第2話「早く死にたかったからだよ」
ベースの弦を張り替えるたびに幼馴染を思い出す。
高三の秋の事だ。当時の俺は日々の息苦しさに必死で耐えていた。今思い出しても、よく耐えたなと思う。
母の恋人は毎晩酒を飲み、俺にべたべた絡んできたものだ。気持ち悪い。
教室では進路の話が繰り返される。これも酷く気持ち悪くて苦痛だったけど、酔っ払いと違って正しいものなので、文句は言えない。間違っているのは俺。
厚は相変わらずいつもご機嫌で、クラスの委員長をやっている。こんなのやりたくないわ、誰か変わってちょーだいとごねながらも、立派に委員長の仕事をこなしていた。
思えば厚はそういう奴だ。
ギターなんて弾いて、ちょっと制服を着崩したところで、明るい世の中がよく似合う。
「ちょっと、
わざとらしく俺を一番前の席に座らせて、厚は教壇に肘を置いた。誰もが帰った教室で二人だけ。窓に目を逸らせば、紅葉に気が付く。ああ綺麗だな、さっさと散れと思った。
「進路は?」
もともと、二人一緒に軽音楽が強い高校を選んだ。厚は親が公務員だが、大学にも行くからと親を言い負かしてこの高校に来た。その点は厚を尊敬する。
「厚くんは大学か」
「まあね。ギターは続けるけど」
分かっていた。厚だって本気でギターが好きだ。でもそれは単なる好きに過ぎない。
「俺、ベーシストになるよ」
爆弾発言だろうか。でも俺はこの爆弾をずっとずっと前から用意していた。
別に厚の許可なんていらないし、何か言われたって逃げればいいだけなのに、当時の俺にそんな発想はなかったのだと思う。俺は厚を盗み見た。顔色を窺った、と言っても間違ってはいないくらいに。
厚は怒らないどころか、にやっと笑いを堪えている。なんだ、その顔はと聞く気もなかった。どうせ、無理だとかなんだとか言うのだ。
「大きく出たな」
無理とは言わなかった。俺は厚をみくびっていたみたいだ。
「今度のオーデションを受けようと思ってる」
これもずっと前から決めていたことだった。親の同意書が要らなくなる十八歳になるのを静かに待っている。
一緒に受けようとは言わない。どこか後ろめたいのは何故だろう。俺一人で行くよとわざわざ宣言する必要なんてないのに、その時の俺は言葉が何も出てこなかった。
俺の無言の馬鹿さに気付いているのだろう。厚は何も言わず、俺を待っている。時計を盗み見たい衝動をこらえて、俺は厚を見上げた。だけど何も言えない。
厚は笑った。俺が厚相手に沈黙を貫けないと、厚の奴も分かっていたのだ。俺以外の奴は厚のこういう図々しさをよく知らないだろう。
厚は俺相手に優しい笑顔を浮かべた。図々しい。
「就職も進学もせずにベーシストになるんやな?」
俺はかろうじて笑顔を返せただけだ。
「俺は誘わないんやな?」
言わないでくれと思った。胸中が刺された。
厚はいつも俺のそばにいた。軽音部の揉め事で俺が不利になれば助けてくれたし、他校の連中にママ活に誘われて断るのが大変だった時も俺を助けてくれた。
厚は俺の心が空のコップに過ぎないと知っている。それなのにそばにいる。アホみたいなお人よし。お人よしだからだよな?
厚の隣にいたら、厚がどれほど手をかけても満たされないこの心の罪深さを痛感し続けなければならない。それをお前は知っているのかと厚に聞きたくて、仕方なかった。
「俺は、幸せになりたくない」
逃れるために、勢いをつけて立ち上がった。なんだか苦しい、ぼやけた言い訳。
厚から離れることで幸せにならずに済む、とでも? ばかげている。俺の幸せは俺の選択や努力で手に入るものとは限らないのに。
「どういうことや」
即座に帰って来る、説明しろという返し。厚は時に容赦ない。こっちも理解していないことを遠慮なしに聞いてくる。怖い奴め。
「正確に言えば……」
何が正確かも分からずに、口から出たのは嫌いな教師たちみたいな言葉だった。
「幸せになろうと考えたくない」
あ、これだ、と思った。たった今零れ出た言葉だけど、的を得ている気がした。喋っているうちにまとまってくるよと、前に厚が言っていたが、こういうことだったのだろう。
一度分かれば、前から思っていたことが溢れてくる。俺は窓辺に歩いて、大会を目指して掛け声をあげつつ走る陸上部の列を指した。次に、カップルを指した。
「皆で力を合わせて頑張る幸せと、好きな人といる幸せ。あの人たちは幸せ」
集団が苦痛だった。人に合わせられないせいでプライドが高いとか言われたこともあるけどそうじゃない。要領が悪すぎて、馬鹿すぎて、嫌になるくらい不器用で、人についていけないだけだ。好きな人もできない。母とその恋人たちを見て育ったから女性が苦手だ。俺はあの人たちみたいになれない。
厚が頷いた。
「皆と一緒のことをするのがしんどいんや」
