最終話

 紺を基調とした色彩を見上げる。かつてここに出入りしていた日々が昨日のように思い起こされていく。鮮明に思い出せるという事実に、胸がどこか苦しくなる。


 上手くできなくて泣いたこと。練習を重ねて、上手くできなかった部分ができるようになった日の飛び上がりたくなるような達成感。

 本番の日、舞台があるホールまでの道すがらの緊張。成功を収めて、それまでの練習日を振り返る静かな気持ち。


 当時の先生や役者仲間達、稽古場や舞台の上や舞台裏など、あらゆる光景も感情も私の中でまだまだ色褪せていなかった。


 建物の中を覗こうとしたとき、ふと視界の端に、何かが映り込んだような気がした。振り返った私は、無い目を見開きたくなった。無子が、向かいの市民会館に入っていくのが見えたのだ。私は急いで横断歩道を渡って、市民会館に向かった。


 向かいということもあり、劇団が公演をするときは、この市民会館内にあるホールを使用することが多かった。だからこの場所も、私にとって思い出深い場所だ。しかし、ただこの場所でよく公演をしたから。それ一つだけが思い出深さの理由ではない。


 中に入ったが、無子はいなかった。しかしどこにいるのかは見当がついていた。


 私はやっと、無子がここに来た理由がわかった。一つ一つ、歩を進めていく度に、その確信は深まっていく。


 そうなんだ。そうだったんだ。だからあなたは、私の前に現れたのか。


 大ホールの前で、私は立ち止まった。重々しい見た目をした両開きの扉を、ゆっくりと開ける。


 中は暗かった。電気は落とされており、人もいない。しんと静かな空間に、客席の階段を下りていく私の足音が響く。ホールの空気が懐かしく、冷たさは気にならなかった。


 あの日。劇団をやめてきた日。もう二度と来ることのない劇団に背を向け、枷を嵌められているように重い足で帰路につこうとしたときだった。


 私の横を、小さな茶色い影が通り過ぎる気配を感じた。影はそのまま進んでいき、車道に出た。それは、一匹のタヌキだった。


 はっと信号を見た。三色のうち、灯っているのは青色。タイヤの音が近づいてくると同時に、車の影が見る間に近づいてくる。車もタヌキも、お互いに気づいていない。


 私は咄嗟に飛び出し、タヌキを抱えて歩道に戻った。先程までタヌキが渡ろうとしていた場所を、車は速いスピードと共に走り抜けていった。


 丸っこいフォルムをしたタヌキは、びっくりしたように私の腕から逃げ出した。また車に轢かれそうになったら大変だと、後を追いかけた。タヌキはぽてぽてと走りながら、市民会館に忍び込んだ。姿を探していると、この大ホールに入っていくのを見つけた。


 ホールを覗くと、タヌキは舞台の上に上がっていた。他に誰もいないホール。セットも観客も演者も誰も何もいないのに、たった一匹だけホールの真ん中に立つタヌキの姿が、まるで、主人公以外の何物にも見えなくなった。


 私は舞台を見上げながら、気づいたら心の声を吐き出していた。


 劇団のこと。自分の過去や性格のこと。スランプになったことが辛いということ。自分より上手い子が入ってきたことが悔しいこと。逃げる選択をしてしまったこんな自分が大嫌いだということ。変わりたくて変わりたくてどうしようもないということ。


 タヌキが逃げなかったのをいいことに、私はどんどん、自分勝手に語り続けた。いつの間にか泣いていた。涙混じりに喋ろうとしても上手くいかないものだけれど、止めることはできなかった。しゃくり上げながら、私は言った。


 なりたい自分になりたい、と。


「わかったよ、私。あなたのことが、少しだけ」


 音のない劇場に、私の声が響く。


「凄いね、あなた。こんな不思議な力を使えるなんて」

「……だてに、化けるのが得意と言われていないからね」


 暗闇が下ろされている舞台の向こうから、無子の声が聞こえてくる。

 無子の声でもあり、私の声。


「すぐ行こうって、思ってたんだ。でも、遅れちゃってごめん。昔の私はまだ未熟でね、力を溜める時間が必要だったんだ」

「ううん、そんなことないよ。私を覚えていてくれて、本当にありがとう」

「そんなの当然だよ。だってあなたが助けてくれなかったら、私は今ここにいないから。……それで、どうかな。今日私は、あなたがあのとき望んでいた、なりたい自分に化けてみたけれど。今度は、あなたの番だよ」


 彼女が発していた言葉や、行っていた行動の数々。それらは全て、日頃から私が望んでいることと一致していた。奥底に隠してある、私のしたいことの数々。


 もっと勇気があったら、度胸があったら行動に移そうと、いつも考えていた。考えるばかりで、実行に移すには計り知れない程壁が高く、ずっとできずにいた。それを、彼女はやってのけた。


「……できるのかな。私にも」


 私は俯いた。足下をじっと見つめていたら、勇気や希望が段々と萎んでいくのを感じた。


 無子にはできた。しかしそれは彼女が常識からかけ離れた存在だからだ。今ここにいる私ができるとは、とても思えない。できている想像が、全く浮かばない。結局あなたはあなたで、私は私なのだから。


