※※

 来ると思ったから待っていたけれど、本当に来られると不快極まりないというのだから手に負えない。


「いつまで永久子とわこのお遊びに付き合っているつもりだ」


 いつも永久子さんと並んで座る縁側に座って月下独酌を決め込んでいたのに、不愉快な客人は情緒も感じさせずにズカズカと敷地の中に入ってくる。


 この男は僕をここに閉じ込めている者の使者という役割を背負っているから、この家の敷地に無断で入れる権限を持っている。絶えずこの家を見張っている連中も、この男の侵入は止めてくれない。


「私は永久子を遊ばせる為にこの家に送り込んだ訳ではない。職業婦人に成りたいなどという馬鹿な考えを完膚なきまでに叩き折り、とっととこの家から放り出せと命じたはずだぞ」

「彼女を勝手に送り込んできたのは君だ。その子を如何どうしようと僕の勝手だろう? 更に言えば君に、僕への命令権限は無いはずだ」

「貴様ならば出来るだろう。貴様がり込んだ事さえ気付かせず、相手を洗脳する事が。思考を歪め、考え方を、心のようり替える事が。なぁ」


 ザワリと、夜気が揺れる。永久子さんがこの家に居る時には決して見せないほの暗さをまとって。


「弁論の悪魔」


 ……永久子さんは、きっと知らない。


 僕がこの屋敷に押し込められていなければならない訳を。僕が、悪魔と呼ばれる様な人間である事を。


 かつて、この国が大日本帝国と名乗り始めた頃、国は大変混乱していた。


 押し寄せてくる広い広い世界を前に、人々は右を見ればいいのかはたまた左を見ればいいのか、それさえも分からなくなってしまった。


 混乱した人々によって、政局も変動した。それに押し潰されていくのは、いつだって末端の人々だ。


 それを分かってもいやしない癖に国政の中枢にのさばる人間達は、己の保身ばかりに走る無能者ばかりだった。


 だから、僕は悪魔になった。


 弁舌巧みに人々の心を操り、強制的に全員が同じ方向を向く様に仕向けた。


 僕を消そうとする人間は、先回りして全員消した。


 表に出る事なく全て裏の奥深くで、この国が早く安定する様に人々を操り続けた。


 僕が何か、御伽おとぎ草子ぞうしの登場人物の様な超常的な力を持っていた訳ではない。


 良く回る舌と、膨大な知識。世界の裏側まで見抜く観察力。それが僕を悪魔に至らしめた全てだった。


 汚い事も多くこなしたけれど、悪魔と呼ばれたこの力を私利私欲に使った事は一度もない。


 お陰でこの国は何とか安定を得た。


 だけど周囲を見回す余裕を得たお偉いさん方は、とうとう僕の危険性にも気付いてしまった。


 この御時世、危険因子は消されてしまってもおかしくないはずなのに、どうして僕がこうして手厚い保護の中で生かされているのかと言えば、それは生まれが一寸ちょっとばかり良かった事と、いざという時に僕から知恵を引き出さなければならないという打算以外に他ならない。


 それでも僕は、おおむねこの生活に満足している。


 ……いや、より正確に言うならば、最近更に大きな充足感を得られる様になった。


「……話を聞いていないみたいだな、子爵」


 僕は不機嫌を隠さないまま口を開いた。


「僕は子爵位ごときの人間に命じられなきゃならないような立場にある人間じゃない。僕を利用し、僕をここに押し込める事を決めたのはもっと上の人物。そして僕の生まれは、その更に上だ。君はただの遣いっ走り。立場をわきまえて貰おうか」


 鼻の上に乗せていた丸眼鏡を外す。


 この眼鏡は永久子さんがここに来る事が決まってから使う様になった物だ。


 当初の目的は『若い娘』に外見で騒がれないように……もっと言うならば不要な色恋沙汰に巻き込まれない様にする為に作った物だったけれど、今ではすっかり別の用途の為に使用されている。


