは笑みを漏らす。

「わたくしもですよ」

「二人は良きパートナーであったと思いますよ。お互いがお互いを補っていた。そんな感じがします」

「わたくしには、オーリスにそれほどの情熱があったことの方が驚きでした」


 オーリスは考える。

 ティナと夢を共有したというわけではなかったと思う。

 少女達と別れたその帰り道、オーリスはティナのことを思い出し、彼女のことを考えずにはいられなかった。

 あの頃の二人はお互いの利害が一致しただけだったのかもしれない。

 ティナは夢をかなえ、自分は商区の旧態然とした秩序を破壊する。

 彼はただ商いをするだけという生活が苦痛だった。自ら商会の商いがうまく行ってもその先が見えてこなかった。

「そこから先にあったのは破壊的衝動に過ぎない」

 商区のあり方、大店の独占支配、閉鎖的空間の中での流通は、そのどれをとっても行き詰っていた。

 両親が亡くなり、ハウントの家に拾われても面白いことなど何もなかった。ささやかな成功に酔いしれる大店の奴ら、脂ぎった家畜のような旧区の連中、奴らは砂の楼閣の上にいることに気付いていない。将来のことを何も考えず、無知すぎた。

 逃げ場はない。

「いつ壊れてもおかしくない世界なんだ。ロンダサークは」

 それに気付いた時、生きているのがつまらなくなった。

 どうでもいい人生になっていた。

「それでもティナには違っていたな」

 無垢な精神と、聖霊のような気高い心を持ち、天真爛漫だった。

 なぜロンダサークに人々に希望を持てるのか判らない。ティナは人のために行動することをいとわなかった。さらに彼女は救うべき対象であるかのようにずけずけと自分にまとわりついてきた。

「……出会わなければよかった……」

 手を見つめ彼は、それでも首を横に振る。

「あの時間は満ち足りたものだった……悲しいくらい」

 出会いに必然があるのだとしたら、ティナやシュトライゼとは出会うべくして出会ったのだろう。二人を知って気が付けば三十年近くなる。

 そしてそれぞれと秘密を共有するようになる。オーリスが内に秘めていたはずのこの鬱屈した想いに気付いたのはティナとシュトライゼだけだった。一方は感覚的に、もう一方は論理的にということなのだろう。

 ティナは勝手に人の奥底にまで入り込んできて、それからは引きずられるように商い以外ことを手伝わされた。まるでそれが当然であるかの如く。

 人の良さそうな顔を見せながらも狡猾に笑い暗躍するシュトライゼと、人を救うことに無上の喜びを感じ夢を果てしなく語るティナ。二人はまったく違うベクトルを向いているはずなのに、辿り着く先は同じ未来であった。

「おれがなんでも叶えてやったのがいけなかったのかもな……」

 以来、ティナは何かあれば解決策を求めてやって来るようになる。それは年を経ても変わらなかった。

「それでも……それがおれの生きがいになっていた……」

 最初にスラド熱の周期性に気付いたのはティナの方だった。ただそれは感覚的なものでしかなく法則性があるかどうか、特に大砂嵐に関しては記述や伝承も少なく関連付けるのが難しかった。それでもティナの予測は否定できる要素がなかった。

 しかし十年以内にスラド熱が襲うと言っても誰も信用しないだろう。むしろ不安を煽るものとして迫害されきちがい扱いされて終わることの方が目に見えていた。一人でもなんとかしようと躍起になるティナを押しとどめ、スラド熱用の薬の備蓄と診療所の建設を彼女に約束することになる。

「われながら無謀な選択だと後悔したものだ」

 商工会議所は彼女の夢に至る第一段階に過ぎなかった。

 商区の現状を打破しなければ基盤作りも人も集めることは出来ないし、自由に動き回れる場が必要だった。

 シュトライゼという強力な協力者がいなければそれは成し得なかった。商工会という組織はシュトライゼを動かすためのエサにはなったが、用心深い彼を動かすには足りない。ティナがいなければ彼を完全にこちら側に引き込むことはできなかっただろう。

