牛人

中島敦/カクヨム近代文学館

牛人

 しゆくそんひようがまだ若かった頃、乱を避けて一時せいはしったことがある。みちに魯の北境こうそうの地で一美婦を見た。にわかにねんごろとなり、一夜を共に過して、さて翌朝別れて斉に入った。斉に落着き大夫こくの娘をめとって二児を挙げるに及んで、かつての路傍一夜のちぎりなどはすっかり忘れ果ててしまった。

 ある夜、夢を見た。四辺あたりの空気が重苦しくたちめ不吉な予感が静かな部屋の中を領している。突然、音も無くへやの天井が下降し始める。極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りて来る。一刻毎に部屋の空気が濃くよどみ、呼吸が困難になってくる。逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。見える筈はないのに、天井の上を真黒な天がばんじやくの重さで押しつけているのが、判る。いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、ふと横を見ると、一人の男が立っている。恐ろしく色の黒い傴僂せむしで、眼が深く凹み、獣の様に突出た口をしている。全体が、真黒な牛に良く似た感じである。ぎゆう! われを助けよ、と思わずすくいを求めると、の黒い男が手を差伸べて、上からのし掛かる無限の重みを支えてれる。それからもう一方の手で胸の上を軽く撫でて呉れると、急に今迄の圧迫感がなくなって了った。ああ、良かった、と思わず口に出した時、目が醒めた。

 翌朝、従者下僕等を集めて一々しらべて見たが、夢の中のうしおとこに似た者は誰もいない。其の後も斉の都に出入する人々に就いて、それとなく気を付けて見るが、それらしい人相の男には絶えて出会わない。

 数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残してきゆうきよ帰国した。後、大夫として魯の朝に立つに及んで、始めて妻子を呼ぼうとしたが、妻は既に斉の大夫某と通じていて、一向夫の許に来ようとはしない。結局、二子もうへいちゆうじんだけが父の所へ来た。


 或朝、一人の女がきじを手土産に訪ねて来た。始め叔孫の方ではすっかり見忘れていたが、話して行くうちに直ぐ判った。十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契った女である。独りかと尋ねると、せがれを連れて来ているという。しかも、あの時の叔孫の子だというのだ。かく、前に連れて来させると、叔孫はアッと声に出した。色の黒い・眼の凹んだ・傴僂なのだ。夢の中で己を助けた黒いうしおとこにそっくりである。思わず口の中で「牛!」と言って了った。すると其の黒い少年が驚いた顔をしてへんをする。叔孫は一層驚いて、少年の名を問えば、「ぎゆうと申します」と答えた。

 母子共に即刻引取られ、少年はじゆ(小姓)の一人に加えられた。それ故、長じて後もの牛に似た男はじゆぎゆうと呼ばれるのである。容貌に似合わず小才の利く男で、すこぶる役には立つが、何時も陰鬱な顔をして少年仲間の戯れにも加わらぬ。主人以外の者には笑顔一つ見せない。叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするようになった。

 眼の凹んだ・口の突出た・黒い顔は、極くたまに笑うとひどく滑稽な愛嬌に富んだものに見える。こんなひようきんかおつきの男にわるだくみなど出来そうもないという印象を与える。目上の者に見せるのは此の顔だ。仏頂面をして考え込む時の顔は、一寸ちよつと人間離れのした奇怪な残忍さを呈する。さいはいの誰彼が恐れるのは此の顔だ。意識しないでも自然に此の二つの顔の使い分けが出来るらしい。

 叔孫豹の信任は無限であったが、こうに直そうとは思っていない。秘書ない執事としては無類と考えていたが、魯の名家の当主とは、其の人品からしても一寸考えにくいのである。豎牛も勿論それは心得ている。叔孫の息子達、殊に斉から迎えられた孟丙・仲壬の二人に向っては、常にいんぎんを極めた態度をとっている。彼等の方では、幾分の不気味さと多分の軽蔑とを此の男に感じているだけだ。父のちようの厚いのに大して嫉妬を覚えないのは、人柄の相違というものに自信をもっているからであろう。


