第4話(完)
だが統一後も劉秀の戦いは終わらない。今度の敵は外ではなく内である。
「創業は易く守成は難し」という。創業(統一戦)も充分に難しいのだが、守成(国造り)は繊細であり、創業以上に正解が見えにくく、また一代だけで終わらず末代まで続く難業である。その意味で劉秀の事業はこれからが本番とも言え、聖通や麗華たちの助力も必要不可欠なものになるはずだった。
そんな中、聖通に異変が生じていた。最初に気づいたのは劉秀である。
「陛下、ここのところお困りのことはございませぬか」
一日、聖通の部屋で過ごしていた劉秀は、妻からそのように尋ねられ、いぶかしさを覚えた。
質問の内容ではなく、彼女の声音にこれまで聞いたことのないような硬さ――あるいは冷たさ――を感じたのだ。
「いや、特にはないぞ」
「さようですか。それはようございました」
そのときはそこで終わり、劉秀もかすかに首をかしげる程度で済んだのだが、夫が去った後、聖通自身がおのれの変化に総毛立った。
「私は陛下に何を…」
彼女が劉秀に尋ねたのは、近ごろ夫が政についての諮問を聖通にしてこなくなったことが直接の理由である。守成のさなかであるからには、治政の問題は山積しているだろう。しかしそれも劉秀や彼の臣下たちだけで解決できるものがほとんどで、あえて聖通に尋ねなくとも解決できているに違いない。
そもそも夫人である聖通に政治向きの案件を尋ねること自体危険な行為であり、無い方が健全で喜ばしい話なのだ。
そしてそれは聖通自身が最も案じ、注意深く自戒していたことである。
であるのに聖通は、そのことに不満を覚え、あまつさえその不安を劉秀にぶつけてしまったのだ。
「一体どうしたというのだ、私は…」
最初はそのことに戸惑い、自身に恐れすら感じた聖通だったが、ついにはたと気づいた。
「妬心だ…」
正確には寂寥と、それを因とする妬心である。寂寥は訪れることが減った劉秀に対して。そして妬心は麗華に対して。
聖通はこれまで、皇后として劉秀を支えてきた。夫の志である天下統一を果たすため、妻として共に戦ってきていた。
だが天下が統一されたことで、聖通の中で達成感や満足感が生まれ、それにより思いもかけないものがあふれはじめていたのだ。
劉秀に対する女としての恋情と愛情である。
もちろん聖通も、もともとその感情は持っていた。
だがそれ以上に皇后=公人としての意思と自覚が彼女を律していたのだ。
しかし今、劉秀に対する愛情が、予想以上に強く、大きく育ってきたのである。
そうなれば、麗華への感情も変わってきてしまう。
これまでは互いに公と私で劉秀への関わりを分担してきた。
そして聖通は皇后であり、名目も実質も聖通の方が上位であった。
だが女としては違う。これはもう麗華の方が圧倒的に上である。
劉秀を深く愛しはじめた聖通は、無意識に麗華に妬心を抱いてしまっていたのだ。
「何とかしなければ…」
聖通はおのれの心情ともう一度向き合い、あらためて作り直すことを誓った。
が、それから数か月後、劉秀は聖通から思いもかけないことを告げられた。
「私を皇后から降ろしてくださいませ」
居住まいを正した聖通が深々と頭を下げながら告げて来ることに、劉秀は思わず開いた口を、しばらく閉じることができなかった。
「…何を言うておる、皇后」
「私は皇后にふさわしくございませぬ。ゆえに廃していただきたくお願い申し上げております」
劉秀自身は
さすがに劉秀も只事ではないと理解し、表情をあらためて座りなおした。
「何を言うておるかわかっておるのか、皇后」
「もちろんにございます」
「何がふさわしくないのだ。そなたほど皇后にふさわしい女は他におらぬ」
「いいえ、それは違います」
「何だ。何がどう違うのだ」
「私はこれより先、妬心にくるまれ、焼かれてゆく女だと知ったのです」
わずかに苛立っていた劉秀も虚を突かれる答えを、静かな表情で聖通は告げた。
聖通は自らの妬心を鎮めるどころか、ますます肥大化してゆくのを抑えることができなかったのだ。
だがそれは残酷な事実だった。
その舞台では彼女は麗華に勝てない。絶対に。
「これが
その
呂后とは前漢初代皇帝・劉邦の皇后、霍后は十代皇帝・宣帝の后である。呂后は劉邦の死後朝廷を席巻し、臣下たちを恐怖に陥れ、霍后は彼女の親族により専横がおこなわれた。
どちらの史実も悪夢の歴史である。
聖通は、その二人を自分に擬しているのだ。
「いや、そなたがあの者らのようになるとは――」
「必ずなります。わかるのです」
ややあわてて聖通の自己評価を否定しようとした劉秀だが、それを本人が強く遮った。その目、その口調に、劉秀は再度絶句する。聖通は自分の知らない間に、何度も何度もおのれと対話し、おのれの心の奥深くまで沈降してきたのだろう。
その上でこの結論に達したのだ。
