蝸牛と翡翠壁

鐘古こよみ

蝸牛と翡翠壁

 果ての見えぬ小道の傍らに、一つの蝸牛カタツムリがあった。

 蝸牛は東西に名高い、かの歩みののろさを持って、少し、また少しと道行きを進めていた。


 蝸牛に目的は無い。


 歩み始めの端緒にこそ、あったには違いないが、自らの歩みの遅きを身を持って知るにつれ、それもうに忘れてしまった。


 ――はてさて、私はまた、どうしてこのように歩みを進めているのだろう。


 長い道行きの途中には、そうした疑問がふと浮かぶこともあったが、それもぬめぬめとした自らの足取りに絡め取られるように、消え去る類のものだった。


 埃を蹴立てて先を急ぐ人馬を避け、植物の繊毛ににじむ朝露を舐め、食んだ草花と同色の鞠を点々と印して、蝸牛は無邪気とも言える無心さで、ひたすら先を目指した。

 未だかつて後戻りをしたことがない。それが蝸牛の、唯一抱く誇りであった。


 蝸牛の一族といえば、扁平へんぺいな地面でも、天地に際立つ垂直の壁でも、自在に這い進むことのできる特異者である。

 御多分に漏れず、この蝸牛も始祖から受け継いだ能力を遺憾なく発揮し、道塞ぐ壁あらば這い登り、道隔てる谷あらば這い下りして、止まることなく突き進んできた。


 もっとも、傍から見ればその猛進は、止まっていようがいまいがわからないほど、のろまなものでありはしたが。


 ある時、蝸牛は自らの道行きの先に、長々と横たわる見事な翡翠の壁を発見した。


 つやつやと輝く翡翠の煉瓦が几帳面に隙間なく並べられ、美しくも頑丈な壁を為して、堂々と地面に建っているのだ。

 円らな両の目を精一杯に伸ばし、仔細に壁を点検すると、蝸牛はしばし黙考した。


 ――ははぁ。天が見えるところから察するに、この壁はさほど高くは無いな。しかし、左右の端はどうにも見通せない。実に長い。ひとつ、この長さがどこまで続くものなのか、試してやろうではないか。


