騙されなかった人々

そうざ

People who were not Deceived

              1


「ナガちゃん、そろそろ行こうか」

 ヒロサキが玄関先で声を上げると、飛び出て来たのはナガシマの長男坊だった。

「父ちゃんは?」

「まだ寝てる~」

「また具合が悪いの?」

「ん~、分かんない!」

 ナガシマは集会の日に限って体調不良を訴える。困ったものだと思いながら仕方がないとも思うヒロサキが居る。

 すると、ナガシマの妻トキエが前掛けで手を拭いながら現れた。

「おはようございます。いつも世話を掛けてしまって」

 大きなお腹を抱えながら、夢現ゆめうつつの次男坊を背負っている。

「ナガちゃんは昔から病弱だったから」

「今、起こして来ますから」

「無理しなくて良いよ」

 トキエは奥に引っ込んだまま中々出て来ない。夫に言い聞かせるような声が玄関先まで響く。

小父おじちゃんは先に行ったって伝えてくれるか?」

「うん。ご迷惑をお掛けします」

「こいつぅ、言うようになったなぁ。もう初等科だもんな」

 ヒロサキはケンタの頭を一撫ひとなですると、ナガシマ宅を後にした。


              ◇


「いやぁ、暑くなりましたね」

「もう八月ですからな」

 町内会館に集まった白髪頭と禿げ頭とが団扇を片手に膝を突き合わせている。四十代のヒロサキが若く見える程、顔触れのほとんどが高齢者だった。若い世代の大半は常備兵として軍役に従事しているからである。

 集会の書記係を買って出たヒロサキにしても補充兵役を終えた直後で、たまさか居合わせているに過ぎなかった。

「何だ、ナガシマはまた欠席か?」

 町内最高齢八十八歳の及波オイナミが室内を見渡した。

「また体調が優れんようで、済みません」

 ヒロサキが保護者のように詫びると、座敷の端に蹲っていた阿久井アクイが愛用の杖を磨きながら呟いた。

「本当かねぇ……」

 この最若年の三十男は皮肉屋で知られている。

「阿久井君、まだ根も葉もない噂を信じてるのかい?」

 ヒロサキが真剣な顔で訊く。

「勿論」

 ナガシマの虚弱体質を知らない者は居ない。ナガシマが徴兵検査に失格した過去を持つ事も皆が知っている。

「奥さんは病弱なナガちゃんの分まで家計を支えてるんだよ」

「じゃ、あの人は家族まで騙してるって事だな」

 阿久井は外方そっぽを向いたまま相変わらず杖を磨いている。

「幾ら何でも言葉が過ぎるんじゃないか?」

「あんたは幼馴染みだからかばうんだろう?」

 阿久井がかつて勤労奉仕中の事故が原因もとで足が不自由になった事も周知の事実である。当然、徴兵検査は不合格になった。その後ろめたさがヒロサキへの攻撃の根底にある事は、誰の想像にも難くなかった。

「八つ当たりはせよっ」

「何だとぉ!」

「おいっ、そんな話をする為に集まってるんじゃないぞ!」

 及波の一喝で場が静まった。


              ◇


 ほんの一ヶ月前、R開拓産業なる不動産開発業者の名を記したビラが町の方々で見付かった。

 ビラには、近くO町を中心とした広範囲に亘る土地に総合娯楽施設を建設する旨が謳われており、就いては近く地権者や住民に買い取り、立ち退き交渉を行うと予告されていた。

 誰もが建物疎開(空襲での火災延焼を防ぐ為、事前に建物を解体し、防火地帯を確保する作業)を連想し、その一環かと考えたが、解体後に新たに開発が行われるとしたら建物疎開とは言えない。

 市役所や県庁への問い合わせが相次ぎ、そもそもそんな計画は存在しない事が判明した。また、戦局が予断を許さないこの時世に総合娯楽施設の建設などあり得ないと強調し、たちの悪い馬鹿げた流言か、事に依っては我が国に混乱を来たそうとする敵の伝単たんでん(謀略用の宣伝印刷物)かも知れず、くれぐれもデマに惑わされないようにと注意喚起が行われた。


