海をのぞむ

秋待諷月

海をのぞむ

 ここから見える海を、君は堪らなく愛しく思うし、またそれ故に、恨めしくも思う。

 君は孤独で、これといってするべきことも無く、一日一日をただひたすらに、海を見つめて過ごしている。で、あるにも関わらず、君があの海へ行くことは叶わない。

 だからこそ、あの海は君の憧れであり、君にとっての全てだ。




 いやに頑丈な、円い檻の中に君はいる。檻は君と空こそ隔てはしないが、君と海とを分かつことには酷く頑なだ。

 時折、檻の上を通過していく鳥たちのように空を飛べたのならば、君も容易く海まで行けるのだろうが、生憎と、君の背中に翼は無い。

 白く波が弾ける海面に躍る小魚を羨んでは、負けじとその場で跳躍してみるが、放物線の頂点から水平線を眺めては、海への想いを募らせるばかり。

 君の体に対して檻が狭過ぎるというわけではないが、海と比べてしまえば、ここはあまりに窮屈だ。

 どこまでも果てなく広がる海原を泳ぎ回る君を、君は幾度となく夢に見る。




 檻に囚われた君の姿を見るため、ひっきりなしに訪れていた人々が現れなくなってから、一体どれ程の時が経つだろう。

 かつての賑わいは、今はもう無い。檻をぐるりと取り囲む観客席は、日光と海風に晒されて無残に色褪せた。剥き出しのコンクリートの床には容赦無く亀裂が走り、鉄骨や壁材は赤い錆に塗れている。

 壮麗な海に臨む、この場所は廃墟だ。

 誰もが去って、誰もが忘れて、ただ君だけが、いつまでもここに取り残されている。

 歌うような君の声が、誰もいないこの場所に、高く切なく響く。




 抜けるような青空に湧き上がる、真白な雲の峰を。

 水平線に消える夕陽が、最後の一瞬に見せる光を。

 嵐を引き連れた黒雲が放つ、烈しい稲妻の閃きを。

 雷雨が去ったあとに架かる、見事な虹のアーチを。

 炎夏の空を彩る、どれだけ僅かな事象をも受け止める海は、日々その水面の色を、表情を、自由自在に変化させる。

 君は檻の中、変化とは無縁の水面から顔を覗かせて、ここから見えるどんな表情の海をも、円らな瞳の奥に焼きつける。




 ある夏の夜、君はあの海の上空で、無数の光の花が咲き誇るのを見る。

 水面を震わせる重低音に先んじて、次々と夜空に開いては消える花が撒き散らす炎の花弁と、その光を反射する夜の海の煌めきは、君の目も眩むほどに美しく。

 暗いプールから顔を出す君の鼻先にまで、ふわりと迷い込んできた蛍のような光の欠片につられ、君は思わず、その身を乗り出す。知らず知らずに泳ぎ出す。

 紺碧に染まる水面下ぎりぎり、背で水を切りながら一直線に突き進み、勢いをつけて水中から飛び出した、その瞬間。


 君は気付く。

 君が自由であることに。




 君は考えもしなかっただろう。

 とうの昔に潰れたこの施設に、未だに君が残されているはずがないことなど。

 誰も訪れなくなったこのプールに、未だに君がいられるはずがないことなど。


 囚われていたのは、君の心だ。

 だから本当は、君はもう、どこへだって行ける。




 尾で水面を蹴った君は信じ難いほど高くまで跳んで、頑丈な檻をも越えて、ついに海へと辿り着く。

 そうして君は、光の花が咲き乱れる夜の海原を、一心不乱に跳ね泳ぎ出した。

 



 さあ、行こう。

 君がのぞんだ、あの海の彼方へ。






 Fin.

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海をのぞむ 秋待諷月 @akimachi_f

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