文帝と九尾の狐

バルバルさん

皇帝もまた、人であった

 私は人が怖い。

 死と暴力を振るう男が怖い。狂気と愛憎を振るう女が怖い。

 この世で、信用できる存在は自分の母親くらいだ。それほどまでに苛烈な時代が、私の前にはあった。

 群雄が割拠した時代を私は知らない。だが、その時代を生き抜き勝利した男が、私の父親だという。

 そのおかげで、私は代王としてここにいる。父とは血筋だけの関係だが、それが当たりまえ。

 だが、かつての時代を勉強すればするほど、私は戦の中の男という存在に恐怖を覚えた。人は、戦いの中では獣になる。畜生になることが、恐ろしく、悍ましかった。

 そして、世が平定されても続くのが狂気。ああ、私の異母兄弟たちを殺したあの女の狂気!

 口にするのも憚られるほどの狂気が、宮廷で渦巻いたのを知って、私は心底恐怖した。

 彼女が終わった今でも怖くてたまらない。

 男は戦で、女は宮中で。それぞれ狂う事を知った。

 そして時代は変わり、代も、人も変わっていく。

 戦いの覇者である先代皇帝の父は没した。あの狂気の女の時代も終わった。

 そして変わった先に、時代は新しい皇帝を求める。

 その皇帝に選ばれたのが私。名を劉恒という。

 民草は疲れ切っている。彼らを慰撫し、国を安定させることが私の使命だ。

 だが。と一歩立ち止まり、思うのだ。

 私は人が怖い。周囲の男どもが、女どもが怖い。そんな私に、皇帝が務まるのだろうかという不安が胸中に渦巻く。

 それらに、明確な答えの形が出せぬまま、長安へ向かう日が来た。



 長安へ向かう道、この道の先に、私が皇帝となる時代がある。

 今、率いている人数は少ない。私の政敵の嫌がらせかもしれないが、正直たすかった。あまり格好はつかないが、周囲に人は少ない方が安心する。

 そして、今は夜。陣を張り、休憩をしている。私のいた代国から二日。疲れが出たのか、瞼が重い。

 少し休むとしよう。そう思い、横になりゆっくりと瞼を下ろした。

 その時だ。ふわり、と甘い香りがした。なんだろうか。久しく感じていなかった、安心のできる香りだ。

 ゆっくり、閉じていた瞼を開けようとして、気が付いた。瞼を閉じているはずなのに、見えるのだ。前に座り、私を見る存在が。その存在は人の姿を取ってはいるが、背に九本の尾が見え、中性的と言えばいいのか、男とも、女ともつかぬ見た目をしていた。


「時代に選ばれた人間よ。そのまま、目を閉じていてかまわぬ。わが問いに答えるのだ」


 その声は、透き通るような響きだが、不思議なことに耳で聞こえたのではない。心に聞こえてきたような気がした。

 貴様は、一体?そう声を出したつもりだったが、声が出ない。だが、相手には伝わったようだ。


「わが名は九尾の狐。時代が選んだ人間を見定めるよう天より遣わされし者」


 九尾の狐?

 だが、相手の見た目は人だが……と思っていると、相手は問いをかけてくる。


「人間よ。貴様はこれより、人でありながら人の上に立つ。それは、人を超え、皇帝という座に収まるためだ。貴様は、その座に何を求める。何を望む」


 私が、皇帝の座に望むもの?

 そんなものは決まっている。


「そんなものは、無い」

「ほぅ」


 目を細め、面白そうな表情を作る九尾の狐とやら。そして私は続ける。


「ただ座るための座に何の意味がある。意味の無い物に何も望まぬし、求めぬよ」

「皇帝を、ただ座るための座と申したか。その心やいかに?」

「皇帝の座に意味があるのではない。座る私に意味があるのだ」

「ほう、大きく出たな貴様」


 ころころと、上品に口元を手で隠し、鈴が転がるような音で笑う九尾の狐。


「男にも、女にも恐怖し、自身が皇帝たりえるか不安な貴様に、意味があると?」

「ああ、ある」

「ならば聞かせてみせよ」

「少なくとも、私は」


 少し、間を開ける。頭の中に、様々な思いが駆け巡る。

 私は人が怖い。皇帝たりえるか不安だ。

 だから。


「私は、恐怖も不安も知っている。そして、なぜ人が恐怖や不安を抱くか知っている。だから、私の治める世では、それらを抱く民が居なくなるようにする。それが、私の意味。私が、私という者に求め、望むものだ」


