悟浄歎異 ─沙門悟浄の手記─

中島敦/カクヨム近代文学館

  

 ひるののち、が道ばたの松の樹の下でしばらくいこうておられる間、くうはつかいを近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。

 「やってみろ!」と悟空が言う。「りゆうになりたいと思うんだ。いいか。だぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんなててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・の・本気にだぜ。」

 「よし!」と八戒は眼を閉じ、いんを結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりのあおだいしようが現われた。そばで見ていたおれは思わず吹出してしまった。

 「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空がしかった。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、おれは。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。

 「だめだめ。てんで気持がらないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」

 よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。にしきへびには違いないが、小さなまえあしが生えていて、おおとかのようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨふくれており、短い前肢で二、三歩うと、なんとも言えないかつこうさであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。

 「もういい。もういい。めろ!」と悟空が怒鳴る。頭をき搔き八戒が現われる。


悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。

八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにに。

悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。

八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。

悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のじゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。



 悟空によれば、へんの法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとくおのれの気持を純一、かつ強烈なものに統一する法を学ぶにる。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。へんの術が人間にできずしてにできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くのたず、したがってこの統一が容易だからである、うんぬん


 くうは確かに天才だ。これは疑いない。それははじめてこのさるを見た瞬間にすぐ感じ取られたことである。初め、あからがおひげづらのそのようぼうを醜いと感じたおれも、次の瞬間には、彼の内からあふれ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感じるくらいだ。そのつらだましいにもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きとあふれている。この男はうそのつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分に対して。この男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらも彼の信ずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信にちてくる。彼はだね。世界は彼のために用意されたたきぎ。世界は彼によって燃されるために在る。

 我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動をうながす機縁だったりする。もともと意味をったそとの世界が彼の注意をくというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界にむなしく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れるすべてをあたため、(ときにがすおそれもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、かれくうの眼にとって平凡ちんなものは何一つない。毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見る者のような驚嘆をもってその美に感じ入っている。心の底から、ためいきをついて、さんたんするのである。これがほとんど毎朝のことだ。松の種子から松の芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議さよと眼をみはるのも、この男である。

 この無邪気な悟空の姿と比べて、一方、強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう! 全身いささかのすきもないたくましい緊張。律動的で、しかも一のむだもない棒の使い方。疲れを知らぬ肉体がよろこび・たけり・汗ばみ・ねている・その圧倒的な力量感。いかなる困難をもよろこんで迎えるきようじんな精神力のおういつ。それは、輝く太陽よりも、咲誇る向日葵ひまわりよりも、なきさかせみよりも、もっと打込んだ・裸身の・さかんな・没我的な・しやくねつした美しさだ。あのさるの闘っている姿は。

 ひと月ほど前、彼がすいうん山中で大いにぎゆう大王と戦ったときの姿は、いまだに眼底に残っている。感嘆のあまり、おれはそのときの戦闘経過を詳しく記録に取っておいたくらいだ。


……牛魔王一匹のこうしようと変じゆうぜんとして草をくらいいたり。くうこれを悟りとらに変じけ来たりて香獐を喰わんとす。牛魔王急にだいひようと化して虎を撃たんと飛びかかる。悟空これを見てからししとなり大豹目がけて襲いかかれば、牛魔王、さらばとじしに変じへきれきのごとくにほえたけってからししを引裂かんとす。悟空このとき地上に転倒すと見えしが、ついに一匹の大象となる。鼻はちようのごとくきばたかんなに似たり。牛魔王堪えかねて本相をあらわし、たちまち一匹の大はくぎゆうたり。頭はこうほうのごとく眼は電光のごとく双角は両座の鉄塔に似たり。頭より尾に至る長さ千余丈、ひづめより背上に至る高さ八百丈。大音に呼ばわっていわく、なんじわるざる今我をいかんとするや。悟空また同じく本相をあらわし、だいかつ一声するよと見るまに、身の高さ一万丈、かしらたいざんに似て眼は日月のごとく、口はあたかも血池にひとし。奮然鉄棒をふるって牛魔王を打つ。牛魔王つのをもってこれを受止め、両人半山の中にあってさんざんに戦いければ、まことに山も崩れ海もわきかえり、天地もこれがためにはんぷくするかと、すさまじかり。……


