流転する青きカバの偏在

鐘古こよみ

【三題噺 #17】「雨」「コンビニ」「ストラップ」


 窓を叩く雨の音で目が覚めた。

 カーテンを開けて幻聴ではないことを確認し、俺は小さくヨシと呟く。

 高校に入ってしばらくは、雨の日が憂鬱だった。駅まで自転車ではなくバス利用になり、同じような境遇の人たちとギュウギュウに肌を合わせる羽目になるからだ。

 それが変わったのは、一ヶ月ほど前のこと。


 行きのバス内で、俺は違う高校の女子と隣り合った。

 彼女が胸の前で抱えるリュックの脇には、鮮やかな青いカバのストラップが揺れていた。


「あっ」

 思わず声を上げ、目が合ってしまう。

「その青いカバ……」

 仕方なく小声で言って指さすと、彼女も視線をカバに落とした。

 丸っこい抽象的な輪郭と、体表に黒インクで描かれた鳥などの素朴な絵。 


「古代エジプトの遺物ですよね。前に博物館で見て」

「え、すごい。同年代の人にそんなこと言われたの、初めてです。博物館とか好きなんですか?」

「えーと、はい。古代文明が好きで……」

「私は、古代エジプトが好きなんです!」


 そう言って俺を見た彼女の表情は、さっきと違ってきらきら輝いていた。

 高畑咲です。奥村学です。互いに名乗った。

 二人とも晴れの日は自転車で、雨の日だけバス利用。

 それが、雨の日が憂鬱じゃなくなった理由だ。


*****


 アッラーフ アクバル……


 ムアッジンの朗々たる礼拝の呼びかけを聞き、俺は飛び起きた。

 日干し煉瓦の分厚い壁に陽光を阻まれ、室内はまだ随分と暗いけれど、他の家族はとっくに寝床から消えている。

 慌てて長衣ガラベーヤの皺を伸ばし、サンダルを足につっかけ、隣家へ向かった。


「アフマド爺さん、礼拝だよ!」


 もう百歳近いという独り暮らしの爺さんを村のモスクまで連れて行くのが、俺の朝一番の仕事だ。呼びかけてしばらくすると、覚束ない足取りの爺さんが扉から出てきた。腕にはなぜか、鮮やかな青色のカバの像を抱えている。


「おおフサイン、良い朝だな」

「そのカバ何? 置いていきなよ」

「いやあ、こんな日にこそ必要だと思ってな」

「こんな日って?」

涸れ谷ワジから黒い風が吹く日だ」


 俺は村の外に広がるナツメヤシ畑を見た。乾季には隊商路として便利に使われ、ひとたび雨が降るや大河へと変貌するワジは、その向こう側にある。


「風なんて吹いてないけど」

「ふむ。お前さんにはまだわからんか」


 モゴモゴ言う爺さんを引っ張って、とにかくモスクへ向かった。


 礼拝が終わると子供はすぐに追い出された。どうやら集会があるらしい。兄さんが厳しい顔つきの親父と何か話していたので、出口で待ち構えた。


「何か問題でも起きた?」

「近いうちに、遊牧民ベドウィンの襲撃があるかもしれない」

「えっ」

「今回の雨季、雨が少なかっただろ。西の方じゃ牧草が全然育たなくて、食い詰めた奴らが押し寄せてきてるんだ。元々いた遊牧民と小競り合いになって、うちの村と手を組んでる氏族がまずいことになった。相手に死人が出たら、手を組んでる俺たちも復讐の対象になる」


 兄さんの話を聞いて、俺はアフマド爺さんの言葉を思い出した。

涸れ谷ワジから黒い風が吹く日だ』


「敵はどうやって来るかな」

「そりゃ、ワジをさかのぼって大群で押し寄せるんじゃないか」


 岩山や丘などで起伏に富み、目印もなく迷いやすい沙漠地帯を越えてくるよりは、雨季の鉄砲水に削られた平坦なワジを通る方がずっと早い。


 いつの間にかアフマド爺さんがいなくなっていた。

 あちこち探して、村はずれの小高い丘でようやく見つけた。ナツメヤシ畑の向こうまで一望できる丘のてっぺんで、爺さんは青いカバと並んで胡坐あぐらをかいていた。


「おお、フサイン。ちょうど良い。お前もカバに祈れ」

「何を?」

「雨だよ。必要だろう」


 カバに雨乞いをするのだろうか。

 増水祈願はアッラーの神にするものだけれど、昔のエジプトでは別のたくさんの神に祈っていたと聞いたことがある。爺さんは呪術師シャーマンの血を受け継いでいて、子どもたちによくそういう話をしてくれる。

 

「爺さん、今は乾季だし……」

「来たぞ」


 不意にじいさんが、枯れ木のような腕を上げて前方を指さした。

 ナツメヤシ畑の向こう。乾いた大地に白い筋を走らせる、乾季のワジ。

 その最奥、遥か地平の彼方に何かが見えた。

 白茶けた砂埃、その下に群れなす帯状の影。


「襲撃だ!」


 俺は踵を返し、モスクに向かって走り出した。

 不意に世界が暗くなった気がした。


*****


 コンビニ前のバス停でおはようと言い合い、二人並んでバスに乗った。

 

「ルーブル美術館の青いカバの名前、調べたよ」

「私も。単純に“ヒッポ”だったね」


 俺が数年前に上野の『大英博物館展』で見たカバと、高畑さんのストラップのカバは、よく似ているけれど、実は別のカバだということが、前回の雨の日の会話で判明していた。


「この青いカバは古代エジプトの守り神の一つで、ファラオのお墓の副葬品だったの。たくさんあって、世界中の博物館に収蔵されてるけど、体の模様が全部違うんだよ。この子の名前は“ルリカ”で、三鷹の中近東文化センターにいるの」


