空のコップとベーシスト
左原伊純
第1話『ベーシストになりましたね!』
ベースの弦を張り替えるたびに幼馴染を思い出す。
ベースを買ったのは小学五年生の時。
幼馴染の厚と共に電車に乗って、二年分のお年玉を持って楽器屋さんに行った。
白いボディのベースに一目惚れしたが、六千円も足りない。
厚はお年玉で一円のお釣りもないぴったりな価格のギターを喜んで買った。
思えば、厚はいつも満ちている人だ。お年玉で不足なく欲しいギターを買えたのも、それを端的に表していると思う。
彼はいつも機嫌よく、余裕綽々で歩いている。
それに対して俺は違う。余裕などない。手に入る物に対して、いつも欲しい物の方が多すぎて、乾いたコップのようだ。
俺は渇望の眼差しをそのベースに向けていた。似ているベースなら手に入る。それが一番の解決策だった。
だけど、そうしてしまえば、手に入ってしまったベースを見るたびに、買えなかったベースを思い出すだろう。
六千円は子供には高すぎた。いや、『俺に』は高すぎたと言った方が差し支えがない。
母は水商売をしておりいつも不機嫌だった。六千円のおねだりなど、当時の俺には考えるだけで怖いくらい。楽器屋のお兄さんが何を考えているのかは分からないが、村にいる大人達とは面構えの違う若者だったので怖かった。
厚は一切の不足のない満ち足りた笑みで、赤いボディのギターを抱えていた。
あと三十分で電車の時間だった。『これ、ください』 と選んだのは、黒いベース。似た物を選べば却って虚しく、満たされないだろうということは当時の俺も分かったのだ。
黒いベースを抱えて帰りの電車に乗る。車窓から見える夕陽が悲しくて、でもベースを見ていたくなくて、夕焼けの中の烏の影を目で追っていた。
それに対して厚は夕焼けより鮮やかな赤いギターをにこにこして見ている。そっと弦を弾こうと指を沿わせ、でも電車内だから弾いてはいけないと指を離していた。今思えば可愛い奴め。
やはり厚はいつも満ち足りていると、その日再度認識した。与えられる物を全て受け取り、それを愛でることができる人。
俺は与えられる物の外に、欲しい物を見つけてしまう。
誰かが何もしなくても、自分の中で苦しみを生産できてしまう。俺は常に整わない。
翌日、厚の家にベースを持って行った。眠る直前までベースを凝視していたので、少しは他のベースだということに慣れていた。
最初の試練は演奏でもなんでもない、チューニングだった。楽器屋のお兄さんは愛想こそ無かったが、売れ残りだからやるよと俺たちに電子チューナーをただでくれた。
ギターやベースのチューニングは奏者自身がやるものだ。慣れれば大したことなく、むしろ面白いのだが初めてやる人にとっては難しい。
電子チューナーをシールドで楽器に繋ぐ。チューニングはAが基準の音だ。ドレミで言えば、ラの音階だ。電子チューナーのおかげで音感が無くても正確にチューニングできる。
調整されていない弦を弾くと、美しくない音がする。
チューナーに横一列の小さなランプがあり、中心の物は一回り大きくて緑に光る。緑の点灯が正しい音になったと表す。
緑のランプの左右は対象に赤のランプが並び、緑のランプから遠い赤が光るほど正しい音程から離れている。
音を高くしようと弦の張りを強くすれば、高くし過ぎて、また緩める事になる。正しい音程になるように、緩めて、締めて、を繰り返す。
厚が夢中になってペグを回す。電子チューナーが一つだけなので厚が先に挑戦している。最も太く低音である六弦は、楽器ではなくただの鉄の線が鳴らすような、べん、べん、というような音だった。
楽器とはいえ、物理的な仕組なのだと思った。理科の実験でやるような、作業みたいだ。夢の裏側を見たようだった。
