第5話
「何だかやけに張り切ってるわねぇ。何か良い事でもあったのかい?」
弥生が針子の作業をしていると、女将さんが含みのある笑みを浮かべて近づいて来た。
「な、何にも無いですよ」
弥生は、何でも無いと言った様子を装い、再び手を動かし始めた。
しかし、女将さんは弥生の反応など気にも留めないと言った様子で自分の話を続ける。
「あたしゃ心配してたんだよ。
……ほら。弥生ちゃんったら、まだ若いって言うのに、毎日仕事熱心で浮いた話の一つもないんだから。好いた男の一人や二人いないのかー、ってね」
弥生の頬が仄かに紅色に染まるのを見て、女将さんの表情が確信の笑みへと変わる。
「ふふふ。ま、何があったにせよ、弥生ちゃんが元気だと周りのみんなまで元気になってくれるから、あたしとしては大歓迎だよ」
もちろん、あたしもね。と、女将さんが片眼を瞑って見せる。女将さんに指摘されて弥生の頭に浮かんだのは、誠一郎の顔だった。
好感を持っている事は確かだが、好きかどうかまでは解らない。ただ気になるのだ。
目が合うと必ず微笑んで話し掛けてくれる。話の途中でさえ時々何かを考え込む癖。両腕を袖の中に入れている時は、大抵何かを考えているのだと言う事も知った。
少し前までには、思いもよらなかった状況だ。知れば知るほど知りたくなっていく。会えば会う程、会いたくなっていく。こんな気持ちは初めてだった。ただ傍にいる事が何よりも心地良いのだ。
弥生は、気を抜くと緩んでしまう頬を両手で二回程叩いてから、作業を続けた。
翌日、誠一郎はいつもの十字路に現れなかった。小説家の仕事は、特に時間に縛られる事はない。それ故に、本人が気の向く時に筆を持ち、気の向かない時は睡眠を取ったり気分転換に散歩に行ったりする。それ故に不規則な生活を送っている、と誠一郎は言っていた。
しかし、その次の日も誠一郎は現れなかった。
(きっと忙しいのよ)
そこで弥生は、ここ最近は毎日のように誠一郎と会っていた事に気が付いた。それまでは、一週間1、2回会えるか会えないかと言う程度だったのにも関わらず、平気でいられた。それよりも、明日は会えるだろうか、明後日は会えるだろうか、と考える時間が楽しくもあった。それなのに今では、たった二日会えなかっただけで妙に心が落ち着かない。弥生は、初めて感じる自分の気持ちの変化に戸惑いを覚えた。
次の日も、そのまた次の日も誠一郎は現れなかった。それでも弥生は遊歩道へ通った。
もしかしたら誠一郎の身に何かあったのではないか、と言う疑念が弥生の脳裏に湧く。しかし、だからと言ってそれを確かめる術はない。誠一郎が住んでいる下宿先を弥生は知らないのだから。
2週間ほど遊歩道へ通って、弥生はやっと納得した。自分は、避けられているのだ。あの優しい青年に何か気に障るような事を自分が言ったのだろう。思い起こせば、思い当たる言葉がいくつかある。
何かあったにしろ、2週間も会えないのは、おかしい。もし何かの事件に巻き込まれたのであれば、そのような情報が流れて来る筈だ。だが、それもない。
要は、嫌われてしまったのだ。
(迷惑……だったのかしら)
弥生の胸がきりりと痛む。
しかし、涙は出ない。頭を垂らすと同時に後挿しの鈴が揺れて小さく鳴いた。
それからと言うもの、弥生は遊歩道を通らないように心掛けた。ふと気を抜くと、いつもの癖で遊歩道へと足を向けてしまう。元々、遊歩道に時々現れるあの優しい青年を見る為にわざわざ遠回りをしてまで通っていた道だ。彼が来ないと解っていて、行く必要もない。
弥生は、行き所のない気持ちを仕事に打ち込んだ。好きか嫌いかというよりも、慣れた針仕事をする事は、弥生にとって何よりも心を落ち着ける事が出来た。
それから約一週間が経った。
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