「今、諦める必要はないよ」


 私が顔を上げた瞬間、急に目の前が明るくなった。思わぬ光の登場に、一瞬わけがわからなくなる。


 舞台上のスポットライトに、明かりがついていた。明かりは全て、舞台の中心に注がれていた。そこに立っていたのは、「私」だった。


「やってみて上手く行かなかったらそのとき初めて諦めればいい。やってみようよ、やりたいと思ったこと全部。失敗してもいいんだよ。生きていれば失敗するし、生きていれば成功できるんだから!」


 彼女は両手を広げて、笑った。明るい笑顔だった。スポットライトの光に負けないくらいだった。


「今日、私は割と好き勝手にやったけど、案外周り、迷惑がらなかったでしょ? そういうものなんだよ! 意外と周りの人って、何も見ていないんだから。もし何か言ってくる人がいたら、それは向こうが悪いの。だっておかしいでしょ、人の人生にわざわざ口出ししてくるとかさ!」


 私も、こんな風に笑えるのだろうか。しかし、笑えるのだとしても、笑うのが怖い。下手な笑顔を自分で見るのが嫌で、いつしか笑うことに諦めを抱くようになったから。


「無理だよ」


 気がつけば、私はそう漏らしていた。言葉を自分の聴覚が拾った瞬間、本当に無理だろうという思いが強まった。


 そうだ、無理だ。できないに決まっている。ならずっとこのままでいい。変わることのない道を歩み続けたっていいではないか。


「無理じゃないよ」


 舞台から声が降ってきた。無子と名乗った、私と全く同じ顔をした女の子が、腕を組んで私を見下ろしていた。主人公のように、堂々とした佇まいだった。


「だって、あなた。今日、何度も何度も、私に突っかかってきたでしょ?」


 張った声は、紛うことなく私の声そのものだった。その声は私の体を通り越して、内部へ真っ直ぐに突進してきた。私の心に、私の声が響き渡る。


「顔を返してもらうことを諦めず、何度も返してって、自分の言いたいことを言ってきた。私を助けてくれたときだって、車が近づいてきているのに、咄嗟に飛び出してくれた。あれくらい強気になれるなら、勇気が出せるなら、なんだってできるよ」


 ね、と悪戯を企んでいるように、彼女は口角を上げた。しかしその笑顔は、どこか子供のように無邪気だった。


 その笑みが、ふっと変わる。穏やかで、優しくて、見守るような眼差しに切り替わる。


「私の顔は、こんな顔。自分の顔を、どうか見失わないで。静奈」


 人差し指を顔に当て。“私”は笑った。


 その瞬間、スポットライトが消えた。物語の終幕を示すように。真っ暗闇に包まれて、何も見えなくなる。


 ふと、風が揺らめいた。扉は閉ざされているのに、なぜか空気が揺れた。ふわりと起こり、そして消えていった優しい風の感触に、私は一つの確信を抱いた。


 両手を、顔へと持っていく。指先から伝わってきたのは、唇の柔らかさ、鼻の出っ張っている感触、睫毛といった、何の変哲もない顔の部位だった。けれども私は、顔とはこういう触り心地なのかと、初めて触るような心地でいた。


 私は顔を触っていた両手を、胸の辺りに持っていった。


「ありがとう」


 私の声は、すぐに消えた。そのはずなのに、いつまでも自分の中に漂い続けているようだった。


 市民会館から出るとき、私は振り返った。出入り口に、一匹のタヌキがいた。タヌキは黒い瞳で、しばらく私を見ていた。私が手を振ると、タヌキはどこかへ走り去っていった。





 鳴り響く金属音に、意識が浮上する。音を奏で続ける目覚まし時計を止め、窓のカーテンを開ける。朝陽が室内を満たす。その眩しさに目を細める。いつもの朝だった。

 髪を梳かし、ヘアブラシを置いた後、その傍に置いてあったヘアゴムを手に取った。


 少し迷った後、後ろで一つに纏めてみる。彼女がしていたのと同じ髪型。しかし、結局似合わなかったらどうしよう。不安を抱えながら、コンパクトミラーを覗く。


 思っていたより、ひどくないかも。それが最初の感想だった。髪を結んでも何も変わらないと思ったが、少し明るい雰囲気になったように見える。気のせいと言われたら、それまでだけれど。


 鏡に映る私の顔を、真っ直ぐ見つめる。目。鼻。口。昨日と同じ顔がそこにある。変わらない私の顔。私の世界で中心となる人物の顔だ。


 私は鏡の私と頷き合った後、机の上のパンフレットを手に取った。星空劇団の入団試験に関する情報が書かれたパンフレットだ。両手で抱えるようにしながら階段を下り、家族の待つリビングのドアを開ける。


「あのね。実は、話したいことがあるんだけど」


 私は、一歩を踏み出した。



 

終 

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それはこんな顔 星野 ラベンダー @starlitlavender

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