 魯のじようこうが死んで若い昭公の代となる頃から、叔孫の健康が衰え始めた。きゆうゆうという所へ狩に行った帰りにかんを覚えて寝付いてからは、ようやく足腰が立たなくなって来る。病中の身の廻りの世話から、病床よりの命令の伝達に至る迄、一切はじゆぎゆう一人に任せられることになった。豎牛のもうへい等に対する態度は、しかし、愈々へりくだってくる一方である。

 しゆくそんが寝付く以前に、長子の孟丙の為に鐘をちゆうさせることに決め、其の時に言った。お前はまだ此の国の諸大夫とちかづきになっていないから、此の鐘が出来上ったら、其の祝を兼ねて諸大夫を饗応するがかろうと。明らかに孟丙を相続者と決めての話である。叔孫が病に臥してから、漸く鐘が出来上った。孟丙は、かねて話のあった宴会のどりの都合を父に聞こうとして、豎牛に其の旨を通じて貰った。特別の事情が無い限り、豎牛の外は誰一人病室に出入出来なかったのである。豎牛は孟丙のたのみを受けて病室に入ったが、叔孫には何事も取次がない。直ぐ外へ出て来て孟丙に向い、主君の言葉としてたらを指定する。指定された日に孟丙は賓客を招き盛んに饗応して、其の座で始めて新しい鐘を打った。病室で其の音を聞いた叔孫が怪しんで、あれは何だと聞く。孟丙の家で鐘の完成を祝う宴が催され多数の客が来ている旨を、豎牛が答える。俺のゆるしも得ないで勝手に相続人づらをするとは何事だ、と病人が顔色を変える。それに、客の中には斉にいる孟丙殿の母上の関係の方々もはるばる見えている様です、と豎牛が附加える。不義を働いた曾ての妻の話を持出すと何時いつも叔孫の機嫌が見る見る悪くなることを、良く承知しているのだ。病人は怒って立上ろうとするが、豎牛に抱きとめられる。身体に障ってはいけないというのである。俺が此の病で死ぬものと決めて掛かって、もう勝手な真似を始めたのだなとみをしながら、叔孫は豎牛に命ずる。構わぬ。引捕えてろうに入れろ。抵抗するようなら打殺してもい。

 宴が終り、若い叔孫家の後嗣は快く諸賓客を送り出したが、翌朝は既に屍体となって家の裏藪に棄てられていた。


 孟丙の弟ちゆうじんは昭公の近侍某と親しくしていたが、一日友を公宮の中に訪ねた時、たまたま公の目にとまった。ふたことこと、その下問に答えている中に、気に入られたと見え、帰りには親しくぎよくかんを賜った。大人しい青年で、親にも告げずに身にびては悪かろうと、じゆぎゆうを通じて病父に其の名誉の事情を告げ玉環をみせようとした。ぎゆうは玉環を受取って内に入ったが、叔孫には示さない。仲壬が来たということさえ話さぬ。再び外に出て来て言った。父上には大変御喜びで直ぐにも身に着ける様にとのことでした、と。仲壬はそこで始めてそれを身に佩びた。数日後、豎牛が叔孫に勧める。既に孟丙がい以上、仲壬を後嗣に立てることは決っている故、今から主君昭公に御目通りさせては如何。叔孫がいう。いや、まだそれと決めた訳ではないから、今からそんな必要はない。しかし、と牛が言葉を返す。父上のおぼしめしはどうあろうと、息子の方では勝手にそう決め込んで、最早直接君公に御目通りしていますよ。そんなな事がある筈は無いという叔孫に、それでも近頃仲壬が君公から拝領したという玉環を佩びていることは確かですと牛がけ合う。早速仲壬が呼ばれる。果して玉環を佩びている。公からの戴きものだと云う。父は利かぬ身体を床の上に起して怒った。息子の弁解は何一つ聞かれず、直ぐに其の場を退いて謹慎せよという。