 なんという壮観だったろう! おれはホッとためいきを吐いた。そばからすけに出ようという気も起こらない。そんぎようじやの負ける心配がないからというのではなく、一ぷくの完全な名画の上にさらにつたない筆を加えるのをじる気持からである。


 さいやくは、くうの火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)えんえんと燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。のように、彼は、いつも全速力でまわっていなければ、倒れてしまうのだ。困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図──目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。現実の事態の認識と同時に、その中にあって自己の目的に到達すべき道が、実にめいりように、彼には見えるのだ。あるいは、そのみち以外の一切が見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。やみの発光文字のごとくに、必要なみちだけがハッキリ浮かび上がり、他は一切見えないのだ。我々どんこんのものがいまだぼうぜんとして考えもまとまらないうちに、悟空はもう行動を始める。目的への最短の道に向かって歩き出しているのだ。人は、彼の武勇や腕力をうんぬんする。しかし、その驚くべき天才的なについては案外知らないようである。彼の場合には、その思慮や判断があまりにもこんぜんと、腕力行為の中に溶け込んでいるのだ。

 おれは、悟空のもんもうなことを知っている。かつて天上でひつおんなるうまかたの役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目の内容も知らないでいたほど、無学なことをよく知っている。しかし、俺は、悟空の(力と調和された)と判断の高さとを何ものにもして高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある。少なくとも、動物・植物・天文に関するかぎり、彼の知識は相当なものだ。彼は、たいていの動物なら一見してその性質、強さの程度、その主要な武器の特徴などを見抜いてしまう。雑草についても、どれが薬草で、どれが毒草かを、実によく心得ている。そのくせ、その動物や植物の名称(世間一般に通用している名前)は、まるで知らないのだ。彼はまた、星によって方角や時刻や季節を知るのを得意としているが、かく宿しゆくという名も、しん宿しゆくという名も知りはしない。二十八宿しゆくの名をことごとくそらんじていながらほんものを見分けることのできぬ俺と比べて、なんという相異だろう! 目にいつていのないこのさるの前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない。


 くうの身体の部分部分は──目も耳も口も脚も手も──みんないつもうれしくてたまらないらしい。生き生きとし、ピチピチしている。ことに戦う段になると、それらの各部分は歓喜のあまり、花にむらがる夏のはちのようにいっせいにワァーッと歓声を挙げるのだ。悟空の戦いぶりが、その真剣なはくにもかかわらず、どこかゆうの趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死ぬ覚悟で」などというが、悟空という男はけっしてなんかしない。どんな危険に陥った場合でも、彼はただ、今自分のしている仕事(ようかいを退治するなり、さんぞうほうを救い出すなり)の成否を憂えるだけで、自分の生命のことなどは、てんで考えの中に浮かんでこないのである。たいじようろうくんはつ中に焼殺されかかったときも、銀角大王のたいざん圧頂の法にうて、泰山・しゆせんさんの三山の下につぶされそうになったときも、彼はけっして自己の生命のために悲鳴を上げはしなかった。最も苦しんだのは、しようらいおんこう老仏のために不思議なきんにようの下に閉じ込められたときである。せども突けども金鐃は破れず、身を大きく変化させて突破ろうとしても、悟空の身が大きくなれば金鐃も伸びて大きくなり、身を縮めれば金鐃もまた縮まる始末で、どうにもしようがない。身の毛を抜いてきりと変じ、これで穴を穿うがとうとしても、金鐃には傷一つつかない。そのうちに、ものをかして水と化するこの器の力で、悟空のでんのほうがそろそろ柔らかくなりはじめたが、それでも彼はただ妖怪に捕えられたの身の上ばかりをづかっていたらしい。悟空には自分の運命に対する無限の自信があるのだ(自分ではその自信を意識していないらしいが。)やがて、天界から加勢に来たこうきんりようがその鉄のごとき角をもって満身の力をこめ、外からきんにようを突通した。角はみごとに内まで突通ったが、この金鐃はあたかも人の肉のごとくに角にまといついて、少しのすきもない。風のるほどのすきでもあれば、悟空は身を粒と化してのがれ出るのだが、それもできない。半ば臀部は溶けかかりながら、苦心さんたんの末、ついに耳の中からきんそうぼうを取出してに変え、金竜の角の上にあな穿うがち、身をつぶに変じてそのあなひそみ、金竜に角を引抜かせたのである。ようやく助かったのちは、柔らかくなったおのれしりのことを忘れ、すぐさまの救い出しにかかるのだ。あとになっても、あのときは危なかったなどとけっして言ったことがない。「危ない」とか「もうだめだ」とか、感じたことがないのだろう。この男は、自分の寿命とか生命とかについて考えたこともないに違いない。彼の死ぬときは、ポクンと、自分でも知らずに死んでいるだろう。その一瞬前までははつらつと暴れまわっているに違いない。まったく、この男の事業は、壮大という感じはしても、けっして悲壮な感じはしないのである。


