そよ風を纏う悪魔

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

 そよ風の様だと、思ったのです。


「初めまして。君が、今日から来てくれるという女中さんですか? 想像していたよりも随分と可愛らしいお嬢さんだ」


 四方を高い黒壁に囲まれた小さな家の主は、温かい日差しが降り注ぐ縁側で、丸眼鏡の奥にある瞳を細めてほわっと笑った。


「どうぞよろしくね、お嬢さん」


 その光景も、声も、表情も、全てがそよ風の様に暖かくて、優しくて。


 だからわたくしは、名を名乗ろうとしないその家主の事を『そよ風さん』と呼ぶ事にしたのです。




  ※  ※  ※




永久子とわこさん、お茶にしませんか? 買ってきてもらった羊羹ようかんが食べたいです」


 声に振り返ると、書き物をしていたそよ風さんが縁側に出てきていた。ほわっと笑うそよ風さんは、今日もそよ風みたいに穏やかそのもの。


「あ、はーい! 今ご用意致します」


 わたくしは手に付いていた泥をはたいて落とすと、矢絣やがすりの小袖のたもとに掛けていたたすきを解きながら玄関に入った。


 台所で手をすすいで振り返ると、お茶の準備はすでに整っていて、後はお湯を沸かして羊羹を切り分けるだけになっている。


 そよ風さんは女中としてわたくしを雇っている癖に、身の回りの事を自分でやる事が苦にならない、殿方にしては珍しい気性の持ち主。だから時々、こんな風に先回りされてしまう事がある。


「もう! ままを言う事がそよ風さんのお仕事だというのに!」


 プンプンと怒りながらお湯を沸かし、羊羹を切り分けてお皿に並べる。


 そよ風さんは、どうやら甘味がお好き。よくわたくしに買ってきて欲しいとせがんでは、一人で食べるのも味気ないからとわたくしにも振る舞ってくれる。


 世の子女と同じく甘味好きのわたくしにとって、そよ風さんの御相伴はもうひとつのお給金の様な物だった。


「お待たせ致しました!」


 そよ風さんは、よく肥えた猫舌をお持ち。だからお茶を入れる時は緊張する。


 通い始めてすぐの頃に一度お茶を入れるのに失敗したら、そよ風さんはしばらくお茶の支度をわたくしにさせてくれなくなってしまった。


 再びその仕事を任せてくれるようになった時、わたくしがどれ程安堵した事か。


「いいえ、全然待っていませんよ」


 用意が出来たお盆を持って縁側に向かうと、庭に向かって足を投げ出す様に座っていたそよ風さんが顔だけを振り返らせてほわっと笑った。


『待っていませんよ』と言う癖に、そよ風さんの手には本が握られている。


 そよ風さんは本の虫で、日がな一日読書に明け暮れる生活を送っている。中にシャツを合わせた小袖袴という書生さん風の格好と相まって、わたくしが抱くそよ風さんの印象は、すっかり自堕落な文学青年と化している。


「今日は何の御本を読んでいらしたんです?」


 そよ風さんが何で生計を立てているのか、わたくしは知らない。いてみたいと思うけれど、そよ風さん個人に関わる質問はしてはいけないと、このお仕事を斡旋してくださった方に言われているから訊けないままでいる。


 だけど、訊かなくても分かってしまう事も、幾つかあった。


「森鴎外先生の新作です。前から気になっていたので、無理を言って取り寄せて貰いました」


 そよ風さんは、この家の敷地の外に出る事が出来ない。五体満足で体の動きも滑らかな事から見るに、恐らくこの家に軟禁されている状態なのだろう。


 ただ、『敷地の外に出ない』という事さえ守っていれば、ある程度の自由は許されているのだと思う。


 そよ風さんはこうしてわたくしという女中を雇う事が出来るし、生活に不自由している様にも見えない。こうして女中のわたくしにも甘味を振る舞ってくださるくらいだもの。内所が苦しい訳ではないはずだわ。