 この事実に、高齢者を中心とした有志が立ち上がった。悪質な詐欺の撲滅を合言葉に、こうして集会を重ねているのである。

わしは、軍関係が施設を作ろうとしとると思う」

 及波が苦虫を嚙み潰したような顔で言った。

 万が一の本土決戦に備え、軍事基地の建設が計画されているという話はあった。と言っても、住民の一部が憶測で囁いているに過ぎず、その急先鋒が及波だった。

「軍だったらもっと正々堂々とやるだろう」

「そうだよ、有無を言わせずに土地を接収するよ」

「お国の為って言うのなら、こちらとしてもやぶさかじゃないしな」

 皆が口々に否定するが、及波は持論を曲げる気はない。今般の戦争に並々ならない意気込みを見せる及波は、儂がもう十年若ければ銃後の守りになんぞ甘んじておらん、が口癖で、うに対象年齢を過ぎているにも拘らず義勇隊にも志願していた。

「儂はな、軍が大っぴらに出来ん作戦を画策しとると睨んどるんじゃ」

「例えば?」

「毒ガスの研究に決まっとる」

「国際法で禁じられてるでしょ」

「だから大っぴらに出来んのじゃて」

「まぁまぁ」

 副会長の小柄コガラが割って入った。及波に次ぐ七十代の高齢者である。

 小柄は、油脂で汚れた度の強いロイド眼鏡の奥で眩し気な瞳を頻りにしばたかせた。

「実は、R開拓産業がどういう会社なのかを調べてみたんです」

 皆の目が一気に集まったので、小柄はおもむろに咳払いをし、唾を付けた指で大学ノートを広げた。

「法務局に行きましてね、商業登記簿を確認しました」

「ほう、それで?」

「それらしい会社は見付けられませんでした」

「それはつまり……」

「全く架空の会社という事ですな」

 やっぱり、と場が一気にざわついた。

 大量に貼られたビラには、R開拓産業の所在地や連絡先等は記載されていなかった。これでは問い合わせ一つ出来ない。そこからして既に眉唾物なのである。

「それにしても、ビラが蒔かれる瞬間を押さえたいもんだなぁ」

 ビラは至る所に散乱していた。往来や屋根の上は言うに及ばず、高い木立に引っ掛かっていたり、川面を流れていたり、郵便受けに入っていた例もある。

 しかしながら、誰一人として敵機がビラを散布している場面や何者かが人海戦術で撒き散らしている現場を目撃していない。恐らくは夜中の犯行に違いないと持ち回りで町内を巡回しているが、未だに何の手掛かりも掴めていないのだった。


 引き続き町内の見回りに力を入れるという事で集会はお開きになった。その後は、各自が持ち寄った配給酒の残りや横流しの肴を囲み、お定まりの宴が始まった。

 鬱屈した日々の中で集会の目的は細やかな息抜きに傾いていた。町内の誰もがそれを知っている。そういう意味では誰もが共犯であり、密やかな非国民の輪とも言える。

 この日常の行く末に何があるのか、大義を掲げ、共栄を善しとし、盟主たらんとする理想の先に何があるのか、ヒロサキにもまるで分からない。


              2


 翌日、ヒロサキは早朝から別の町に出向き、建物疎開に従事した。汗を掻いてはそれが乾きを何度も繰り返し、何日も入浴していないような感覚を引き摺りながらの帰路だった。

 自分は銃後の守りに徹する事しか出来ない――女性も、老人も、子供も、炎天下を物ともせず、また一日、懸命に動いた。

 ようやくO町に入った時、夕暮れの町角から苦し気な声が聞こえた。

 路地の向こう、コールタール塗りの板塀に片手を突いた人影が肩で息をしている。黄昏の薄暗がりに浮き上がったその人物は、ヒロサキの記憶にある面影とは違っていたが、幼馴染みである事は間違いなかった。