「僕は高澤たかざわ永久子を気に入っている。心を叩き折るなんてとんでもない」


 眼鏡を外した瞳で目の男を見据えると、男は分かりやすくビクリと肩を震わせた。


「君は君なりに永久子さんが可愛くて、永久子さんの前で『理解ある父親』を演じるためにわざわざこんなに面倒な事を仕組んだみたいだけれど」


 その『怯え』に気付いていながら、僕は獲物をいたぶる肉食獣のように、ゆったりとした笑みを浮かべてみせる。


「君がこれ以上永久子さんの志を害そうと言うならば、僕は永久子さんが永遠に君の元に帰らない様に仕組んだっていいんだよ?」


 眼鏡の奥に隠した瞳は、鋭すぎて肉親にさえ倦厭けんえんされていた。妖怪でも鬼でもなく『悪魔』と呼ばれるに至ったのには、きっとこの目付きも影響しているのだろう。


 この目と視線を合わせただけで心を奥底まで見透かされてしまうと脅えていたのは、一体どこのどいつだったか。


 案外、会う人間が全員そう思っていたのかもしれない。現に目の前の男も、直に視線にさらされた瞬間から凍り付く様に動きを止めている。


 隠す為に作った眼鏡は、今や押し隠す為の物。


 彼女の前に、悪魔の顔をさらさない為の抑制器具。


「己の立場を理解したならば、さっさとここから立ち去るといい。僕にとっても利益は無いんだ。永久子さんに君との接点を知られる事は。永久子さんはこの仕事の斡旋に君が一枚噛んでいる事を知らない。知られてしまったら、永久子さんはここの勤めを辞めてしまうかもしれないからね」


 言い放って、そのまま瞳を閉じる。ザワリと風が揺れ、庭の桜の大木が華やかに花弁を散らすのが気配で分かった。


 ――ねぇ永久子さん。


 貴女は、僕の言葉に惑わされてはいませんか? 貴女の思考は、きちんと貴女の言葉で構築された物ですか?


 希望した本が乱丁で届くのは、意図的に言葉が消されているからだ。目まぐるしく変わり続ける世界の最前線を、悪魔に理解させない為の対策だ。


 それくらい、今でも僕は世間に危険視されている。


 当然、僕と直接言葉を交わせる女中という立場の人間は、この危険に常に晒されている事になる。


 永久子さんの前にも『女中』という名の監視役は幾度も派遣されてきた。


 僕にはその全てが鬱陶しくて、僕は己の操る言葉で彼女達を壊してはこの家から追い出していた。


 永久子さんの父であるあの男も、永久子さんがそうなる事を……心と思考を壊されて、父親の言い成りになる人形となって高澤子爵家に帰ってくる事を望んでいたみたいだけれど、残念ながら永久子さんは、今までの女中達とは一味もふた味も違った存在だった。


 瞳を、開く。


 桜の老木が一本入っているだけの殺風景な庭では、想像した通りに桜花が舞い踊っていた。


 不愉快な男は姿を消している。


 ヒラリ、フワリと花弁を舞わせるそよ風に、いつもは丸眼鏡に引っ掛かって動かない前髪が微かになびいた。


 酒を口に運びながら、庭の片隅に目を向ける。


 一カ所だけ土の色が違う場所。


 今日、永久子さんが綺麗な指先と、女学生姿の袴の先を汚しながらいじっていた場所だ。


 その場所に永久子さんが何を仕掛けたのか、実は僕は知っている。


 永久子さんに直接質問しても『秘密です』とツンと澄ましていたけれど、永久子さんが土いじりを始める前に手の中に花の種を隠し持っていたのを見てしまったから。


 僕の部屋にある植物図鑑の置き場所が少し変わっていたのは永久子さんの仕業だったのかと、合点が行った瞬間でもあった。


「子爵家令嬢が土いじりなんてした事もなかっただろうに。僕の為に、わざわざ屋敷の庭師に教えをうて来てくれたんだね」


 その行動が、さっき僕が心の片隅に浮かべた問いの答えになっているような気がして、口元に笑みが浮かんだのが分かった。


「春には桜、秋には紅葉、冬には雪があるけれど、夏には何もないから……か」


 僕が望んだ訳じゃないのに、永久子さんはこの敷地の外に出られない僕を思って夏の花の種を植えてくれた。


 普段家事すらする必要のない子爵家の令嬢が、自ら望んで、僕を驚かせようと、秘密にしてまで、だ。


 今までの女中達ならば、絶対にそんなことはしない。そして僕の言葉に洗脳された人間も、そんなことはしない。


 奇異の視線を向け、秘密を探り出し、密告しようとする者ばかりだった中で唯一、永久子さんだけが僕を見て、僕の心に寄り添おうとしてくれた。


 僕を監視対象じゃなくて、一人の人間として見てくれた。


「僕は、こんな生活が長いから。そりゃあ永久子さんの為に、好きでもない甘味を所望しちゃうよね」


 そよぐ風に、瞳を閉じる。こんな穏やかな気持ちで春を迎えるのは、今年が初めてだった。


 ――貴女の前では、悪魔ではなく、貴女が口にする呼び名の通り、そよ風の様な存在で在れます様に。


 そんな悪魔には似付かない想いを抱きながら、僕は月影に向かって杯を掲げた。




【了】


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