遺されたものたち
涙田もろ
第1話 遺すための献身
飛行する己の周囲が白い世界に包まれた。
視界はほぼ皆無で、耳に届く音は自機のエンジン音と割れた風防が奏でる風切り音に轟々と流れる風の音、そして俺自身の荒い呼吸音が己の中に響く。
今になって自身の呼吸が浅く、心臓の鼓動が鼓笛隊のドラムのように速くなっているのにようやく気が付き、深呼吸を行った。
俺は雲の中で、戦闘中にはぐれてしまった僚機を求め有視界内を探るが、全くその気配を掴むことはできない。
雲を出て戻らなくては――
十分ほど前、上空からダイブを掛けてきた敵機による攻撃で、会敵した瞬間に小隊長機は火を噴いて落ちていった。
小隊長の二番機も翼の根本から煙を吐きながら高度を急速に下げ、俺の視界から消えていった。
残った俺の所属する第二分隊長である佐久間軍曹は猛然と反撃に移り、俺もその後を必死に追ったが、こちらは一個小隊四機のうち既に二機を失い、敵は中隊規模以上の様子。いかんせん敵の数が多過ぎた。
難戦の中で俺は分隊長機と離れてしまい、三機の敵艦載機に追い掛け回されることになった。
俺は、後方にぴったりとついて離れない敵の射撃するタイミングを窺い、撃ったとみるや機を横滑りさせてこれを避ける。
徐々に高度を下げ海面を味方に付けようとするも、先回りした敵機が下から突き上げてくる気配を見せたので、ひらりひらりと機体を操っている内に、どうやら自分は少なくとも五機のグラマンに遊ばれていることに気が付いた。
誰が俺を仕留めるのか、ちょっとした賭けでもしているかのような動きだ。
「この野郎……」
俺は食いしばった歯の根から血が出るほど歯噛みをしたが、怒りや根性だけでは数の差を埋めることは出来ない。
四戦の有速を活かしての離脱も、諸々の資材不足でエンジンが本調子ではなく、八・九割程度のパワーしか最近の出撃では出せてはいない。
こんなところでおっ死ぬわけにはいかない――俺が二十年間生きてきた意味は、敵を、憎き敵機を落とし葬るためにあるんだ。敵を一機でも多く落として、御国を……俺の家族をみんな守らにゃならん。
ここまで育ててくれた母さんを守れなければ、何のために操縦桿を握っているのか分からん!
だが……状況は多勢に無勢。せめてこの機を敵に体当たりさせてでもと思ったが、敵のパイロットの技術はなかなか巧妙で、そこまで持ち込む隙も無い。
我が国の技術の粋を集めた愛機の四戦に対し、申し訳ないとも思う。自らの未熟さ故に、逃げてばかりで情けない。
ドラム缶に石つぶてを連続して当てたような音が連続して機内に響いた。機体の後部に被弾したらしい。
幸い今のところ飛行に支障はないようだが、しかしいつまでもつか――。
その時、突然と言っていい。巨大な雲の塊が俺の視界を覆った。
大きく、密度の濃そうな雲だ。だがその色は黒く濁り、時折虹のような光を発している。積乱雲とは異なっているようだが、明らかにその内部は荒れていると容易に想像がつく。
――あんな雲が今まで目に入らなかったのか?
訝しげな警戒心が脳裏をよぎる。しかし俺は即座に決断し、敵機との間合いを図りつつ、その雲に飛び込むための進路を取った。
積乱雲であれば、その内部は激しい突風があらゆる方向から吹き荒れ、機体が無事でいられるかどうかは神のみぞ知る、だ。
だがこのまま敵にこの首をむざむざ差し出すわけにはいかん!
光る棒のように見える後方からの無数の敵弾が、俺の機体へ当たらずに黒い雲へと吸い込まれていき、その度に不思議な光が雲の中から発せられるのを見た。
俺が雲に突入しようとしているのを察して、遠く上空からも別の敵が弾の雨を降らせてくるが、あの距離からでは当たるものではない。
よし! いける!