ばち! っと気味悪い音がして、厚がギターから跳び退いた。
『切れおったわ!』
買った翌日に弦が切れるとはさすがの厚も少し怒る。正直がっかりした。自分の手元に来た途端に、楽器が格好悪くなったみたいだった。
当たり前だ。小五の、こんな村に住んでいる自分がやりたいようなことなのだから、大したことないに決まっていたのだ。弾いている人達と自分は違うのだ。
『せっかく買ったのにな』
と、自嘲した。
『ほんまにな!』
厚が俺の自嘲に同意したことに驚いた。
いつもは励ましてくれる人だった。彼もそう思うなら、俺の嫌な気持ちは俺のわがままではなく、真っ当なものなのだと感じて安心した。
『ちょっと、昨日の兄ちゃんに文句言って、替えの弦を貰ってくるわ』
怒りのパワーできびきびと支度をして、厚ががま口の財布を首から下げた。
『え?』
確か俺の声は裏返っていた。酷く驚いたのだ。俺の中には全くない発想だったから。
『待ってよ、いいのかな』
厚の顔は、小五の割には険しくなった。
『俺は行く。四百円貸して。俺一人で行けば、間に合う』
二人で行けばお小遣いが足りなかったのだ。俺は四百円を渡した。
今思えば、少額とはいえお金をあげるのに迷いが無さすぎるだろう。悔しいがそれほど彼を信頼していたということだ。
がま口にじゃりっと小銭を入れた厚は、子供の俺には格好良く見えた。今思い出せば子供らしくて可愛いのだが。
『二時間で戻るから、ここにいていいよ。お茶飲んでいいからね』
『大丈夫かな』
不安がる俺に厚は笑顔を見せた。
『大丈夫!』
俺が大丈夫かなと言ったのは、厚の大丈夫という言葉を聞きたいからだったのかもしれない。
『子供の涙は強いでー!』
走り去っていった厚に、ずっこけたものだ。頼もしく楽器屋のお兄さんと渡り合うつもりなのかと思っていたが、泣き落としをするつもりだったのかと。
二時間後に厚が帰って来た。俺はその間落ち着かず、一口のお茶も貰わず座りっぱなしだった。
『すごい!』
俺が飛びついて喜ぶと、厚はばんざいして喜んだ。奴も俺のことを好きだったのだろうな。ギターとベースの弦を、それぞれ五セット持ってきた。
『ほんとに、泣き落とししたん?』
『いや、俺は俳優には向いてなかった』
余裕たっぷり、ご機嫌に笑う厚。やっぱり彼は堂々と文句を言ったのだ。
『SNSとか、拡散とか、それらの単語をちらつかせただけやで!』
『え?』
『なんや?』
厚はとても愉快そうに笑った。
『まあ、いいけど』
このやり取りを忘れることにした。
切れた弦を外すためにはペンチやニッパーが必要で、家中を探して散らかしまくった。二人で力を合わせた。
六弦を張り替えて、ようやくミの音に合わせた時には、二人とも疲れていた。汗を拭って、厚は五弦に手を伸ばした。五弦をラ、四弦をレ、三弦をソ、二弦をシに合わせた。一弦ごとにチューニングするスピードは速くなった。
最後の一弦は甲高い音を立てる細い弦だった。厚がペグを回すと、甲高い音は本来の姿になっていくように醜さを減らしていった。
最終確認をする。もう一度、六弦から順番に狂いがないか見る。俺たちは、何も言わない程に夢中だった。全ての弦が整った。六弦から一弦まで、一弦ずつ厚の指が弾いた。そして、チューナーを外して、厚が全ての弦を一気に弾いた。
不思議だった。自分の手元に来ても、それでも、ギターは確固たるギターだった。なんと言っていいのか分からなかった。俺なんかが手にいれたから楽器がくすんだと思ったのに、再びギターが輝いたのだ。
これはどういうことなのかと、ぼんやりとギターの六本の弦を見ていた。錆び一つ無い鋼の銀糸だった。