 蝸牛は欲を出した。この翡翠壁を乗り越えたと言うよりも、この翡翠壁を踏破したと言う方が輝かしかろうと、そう考えたのである。

 誰よりも長い道のりを歩んだ蝸牛として、一族に噂され、褒め称えられることこそが、長らく忘れていた蝸牛の野望であった。


 七夜かけて翡翠壁の良い位置まで登ると、蝸牛はおもむろに向きを変え、壁の端を目指して歩みだした。

 自らの決断の勇猛さに、自然と足も波打つようであった。


 噂によれば、一族の中には翡翠の宮に住み、その心地良い湿気と程良い冷暗の内に一生を過ごす、横着者もいるという。

 しかし蝸牛は、そのような漫然とした生より、のろくとも自らの足で歩み続ける生を善しとしていた。

 ともすれば忘れがちな歩みの目的を、この美しい翡翠の壁は、あやまたず自分に報せてくれるだろう。蝸牛はそれに安らぎを覚えた。


 翡翠壁の踏破を胸に決めてから、幾日が経っただろうか。

 ある時、ぬめる足の下で壁がざわめくのを、蝸牛は感じた。


 すわ地震かと軟らかな頭を引っ込め、渦巻く殻の中でじっと耳を澄ませる蝸牛に、翡翠壁の中から響く、深々とした何某かの声が語りかけた。


「さて何者か。寝ているうちにおれの脇腹を、ぬめぬめと這い回っていたお前は」

「わ、私は蝸牛でございます。これは驚いた。翡翠壁のあなたが生きて、眠りについていたとは」

「なに、翡翠の壁とな」


 声は驚き、それから心地良さげに笑った。


「おれの鱗が翡翠とは、なかなか見る目のあるやつだ。小さなお前にわからなかったのも無理ないが、おれは壁ではなく、龍よ」

「あれ、そうでございましたか」


 蝸牛は驚き、感心した。これほどに大きく、美しい体を持つ生き物に出会うのは初めてだったのだ。


「たといおれが壁だとして、お前は何故そのように、長々とした道を辿っているのだ。越えて先へ行くほうが、ずっと楽だというものなのに」

「しかし私は、あなたさまの体の、左右の果てまで行きたいのです」


 蝸牛は落ち着き払って答えた。


「教えてください。私が目指しているのは一体、あなたさまの鼻の先か、尻尾の先か、どちらなのでしょう。今後はそれを目指して歩みますから」

「どうもおかしな蝸牛だ。お前の頭が向いているのは、おれの鼻の方向だよ」


 礼を言い、蝸牛は再び黙々と歩み始めた。

 目覚めたばかりの龍はぼんやりとしているうち、やがて蝸牛の存在を忘れてしまったが、ある時、白い大きな鳥が横腹を突くのに気付いて声を上げた。


「こら鳥よ。その蝸牛を捕ってはならぬ。そいつはおれの鱗を翡翠の壁と言い表すような、なかなか見る目のあるやつなのだ」

「左様でございましたか。そんなら、捕らないでおきましょう」


 白い鳥は翼を広げて去って行った。


「ああ、驚いた。目玉が引っ込むところだった。龍の殿様、大変に大変にありがとうございます。龍を翡翠と思い込む私の物知らずも、役に立つことがありますなあ」

「うん。今度は助かったが、いつもこういくとは思うなよ」


 蝸牛ののんびりとした礼に呆れながら、龍はあることを思いついた。


「蝸牛よ、いいか、しっかり掴まっていろ」


 言うなり龍は腹の鱗を立て、身をくねらせて恐るべき速さで地面を駆け抜けた。

 慌てふためいた蝸牛が殻の中に身を収め終わった頃にはもう、辺りの風景はガラリと変わっていた。


「さあ蝸牛よ、連れてきてやったぞ。ここがさっきまで、俺の鼻先があった場所だ」


 呆気にとられた蝸牛は、ようやく事情を呑み込み、左右の角を前後に振り振りこう述べた。


「いえいえ龍さま、そうではないのです。私はあなたさまの鼻先へ行きたいのです」

「なに、さらに距離を稼ごうとは、思いのほか欲張るやつだ。仕方ない」


 言うなり龍は再び腹の鱗を立て、凄まじい勢いで地を滑るように進んだ。その勢いたるや、目を白黒させた蝸牛が身を引っ込める暇も無いほどだった。


「さあ蝸牛よ、もう良かろう。いつまでも俺の横腹に居ては、お前の白茶けた殻が、いつまた腹を空かせた鳥に見つかるとも知れぬぞ」

「いえいえ龍さま、そうではなくて……」


 元来が気長で呑気なたちの蝸牛は、根気強く説明した。


「私は自分の足で、あなたさまの鼻先へ辿り着きたいのです。あなたさまがどこへ移動しようと、それは同じことなのです」

「なに、お前はこのおれの鼻先そのものへ、辿り着きたいと言うのか」


 龍は驚き、感心した。この小さく軟らかな、いかにも弱々しい生き物の中に、実に強い意思が秘められていることを、ようやく知ったからである。


「よし、もう余計なことはすまい。この鼻先にお前が現れるのを待つとしよう」


 蝸牛は喜び勇んで、悠久の歩みを開始した。

 龍がどこへ移動しようと、いかに時が流れようと、ただ黙して歩み続けた。


 龍の腹に住処を得て、遥かな距離を旅して回る蝸牛の噂は、いつしか一族の中でも、特に羨望の眼差しを集める話題として、大きく伝えられるようになった。


 当の蝸牛はその噂を聞くことなく、ひたすら龍の鼻先を目指している。

 己の道行きの目的を忘れることは、もう無い。

 それを蝸牛は、何よりの幸いと知っている。


<了>

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