劉秀の知る聖通は、理知的で見識も高く、自身を律するに隙はなく、そしてそれらにふさわしい誇りの持ち主だった。
その聖通がこれほどはっきりと、おのれの恥部ともいえる心奥を吐露し断言したのだ。
それを覆す根拠を劉秀は持ち合わせなかった。
だが、それでもなお劉秀は抗った。
「…しかし何をもって廃后の
皇太子の変更ほどではないにしても、皇后を廃するのは私事では収まらない国の大事であり、相応の理由がいる。
これまでの聖通に過誤はまったくと言っていいほどない。まして皇后を廃されるほどの大きな誤りなどあるはずもない。
が、聖通は夫のそのような反論も予想していたのだろう。少し寂しげな笑顔で静かに答えた。
「いま私が申し上げたではありませんか。私は近い将来必ず呂后のようになります。ゆえに今現在、すでに後宮でそのようにふるまっていると朝廷でおっしゃってくださいませ。後宮のことゆえ他の者にはわかりませぬ。そして未来に必ず現実になる以上、これはすでに真実です。陛下が方便や虚偽をおっしゃるわけではございませぬ」
聖通はすでに妬心を抑えられない自分を理解していた。そしてその見識と冷静さにより、未来の自分も予測できていた。いずれ呂后のようになるのなら、今そうなっていると告げても同じことだと。皇帝の家庭である後宮内のことゆえ、他の者にはわからないと。
今の皇后が呂后と同じ精神性を持っているというのなら、それは充分廃后の理由になる。
「……」
そこまで言われてなお逡巡している劉秀に、深々と頭を下げ、聖通は言った。
「私は陰貴人を妹のように思っております。今ならまだその想いをもって後宮を離れることができます。どうぞ陛下、陰貴人を
その一言が決定的だった。
戚夫人とは劉邦の晩年の愛妾で、彼の死後、呂后に惨殺されている。両手両足を斬り落とし、目と耳を潰し、
だが戚夫人への呂后の憎悪がそこまで深いものだったのは確かであろう。
聖通は将来、それほどの怨嗟を麗華に向けかねない自分を心底恐れていたのだ。いや、彼女の冷徹さは、そのような自分をすでに自身の中に見つけているのかもしれない。
劉秀は聖通の見識を信頼しているがゆえに、彼女の言にこれ以上逆らうことができなかった。
「…わかった。そなたを皇后の位から廃する」
「感謝いたします、陛下…」
苦渋に満ちた劉秀に比べ、聖通の表情は晴れやかで、心からの安堵と、そしてほんのかすかな哀しみに満ちていた。
建武十七年(西暦41)、聖通は皇后を廃され、麗華が新しく皇后に立てられた。
廃后の理由は聖通の提言通りになされ、突然のことに臣民は驚いたが、新たな皇后である麗華の評判ももともと悪くはなく、皇帝の私事として受け取られ、さほど深く詮索されずに事は終わった。
唯一、異を唱えたのは、おそらく麗華であろう。
「なぜ郭皇后が廃されねばなりませぬ。なぜ私が皇后にならねばなりませぬ」
麗華はそのように夫に憤慨したが、これは当の聖通が劉秀にしたものと同じ内容で説得した。
麗華は聖通が自分に対しそのような感情を持っている――持ち始めていることに驚き、信じなかったが、聖通がさみしげな笑みとともに繰り返し説得すると、ようやくあきらめて受け容れた。
たが、一つだけ条件を出した。
「わかりました。ですが皇帝の位は
劉陽(のちに陽から荘に改名)は麗華の長男で、劉秀の男子としては四男にあたる(先に聖通が二男、許美人が一男を産んでいる)。この時点で皇太子は聖通の長子である
だが麗華はそれを許さず、何度翻意をうながしても首を横に振るばかりであり、ここはさすがに聖通が折れた。
しかしこの件に関しては将来、劉彊自身が父に太子辞退を何度も申し入れることとなる。
聖通母子を不憫に思っていた劉秀も、様々な理由でこれを受け容れざるを得ず、この結果、次期皇帝は劉陽――劉荘になる。
だがその後も劉彊との兄弟仲は良く、これまでと変わらず厚遇され、皇太子から遷された彼の爵位・東海王は後漢が滅ぶまで子孫に伝えられた。
皇后を廃された聖通は、彼女の二男・
劉秀は聖通を不憫に思い、郭氏一族はそれまでと変わらず、あるいはそれ以上に厚遇され、重用されてゆくこととなった。
劉秀――諡号により光武帝と呼ばれる後漢初代皇帝は、中国史上でも屈指の名君として知られる。
名君の条件は、家庭(後宮)に不和を生じさせず、優秀な後継者(皇太子)を残すこともその一つに挙げられ、光武帝はこの点でも名君の名に値した。
だがどれほど尽力しても、妻と不和になり、子に叛かれることがあるのは、皇帝も庶民も変わらない。
その意味で光武帝は、妻にも子にも恵まれた幸運な男だったと言える。
廃后・郭聖通は、他の王侯と同様、洛陽の北にある
終
廃后 郭聖通 橘遼治 @bunshuk
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