「ナガちゃん……?」

 ヒロサキの問い掛けに、ナガシマは慌てて口元を拭った。

「……ヒロちゃんか」

 ナガシマはようやく息が整ったようで、電柱に背を預けて天を仰いだ。よく見ると、板塀から地べたへと汚物が跡を残している。

「こんな所でどうしたの? 体調が悪いんだろ?」

 近寄ろうとするヒロサキをナガシマが手で制した。辺りに異臭が漂っている。

ただの悪酔いだよ……」

「悪酔いって……配給酒でも飲んだの?」

 ナガシマが深く頷く。

「いつから酒を? 全くの下戸だったじゃないか」

「眠れなくて……気付いたらこのざまさ」

「だけど、そんなに酒が配給される筈がないだろ」

「融通して貰ってる」

「誰から?」

 ナガシマは天を仰いだまま答えない。

「明日は町民挙げて建物疎開に駆り出されるけど……その様子じゃナガちゃんは留守番だな」

「……」

「俺は心底ナガちゃんの身体を心配してるんだぞっ。それなのに!」

「空から……!」

「え?」

「……何でもない」

 ナガシマが覚束おぼつかない足取りで立ち去ろうとするので、ヒロサキは慌てて腕を掴んだ。

「なぁ、町内の陰口なんか気にするなよ」

「そんなんじゃないっ……悪夢だ」

「何?」

「毎晩、悪夢を見るんだっ」

「夢が何だってんだ」

 すると、ナガシマはかっと目を剥き、ヒロサキに詰め寄った。

「空が一瞬にしてぶっ壊れる!」

 ナガシマの鬼気迫る様子に、ヒロサキは思わず後退あとずさった。

「人がっ、大勢の人間が消し飛ぶっ! 建物も何もかも吹き飛んじまうんだっ! 何が建物疎開だ、そんなもん無駄だっ!」

 叫びが涙に変わる。

 ヒロサキは、地べたに崩れ落ちたナガシマの背を黙って摩り続けるしかなかった。


              ◇


「あの人がしょっちゅうお酒を融通して貰ってる事は、薄々勘付いてたの。隠しててご免なさい」

 トキエは、膝枕で寝入っている長男坊を気にしながら何度も頭を下げた。

「責めてなんかないよ」

 座敷に通されたヒロサキが応える。

 当のナガシマは、ヒロサキに支えられながら家に辿り着き、上り框に突っ伏すや否や眠りこけてしまった。ヒロサキに隠し事を打ち明けた事で幾らか胸のつかえが下りた様子だった。奥座敷に運び込まれた後は、先に寝ていた次男坊の傍らで穏やかな寝息を立てている。

「ナガちゃんを入院させた方が良い。あれはもうアル中だよ」

「でも、事を荒立ててご町内に知られたら、また陰口が――」

「だったらナガちゃんのご両親に預けるのは? F市にお住まいなんだろう? ご両親が病床でその看護に行くとか何とか誤魔化してさ」

「……私が、私がもっとしっかりしていれば」

 ヒロサキは、涙を堪える人妻を抱き寄せたい衝動に駆られた。


 ヒロサキとナガシマはかつて年下の同じ女子――トキエに恋焦がれていた。付かず離れずの関係が動き出したのは、三人が年頃になったからだった。

 トキエはナガシマを選んだ。双方の両親は早い時期から結婚話を進めていた。ヒロサキがその事実を知り、最初から出る幕がなかった事を覚ったのは、結納の執り行われる直前だった。