 そこまで語ると、九尾の狐は、薄く頷いた。


「ふむ、恐怖と不安を、民から取り除くための治世をする自分に価値を見出したいか……面白い、面白いぞ貴様」


 そして、九尾の狐の姿がゆっくりと消えていく。


「貴様の治める世。じっくり見定めてやろう。もし、貴様の言う価値を、私が貴様に見いだせなくなれば、皇帝の座に貴様はいられないものと知れ」


 そして、完全に九尾の狐は消え、私は目を覚ました。

 何だったのだろうか、今のは。夢にしては生々しかったが……

 私の価値、か。九尾の狐に語って、ぼんやりと心に浮かんでいたものだ初めて形になった気がした。

 民から、恐怖と不安を取り除く治世。それが、私の皇帝としての価値。私が、皇帝である私に望む価値。

 必ず、成して見せる。必ず。



 ゆっくり、瞼を開けた。

 何か、懐かしい夢を見た気がした。私が、自身の皇帝としての形を見た時の夢だった気がする。

 よろり、と動かぬ体にムチを打ち、横を見る。

 皇帝としては質素な自室を眺めながら、自身を振り返る。

 私の治世は、安定の世の治世だったと思う。苛烈な群雄割拠の世にならず、本当に良かった。

 食べ物は保存できなくなるほどに蓄えることができるようになったと聞く。

 ひもじい思いをする民が少なくなったのは良い事だ。

 そう思っていると、気が付けば部屋に、一人、九尾の尾を持った存在が。


「久しいな、皇帝よ」

「ああ、丁度お前の夢を見ていたよ、九尾の狐」


 九尾の狐は、一歩、一歩と歩いて来る。


「貴様は、自身がもう長くはないことを理解しているな」

「ああ。もうすぐ、私は終わる」

「うむ、終わりを理解しても、動じないか」

「いや、内心は死への恐怖と不安で一杯だ。だが、内面の感情を表に出さぬ事くらいできる」


 それを聞きながら、九尾の狐は枕元に座った。

 終わりは怖い。不安もある。だが、表に出したくない。ちょっとした人としての意地のようなものだ。

 それに、終わりに向けた準備も命じてある。心配はない。


「結局、終わりまで私は皇帝だった。私の治世は、お前に認められたという事かな?」

「さあ、どうだろうな」


 そっと、その絹のような手が、私の頭を撫でる。表情は柔らかい。


「お前の治世で、民は日々の不安を減らしただろう。だが、お前が終われば、また群雄の割拠する時代が来るかもしれぬ。暗黒の時代が訪れるかもしれぬ……時代は移り変わり、お前の次の皇帝を選ぶだろう」

「ああ、それが心残りだが……私には、どうしようも出来ぬ天命よ。受け入れるさ」


 ああ、なんだかとても眠たい。だが、気力を振り絞る。


「私は、皇帝の座に座り、皇帝となって感じたことがある」

「なんだ?」

「私は皇帝であるが、その前に人だということだ。人だからこそ、恐怖し、不安に感じる。人だからこそ、終わりが来て、次の時代は見られない。人だからこそ、限界があり、出来ないこともある」

「当然だな」

「そして、人だからこそ……終わる時に、恐怖と不安を覆い隠すほどの、満足感を持って死にたい。なあ、九尾の狐よ、私の治世は、民たちにとって、良き治世であったか?」

「それは、のちの世が決める事。私には何も言えぬよ」

「ふ、冷たい奴め。そこはそうだったと言う所だろう」

「だが、どうしても知りたければその胸に聞け。貴様が、皇帝として終わる意味を。それが、答えだ」


 あぁ、そうだな。

 だが、もう眠いのだ。九尾の狐よ。

 そろそろ寝かせてもらうぞ…………


――――――あぁ、眠れ。文帝 劉恒。中華の名君よ。その名は、大陸の歴史に刻まれるだろう。


 わが名は九尾の狐。

 名君の前にしか姿を見せぬ、瑞獣が一角。

 少なくとも、貴様は私が姿を見せるにふさわしい名君であったぞ。

 誇り、眠れ。恐怖も不安もない、永久の夢の中へ。

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