コオロギの恩返し
烏川 ハル
コオロギの恩返し
台所で夕食の準備中、足元を黒いものが横切った。
「うわっ!」
思わず声を上げてしまう。
黒光りする茶色の小さな生き物。誰からも忌み嫌われる、ゴキブリというやつだ!
急いで叩き潰すとか、それでは
「ん?」
やかんに手をかけながらよく見ると、ゴキブリほど平べったい感じはせず、むしろバッタに似た形状だ。
ゴキブリではなく、コオロギだった。
「ほう……」
自然と頬が緩む。
コオロギならば、可愛らしい昆虫ではないか。
仕事を辞めて、それまで住んでいたマンションも引き払って、郊外にある今の家に越してきてから約一年。トカゲやムカデは頻繁に目にするし、バッタやカマキリも見たことがあるが、コオロギはこれが初めてだった。
しかも庭ではなく家の中なのだから、なんとも珍しい話だ。どこかから迷い込んで、出られなくなったのだろうか。
「お前のおうちは、ここではないよ。ここは私のおうちだ」
優しく手で包み込みようにして、ソーッと捕まえる。そして窓から庭へ逃がしてやった。
その日の夜。
夢の中にコオロギが出てきた。
正確にはコオロギそのものではなく、黒いコートを着た長い黒髪の女性が我が家を訪れる、という内容だったが、その女性がコオロギの化身であることを、夢の中の私は理解していた。
「道に迷って困っていたところを助けていただいた者です。その節は大変ありがとうございました。お礼に私の宝物を差し上げます。裏の竹藪に隠してありますので……」
玄関先で一方的にそれだけ告げると、女性は一礼の後、足早に去っていく。まるでピョンピョン飛び跳ねるような駆け足だった。
「竹藪の宝物か……」
目が覚めて最初に口から出てきたのは、そんな独り言だった。
確かに近所を散歩していて、竹が生えている場所を見かけたことはある。舗装された道路が終わり土の道になったところを「この先は何があるのだろう?」と入っていった時のことだ。
こんなところに竹なんて生えているのか、と少し珍しく感じたものだ。
また「管理された竹林というより、手入れされていない竹藪という感じだから、誰かの私有地ではなさそうだ」と安心したのも覚えている。好奇心から細い道に入っておきながら「もしかしたら私道に入り込んだのではないか」という心配もあったのだろう。
「夢の中のコオロギ娘が言っていたのは、あの竹藪に違いない」
自分でそう呟きながら、私は首を横に振る。
正確には「コオロギ娘が言っていた」ではなく、全ては私が無意識のうちに考え出した想像に過ぎないのだろう。私が見た夢なのだから。
ならば「竹藪に宝物が」というのも、私の潜在意識から出てきた発想に違いない。そういえば子供の頃「竹藪で大金を拾った」というニュースが世間を騒がせたことがあった。それを覚えていて、あんな夢になったのだろうか。
とはいえ、そんなふうに突き詰めて考えていったら、それこそ夢も希望もない話だ。せっかく「夢のお告げ」みたいな夢を見たのだから、騙されたと思って、それに従ってみよう。
そう考えて早速、早朝の散歩として問題の竹藪を訪れると……。
一本の竹の根元に、キラリと光る物が落ちていた。
ただし昔話に出てくるような金銀財宝の
「コオロギ娘の宝物って、もしかしてこれのことか?」
本来ならば拾得物として交番に届けるべきなのかもしれない。でも所詮はボールペン、しかも夢に導かれて手に入れた物なのだ。もらってしまってもバチは当たらないだろう。
半ば自分に言い聞かせるようにして、私は三本のボールペンを家に持ち帰った。
最初は光ったようにも見えた通り、金属そのままっぽい銀色の部分もあったが、全体的には濃い青色のボールペンだった。
触り心地も良いし、手に持てば妙に馴染む。一本百円みたいな安物でないのは確実だった。
三本とも全く同じデザインで、私が見たことのないロゴが刻まれている。ボールペンメーカーのロゴでもなさそうだ。
世の中便利になったもので、そんな「見たことのないロゴ」でも、インターネットで調べるとすぐに正体が判明した。とある小説投稿サイトのロゴだという。
どうやらこの三本のボールペンは、その小説投稿サイト特製の非売品。しばらく前に行われたキャンペーンにおいて、抽選でプレゼントされたものらしい。
ならば、一人で三本も手に入れるだけで相当困難なはず。そんな貴重な品物が何故あんな竹藪に捨てられていたのか……。
「そうなると……。捨てられていたのではなく、何者かが掻き集めてあそこに隠していたのか。あのコオロギ娘の話、案外本当に夢のお告げだったのかもしれないな」
子供じみた考えではあるが、せっかくなので信じてみることにしよう。
とはいえ、今の私にとっては宝物というより、ただの三本のボールペンに過ぎない。だからこれも何かの縁だと思って、
手に入れたボールペンを使って、私も小説を書き始めたのだ。
小説投稿サイトというのは素人でも自由に小説を発表できる場だが、その小説が出版社などに見出されて、プロの小説家になる者もいるという。
もしも私の書いた小説がそうなって、大きな収入に繋がったら……。元々は竹藪のボールペンから始まったのだから、ある意味「竹藪で大金を拾った」みたいな話。まさに竹藪で見つけた宝物だ。
いや、そんな俗物的な「もしも」を考えるまでもない。仕事を辞めて無為に過ごしていた私に、新しく小説執筆という趣味が出来たこと。これだけでも十分に立派な、無形の宝物ではないか。
「助けたコオロギから、新しい趣味という宝物をプレゼントされる……。これが『鶴の恩返し』ならぬ『コオロギの恩返し』なのだな」
ボールペンを握って原稿用紙に向かいながら、私は笑顔で呟くのだった。
(「コオロギの恩返し」完)
コオロギの恩返し 烏川 ハル @haru_karasugawa
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