「力になるよ、トキエ……さん」

 その時、奥の間で寝ていた次男坊が愚図り出した。途端にトキエが母親の顔になったので、ヒロサキはばつの悪さに項垂うなだれた。

「……ヒロサキさんは、縁談の話でもないの?」

 トキエが奥の間で次男坊をあやしながら背中で問い掛ける。

「突然だなぁ。残念ながら浮いた話はないね」

「そう」

「親父もお袋も早々と片付いちゃったし、粗方の親戚も空襲や戦地で亡くなったし、ほとんど天涯孤独って奴だよ」

「そんな寂しい事を言わないで、私達や町内の人達も居るのだから」

「いやぁ、肉親が居ないのは却って気が楽さ。いつ臨時召集令状あかがみが来ても心置きなく戦地に行ける」

「もう直ぐ四十歳ふわくでしょう? もう召集はないんじゃない?」

「さぁ、どうかな。戦局は予断を許さないらしいから……」

 次男坊がようやく落ち着き、場の静けさがより一層重く感じられた。

「それにしてもナガちゃんは果報者だ。綺麗な奥さんと子供達と、お腹の中に新しい命まで」

 そう言いながら、ヒロサキはもう玄関に向かっていた。


              3


 その客は実印に朱肉を付けると、はぁと息を吹き掛け、慎重に書類に押し当てた。実印を使うのは生まれて初めてだった。

 ほとんどの町民が奉仕活動に精を出している時間帯で、小さな店舗には店主と客の二人しか居らず、隅の応接セットで膝を突き合わせている。

 蝶ネクタイの男は微かな笑みを絶やさずに必要書類の角をとんとんと揃える。

「これで書類は全て整いました。後の手続きは当方こちらが承りますのでご安心下さい」

「あのぅ……」

「はい」

「お宅を詐欺業者だという人達が居ますが……」

「そのようですね。ですが、貴方はそれを知ってていらっしゃったのでしょう?」

 そう言われた客は、伏し目勝ちに言葉を継いだ。

「遠方に親戚が居りまして、田舎の方が空襲の心配がないから越して来たら良いと……なので」

「縁故疎開という奴ですね。良いきっかけがあって幸いでした」

 客が必死に後ろめたさを隠そうとしている事は、拭っても滲む額の汗が如実に示している。

「あのぅ、立退料はいつ頂けるんでしょうか?」

「今、現金でお支払いします」

「現金?」

「誠に申し訳ありませんが、当方は現金商売でしてね」

 言うが早いか、男は事務机の向こうに鎮座している大きな金庫の方へ立った。客が見詰める中、男は取り出して来た札束を事もなげにテーブルに置いた。

「本当にこんなに頂いて宜しいんですか?」

「どうぞお納め下さい」


              4


「本当ですか、それっ」

 ヒロサキが声を押し殺して問い詰めると、その勢いで小柄のロイド眼鏡がずり落ちた。

 道でばったり出くわした小柄は、大荷物を担いでいた。懇意にしている農家のもとへ食料の買い出しに赴いた帰途だった。大黒柱の息子達が出征してからは、小柄も老体に鞭を打ち、違法行為に手を染めざるを得ないでいる。

「汽車を待っている時に知らない男が声を掛けて来たんだよ。てっきり担ぎ屋(統制配給物資を非正規に売り渡す者)から何かを売り付けられるのかと思ったら、吃驚仰天さ」

 それは、R開拓産業の社長を名乗る男だった。但し、名刺を示す事も姓名を口にする事もなかった。

「このご時世にびしっとした三つ揃えの背広に蝶ネクタイなんかしてさ、羽振りが良さそうだった」

 男は、O町の方ならご存知ですよね、と言ったという。つまり、最初から確信的に声を掛けて来た事になる。

「案の定、立ち退きの話を切り出されたよ」

 男は、先んじて大量のビラを貼り出したのは後々個別に勧誘する際に話が早いから、そしてビラに連絡先を記載しなかったのは万が一当局が動き出した際に所在がばれないから、と早口で説明したという。

