第6話
「弥生ちゃん。あなた今日はもういいから、帰りなさい」
弥生が針を持つ手を止めて顔を上げると、そこには静かに怒っている女将さんの顔があった。
「え……でも、まだお昼にもなってないのに……」
「仕事熱心なのは嬉しいけどね。あなたちょっと働き過ぎよ。
休みの日だって全部削って。顔色もあんまり良くないし、今日はそんなに注文の数も多くないから、帰って少し休んだ方がいいわ」
「あ、私なら大丈夫です。今、何だかやる気満々で……」
弥生が笑おうとして見せるが、いつものように上手く笑えない。女将さんが深い溜め息を吐いた。
「何があったのかは知らないけどね。身体を壊してまでやり通す必要があるものなの?」
弥生が視線を落とす。いつからだろうか、笑顔を作る事が出来なくなったのは。女将さんにまで心配を掛けてしまっていた事が弥生には悔しくてならなかった。
「あなた、ちょっと頑張り過ぎるのよ。それが悪い事だとは言わないけどね。
周りにいるこっちが痛々しくて、見ていられないんだから」
「すみません……」
女将さんが優しく弥生の肩に手を乗せる。
「全くの赤の他人だけど、みんな弥生ちゃんの事が心配なんだよ。
何でも自分一人で溜め込まないで、息を吐いて肩の力を抜いてごらん。たまには子供じみた我が儘だって言ってみるもんさ」
女将さんに促されるままに店を出た弥生は、果ての無い空間に放り出されたような空虚感を覚えた。
どんなに仕事に打ち込んでいても、いつも頭の隅に現れるのは、毎日通っていた遊歩道と、あの優しい青年の笑顔だった。何かハッキリと別れを告げられたわけでもない。嫌いだと言われたわけでもない。区切りと言うものがなかったからだろうか、弥生の心はいつまでもどこかに引っ掛かったまま外れない感覚がしていた。
石畳を歩く下駄の音で弥生は、自分が今いる場所がどこであるかに気付いた。無意識に歩いていたので、いつもの癖でここへ来てしまったようだ。
風に吹かれて揺れる木々の香り。鳥達の歌声。忘れる筈もない。毎日のように通っていた、あの遊歩道だ。それは、前と何一つ変わっていない。ただ、そこにあるだけだ。
(でも、あの人がいない……)
たったそれだけの事で、こんなにも景色が変わって見えるのは何故だろうか。こんなにも胸が締め付けられるのは何故だろうか。
弥生は、頬を伝う涙の感触で自分が今泣いているのだと言う事に気が付いた。
「人は、泣いてから初めて自分が悲しいんだという事に気付くんですよ」
そう教えてくれたのは、書物を読むのが好きな優しい青年だったか。
弥生は、両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。抑えようとしても、嗚咽が後から後から押し寄せてくる。ただただ、あの優しい青年といた時が愛しくて。
(ああ、私……誠一郎さんの事が好き)
震える弥生の肩に誰かが優しく手を乗せた。
「弥生さん? どうしたんですか?」
何度も弥生の名前を呼ぶその声は、弥生がこの遊歩道で幾度となく聞いた優しい青年のものだった。
いつになく狼狽えた様子の誠一郎を見て、弥生の表情に笑みが戻る。誠一郎に支えられて竹の手摺りに腰を掛けると、幾分か落ち着いた様子を見せた弥生に誠一郎が改めて泣いていた理由を尋ねた。
「嫌われてしまったのかと思った……」
弥生は、今まで抱えていた全ての想いを話した。
「私、あれから考えてみたんです。自分が今やっている仕事を好きか嫌いかって」
誠一郎は、黙って弥生の言葉を聞いていてくれる。
「でも……やっぱり解らなかった」
他人に強制されて始めた仕事だが、四年以上も続けていると情も湧いてくる。
でも、だからと言って好きだとは思えない。考えれば考える程にそれは解らなくなっていく。もしかしたら、それよりも好きだと言える物が無いせいでもあるかもしれない。だとしたら、今の弥生には結論を付ける事など出来る筈がない。針仕事以外の仕事を知らないのだから。
「それでも、良いんじゃないでしょうか。
自分の生きる道をその年で見付けられる人は、少ないでしょう。
僕も時々不安になります」
「誠一郎さんでも?」
はい、と誠一郎は笑った。
「ゆっくり見付けていけば良いんです。そう、散歩でもしながら、ね」
誠一郎が遊歩道を見渡す。そこは、季節が変われば変わるものの、一年を通して変わる事はない。そこだけ時に見逃された憩いの場。
いつしか弥生の心は、風に吹かれて揺れる木々のように軽やかになっていった。
「実は、弥生さんに謝らなくてはならない事があるんです」
そう言うと、誠一郎は懐から一冊の本と小さな巾着を出して弥生の手に渡した。
「これは?」
「その本は、僕が手掛けた物です。弥生さんを見ていたら、急に書きたくなって。
ここ数週間程、部屋に閉じ籠もって仕上げていたのですが……そのせいで弥生さんを心配させてしまいましたね。申し訳ありません」
そしてこれは、と誠一郎が巾着を開けて自分の掌の上で逆さにすると、中から金色の小さな鈴が一つ、ちりんと声を出して転がり出た。
弥生を家まで送った日の朝。誠一郎は、道に鈴が落ちている事に気が付き、それを拾っておいたのだ。いつも遊歩道を通る度に聞こえてくる鈴の音のそれだと知って。
「これを渡してしまうと、あなたと会って話をする口実がなくなってしまうと思ったら、渡せなかったんです」
誠一郎が頬を赤らめて、弥生から視線をずらす。頬を薄紅色に染めた弥生は、驚いたような惚けたような顔をして誠一郎の横顔を見つめた。
その日、初めて二人は、一緒に遊歩道を歩いて回った。
木々が緑色の葉を付ける季節。空気は澄み、涼やかな風が木々の合間を通り抜けていく。葉と葉の隙間から漏れる陽の光が宝石のように煌めき、弥生は目を細めた。
*遊歩道……散歩のために作られた道路。散歩道。
【短編】あの遊歩道へ... 風雅ありす@『宝石獣』カクコン参加中💎 @N-caerulea
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