第4話
私は、叫んだ。頭ががんがん痛くなっても叫び続けた。悲鳴が空気を震わせる。叫んでも叫んでも止まらなかった。しかしどんなに声を上げても、その声が出ているであろう口が顔にある感覚がしない。それが尚更恐ろしさをかき立てた。
そのときだった。どたどたと、慌ただしく近づいてくる足音が聞こえてきた。「どうしたの?!」とお母さんの驚いた声も一緒になって近づいてくる。
私は咄嗟に声を止めた。思ったのは、どうしよう、ということだった。視線を無子に向ければ、彼女は煩わしそうに顔をしかめて、両耳を手で押さえていた。
そんなことをしている無子は、どこからどう見ても私にしか見えない。反対に私は、どこからどう見てもお化けか何かにしか見えない。
お母さんがこの光景を見たら、どんなことになるのか。誤魔化す方法を考える間もなく、ドアが開かれた。私はさあっと、一気に体温が下がっていくのを感じた。
「ちょっと、何の騒ぎよ?」
ところが、お母さんの反応はあっさりとしたものだった。予想外の対応に、えっと私は思わず声を上げる。それでもお母さんは無反応だった。私のほうを見ておらず、視線は無子のほうを向いていた。
「ごめん、実は気持ち悪い虫をうっかり見ちゃって驚いちゃってさ~」
無子は両手を合わせて謝った。
「もう、びっくりさせないでよ……。早く朝ご飯食べてちょうだい」
「はーい!」
とうとうお母さんは、ここにいる顔のないお化けのことなど何も言わず、部屋を出て行った。
呆然とする私に、無子が振り返る。
「昨日も言ったでしょ? 私の姿は静奈以外見えないって。だから静奈も、私以外の誰にも見えないようになってるんだ」
「は……?」
「だってあなたはもう、のっぺらぼうだもの。妖怪がそんな簡単に、人に見える存在なわけないでしょ?」
無子ははにかんだ。屈託のない、明るい笑顔だった。
「私は、ずっと静奈を探してたんだ。私のことが見える存在。つまり、私が顔を奪えて入れ替われる適性を持った人間って、静奈以外いなかったから」
無子はにこにこしながら、自分の顔を両手で挟むようにそっと触った。満足そうに笑みを深める。
何が、起こっているのだろうか。どうして、この妖怪は笑っているのだろうか。
「でも、今私は人間になっている。小宮静奈っていうね。のっぺらぼうじゃない。で、静奈はもう静奈じゃなくて、のっぺらぼうになっているの」
私はコンパクトミラーを見下ろした。そこに映っているのは、紛うことのないのっぺらぼうだ。
顔を上げた。目の前にいるのは、私だ。
「私が小宮静奈として、人生をエンジョイするから。静奈は、何も心配しないでね!」
無子は私の目を使ってウインクすると、鼻歌を口ずさみながら部屋を出て行った。
一人部屋に取り残された私は、ただひたすら唖然とするばかりだった。
呆けて口を開けようにも、その開ける口が存在しない。目を見開こうにも、両目がない。
立ち尽くすしかない私は――こんな姿になってしまって、“私”と呼んで良いのかどうか思いながら――しばらくぼんやりとしていた。が、階下から私の声、具体的には私の声帯を借りている無子の声が聞こえてきて、我に返った。
あの子は一体、何を勝手なことをしているのか。
思えば初対面のときからそうだった。好き勝手なことばかり言って自分勝手なことばかりして、私を振り回した。
こんな勝手なことをされておいて、私は無子を許すのか? いくらお人好しで流されやすいと言っても、こんなことまで許すのか?
自分に問いかけた直後、私は勢いよくドアを開けて、一階に駆けていった。リビングに飛び込むようにして入っても、両親も妹も、私に気づくものは一人もいなかった。三人の目は、私の姿をした無子のもとへ向けられていた。
「私今日ね、どうしてもお刺身が食べたいんだ! ね、夕食にいいでしょ!」
無子は両目をきらきらと輝かせて、両親にねだっていた。言われているお父さんもお母さんは、当たり前だが困惑した顔をしていた。急にどうしたのか、何を言っているのかと聞かれる。無子はあっさりと躊躇いなく答えた。
「いいでしょ? だって私お刺身が大好物なんだもの!」
「あなた、お刺身が好きだったの?」
お母さんが初めて知ったような顔で驚いた。
「えっ、知らなかったの? お母さんなのに?」
「だって静奈、何が好きかも嫌いかも全然教えてくれないもの」
「じゃあ今知って。私はお刺身が好きなの! それなのにずるいよ、妹の好物は用意するのに私のは無しって不公平すぎるよ!」
目を三角にして眉をつり上げて、無子は抗議の意を露わにする。ああ、何を言っているんだ。私は頭を抱えたくなった。そんな風に堂々と自分の意見を言ったら、どんな火種を生むかわからないだろう。お父さんからもお母さんからも沙彩からも、不審に思われて嫌われてしまう。
ところが私の不安と反して、お母さんもお父さんも実に呆気なく、「いいよ」と頷いた。
「珍しいわね、静奈がそこまで言うだなんて……。じゃあ、今日の夕食はお刺身にしましょう」
「わーい、やったあ!!」
無子はその場で何度か飛び跳ねた。全身で喜びを表現する彼女に、家族もつられたように笑う。
無子の笑顔は明るくて眩くて、幸せそのものと言って良かった。
私は、あんな風に笑えるのか。初めて見る自分の表情を、私は遠くから見つめていた。私のことが唯一見えるはずの無子は、私のほうを全然見ようとしなかった。
その後、無子は私の家族と朝食を摂った。ごはんの時間、いつも私から何かを話すことはほとんどないのに、無子は逆に率先して自分から話してばかりいた。あまりにも普段と違う姿に、家族もおかしいことに気づくのではないかと私は期待した。