 さるひとをするというのに、これはまた、なんと人真似をしないさるだろう! 真似どころか、他人から押付けられた考えは、たといそれが何千年の昔から万人に認められている考え方であっても、絶対に受付けないのだ。自分で充分になつとくできないかぎりは。

 いんしゆうも世間的名声もこの男の前にはなんの権威もない。


 くうの今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、すぎったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これはわかる。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこのさるっているのだ。


 ただし、彼にもけっして忘れることのできぬおそろしい体験が一つあった。あるとき彼はそのときの恐ろしさをおれに向かってしみじみと語ったことがある。それは、彼が始めてしやによらいぐうし奉ったときのことだ。

 そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼がぐううんくつ穿黄金のよろいを着け、とうかいりゆうおうから奪った一万三千五百きんによきんそうぼうふるって闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。れつせんの集まるはんとうさわがし、その罰として閉じ込められたはつをも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒しぎ倒し、三十六員の雷将をひきいたうつの大将ゆうせいしんくんを相手に、りようしよう殿でんの前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、しようなんの二そんじやを連れたしやによらいがそこを通りかかり、悟空の前に立ちふさがって闘いをめたもうた。悟空がふつぜんとしてってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそうっているようだが、いったい、お前はいかなる道をしえたというのか?」悟空いわく「東勝神州ごうらいこくざんに石卵より生まれたるこのおれの力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでにろうちようせいの法をおわり、雲に乗り風にぎよし一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来いわく、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわがてのひらに上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てたくうは、いきなりによらいてのひらの上におどり上がった。「おれつうりきによって八十万里をぎようするのに、なんじの掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらずきんうんに打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。かれはこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、せいてんたいせいとういちゆうと墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、とくとくとして言った。「掌どころか、すでに三十万里の遠くに飛行して、柱にしるしをとどめてきたぞ!」「愚かなやまざるよ!」と如来は笑った。「なんじの通力がそもそも何事を成しうるというのか? 汝は先刻からわが掌の内を往返したにすぎぬではないか。うそと思わば、この指を見るがよい。」悟空があやしんで、よくよく見れば、如来の右手の中指に、まだぼつこんも新しく、斉天大聖到此一遊とおのれの筆跡で書き付けてある。「これは?」と驚いてふりあおぐ如来の顔から、今までの微笑が消えた。急にげんしゆくに変わった如来の目が悟空をキッとえたまま、たちまち天をも隠すかと思われるほどの大きさにひろがって、悟空の上にのしかかってきた。悟空はそうの血が凍るような怖ろしさを覚え、あわてて掌の外へび出そうとしたとたんに、如来が手をひるがえして彼を取抑え、そのまま五指を化してぎようざんとし、悟空をその山の下に押込め、おんはつめいうんの六字を金書して山頂にりたもうた。世界がこんていからくつがえり、今までの自分が自分でなくなったようなこんめいに、悟空はなおしばらくふるえていた。事実、世界は彼にとってそのとき以来一変したのである。うるときは鉄丸をくらい、かつするときは銅汁を飲んで、がんくつの中に封じられたまま、しよくざいの期のちるのを待たねばならなかった。悟空は、今までの極度のぞうじようまんから、一転して極度の自信のなさにちた。彼は気が弱くなり、ときには苦しさのあまり、恥も外聞も構わずワアワアと大声でいた。五百年って、てんじくへの旅の途中にたまたま通りかかったさんぞうほうが五行山頂のじゆがして悟空を解き放ってくれたとき、彼はまたワアワアと哭いた。今度のはうれし涙であった。悟空が三蔵にしたがってはるばる天竺までついて行こうというのも、ただこの嬉しさありがたさからである。実に純粋で、かつ、最も強烈な感謝であった。