 そうだ、彼女がいなければこれは成し得なかった。

 ティナが人と人をつなげ、未来を切り開いた。


「ティナは、人を引き付ける魅力がありました」

 サリアはエアリィに語り掛ける。

「多少強引なところがありましたけれどね」

「あれだけ甘えたのはあなたとオーリスくらいでしょう?」

「まあ、昔からの付き合いでありましたからね」

「それだけではありませんよ」サリアは意味あり気に笑いかける。「あの娘の語る構想は驚きでした。このような診療施設を作ろうだなんて誰も思いませんでしたからね」

「必要だとは判っていても、普通なら夢物語だと鼻で笑ってしまったでしょうね。具体的なことはあいつが考えたにせよ」

「そうですね。ぜひ手伝ってほしいといわれた時も信じられませんでしたよ」

「出来るわけがないと?」

 エアリィはサリアに訊ねる。

「声を掛けられていた療法師は誰しもそう思ったでしょうね。いざ実現する段になって私も慌てたくらいです。幸い私はその頃には息子夫婦が一人前になっていましたから良かったのですが、現実問題としてその地区から離れられない療法師も多くいました」

「人は集まらなかったのですか?」

「私のような老いぼれや隠居した者にも声を掛けましたよ。助手や薬師も含め十九人でした。最低限の医療体制でしたがなんとかね」

 それもティナとサリアの尽力があってのことだという。

「平均年齢は今の倍以上でしたよ」とシュトライゼは苦笑いする。

「いまほど認知されていなかったから、なんとかなっていましたが、ティナひとりに負担を掛けていましたね、あの頃は」

「寝る間を惜しんで、それこそティナはここに住み込んでいた時期もありましたからね」

 その頃には子供もいたというのにである。

「そうでしたね。子供も私に預けたりして、診療所全体で育てていたような気がしますよ。オーリスが無理やり連れて帰らなければ家のことさえ忘れていたかもしれません」

「ほったらかしですか?」

「そうでもありませんよ。オーリスやナタリスといるときは二人に愛情を全力で注いでいましたよ。力いっぱい甘え、力いっぱい可愛がった」

「ティナは玩具を与えられた子供のようでした」

 シュトライゼのその言葉にサリアは笑みをもらしながら頷いた。

「それにオーリスもひとりでは寂しかったのかもしれませんね。どんなに忙しくとも毎日ここに顔を出していました」

 サリアは懐かしみながら微笑んだ。

「オーリス自身は家族というものに恋焦がれていたことに気付かないでいた」

「ティナがあんな感じでしたから、逆に冷めたふりをしてしまっていたのかもしれませんね」

「今のオーリスさんからは想像がつきません」

 フィリアは呟き、少女も頷く。

「今のあいつは抜け殻でしかないですからね」

「ティナはあの娘の医療がここから始まるのだと、毎日毎日懸命に働いていました。療法師が足りなければ出向いていき、薬草が足りなければ届ける。いろいろと揶揄もされましたが、一日一日が充実していたわ」

「ほとんど慈善事業でしたがね」

「赤字だったということですか?」

「商いとしてはいつ破産してもおかしくなかったですね」シュトライゼは苦笑する。「オーリスの苦労がしのばれます」

「もしかしてオーリスさんが費用を賄っていたのですか?」

「商工会も真面目に援助していましたよ」

「本当に頼りにしていました。今も昔も変わらず。おかげで私達は心おきなく活動ではきましたから」

「少しは自重してもらいたかったものです」

「信頼しあっていたのですよ。あの二人は。そしてあなたにも」

「その頃、わたくしは商工会の会頭に就いていましたから、どのような経営状態だったのか把握していました。オーリスが十年以上先をいっていたというのは本当の話でしてね、あらゆる手を尽くして大店を向こうに回し稼ぎまくっていましたよ。どこからそんなことを考えるのかとね。商工会議所の組織作りもそうでしたが不思議なくらいでした。すべてがうまくいっていたわけではありませんが、それでもティナを支えられるくらいにはなっていたでしょうね。本当にあの頃のオーリスは輝いていた」