 そしてそよ風さんは、この生活に満足している様にも見える。


「あら、でもその御本は乱丁本ですわね。白紙のページがあったり、インキが潰れて文字が読めそうにない場所があったり……。せっかく取り寄せて頂いた物なのに……」

「ああ、これはこれで、いいんですよ」


 そよ風さんはパタンと本を閉じると、お盆の上にあった湯呑を手に取った。


 手の平で湯呑の温度を確かめて、それからそっと口を付ける。満足そうな瞳は、先程わたくしがいた庭先を見つめていた。


「永久子さんは、独り立ち出来る様に金子を貯めていたんでしたね。どうですか? 多少は貯まりましたか?」


 そよ風さんが見つめている先の土は、回りと少し色が違う。わたくしが先程、その辺りを掘り返していたから。


「ええ、少しずつ、貯まっています。有難い事です。わたくしのような女学生が、学校に通う傍ら働く事が出来る場所なんて、中々ありませんもの」


 そこまで答えてから、わたくしはずっと訊きたくても訊けなかった事を口にする事にした。これはそよ風さん個人に関係する事ではないから、問題なく口にすることが出来る。


「あの、そよ風さんは、わたくしの様な人間ははしたないと思いますか? 爵位持ちの家に生まれながら、家を飛び出すために、女学生をしながら働くなんて……」


 文明開化なんて言いながら、世の男性像・女性像は中々変わってはいかない。相変わらず女はお家のために結婚するもの、勉学は無駄、意思や気持ちなど関係なく、ただ父や夫の考えに沿って生きればいいなんて言われ続けている。


 そしてそんな頭の固い御歴々は、家格が上がれば上がるほど多い。


 更に残念な事に、わたくしが生まれた家は子爵と言う爵位を持つ、中々に家格が高い家柄であった。


 今でも家に戻れば、山の様な見合いの話が待っている。


 ずっと断り続けているけれど、お父様のお心持によっては、わたくしの意思など空気よりも軽くなってしまうのだろう。現に先日も『我が儘もそろそろいい加減にしないか』とやんわりとお叱りを受けてしまった。


 だけど、そんなの……


「ナンセンス、ですね」


 一瞬、心を読まれたのかと思った。


「男だけで世界を回していけるなんて、そんな考え方はナンセンスです。思い上がりもはなはだしい」


 さらにピシリとそよ風さんの言葉は続く。


 その言葉はいつになく鋭く聞こえた。


「女性が男性の決定に常に従っていなければならないなんて考え方は、これから先の世界では通用しません。女性はもっと、世に出ていくべきです。世界へ飛び出して行きたいと思う女性の行動を阻む権限など、本来男には無いのです」


 そよ風さんの言葉に思わず顔を跳ね上げる。そよ風さんはそんなわたくしを見つめて、いつものようにほわっと笑った。


「金子を貯めて家を出て、職業婦人として自分の足で地に立って生きて行きたいという永久子さんのこころざしはとても立派で、誇って良い物だと思っています。その為に微力ながら、僕も御給金と言う形での助力を惜しみません。それに……」


 そよ風さんは湯呑を傍らに置くと、そっと手を伸ばしてきた。そよ風さんの手が私の手に重ねられて、私とそよ風さんの間が詰まる。


「永久子さんが望まない結婚話なんて、僕が幾らでも蹴散らしてあげますよ」


 触れてみて初めて、そよ風さんの手が想像以上に大きくて硬い、男の人の手だと知る。


 耳に掛かる吐息は、いつもの日向ひなたを渡るそよ風の様な温かさじゃなくて、夜桜と戯れる夜風の様な艶を帯びていて。


「僕はずっと、永久子さんにここに来てもらいたいと思っています。だから、永久子さんが望むなら、幾らでも協力させて頂きますが」


 そよ風さんの顔が見えない。そよ風さんの顔は今、わたくしのすぐ隣にあるから。


 その距離に、薄い空気を隔てて伝わる熱に、わたくしの心臓がどんどん脈を早くしていく。


 固まって動けなくなっているわたくしに、そよ風さんは気付いているみたいだった。クスッと吐息だけで笑う声が聞こえてきて、わたくしの肩が勝手にビクリと跳ねる。


「ここで手を振り払われないのは、多少脈がある証拠と思っていいのかな?」

「な……っ!」


 体を引いたそよ風さんの表情は、いつも通り日向を渡るそよ風の笑みだった。


 それを確認した瞬間、わたくしの手は重なったままになっていたそよ風さんの手をペイッと振り払う。


「ぎ、ぎぎぎょ、業務範囲外ですっ!!」

「口説かれるのが? じゃあ、口説かれ料を上乗せしたら、口説いてもいいですか?」

「なーっ!!」


 奇声を上げながら袖をバタバタさせてもそよ風さんの笑みは崩れない。顔色ひとつ変えないそよ風さんに対して、わたくしはきっと夕焼けのように真っ赤になっている事だろう。


「クスクス、永久子さんといると、退屈しなくていいですね」


 わたくしがこんな事になっているのはよそ風さんのせいなのに、そよ風さんはそんな事には知らんぷりで羊羹を摘んでいる。


 だからわたくしも、顔にまとわりつく熱を振り払う様に羊羹に手を伸ばした。


 そんなわたくしの事を、そよ風さんは心の底から楽しそうに見つめていた。

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