俺が雲に逃げ込めると確信したその刹那、バリバリッという轟音と共に風防の後ろ半分ほどが砕け、粉々になって俺の手元に降ってきた。
――やられたっ!
俺の死角からの敵機によると思われる銃撃で、風防がもはやその役割を果たさなくなったが、エンジンに異常は感じられず、機体の各動作も問題は無いようだ。
俺の身体も、風防の破片で顔が少し切れているようだが、その他に異常は感じられない。
まとわりつく湿気を感じ、俺は雲に飛び込めたことを母に感謝した。
首を左右後方に曲げて敵の気配を探ってみるが、敵も視界の利かない雲の中では衝突する危険性に尻込みをし、追っては来ない。
雲の中は思ったよりも穏やかで、舵の操作もなんとか可能だ。
どうやら直近の危機は回避できたらしい――しばらくそのまま雲中を飛び続けた。
俺は分隊長もこの雲の中へと逃れてはいないかと、淡い期待を抱き再び周囲を窺うが、やはり発見することはできない。
心臓の鼓動も収まってきたころ、雲の外へ出ようかと考えるも、まだ敵が俺の出てきたところを仕留めようと遊弋している可能性があると考え断念する。
敵は空母艦載機なので燃料切れの心配があり、そう長くは探してもいられないだろう。もう少しの我慢だ。
俺は雲の中を飛び続けたが、おかしなことにいつまでたっても抜けるような気配をみせない。
しばらくして、意を決し一度雲を上に抜けてみようとしたが、どうもコンパスがおかしい。
どの方向に舵を切っても、方位を示す値がピクリとも動かなくなってしまっていた。
コンパスだけではない。高度計や速度計の計器類の挙動がおかしくなっている。
なんだ……これは?
そしてついにエンジンも回転数が不安定になり、時折止まりそうな気配を見せ始めた。
まずい……エンジンに被弾していたのか?
これだけエンジンが不調である以上、高度も下がっているはずだが不思議なことに、なおも雲を抜ける感じでもない。
依然、深い雲の海の中を漂っているかのような不気味さだ。
俺は相模湾、伊豆半島熱海の東二十海里付近で会敵した。
なんとか元居た多摩飛行場まで帰投したいが、駄目であれば最短の距離にある飛行場は――
「っ!?」
唐突に稲光よりもさらに強力な発光が、俺の視界を眩ませた。
薄目を開けるが、カメラのストロボを直に見てしまった後のように、計器の残像が黒く残るほかは何も見えず、しばらく目を閉じて回復を待つ。
そのすぐ後、周囲にまとわりついていた湿気が一気に去った。
雲を抜けたことを俺は察し、目を開く。
視力は蘇った。だが、エンジンの不調は相変わらずで咳をするように時折回転がおかしくなったままだ。
何か違和感を感じながらも周囲に敵影がないのを確認し、とりあえず人心地ついたが、それもつかの間――寒い。尋常な寒さではない。
俺の身体は身震いが止まらなくなっていた。
それに息苦しく、肺は酸素を求めてせわしく膨張収縮を繰り返す。
まさかと、俺は各計器類が正常に動作を復帰させているのを確認した後、高度計に視線を走らせる。
「高度……一万二千……!?」
俺は独り言をつぶやき、絶句した。
異常だ。
俺がさっきまで戦っていたのはせいぜい高度三千程度だったはずだ!
雲の中に飛び込んだ時はそれより低かった。
それからはエンジンの不調で高度を上げようにも上げられず、上昇していた体感も全くなかったのにどうしてこんな所にいる!?
明らかに自機の飛行限界高度を超えている。
こんな高高度じゃ、電熱線を装備していないこの飛行服では耐えきれない。
口の中では歯の根が合わなくなって、ガチガチと音をさせている。
俺はすぐに自機を降下させようと操縦桿を倒すが、利きは鈍くゆっくりとしか反応しない。大気が薄いせいだ。
酸素も不足しているせいか、頭に鉛が詰まったような感じで考えが溶けるようだ。
くそ……どうしてこんな高度に……?
自機は、ゆっくりとその高度を落とし始めた――。
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