「見てみたかったです」

「あなた次第ですよ」

「そうですか」少女は微笑む。「それにしても聞けば聞くほどティナという方があたしに似ているとは思えません」

「本質というべきなのでしょうかね。サリアに言われて気付きました」シュトライゼは自分の胸を親指で指して言う。「何事に対しても懸命で真っ直ぐな姿が、そしてあきらめない不屈のスピリットが」

「シュトライゼさん」

「なにか?」

「はずかしくないですか? あたしは真顔でそういわれてすごくはずかしいです」

 少女の顔は本当に真っ赤だった。

「少し照れるかもしれませんが、恥ずかしついでに言いますとね。わたくしはティナに教えられたことを改めてあなたに教えられた気がするのですよ」

「あたしが? 教えられるばかりのあたしが、なにかあったでしょうか?」

「生きるための本能というべきものですよ」

「誰だってそうじゃないですか?」

「どうでしょうね。あなたは自分がよりよきものだと思った方向に進もうとする。間違っているとか正しいかどうかはのちの判断に任せましょう。今はそういうことではありませんので、あなたの持っているその意志の強さは誰にも負けないもので、太陽よりも熱いものではないかと思いますよ」

 シュトライゼの言葉にフィリアは同意する。

「本当にあの頃は楽しかったわ」

「今が楽しくないような言い方ですね、サリア?」

「今も楽しいですよ。ですが、人も物もなく大変でしたけれど、そんな中でなんとかしようと皆で知恵を出し合って懸命に働いた。心が満たされ充実しているともいえました。今と楽しいの質が違うのでしょうね」

「懐かしむようでは先がないですよ」

「シュトライゼさんが持ち込んだ昔話ですよ。それほどティナとの日々は私にとっても宝なのです、それだけに……」

 今は方角を見失った砂上船だとサリアは言う。

「診療所の目的は遂行しているのではありませんか」

「診療所は明日も続くでしょう。ですが、私ではティナのように砂の先を照らすことはできません。あの娘のようには」サリアは首を横に何度も振る。「ティナは砂漠に輝いた道標のようなものです。道に迷ってもぶれずに目的地を指し示してくれたのです」

「夢ばかり語ってフワフワしていて危なっかしかったですが?」

「あなたにはそう見えたのかもしれませんね」サリアはシュトライゼに微笑む。「ティナは心の強い子でしたよ。自分をしっかり見失わず持っていました。だからこそ人に手を差し伸べることもできたのですよ。どんなに苦しく絶望的でもあの娘は諦めなかったでしょう?」