が、家族は何も不審がらなかった。今日の静奈は明るいねと不思議そうに聞くが、本気で訝しんではいない。むしろ良いことだとばかりに嬉しそうだ。
「私は今日から変わったの!」
無子は胸を張って言った。言葉通りの意味を持つ台詞の真意に気づいた者は、私以外いなかった。
やがて学校に行く時間になったが、無子は当然のように制服を着て、更に髪を纏めて後ろの高い位置で結った。
私はいつも髪を下ろしているが、ポニーテールという髪型は少し憧れを持っていた。が、暗いほうの性格である私には似合わないと思っているので、実際にやるつもりはなかった。いきなりそんな明るい髪型に変えたら変に思われるのではと不安になったが、無子は私が何を言っても聞かず、登校していった。私に何か言うことも何もなかった。
残された私はというと、意気揚々と出かけていった無子の後を追いかけた。今日の朝食のときのように、また勝手なことをして騒ぎを起こしたらと思うと、いても立ってもいられなくなったのだ。なんとか無子に頼んで、顔を返してもらわなくては。普通に考えて、一生このままなのは絶対に嫌だった。
無子いわく、私の姿は無子以外には見えないという。なので恐る恐る外に出てみても、私に気づく人はいなかった。のっぺらぼうが白昼堂々と町を歩いているというのに、悲鳴を上げられるどころか、一瞬でも視線をやる人すらいない。私はのっぺらぼうだけでなく、透明人間にまでなったようだ。
ガラスなど、反射するものの前を通りがかると、私の姿も映り込む。凹凸のない、卵のような顔を目にすると、私本人にもかかわらずびくりと体が震える。そこまで存在感のある見目形をしているのに、私のことを見ようとする者は一人もいない。誰にも気づかれないという状況に落ちつかなさを抱きながら、私は通学に使っている道を進んだ。
辿り着いた学校にも、見えなくなっている姿のおかげで難なく侵入できた。自分のクラスに向かってこっそり様子を窺うと、すぐに異変に気がついた。
「はい! 先生!」
教室の中で一際声を響かせている女子生徒。それが私の姿をした無子など、信じたくなかった。
無子は当てられてもそうでなくても積極的に手を挙げてばんばん回答していた。正解でも不正解でも、周りの目も全てお構いなしだ。先生は呆然と立ちすくみまともな受け答えができていなかったし、クラスメートはほぼ全員が丸く見開いた目を無子に向けていた。
その目線が見えていないはずないのに、無子は堂々と手を挙げて、自分の存在のアピールを続けた。
彼女の暴挙はその授業だけにとどまらなかった。次の授業もそのまた次の授業も、率先して発言を繰り広げて、前に出る。
例の「二人一組になって」という授業でも同じだった。二人一組に、と言われるやいなやすぐ近くにいた、私はろくに話したことがないクラスメートを捕まえて無理矢理ペアになっていた。
明らかに相手は迷惑がって、というか何が何だかとすっかり動揺していたのに、無子は気遣う素振りなどまるで見せなかった。
当たり前だが普段と全然違う私の姿を、クラスメートは怪しんだ。休み時間、今日の小宮さん一体どうしたんだろうね、と教室の隅で固まってひそひそと話している人達の姿を見たときには、私は叫び出したくなった。なんか変、という台詞が飛びだした瞬間、もう人間に戻らなくて良いかもしれない、と本気で考えた。
私の、地味ながらも表面上は何事もなく穏やかだった学生生活が、音を立てて崩れようとしていた。
そんな最中、現れたのは無子だった。「何を話しているの?! 私も混ぜて!」と大声と共に乱入してきたのだ。私は空気にヒビが入る音を確かに聞いた。
本当にやめてほしい。お願いだから大人しくしていてほしい。心の中で必死に唱えた願いも空しく、無子はぐいぐいと迫る。ひそひそ話をしていた人達は、白い目をしながら去って行った。
終わった、と私は確信を遂げた。しかし無子はそうではなかったらしい。首を傾げていたが、次の瞬間にはけろりと切り替わり、他のグループのもとに話しかけていった。
こんな風に、無子は休み時間のときも、自己主張を忘れなかった。私はここにいるのだと、私を見ろと。そう言わんばかりに他人へ突進していく彼女の姿を一日中見続けていたおかげで、私の心が安まる瞬間は訪れなかった。放課後になる頃には、すっかり私の精神は消耗しきっていた。
「さて、と」
何かを決心したように席から立ち上がった無子を見て、私は愕然とした。散々好き勝手しておいて、まだ何かするつもりなのかと。
そのときだった。
「小宮さん、また掃除当番代わってくれない?」
先日、当番の交代を頼んできたクラスメートが、無子に話しかけてきた。
「なんか今日やたらやる気に満ちてるっぽいしさ。いいでしょ?」
笑顔でお願いしてくるクラスメートに、無子は振り向いた。その顔に、表情はなかった。
「自分ですれば? あなたの当番でしょ?」
非常に短い言葉だった。十秒どころか、五秒もかかっていなかったと思う。息を吐くのと同じくらいあっさりと断った無子は、呆然とするクラスメートを置いて、すたすたと教室を出て行った。
直後、我に返ったらしきクラスメートは、一緒にいる友人達と声を潜めて何やら話し出した。口ぶりからして、怒りの感情を多く抱いているようだった。何あの子、調子に乗ってる、と吐き捨てられていく台詞の数々に、私の体は強く震えた。足ががくがくとして、息も乱れる。
私の姿は見えていないはずなのに、見られている気がして同じ空間にいたくなかった。私は弾かれるようにして、走って教室を飛びだした。
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