 其の夜、ちゆうじんはひそかに斉に奔った。


 病が次第に篤くなり、しようの問題として真剣に後嗣のことを考えねばならなくなった時、叔孫豹ははり仲壬を呼ぼうと思った。じゆぎゆうにそれを命ずる。命を受けて出ては行ったが、勿論斉にいる仲壬に使つかいを出しはしない。早速仲壬の許へ使を遣わしたが非道なる父の所へは二度と戻らぬという返辞だったと復命する。此の頃になって漸く叔孫にも、此の近臣に対する疑いが湧いて来た。汝の言葉は真実か? ときつとして聞き返したのは其の為である。どうして私がいつわりなど申しましょう、と答える豎牛のくちびるの端が、其の時あざけるようにゆがんだのを病人は見た。こんな事は此の男が邸に来てから全く始めてであった。カッとして病人は起上ろうとしたが、力が無い。直ぐ打倒れる。其の姿を、上から、黒い牛の様な顔が、今度こそ明瞭な侮蔑を浮かべて、冷然と見下す。せいはいや部下にしか見せなかったあの残忍な顔である。家人や他の近臣を呼ぼうにも、今迄の習慣で此の男の手を経ないでは誰一人呼べないことになっている。其の夜病大夫は殺した孟丙のことを思って口惜し泣きに泣いた。

 次の日から残酷な所作が始まる。病人が人に接するのを嫌うからとて、食事はぜんの者が次室迄運んで置き、それを豎牛が病者のちんとうに持って来るのが慣わしであったのを、今や此の侍者が病人に食を進めなくなったのである。差出される食事はことごとく自分が喰って了い、だけを又出して置く。膳部の者は叔孫がべたことと思っている。病人がうえを訴えても、うしおとこは黙って冷笑するばかり。返辞さえ最早しなくなった。誰にたすけを求めようにも、叔孫には絶えて手段が無いのである。

 偶々此の家のさいたるせつが見舞に来た。病人は杜洩に向って豎牛の仕打を訴えるが、日頃の信任を承知している杜洩は冗談と考えて取合わない。叔孫が尚も余り真剣に訴えると、今度は病熱のため心神が錯乱したのではないかと、いぶかる風である。豎牛もまた横から杜洩にくばせして、頭の惑乱した病者にはつくづく困り果てたという表情を見せる。しまいに、病人はいら立って涙を流しながら、瘦せ衰えた手で傍の剣を指し、杜洩に「之であの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。どうしても自分が狂者としてしか扱われないことを知ると、叔孫は衰え切った身体をふるわせて号泣する。杜洩はぎゆうと目を見合せ、眉をしかめながら、そっと室を出る。客が去ってから始めて、牛男の顔に会体の知れぬ笑が微かに浮かぶ。

 餓と疲れの中に泣きながら、何時か病人はうとうとして夢を見た。いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。重苦しく淀んだ・不吉な予感に充ちた部屋の空気の中に、ただ一つ灯が音も無く燃えている。輝きの無い・いやに白っぽい光である。じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に──十里も二十里も彼方にあるもののように感じられて来る。寝ている真上の天井が、何時かの夢の時と同じ様に、徐々に下降を始める。ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。傍を見ると黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べて呉れない。黙ってつッ立った儘と笑う。絶望的な哀願をもう一度繰返すと、急に、おこったような固い表情に変り、眉一つ動かさずに凝乎じつと見下す。今や胸の真上におおいかぶさって来る真黒な重みに、最後の悲鳴を挙げた途端に、正気に返った。……

 何時か夜に入ったと見え、暗い部屋の隅に白っぽい灯が一つともっている。今迄夢の中で見ていたのは矢張この灯だったのかも知れない。傍を見上げると、これ又夢の中とじゆぎゆうの顔が、人間離れのした冷酷さをたたえて、静かに見下している。其のかおは最早人間ではなく、真黒な原始の混沌に根を生やした一個の物のように思われる。叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとする一人の男に対する恐怖ではない。むしろ、世界のきびしい悪意といった様なものへの、へりくだったおそれに近い。最早先刻迄のいかりは運命的な畏怖感に圧倒されて了った。今は此の男にむかおうとする気力もせたのである。


 三日の後、魯の名大夫、叔孫豹は餓えて死んだ。

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