 大英博物館のカバには名前がなくて、メトロポリタン博物館の子は“ウィリアム”。ルーブル美術館は……と、そこで高畑さんのド忘れが発動し、次回までに調べておくね、という話になったのだ。


 バスが発車した途端、雨が急に激しさを増した。高畑さんが窓に目をやり、線状降水帯かなと呟く。


 住宅街を抜けたバスは、海沿いの道に出た。地層むき出しの崖を左手に、深いカーブが続くところだ。

 突然、乗客が一斉に前へつんのめった。バスが停まった。


「失礼しました。前方に土砂があり……」


 運転手のアナウンスに車内がざわつく。俺は高畑さんと顔を見合わせた。


「大丈夫かな」

「大丈夫だよ。だってほら、“ルリカ”がいるし」

 

 俺は強いて平気な顔をしてみせた。

 守り神なんでしょ? そう言うと高畑さんも微笑んで頷く。


「うん。青いカバは、水と生命と、創造と破壊の……」


 突然視界がぶれて、高畑さんが消えた。

 俺は天井に頭をぶつけた。頭の中に火花が散る。

 鼻に押し寄せる泥の匂い。


 泥と木と濁った水が車内になだれ込むのが見えた。俺は天井に打ち返され、奇妙に絡み合った人間の上に落下する。


 高畑さん。

 

 白い手だけが見えた。青いカバを掴んでいた。

 意識が閉じるまでの長い一瞬の最後に、俺は願った。


 今朝の雨、なかったことにしてくれ。


*****


 村中の人が恐怖に引きつる顔で、刀や銃、鍬や鋤を手にした。

 世界が急に真っ暗になったみたいだ。いや、本当に暗いんだ。


 そのことに気付いて空を見上げると、頬にぼたりと冷たいものが降ってきた。

 ラクダの唾かと思って飛び退る。でも臭くないし、近くにラクダはいない。


 すぐに同じものがいくつも落ちてきた。


 村人たちが驚きの声を上げ、空を見る。黒い雲が広がっている。

 雨だ。こんな時期に、どうして。


 戸惑いの声をかき消すように雨粒は数を増やし、数分も経たないうちに、目の前が見えないほどの豪雨になった。


 アッラーの恵みだ。普通ならみんな歓声を上げて踊り出し、服を着たまま体中を洗い始めるところだけど、この雨は目を開けていられないほど強くて痛い。


 鉄砲水がくるぞ! 誰かが叫んだ。


 そうだ。この量なら確実に、涸れ谷ワジに鉄砲水が流れる。

 植生に乏しく砂の下に硬い岩盤層が連なる沙漠地帯では、雨のたびに洪水が頻発する。土壌が水を吸い込まないから、溢れ出し行き場を失った雨が低地に勢いよく流れ込み、鉄砲水となってワジを雄大な川へと変貌させるのだ。


 巻き込まれて命を落とす者は、毎年後を絶たない。

 今、獰猛なベドウィンの群れが、そのワジを遡ってくる。


 屋内に避難する人たちの合間を縫って、俺は丘を目指した。

 アフマド爺さんは矢のような雨に打たれながら、変わらずそこにいた。


「爺さん! 家に戻ろう!」


 駆け寄って肩を揺すると、爺さんは雨音に負けない声で怒鳴った。


「黒い風が去るぞ!」


 その時、ドオッと地を揺るがす轟音が聞こえた。

 俺は顔を上げて目を見開く。ナツメヤシ畑の向こうで黒々とした濁流が渦を巻き、すごい勢いでワジの色を塗り替えていくのが見えた。


「やった! じいさん、敵が流されるぜ!」

「青いカバのお陰だ、フサイン」


 見計らうように、急に雨脚が弱まってきた。


「青いカバは古くから、川と生命と、創造と破壊を司る神だ。全てが水に関係するものでな、つまり水を司っておるのだ。

 川には水が流れ、生命は水で育まれ、水は文明を創造し破壊もする。

 水は様々な形で世界に偏在し、流転し、どの時と空間にあろうとも変わらない」


 嘘みたいに空が晴れてしまった。

 ずぶ濡れの俺たちを、太陽が不思議そうに見ている。


「だが、人にとっては違う。都合の良い形で水が存在しない場合もある。

 あちらではいらぬと言われ、こちらでは欲しいと言われる。

 青いカバは時空を超え、釣り合う願いを都合する」

「はあ……?」


 俺は首を傾げた。爺さんの言っていることも、今の状況も、理解できない。


「青いカバを遍在させろ。釣り合う願いが途絶えぬように。

 これは呪術師シャーマンの言い伝えだ。

 たくさん作って、土産として外国人に売ったらどうかと思ってのう。

 粘土で作ってみたんだが、さっそく役立って良かったわい」


 青いカバの背を撫でて、爺さんは、歯抜けの口でフガフガ笑った。


******


 雨の音を聞いた気がして、俺は飛び起きた。

 カーテンを開けると、窓の外は晴れていた。


 ホッと胸を撫でおろす。

 ひどく嫌な、悪い夢を見ていたのだ。


 夢の中で俺と高畑さんは、青いカバの名前について話していた。

 バスに乗ると雨がひどくなり、土砂崩れで進めなくなって、そして――


 身震いする。


 夢で良かった。今日は晴れだから自転車利用だ。高畑さんには会えないけど、これから梅雨だから、いくらでもチャンスはあるだろう。


 次に会ったら俺も“ルリカ”が欲しいって、言ってみようか。

 買いに行くの、付き合ってくれないかって。


 そんな想像で胸を膨らませながら、俺は鼻歌交じりに、朝の支度を始めた。

 


<了>

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流転する青きカバの偏在 鐘古こよみ @kanekoyomi

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