 さて、今にして思えば、しやによって取抑えられたときの恐怖が、それまでの悟空の・途方もなく大きな(善悪以前の)存在に、一つの地上的制限を与えたもののようである。しかもなお、この猿の形をした大きな存在が地上の生活に役立つものとなるためには、五行山の重みの下に五百年間押し付けられ、小さくぎようしゆうする必要があったのである。だが、ぎようして小さくなった現在の悟空が、おれたちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!


 三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。へんの術ももとより知らぬ。みちようかいに襲われれば、すぐにつかまってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人がひとしくかれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。くうはつかいもただなんとなくを敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものにかれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を──その哀れさととうとさとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師にるものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったんおのれの位置の悲劇性を悟ったが最後、こんりんざい、正しく美しい生活をに続けていくことができないに違いない。あの弱いの中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さがそとの弱さに包まれているところに、師父の魅力があるのだと、おれは考える。もっとも、あのらちはつかいの解釈によれば、俺たちの──少なくともくうの師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。

 まったく、くうのあの実行的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的にはどんぶつであることか! だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜けるみちを外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのときあわてて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、へいぜいから構えができてしまっている。いつどこできゆうしてもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に途を求める必要がないのだ。我々から見るとあぶなくてしかたのない肉体上のぼうぎよも、つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が世には存在するかもしれぬ。しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、何も打開する必要がないのだから。

 悟空には、かくはあっても苦悩はない。歓喜はあってもゆうしゆうはない。彼が単純にこの生をこうていできるのになんの不思議もない。三蔵法師の場合はどうか? あの病身と、ふせぐことを知らない弱さと、常にようかいどもの迫害を受けている日々とをもってして、なおたのしげに生をうべなわれる。これはたいしたことではないか!

 おかしいことに、悟空は、師の自分よりまさっているこの点を理解していない。ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。機嫌きげんの悪いときには、自分が三蔵法師にしたがっているのは、ただきんそうじゆ(悟空の頭にめられている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉にい入って彼の頭をめ付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍れんびんだとうぬれているらしいが、実は、悟空の師に対する気持の中に、生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的なけい、美と貴さへのどうけいがたぶんに加わっていることを、彼はみずから知らぬのである。

 もっとおかしいのは、師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、の生命はなかったろうに!」と。だが、実際は、どんな妖怪にわれようと、師の生命は死にはせぬのだ。

 二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。およそ対蹠たいせき的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、おれは気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、しよを必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由としていることだ。こんごうせきと炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置とうち」こそ、彼らが天才であることのしるしでなくてなんであろうか?


