月が見えなくなりましたね

三屋城衣智子

月が見えなくなりましたね

 子供たちと笑顔でふうわりと接する仕事を終えたその日。

 化粧をやり直し色付きリップで整え、柔らかな包容力の衣装から、秋めいたくすみカラーのふんわりブラウスと、すっきりとしてそれでいてトキメキをくれるミモザ丈のAラインスカートのそれへと着替えを済ませます。


 疲労感いっぱいで家路に着く頃。自分の城へと向かうその道の電柱の影に、彼はいました。

 微妙にどころか大分はみ出たその身体は、周りへの気遣いなく繕われてすらおらず、住宅街にいっそある種の異世界を出現させています。

 居てもいいけれど、良いのだけれど。私へと近づかれるにはもう体力気力は使い切っています。できれば今日の日はさようなら、別々の世界で幸せを探すといいですねと心の中だけで交わしたい言葉。

 できるだけ目を合わさないようスッと背を伸ばしゆけば、すれ違って少し安堵したちょうどその頃合いで、皮肉かのようにぬうめりとした声が、こちらへと届きました。


「素敵なお洋服ですね」


 初対面ではなかったでしょうか。一生懸命思い当たる人を思考しながら探しますが、該当する人は誰もいません。

 とりあえず、見知らないわけなのできちんと御挨拶をしました。


「こんばんは、初めまして」

「初めまして」


 やはり、初めましての方のようです。

 責任を負う身としてきちんと挨拶をするという義理は果たしました。ですがもう一つ言葉をいただいたので、そればかしお返事をさせていただき、自分のお城でさっさと焼き鳥片手にビールをひねりたい。

 そういった気分の私ですので、短く言葉を発します。


「お褒めいただきありがとうございました」


 ました、と言いましたよ。なかなかに捻りの効いた一言に流石に相手にもご理解いただけるだろうと考えます。終わりの合図ですので会釈をして踵を返そうとしたその時。


「あなたはどうでも良いのです。いえ、そのお洋服があなたのこれまでの経験からくるものならば実にいい。ですが今私にはそれがファッション誌から得ただけなのか、あなたの内面からくるものなのかがわからない。けれどもそのお洋服は、大変に私好みで興を唆ります」


 ぞわわわわぁと、背筋に今までにない衝撃が走りました。


 にこやかのつもりなのでしょう、けれども下卑た物言いのついたそれは爽やかよりもまるで粘菌のような様相を呈しており、お世辞にも洗練されているとはいえません。

 冷えた足裏に脳内で一生懸命叱咤激励し準備をすると、私は私の持てる語彙力の中で最大限、大人かつ機知に富んで面白そうな言葉を用意します。


 夜空に浮かぶ月は、借りていた太陽の力が剥がされてゆきながらその姿をいつもののっぺりとしたものから、まるでそこで今から跳ねるかのように、立体的に漂っています。色はいつもの柔らかな黄色から赤味がかって薄暗いそれへと変わっていて。

 足に履いた普段武器として使っているピンヒールを脱ぐと両手に持ち、お姫様のようには落とすまいとかっちり抱き込みながら口を開きました。



「月が見えなくなりましたね!」



 言うなり私は陸上選手もかくやという走りを裸足で見せ、その場から去りました。足の裏も身の内も傷もぐれの私は、それでも明日きちんと笑うでしょう。


 けれども今だけは、泣いていいですか。





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月が見えなくなりましたね 三屋城衣智子 @katsuji-ichiko

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