第5話

 足がもつれて何度か転びそうになったが、それでも廊下を駆けて無子を追いかけた。


「無子! 一体何をしているの!」


 気がつけば辺りに配慮しない大声を出していた。しかしすれ違う生徒達に聞こえた様子はなく、皆素知らぬ顔をして通り過ぎていく。私の声が聞こえているのは無子だけだ。にもかかわらず、無子はほんのわずかに振り返っただけで、あとは何も言わず、どんどん歩を進めていった。


 私の存在を無視しているようだ。いや、朝からずっと無視している。私は拳を握りしめた。歩調が荒々しくなっていくのを感じる。


 朝から彼女は一体、どれだけ勝手なことをしてきたのか。列挙していったらきりがない。


 家族にお願い事をして、授業で積極的に発言をして、二人一組の授業でもよく知りもしない相手に一緒に組もうとあっさり頼んで、あまり話しかけたことのない人にどんどん話しかけて、嫌なことをはっきり断って。


 全部、大きなトラブルに繋がるかもしれないと思って、私がずっと耐えて潜んで隠してきたことだったのに。無子はあっさりと簡単に、いとも容易く行動に移してしまった。


 なぜ、と思った。なぜ余計なことばかりするのだ。今までの何も言わない生活をずっと続けていたら、プラスになることはなかったけれど、マイナスになることもなかったのに。無子のせいで全て台無しだ。


 どうして、と思った。どうしてそんな簡単に、自分の気持ちを言葉にできるのだ。


 そんな無子が真っ直ぐ向かっている先がどこなのか、最初見当もつかなかった。ただ昇降口とは反対方向に向かっていたので、帰るわけではないらしい。


 後を追いかけていくと、徐々に候補が現れ、絞れていった。彼女の今日一日の行動と、彼女の向かっている方角。考えすぎだと思いたかった。ただの悪い想像だと。しかし、無子が演劇部の部室の前で立ち止まった瞬間、嫌な予感は最高潮に達した。


「部長さん、いますかー!」


 無子は扉を開け放つと同時に声を上げた。部室内には数人の部員の他に、あの高橋先輩もいた。「えっと……?」と何度も瞬きしている。どちら様ですか、と思っていることが雄弁に伝わっている仕草だった。


 無子は力強い足取りで、一歩前に進み、部室の中に入った。


 まさか、の三文字が高速で渦巻く。私は無子の腕を引っ張った。それは絶対にいけない。私が駄目だと叫ぶ前に、無子は言った。


「先輩、好きです! 私と付き合って下さい!」


 無子の大声は部室内にこだまし、しばらく残り続けた。


 よく気を失わなかったと思う。それでも、気絶寸前までいった。それくらい精神力が限界を来した。


 とうとう言った。言ってしまった。私が心の奥底に秘めていた想いが言葉にされた。私の姿をした私とは別物の存在が、言葉にしてしまった。


「いや、あの、よく知らないし……。その、ごめん」


 目眩を起こしている私の傍で、高橋先輩は頭を掻きながら言った。ごめんと言うことにも疑問を抱いていそうな、何ともいえない曖昧な言い方だった。それもそうだ。彼にとっては初対面と言って良い相手から告白されたのだから。にもかかわらず邪険にしなかったのだから、本当に優しい人だと思う。


「そうですか! わかりました! ではっ!」


 そんな先輩の気遣いにお礼の一言も言わず、無子は元気よくお辞儀した。やるべきことは全て終えたとばかりにすっきりした面持ちで部屋を出て行く。


 あいつ。私は唇を強く噛んだ。先輩への告白を横取りしておいて、その素知らぬ態度はなんだ。


 シチュエーションは考えていた。実行する勇気はなくてただ妄想するだけだったけれど、それでもあんな告白の仕方よりもっと綺麗なものを考えていた。

 思いの丈を、必死に見えてもいいから、誠実に真っ直ぐ伝える。そういう告白を夢想していた。それが理想だった。先輩への告白は、挨拶の代わりにするような軽いものではないのだ。あんな軽い「好き」では収まらないものなのだ。


 私が言いたかったのに。私がやりたかったのに。


「ねえ! もういい加減にしてよ! 早く私の顔を返して!」


 学校を出てどこかへと歩いて行く無子を追いかけながら、私はその背に向かって怒鳴った。


「あなた、私の姿が見えてるんでしょ?! だったら無視しないでよ!」

「勝手なことばかりして、許されると思ってるの?!」

「私、本気で怒ってるんだから! 今すぐ顔を戻さないと承知しないんだからね!」


 何を言ってもどう話しても、無子は私を無視して先を行く。痺れを切らした私は一気に距離を詰めて、無子の両肩を掴んだ。体を回転させて、強引に向き合う形を取らせる。


 そうして正面から見た無子は、なんと、笑っていた。楽しそうに、幸せそうに。にこにこと。


「なんで、笑顔なのよ!」


 私は掴んだ肩を前後に揺さぶった。なのに無子は怯えるばかりか、くすくすと笑い声を立てた。


「だって、楽しいんだもの」

「私の顔を使って好き勝手やることが楽しいっていうの!」

「好き勝手っていうか。私がずっとやりたかったことだもの」


 無子は私の手に触れ、肩から外した。思いのほか強い力だった。


「やっと、ずっと思っていたことを行動に移せて、凄く嬉しいんだ。とても楽しいんだ。私は、心残りだったことを、全部やる。静奈が何を言っても何をしても、最後までやりたかったことをやり遂げるから。あなたの代わりに。――あなたが、願ったように」


 次の瞬間、無子は背を翻し、駆けだした。ふいをつかれた私は、後を追うのが遅くなった。そのせいで、あっという間に後ろ姿を見失った。


 しかし、私の心は焦りを伴っていなかった。それは無子がどこに行ったのか、その当てがあるからだった。


 もしかして、と予想する。まさか、と予感する。私が描いた想像は、にわかには信じられないことだった。けれど現に、のっぺらぼうという非現実的な存在が私の目の前に現れて、今まさに私を振り回している。今更、疑う余白はなかった。


 私は定めた目的地に向かって走り出した。


 目的地までの道順は、ちゃんと覚えていた。忘れていたと思っていたのに、いざ進んでみると次の角は右、その次は左といったように、どんどん記憶が蘇っていく。


 私は、かつて通い慣れていた道を、ひたすらに走った。走って走って、そしてようやく辿り着いた。


 車道を挟んで市民会館と向かい合わせに建つ、一つのビル。そのビルの入り口には、「星空劇団」という星空の看板が出ていた。

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