白無垢

花森ちと

早苗先生

 その先生は「佐藤先生」といった。だけど私は敢えて「早苗先生」と呼んでいる。

 私は先生のことが好きだ。先生の姿をみると心に柔らかな木漏れ日が差す。

 先生は綺麗だった。世間一般にいうような「美人」とはちがって。カサカサな唇に細い眼。髪は毎日ボサボサで、歯並びはよく見るとガタガタだ。

 だけど声や所作はうつくしい。私は早苗先生の国語の授業になると「ずっとこの時間が続けばいいのに」なんて思う。


 真っ赤なスケール本を開いて、家から持ってきた譜面台に乗せる。調はG−dur。たった2オクターブしかないのに、音符はまとまらず、散弾銃のように教室を跳ねていく。私は不得意なクラリネットで音楽科の高校を受験しようとしていた。

 早苗先生は職員室から戻ってくると、にっこり微笑んで教室のいちばん前の席に座り、パソコンを開いた。受験のためにと無理を言って、私は放課後に教室で練習させてもらっている。そのためには監督する先生が要るみたいで、私のクラス担任でもある早苗先生が快くその役割を受け入れてくれた。

 先生はいま、授業の朗らかな表情とはちがった真剣な目つきで仕事と向かい合っている。私はどんな早苗先生も好きだけれど、真剣な先生をみるとドキッとしてしまう。


 今まで早苗先生の存在は私の世界で大きくはなかった。いや、それどころか佐藤先生に好感を持っていなかった。

 早苗先生は前任校で問題を起こしていた、らしい。うららかなる4月。3年生のはじまりのこと。私たちはその噂を耳にしたその瞬間、佐藤先生への信頼が揺らいだ。まだ先生を知ってから一週間も経っていなかったのに。

 はじめての国語の授業で、先生は緊張しながら教材を抱えて教室に入ってきた。早苗先生はどこか震えた声で自己紹介をする。

「改めまして、こんにちは。佐藤早苗です。ここに来る前は高校で教えていました」先生はひとつ、息を吸って続ける。「これからはどうか宜しくお願いします」

 これから「は」どうか宜しくお願いします。私たちに対してそぐわない言葉は、記憶のどこかでダマとして残っていた。でも月日が経つうちに、いつの間にか溶けて見えなくなっていた。


 ソラシドレミファソ、ラシドレミファソファ、ミレドシラソファミ、レドシラソ。高音のまとまらないスケールに苛立ち始めている。集中が切れて先生のいる右横を向くと、早苗先生がニコニコしながら私を見ていた。

 早苗先生はきっと音楽を深くは知らない。だけど、それで良かった。だって、もし早苗先生が耳の肥えたひとだったなら、私が下手くそなことがバレてしまうから。

「西澤さんはいつも頑張っていて偉いね。今日も綺麗な音で素敵だよ」

「先生は、私の音を聞いていて不快じゃないんですか? こんなにも汚い音なのに」

 先生は青地に白い花が描かれたマグカップを両手で包み、湯気を見つめている。「ぜんぜん不快じゃないよ。むしろ、私なんかと一緒に居てくれてとっても嬉しい」そして紅茶をやけどしないようにゆっくりすすると、穏やかに訊く。「西澤さんはどんな曲を入試での?」

「ただの練習曲ですよ。きっと先生の知らない曲です」

「そう。でもいっぺん聴いてみたいな。お願いしてもいい?」

 私は困惑する。本番を来月に控えているのにも関わらず、まだ人に聴かせられるほど充分に完成しきれていなかった。

「また、今度でもいいですか」

 早苗先生は「いいよ」と言って、また真剣な眼差しで仕事と向かい合った。

 

 先生の前任校は不良のたくさんいる高校だったと後に聞いた。私はまだ中学生だから、偏差値のためにどれほど世界が隔たれてしまうのかはわからなかった。でも先生はそこで心に傷を負ったことが確かだった。

 先生の微笑みには悲しみがあった。先生の詩を朗読する声には憂いがあった。先生をどれだけ愛していても、私には傷の原因を知る由もなかった。これが中学校生活で何よりもいちばん歯痒いことだった。

 とある秋の朝のこと。佐藤先生は『初恋』を声に出して読んでいた。薄紅の秋の実に人こひ初めしはじめなり。早苗先生の声が肌寒い空気を伝って私の耳に流れ込んでくる。その声で私の脳はみるみる溶けていく。早苗先生をひとめ見上げる。先生は俯くと細い目が更に細くなる。そんな先生のことがどうも愛おしく感じた。これが、恋なのだと気づいた。それは佐藤先生への不信感が崩れ落ちた瞬間だった。

 それからというものの、私は早苗先生のことばかり考えている。気がつくと早苗先生を目で追っていた。予習は国語だけ欠かさなかった。早苗先生の乗ってくる車のナンバーを覚えた。早苗先生には私だけを見ていてほしいと願った。

 でもある日、私の夢は崩れ落ちてしまう。

 もうすぐ二学期が終わろうとしているとき、先生は帰りのホームルームで劇薬みたいな言葉を溢した。

「私、もうすぐ結婚するんです」

 クラスはざわめきはじめる。歓声を上げるクラスメイトとは裏腹に、私は独りで困惑している。どうして佐藤先生が? 佐藤先生は、すごく失礼なことだけれど、結婚できるようなひとではないと思ってた。