力を合わせることも、恋愛をすることも、世の中では当たり前であることにも追い詰められてしまう弱い俺。
「バンドだってきつい時があったわ」
これは厚にも初めて言うことだった。驚いただろうかと思ったが、厚は頷くだけで意外には思っていない風だった。厚には、よく気が付くところがあるのだ。それが怖い。どうせばれてしまうなら、こっちからぶちまけるしかない。
「最近、進路のことを考えてるやろ? 俺だって考えたよ。でもさ。考えて、俺は幸せを望んでないと気付いた。結婚と出産と老後の安定と孫に、興味ないんだよね」
「それだけが幸せだと?」
やはり、相手は厚だ。スムーズに逃がして貰えない。でも、厚は綺麗ごととしてではなくこんな会話の中でもさらっと口に出せるくらいに、他にも幸せがあると、考えているのだろう。
「やっぱり厚くんに話して良かった」
話したのが厚以外だったら、色々と説教されていたかもしれないが厚は許してくれた。
「俺だって、それ以外に幸せがあると考えてる。だけど、周りの人は将来を備えない人にうるさいでしょ」
厚が苦々しく頷いているのが可笑しい。こいつの親は公務員だからよく分かるのだろうな。
「毎日こつこつ働いて、結婚資金や老後の貯金をするような、普通の生き方をできる人はいいね。素敵。だけど俺はそんなの嫌。後先のために生きたくないの。今しか考えたくない、感じたくない」
俺の知らないうちに俺の中にたくさんのゴミが溜まっていたみたいだ。ボロボロ出てくる。そうか、俺はそんな風に思っていたんだと、たった今知っていく。
「ベースを弾くという今を積み重ねたら、上手になったよ。それを続けて生きたいの」
これはたった今ではなくずっと前から知っていた。ようやく俺の知る俺に戻ってほっとした。
「ね? 厚くん。俺、上手になったでしょ?」
厚が頷いた。厚が頷かないなどあり得ないと俺は知っている。厚はいつも頷いてくれる。俺はそれを分かっていて頷かせた。
もしかしたら、今だけでなく、何度もそうしてきたのかもしれないと今更に気が付く。
もしそうだとしても厚は気が付いた上で頷いていたのだろう。厚は怖い奴だから。
「いつ死んでもいいように、いつもベースを弾いていたい」
長く生きて、どうなりたいかなんて分からない。母みたいに刹那的に生きたって、どうせ生きられると知っているから。積み重ねなくても用意しなくても体一つで案外生きていけてしまうって、知っている。
「俺がベースを始めたのはね」
二十七歳クラブという言葉を知って、幼い俺は恐れではなく憧れを抱いた。
「早く死にたかったからだよ」
厚を巻き込みたくない。
「もう、耐えられへん」
何を耐えられないのか、なんて聞かないでくれ。
「今までありがとう。厚くん」
教室のドアを開けようとしたのに。
「待て! 俺も行く!」
厚が引き留めてくる。
「俺だって、ギターが好きや! 俺より才能がある奴ばっかりだろうけど、俺はへこまされない!」
確かにへこまされはしないだろうけど、と本題ではないところに妙に好ましさを感じた。
「俺もオーディション受ける!」
「お父さんに何か言われへんのか」
厚が、お前、急に地に足がついたことを言ったなという顔になった。仕方ないだろう。厚が地に足がついている人なんだから。
「言われるよ。でも、言われるだけや! なんとでも言わせるよ!」
こいつは本気だ。平気で親に逆らってしまう、案外奔放な奴。
俺が行きたいところにいつもついてきてしまう。だけど、幼い俺はそれが嬉しかった。行きたいところに一人で行くのは怖かったから。隣町のお祭りも、駅ビルのかき氷屋も、俺一人ならびびって行けなかった。厚がくればなんとかなるといつも思っていた。
でも俺は大人になった。これから先は俺一人の世界だと思う。本当に、心からそう思う。
結局オーディションに合格したのは俺だけ。
お前、もっと悔しそうな顔しろよと厚に言いたかった。厚に対して腹が立ったのは初めてだった。
帰りの電車で二人はほぼ無言だった。ギターを弾いて落ちたことを納得してしまった厚と組めば、どこにも行けないだろう。厚は自分でも落ちるって分かっていたんじゃないのか。今振り返れば、そうとしか思えないのだ。
高校を卒業して俺はすぐに上京した。
ベースの弦を張り替えるたびに幼馴染を思い出す。
今二十才。あと七年。アパートの一室から見えるのは、真夜中二時でも輝く街並み。月も星も無い夜空は少しも透けない黒いベールのようだ。
大本厚を与えられたのに、望んで一人になった。
空のコップを抱えている。
もしも、一番のベーシストになれたなら、俺は満たされるのかな。
空のコップとベーシスト 左原伊純 @sahara-izumi
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