 どんな難病も、死期が迫ったものであったとしても全力を尽くし、優しく見守った。

「あの時もそうでしたね……」

「準備が整わない状況でも諦めなかった。誰もが呆然と立ち尽くそうと、ティナは先頭に立って皆を守ろうとした……」

 サリアもシュトライゼも言葉が続かなかった。

 どんなに記憶は風化しようと奥底に刻みつけられて傷は簡単には癒えることはない。そしてそれらはどんなに言葉をつくそうとも語り伝えることは難しかった。


 標無き闇が無限に続く。

 長い長い夜。それは果てることなく続いていくようだった。

 高熱を発し症状が悪化した患者が次々と運び込まれてきて、発症が確認された地区では門が硬く閉じられ、隔離が始まった。

 診療所の噂を聞きつけ、多くの人々が押し寄せてくると人も薬も資材も何もかもが不足していた。

 さらには流布した言葉が人を狂気へと駆り立てる。

 診療所が諸悪の根源であると思い込んだ人々は暴徒と化そうとしていた。

 誰もが無力感に押しつぶされそうになっていたはずなのに、それでもティナは諦めなかった。

 パニックに暴徒と化そうとしていた人々を鎮め、診療所を守ったのである。

 自らの命と引き換えにするかのように。そして最後の火を燃やしつくさんと彼女は隔離された地区へと乗り込んでいった。


「おれが人の親になるなんて信じられなかった」

 オーリスは呟く。

 あの頃はティナの勢いに引きずられるままに惰性で動いているとばかり思い込んでいた。

 この世に絶望し、未来などないと思っていたから、先のない世界に生まれる子の方が可哀想だった。

 生まれてきたナタリスの手は小さく、握るとすぐにも壊れてしまいそうだった。

『希望はあるよ。わたし達が絶望しなければ、その先に続く道はあるの。わたしの両親はどんな時であっても明日を信じていた』

「それは先を考えようとしなかったからだ」

『あなたは何を考えているのかしら? わたしはひとりじゃないから生きられる』

「赤の他人同士だ。そんなもののために頑張れるか」

『はじめは知らないもの同士でも、知り合いから友人へ、そしてわたし達のように家族にもなれるわ。はじめは誰でもそうじゃない? 人を知るたびに楽しいことが見えてくる。悲しいことばかりじゃない。そんな小さなきっかけで頑張れるわ。みんながいるから未来を作れるの。わたし達が頑張ればもっと良くなることだってあるでしょう? あなたがそうやって動けなくなってもわたしが全力で背中を押してあげる。前へ進むために、この子のために未来を作るために』

 ティナはそう言って絶望の淵に立ち恐れおののく彼の背を力強く叩いた。

 誰よりも輝き、誰よりも優しい彼女のその手はすでに冷たかった。

 すべてが冷たく冷えきっていた。ティナも世界も。

 呆然とその姿を見つめていた。

 どれほどティナのことを想っていたのか思い知らされた。

 オーリス・ハウントにとって彼女が世界の中心だった。

 ただ彼女に情けを掛けられていて、夢をかなえるためだけにいるただの支援者であると思い込んでいた。

「なのにこの虚しさ、胸の中に開いた大きな穴は……」

 どれだけティナに依存し、どれだけティナを必要としていたのか……失って、初めて思い知らされた。

 想いのすべてを失ってしまった。

 どうしてあの時彼女を止められなかったのだろう。

『わたしは行く。けっしてあきらめない。あそこにも明日はくるのだから』

 それが最期に聞いた言葉だった。

 目の前にあるのは魂の抜けた抜け殻だ。

 自らの輝きを命をとして下町に振り撒いて来てしまったのだ。

 今ならそれが判る。ほんの少しだけだが、理解できるような気がした。

 明かりのない部屋の中で手にしたペンダントにそっと彼は語りかける。

「ティナがした最後の仕事、いや仕事じゃないな……生きた証を教えてもらったよ……」

 どこまでもお人好しで、どこまでも強く励まされた。

「感謝されたよ。手を強く握りしめられてずっと離してくれなかったんだ。お前のおかけで子供も大きくなったと言っていたよ。お前は凄かったんだな。本当に未来を作り、繋げたんだな」