 くうはつかいおれと我々三人は、まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。悟空はかかる廃寺こそくつきようようかい退治の場所だとして、進んで選ぶのだ。八戒は、いまさらよそを尋ねるのもおつくうだし、早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪なようせいに満ちているのだろう。どこへ行ったって災難にうのだとすれば、ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 生きものの生き方ほどおもしろいものはない。


 そんぎようじやはなやかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、ちよのうはつかいもまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。きゆうかく・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世にしゆうしておる。あるときはつかいおれに言ったことがある。「我々がてんじくへ行くのはなんのためだ? 善業をして来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、そのごくらくとはどんなところだろう。はすの葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしょうがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つあつものをフウフウ吹きながら吸う楽しみや、皮のげた香ばしい焼肉をほおる楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただかすみを吸って生きていくだけだったら、ああ、いやだ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、つらいことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬたのしさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくともおれにはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏のかげの午睡。渓流の水浴。月夜のすいてき。春暁のあさ。冬夜の炉辺歓談。……なんとたのしげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまでっても尽きぬもののように思われた。俺はたまげてしまった。この世にかくも多くのたのしきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。なるほど、楽しむにも才能のるものだなとおれは気がつき、らい、この豚をけいべつすることをめた。だが、はつかいと語ることがしげくなるにつれ、最近妙なことに気がついてきた。それは、八戒の享楽主義の底に、ときどき、妙に不気味なものの影がのぞくことだ。「に対する尊敬と、そんぎようじやへのとがなかったら、俺はとっくにこんなつらい旅なんかめてしまっていたろう。」などと口では言っている癖に、実際はその享楽家的ながいぼうの下にせんせんきようきようとしてはくひようむような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。いわば、てんじくへのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、幻滅と絶望との果てに、最後にすがり付いたただ一筋の糸に違いないと思われるふしが確かにあるのだ。だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察にふけっているわけにはいかぬ。とにかく、今のところ、俺はそんぎようじやからあらゆるものを学び取らねばならぬのだ。他のことを顧みている暇はない。三蔵法師のや八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。まだまだ、俺はくうからほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。りゆうの水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たるきゆうもうではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒のたいいましめること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?

 孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。くうかつたつの働きを見ながらおれはいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為のいいだ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空のふんの持つけたちがいの大きさに、また、悟空的なるもののはだいのあらさに、恐れをなして近づけないのだ。実際、正直なところを言えば、悟空は、どう考えてもあまりありがたほうばいとは言えない。人の気持に思いりがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。自己の能力を標準にしてにもそれを要求し、それができないからとておこりつけるのだからたまらない。彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよくわかる。ただ彼には弱者の能力の程度がみ込めず、したがって、弱者のちゆうちよ・不安などにいっこう同情がないので、つい、あまりのかんしやくを起こすのだ。俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。八戒はいつもすごしたりなまけたり化けそこなったりして、怒られどおしである。俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまでっても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどんしかられなぐられののしられ、こちらからも罵り返して、身をもってあのさるからすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。


 夜。おれひとり目覚めている。

 今夜は宿が見つからず、やまかげの渓谷の大樹の下に草をいて、四人がをしている。一人おいて向こうに寐ているはずのくういびきさんこくこだまするばかりで、そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。俺は先刻からあおけに寐ころんだまま、木の葉のあいだからのぞく星どもを見上げている。寂しい。何かひどく寂しい。自分があのさびしい星の上にたった独りで立って、まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、どうもにがだ。それでも、あおいているものだから、いやでも星を見ないわけにいかない。青白い大きな星のそばに、あかい小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。流れ星が尾をいて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、さんぞうほうの澄んだ寂しげな眼を思い出した。常に遠くを見つめているような・何物かに対するあわれみをいつもたたえているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、へいぜいはいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、わかったような気がした。はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべての運命さだめをもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡ほろびの前に、それでもれんに花開こうとする愛情なさけや、そうした数々のきものの上に、師父は絶えずあわれみのまなざしそそいでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣にておられる師父の顔をのぞき込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたような温かさを感じてきた。

──「わが西遊記」の中── 

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