 だけど現実はそう甘くなかった。先生を教室の真ん中あたりから見つめてみる。そういえば、先生は徐々に変わっていっていた。ボサボサだった髪は艶ができていた。カサカサだった唇には淡い紅が差してある。先生は一般的にいうような「美人」へ変貌していたのだ。

 先生は変わってしまった。私は毎日のように先生を見つめていたのに。先生は変わってしまった。

 だけど私はどうだろう。受験生だというのに、私はなんの努力もしていない。私は音楽科を志望しているくせに、音楽について何ひとつわかっていなかった。この三年間、吹奏楽部でのお遊びを通して、ただの上澄みに触れただけだった。深い世界の水圧の心地よさに私は酩酊を感じたことはなかった。

 そんな何も持っていない私だったけれど、佐藤先生の心に爪痕を残したかった。なんでもいい。掠るだけでもいい。ただ先生が私を二度と忘れられないような傷をつけたい。


 スケールは諦めて、練習はエチュードに移る。

 早苗先生のキーボードの音が微かに聞こえる。早苗先生にエチュードを聴いてもらおう。どんなに下手でもいい。先生が私を思い出せるようなきっかけが欲しい。

「先生――早苗先生。エチュード、やっぱり聴いてもらってもいいですか」

 先生は嬉しそうに頷く。「ええ。ぜひ聴きたいわ、凛花りんかさん」

 嬉しそうに先生は私の正面へ椅子を運ぶ。私はおずおずお辞儀をすると、ゆっくりと息を吸った。最初の音はのびやかなC。先生の心にどうか届いて。

 目を閉じて、線と玉の窓辺から音の世界を想い描く。私が視たのは牧場の風景。そこで母親が幼い子どもを連れてうたっている。空に浮かぶ真っ白な雲。風に靡くやわい草。それを食む馬や牛。それらが母親のやさしい歌にぜんぶ包まって、幼い子どもを撫でている。

 ふと、先生の傷は何なのだろうと思った。その傷を私の拙い演奏で包み込んで消化してあげたいと願った。ああ、早苗先生。私の大好きな先生。こんなに素敵な人が、どうして悲しい記憶を持つ必要があるのだろう。

 曲が終わると早苗先生は満足そうに拍手をしてくれた。

凛花りんかさん。とっても上手だったよ。12月から教室で練習しはじめて随分経ったけど、本当に綺麗になったね」

「ありがとうございます」私は好きな人にそう言われて顔が熱くなる。

「私が一昨年まで教えていた……とある子もね、クラリネットを吹いていたの。でもその子はね、事故で亡くなってしまった。まだ18歳だったのに。――あなたを見ているとどうもあの子を思い出してしまうわ」先生の瞳には涙が浮かんでいた。

 はじめて演奏で人を感動させることができた。でも、私の心は幸福で満たされないまま、ぽっかりと穴が空いていた。先生は最初から私を見ていなかったのだ。

「先生にとって私はどれくらいの存在なんですか?」私は空虚になった気持ちのまま訊ねる。

「真面目な私の生徒よ」即答。まるでみんながそうであるかのように。

「そうじゃない!」私がいきなり立ったせいで譜面台が倒れる。「私は先生のいちばんになりたいんです。先生が二度と忘れられないような生徒になりたいんです。他の人を私で思い出さないでほしい!」

 散弾銃のように飛び出した言葉に先生は驚いている。私だって驚いているのに。

 早苗先生はそれでも微笑んで話はじめる。

「そう言ってくれてとっても嬉しい。私ね、前の学校で生徒にいじめられていたの。理由はわからなかった。ただ彼らの無垢な惨虐性の結果だった。それでも子どもたちが将来その罪に後悔する日だけを信じて生きてきた。純粋な子どもたちを愛していこうと頑張ってきた。なのに生徒は酷いことばかり言ってきたわ。私の心が日々を重ねるごとにひび割れていくのを感じた。『所詮子どもの戯言よ』なんて自分に言い聴かせてみても、とうとう死ぬことしか考えられなくなった。生徒が――学校が怖くなってしまった」

 先生は立ち上がって、湯気の立たなくなったマグカップを手に戻ってくる。早苗先生は紅茶を口に含むと、私の目をじっと見つめた。

「西澤さんが私のことを大切に思ってくれて幸せよ。もう、学校でこんな幸せな気持ちにはなれないと思ってた」先生は泣きだした。

 先生の独白は、氷のように冷たい無垢な残虐性を帯びていた。わたしの愛を、拒絶されたような気分。だけど、わたしはそんな心の寂しさを取り除けるようになりたい。

 白粉おしろいを塗った肌に涙がつたう。紅を差した唇が微かに震えている。ひとつにまとめた黒髪が、外の光と共鳴している。外は輝いていた。白く、冷たく、軽やかに。無垢で儚い新世界がこの穢れた地を覆い隠そうとしていた。

「早苗先生」私は先生の華奢な肩をやさしく撫でる。「雪が降っています。早苗先生」

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白無垢 花森ちと @kukka_woods

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