恋の音

元 蜜

恋の音

 トクン――


 これは恋の音。

 誰かに惹かれ、恋に落ちた時の胸の鼓動音。


 この音が聞こえると、目に映る景色は一斉に光り輝き、心は踊りだす。とても幸せな音。でもそれは、決して私には聞こえてはいけない音だった。


 それはなぜか、って?


 だって私にはすでに夫がいるから。

 既婚者の私は、この音の存在を思い出してはいけなかったのだ……。



◇ ◇ ◇


 5歳年上の夫とは20歳の時に結婚し、今年で結婚12年目になる。

 付き合い始めた当初、私は夫の顔が、声が、性格が、彼を創るすべてが大好きだった。

 そんな夫だけを見続けて12年。特に大きな喧嘩もなく、安定した結婚生活を送ってきた。


 そんな日々に今年の春、ある変化が起きた。

 私の勤務先に一人の男性が転職してきたのだ。


 私より3歳年下。最近流行りの髪型をしていて、笑顔が爽やかな後輩くん。今の私の “好き” をすべて詰め込んだような理想の男性。


 あの前髪をふんわりと横流しにしたヘアスタイル、夫も流行りを取り入れようとチャレンジしているが、髪質が硬く、直毛のせいで絶対にできない髪型。だから常々、夫には『今のままでいいよ』と言ってきたけれど、実は私、夫の髪型すでに好みじゃないんだよね……。

 長い結婚生活の中で、他にも好みじゃなくなったところはたくさんある。例えば、顔とか性格とかセックスの仕方とか。


 時代とともに流行りが移り変わるように、人の好みも年月とともに変わってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。

 変化し続ける価値観の中で、一人の人だけを変わらず愛し続けるのはとても凄いことだと思う。


 私の場合、もし誰かに『夫のことが好きか?』と問われると、自信を持って『はい』と答えることはできない。もちろん大事な人であることは確かだけれど、とうの昔に恋愛対象ではなくなっていることも事実である。

 今の私にとって夫は、家族を一緒に守っている仲間という感じだ。


 私が50歳や60歳になれば、後輩くんのような好みの男性が現れても、まるでアイドルを見るかのように眺め騒ぐだけで終わるのかもしれない。

 でも私はまだ30歳を超えたばかり。周りの同年代の独身女性たちは目一杯オシャレをして恋を楽しんでいる。その活き活きとした姿、正直羨ましい。

 もちろん恋は楽しいことばかりではない。傷つけられることだってある。だから10年以上も一緒にいられるなんて、ありがたいと思わないといけないのかもしれない。

 それでもふとした時、もう一度誰かと恋をしてみたいという感覚に陥ってしまう……。



◇ ◇ ◇


 後輩くんが入社してしばらく経った。

 私と後輩くんは、今では職場の中で一番の仲良しだ。


 私は漫画や小説を読むのが大好きで、実は後輩くんも同じ趣味。共通の趣味を持っていることが分かってから、私たちのキョリは急速に近づいた。

 夫は現実主義者で、漫画や小説を夢物語だと見下している。だからずっと、趣味は一人で愉しむものだと思っていた。でも後輩くんと出会ったことで、一緒に語り合うことの楽しさを知った。


 私たちは仕事の休憩時間に趣味の話で盛り上がった。その時だけは、私は既婚者であることを頭の片隅に追いやり、二人の時間を楽しんだ。

 それでもしばらくは一定のキョリを保つことができていた。でもそのうち、そんな短時間では満足できず、 “時間を気にせず二人で過ごせたらもっと楽しいのに……” と考えるようになってしまった。

 

 既婚者であるが故、私の心は現実と幻想の間で揺れ動き続けた。

 “これ以上近づいてはいけない” と理性が警告し、一方で “もっと彼と一緒にいたい” と感情が訴える。

 グラグラと揺れ、命綱なしで一本橋を渡っているような感覚。風が吹けばあっという間に落ちてしまいそうだ。

 

 ある日、後輩くんがポツリと言った。


「先輩、なんでそんな早くに結婚しちゃったの? ご主人よりも先に俺が出逢いたかった」


 ダメ、今そんなこと言わないで……。


 私の心の中に強い風が吹く。


 トクン――


 あぁ、この音。12年前にも聞こえた音だ。

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