「じゃあ、既に他の人達も直接勧誘されてる可能性がありますね」

「そういう事です」

 男が提示したのは、建物疎開の対象住民に支払われる補償費の何十倍もの金額だったが、それが却って男の話を胡散臭く感じさせた、と小柄は滔々と語るのだった。

「男はもうあんまり時間がないの一点張りで、矢鱈に急かして来てね」

「それで、小柄さんはどう応えたんですか?」

 ヒロサキの一層険しい顔付きに、小柄は破顔で応えた。

「満更でもないって態度をしておいたよ。そうしたら……」

「そうしたら?」

「明日にでもここに来てくれと」

 小柄がいつもの大学ノートを捲ると、読み辛い文字で住所が書き記されていた。それは案外に近所だった。


              ◇


 そこは仕舞屋しもたやが居並ぶ一角だった。どの家も雨戸が閉じられ、錆び付いた看板が今にも落ちそうな家屋もあった。

 もうほとんど陽が落ちている。早く探し当てないと、灯火管制下では暗闇一色になってしまう。

 細い路地を覗き込むと、奥の方に硝子戸から漏れた灯りが地べたを照らしているのが見えた。

 あれに違いない――ヒロサキが抜き足差し足で進むと、そこは看板も何もない草臥くたびれた一軒家だった。

 煤けた硝子戸を恐る恐る覗き込む。土間敷に小さな事務机や応接セット、そして大きな金庫、それだけが置かれた簡素な室内が見えた。

 ヒロサキはそっと引き戸に手を掛けた。が、戸は存外に滑りが良く、がらがらと音を立てて一気に開いてしまった。

「いらっしゃいませ」

 いつの間にか奥の開き戸が開いていて、蝶ネクタイの男が笑顔で佇んでいた。男が一瞬、目を見開いたように見えたが、笑顔は保たれていた。

「立ち退きの件なんだけど……」

「はい、では直ぐに書類を――」

「立ち退くつもりはない」

 男が動作を止めて顔を向けた。笑みは固まったままだった。

「こんな見え透いた詐欺に引っ掛かる奴は居ないよ」

「そうでもありませんよ、既に立ち退きに同意された方が居られます」

「それは何処のどいつだ?」

 町内の色んな顔が浮かんで来る。出征中の夫に無断で土地を売る者は居そうにない。

「残念ながらこの戦争は負けます」

 男が急に突飛な事を言い出したのでヒロサキは面食らったが、直ぐに言い返した。

「戦況は悪くない筈だ」

「大本営の発表ではね」

「あんた、何を企んでるんだっ!」

「私はNPO法人の者でして、R開拓産業というのは隠れ蓑みたいなもんです」

「エヌ、ピーオー? 敵さんのスパイって事かっ?!」

「タイム・テロリストと呼ぶ人達も居ますが、飽くまでも平和的なやり方がモットーの非営利団体です。私はO町を始めとするH市を救おうとやって参りました」

 全く話が見えなかったが、ヒロサキは冷静さを心掛けた。

「こりゃ大きく出たな。救済と立ち退きと何の関係があるんだ?」

「一人でも多くの方をこの土地から遠ざける為です」

 ヒロサキは半ば予想していた回答に近付いたと感じた。

 何月何日に何処で空襲がある、これは確かな筋の情報だ――時世柄こういった類の流言飛語をよく聞く。あまつさえ、人心を惑わせて金儲けをしようとする非国民は全く以って許し難い。

「さっき非営利団体とか何とか言ったよな? それが何で堂々と総合娯楽施設の開発を謳うんだ? 矛盾してるぞ!」

 ヒロサキの指摘に男は口籠ったが、一気に追い詰めようとヒロサキが言葉の刃を構えた矢先、男は早口に言った。

「歴史への介入は細心の注意が必要なのです。当該時空帯に於いてあり得べき方法を用いなければ、当局に嗅ぎ付けられる可能性が高まります」

「……?!」

「なので、O町全体にフィールド転移処理を施して集団疎開させるような不自然極まりない方法は、真っ先に除外しなければなりません」

 見えて来そうだった話がまた霧の中に隠れようとしている。ここで遣り込まれてはならない、とヒロサキは気を張ったが、男の饒舌は止まらない。

「既に幾つかの計画を実行に移しました。爆弾搭載機の飛行を阻止しようとしました。もっと遡って爆弾の開発を阻止しようとしました。更に遡り、理論の発見自体を阻止しようともしました……しかし、歴史の筋道に手を加えるのは極めて困難な作業です。複雑に入り組んだ国際情勢ともなれば尚更で、限りなく不可能に近い」


 窓硝子に張り付いた夜の静寂が、手狭な部屋の空気を押し潰そうとする。ヒロサキは、顎へと流れ落ちる汗をゆっくり拭った。

「例え一時的に誰かの行動を阻止したとしても、他の誰かが意思を継ぎ、同じような帰結を生む。歴史はそういうものなのかも知れない。しかし、悲劇を知っている人間としては……」

 男の声が震え始める。この男は自分の作り話に、いや、妄想に完全に酔っている――薄ら寒さを感じたヒロサキは、耐え切れず口を挟んだ。

「あんた、ナガちゃ……ナガシマさんを知ってるな?」

「ナガシマさんには色々とご協力願いました」

「協力⁉」

「計画の進行を加速させる為、次善の策としてナガシマさんの夢を操作させて貰いました」

「夢……を操作?」

「幾度となく悪夢を見て貰いました。町が業火に焼かれ、大勢の人々が苦しみながら死んで行くという内容です。ナガシマさんがこの悪夢を周囲に吹聴し、皆さんを不安にする事で計画へと方向付けられないかと目論んだ訳ですが」