『始まったな』
厚は晴れ渡る顔で銀糸を見ていた。そうか、始まったんだなと俺にも分かった。
『
厚を見ていたから自分は簡単にできるかもしれないと思ったが、やはりチューニングは大変だった。
厚が手伝おうとしないことが安らぎだった。
手伝おうとしない人だととっくの昔に分かっているけれど、それでも改めて嬉しいと思った。何かと手際が悪く不器用な俺から何かをとりあげて大人たちが勝手にやってしまうのが苦痛だったから。
『へへへ、素人め』
まあ、先輩面してにやにや笑うような人だとも前から分かっていたから、動じることはない。
ギターよりも低い音だから弦を鳴らしてもぱっと目立たないが、それでも音が定位置にきたのだと感覚として分かった。ベースの音を初めて知ったというのに、そう思うのが不思議だった。
欲しくなかった黒いベースが、俺の腕に納まった。あの白いベースを思ってみても、自分の腕に抱く姿は想像できなかった。弦をつま弾くと、黒いベースは言うことを聞くみたいに音を出した。チューニングされた狂いない音を。
すると、突然厚が笑い出した。
『なんなの』
驚いた俺に厚はにやにやしている。
『星来くん、ベーシストになりましたね』
厚は笑いながら言う。その一言でどれだけ俺を励ましたかも、励ますことになるかも分からずに。
ベーシストになったらしい俺の腕の中に、黒いベースがいる。
『ねえ』
黒いベースに視線を落とし、おそるおそる厚を見た。
『このベース、ええか?』
『ええよ!』
厚がぐっと親指を立てた。
そう言って欲しくて聞いたというのに、答えなんて決まっていたのに、厚が違わず言うと知っていたのに、嬉しかった。
『ちなみに、ベーシストは変態だそうです』
厚の言葉に、幼い俺はベースを抱いて肩をすくめた。今でも俺は自分が変態ではないと思っているけど。
『この歳で変態は嫌や……』
厚はげらげら笑う。
『安心せい! 音楽業界では変態は誉め言葉らしいでー!』
厚はいつもご機嫌な人だ。ギターをそっと座布団の上に置いて、二人分のお茶を汲んできた。
『どこ情報やねん……』
俺をからかってご満悦の厚だったが、彼の母が帰って来た途端に慌て出す。
ペンチとニッパーを探し回ったために家中散らかっていた。
厚はいつも通り俺を盾にして、母に許しを乞うた。文字通り、俺の後ろに隠れるのだ。ちなみに当時は俺の方がちびだったので効果なし。
『許すのは、今日だけやからな』
厚の母はいつも俺にもカレーを食べさせてくれた。俺の母が水商売をやっているので、厚の家で夕食をご馳走になるのはよくあることだった。
『二人とも、また楽器屋さん行ってきなさいよ。弦のお金は母ちゃんが特別に渡すわ』
『いいんですか?』
俺は厚の母に聞いたのに、
『ええんやで!』
言ったのは厚だった。調子のいい奴め。
後日、お金を持って二人は楽器屋のお兄さんの所に行った。
『別に、SNSで拡散するとか言わなくても、後でお金払うって言ったらよかったやろー』
話してみれば、お兄さんは悪い人ではなかった。むしろいい人。外見が怖いだけ。
『おう。じゃあ今度SNSでこの店の事めっちゃ褒めてステマしてあげるよ』
厚はいつもご機嫌だ。ちなみに、彼は高校生になるまでSNSのアカウントを持っていなかった。馬鹿め。
そして気が付いた。欲しいと思っていた白いベースが売れてなくなっていたのに、なんとも思わなかったのだ。
帰りの電車で、お兄さんがくれた楽譜とピックを二人で眺めていた。全く意味の分からないコード譜は心惹かれる物だった。
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