 オーリスは虚空を見上げ言葉にした。

 その顔は知らぬ間に泣いていた。溢れ出る涙は枯れることを知らなかった。

 その表情は暗がりの中で穏やかに微笑んでいる。

 その目は涙にかすみ何も見えていなかった。ティナ……。

 その瞳は遥か彼方を見つめ続けている。

 その手は闇の中で虚しく空を掴んだ。

 その足は想いを秘めながら大地を踏みしめる、しっかりと。

 その身体はまだ生きていた。朽ち果てようとしても尚生き続けている。

「なんでおれのことなんだよ。おれのことを話す場面でも状況でもないだろう。もっと他の励まし方があっただろう」

 それなのにティナはいない。

 火はまだくすぶり続けていた。

 すべてを捨てて逃げ出したはずなのに。そんな資格などないはずなのに。

「なぜにおれに生きろというのだろう」

 どうしてあの時言えなかったのか、愛していると。

 力のない文字で書かれた最後のメッセージが心に重くのしかかる。

『生きている者がつなげるの。明日へ命を、生きた証を未来へ』


「私が駆け付けた時には高熱にうなされている状況でした。手の施しようがなかった……」

 微かな力でティナはサリアの手を握りしめてきた。

 生きる。生きたいと呟いていた。その声が耳から離れない。

 サリアは自分の手を見つめ何度も右手を擦り、あの時あの瞬間を口にする。とつとつと語る言葉には強い想いが込められていて、その絆と思いに圧倒される。

「ティナはけっしてスラド熱を軽んじていたわけではありません。薬を摂取していなかったわけではないのです」

「本当ですか? 初めて知りました」

「試薬だったのです。まだ不完全だった……。あの娘は自ら志願していたの……。ずっとあとになって私もそのことを知りました」

「いまさらながらティナらしいとしかいいようがない」

「最期までティナは家族のことを心配していたわ。うわごとのように呟いていた。あの娘は誰をも愛したわ。でもそれ以上に家族を愛した。あの人と一緒に失くしたものを取り戻そうとしていたのよ。手を差し伸べたのはちょっとした出来事からだったのかもしれないけれど、それは偽りのない愛でしたよ」サリアは頷き笑う。「ちょっとだけ目の前のことに集中しすぎて周りが見えなくなってしまうけれど」

「あいつは気付いていなかったのかな」

「判っていたのだと思いますよ。気付かないふりをしていただけでしょう」

「だったら大馬鹿者だ」

 シュトライゼのその言葉には微かに怒りがあった。

「あなたもですよ」

「わたくしが、ですか?」

「ティナに頼まれていたのでしょう? あの時にオーリスのことを」

「聞いていたのですか? かないませんね」

「そんなことだろうと思っていました」

 オーリスの弱さをティナは知っていたからこそ、もしもの時のことをティナは託して来た。

 オーリスに後を追わせないように。それが遺言となってしまったが。

「わたくしに出来たのはここまでですよ」

「それでも見守ってくれていたのでしょう? あの娘に代わってね」

「オーリスには疎ましがられていますがね」

 シュトライゼは自嘲気味に笑った。

 フィリアは口を真一文字に閉じていたが、それでも涙は止まらなかった。

 あふれ出る涙と鼻水を少女は何度も布で拭く。

「すいませんでした」

 少女は床に頭をつけるくらい深々と頭を下げた。

「謝る必要はありませんよ。あの娘のことを思い出してあげるのも私達の務めですから」

「辛いことではありますが、忘れてしまうことの方が悲しすぎる。それにまだ知らなかったティナのことを聞かせていただきましたからね」

「あなたにもティナを知ってもらえて良かったわ。あの娘の想いを少しでも感じてくれたらね」

「ありがとうございます」

 少女は強く奥歯を噛みしめた。

「お手柔らかに」

 シュトライゼは微笑む。

「あたしはまだなにもいっていませんよ」

「あなたを見ていると判りますよ。きっと楽しいことなのだろうと、ね」

「すべてが思ったように行くわけではありませんよ?」

「それが人生なのです。だからこそ面白い。先の判ったつまらない未来などクソ喰らえです」

「ここは診療所ですよ。シュトライゼさん。もう少し衛生的な言葉を使うように」

 サリアの言葉にシュトライゼは頭をかき詫びた。

「あたしにはオーリスさんのことをまだよく知りません」

「人が人を完全に理解することはできませんよ」

「でも判らないなら判るように手を取り合うことは出来ますよ」

 シュトライゼにサリアはティナの言葉を引用する。

「本当にお節介だった」

「あたしは決めました。遠慮なくあたしがやりたかったことをオーリスさんに見てもらいます」

 あの人がどのような顔をするか見てみたかった。

「それは是非やりましょう」

 商工会議所は全面的に少女を支援するとシュトライゼは言うのだった。

「なにをやるのか、それにシュトライゼさんの楽しみだけでやろうとしているわけではありませんよ?」

「大丈夫ですよ。それはきっと楽しいことですから」

 少女は呆れるしかなかったが、それでも新たなことが動き出す。

 その姿も声もまったく違うものなのに、あの頃の雰囲気がよみがえってくる。

 風が吹く。

 サリアはそれを感じながら微笑み、新しくお茶を入れるのだった。薬香の香りがあたりを満たしていく。



 〈第二十一話了 第二十二話へ続く〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る