 ヒロサキの脳裏にナガシマの痩せこけた顔が過った。

「まさか、ナガちゃんに酒をやったのは……」

「はい……せめて睡眠障害を緩和させてあげようと」

 男が言い終わる前に、ヒロサキはその顔を目掛けて拳を繰り出していた。男は、机上の物品を巻き散らしながら床に倒れた。

 他人に思い通りの悪夢を見せる芸当が出来るとは、到底、考えられない。しかし、ナガシマの憔悴は事実なのだ。

「……申し訳ないと思いましたが、大いなる救済の細やかな犠牲だと割り切りました」

 ヒロサキはもう一発食らわすつもりで拳を握った。

 男が唇の血を拭いながら壁の方を見た。釣られてヒロサキも見た。何の変哲もない日捲りカレンダーが『進め一億火の玉だ』の標語と今日の日付を示しているだけだった。

「私はまだ諦めてはいません」

「こいつっ、性懲りもなく!」

 ヒロサキは、よろよろと立ち上がる男の胸倉を掴んだ。

「私は今夜の内にN市に向かいます」

「逃がさんぞ!」

の地でも私の仲間が計画を遂行中です」

「N市でも詐欺かっ!?」

「えぇ、一人でも多く……」

 ヒロサキは、熱に浮かされた自分の頭が急速に冷めて行くのが判った。何から何まで徹底して馬鹿げた言い草に、胸倉を掴んだ手から力が抜けて行った。


              ◇


 その晩、ヒロサキは中々寝付けなかった。

 少し前に空襲警報があった。何事もなく防空壕から戻ったものの、睡魔は完全に逃げ去っていた。

 三流詐欺師の顔が浮かんでは消える。どういう訳か、男の容貌に或る種の懐かしさを感じている自分に気付いた。一度も会った事のない遠い肉親と相対したような、そこにあり得べき血脈の存在を見たような、何とも言えない感覚が襲うのだった。

 男は、荒唐無稽でしかない戯言を口走りながら、瞳の奥には焼けるような焦燥を宿していた。

 この男は詐欺師ではない、狂人だ――ヒロサキはそう結論付けた。そう考えると、込み上げていた怒りが低きに流れる水のように憐みへと変質してしまった。

 長く続く戦時常態は、戦地に赴いていない者の思考さえ犯してしまう事があるのだ、と思った。

 ヒロサキは男をそのままにし、踵を返すより外はなかった。


 男の最後の台詞が脳裏に木霊する。男は喜怒哀楽が目紛めまぐるしく移り変わる口調でこう言ったのだ。

「貴方は奇蹟的に一命を取り留めます。ですが、その後の人生は辛いものになります」

 結局、ヒロサキは朝まで眠る努力を続けた。


              5


 作業現場には様々な人達が集っていた。

 高等科や中等学校の子供達も大人に混じって懸命に作業に従事している。

 屋根に上って瓦を落とす者、障子や襖を外す者、柱の根元を鋸で切断する者。準備が整うと、大人達が梁に掛けたロープを同時に引く。

「せーのっ」

「よいしょっ」

「せーのっ」

「よいしょっ」

 建物が倒壊する度に塵や埃が辺りに舞い飛ぶ中、子供達は瓦礫に群がって片付けに勤しむ。この繰り返しだった。

 O町の面々は総出だった。及波や小柄も老体に鞭を打っている。

いずれO町も空き地になるんじゃろうか……」

 及波が汗を拭いながら呟いた。

「こんな事なら――」

 今度は小柄が呟いた。

「こんな事なら、何だい?」

「R開拓産業に金を貰っときゃ良かった」

「馬鹿な事をっ」

「実を言うと、以前R開拓産業の社長に声を掛けられてね」

「……あんたもか」

 二人の老人が顔を見合わせた。

 多くの人間が男に勧誘されながらそれを隠していた。誰もが詐欺と疑いながら、心の底では提示された高額の立退料に心を動かされていた。

 僅かな配給や闇価格の買い出し、突然舞い込む召集令状や死亡告知書――疲弊して行く魂は縋り得る何かを求めていた。もし万が一、詐欺でなかったら――そう思いたい相克の中に誰もが閉じ籠っていた。

「それはそうと、今日は阿久井の姿が見えんな」

「そうですね。おかしいな」

「足が不自由になってもお茶汲みくらいは出来るって、毎回参加しとったのに」

「あいつは皮肉屋だけど、根は良い奴だもんねぇ」


「貴様ーっ! 遅れた理由を言ってみろっ!」

 現場を見回っていた軍人が急に声を張り上げたので、皆の視線が一斉にそちらへ集まった。ヒロサキが背筋を伸ばしている。

「はいっ、寝坊しましたっ」

 ヒロサキが正直に答えた瞬間、軍人の平手打ちが飛んだ。

「昨夜の空襲警報で寝られなかったのはお前だけじゃないっ!」

 直ぐに作業に当たれ、と言い残して去る軍人を、ヒロサキは土下座で見送った。

「さぁ」

 そのヒロサキに掌を差し出す者があった。見上げたその視線の先に居たのは、仄かな笑みを湛えたナガシマだった。

「……ナガちゃん!」

 ナガシマがヒロサキを引き上げた。その腕は思いの外、力強かった。

「昨日は御免。すっかり面倒を掛けてしまって」

「気にしなくて良いよ。それより、もう大丈夫なの?」

「あぁ、昨夜は悪夢も見なかった。もう酒には頼らないよ」

「ナガちゃん……!」

 二人は固く握手をした。

 夏の日差しがいよいよ強くなり始めていた。

 皆が蒼天に機影を認めたのは、この直後だった。

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