第3話
お風呂から上がって部屋に戻ると、無子はベッドの上で本を読んでいた。また勝手なことを、と思ってよく見ると、本の正体に目を疑った。それは、アルバムだったのだ。
「何を見ているの!」
私はアルバムを取り上げた。無子はこてんと首を傾げながら見上げてきた。
「それ、映ってるの静奈でしょ?」
そう言ってアルバムを指す無子の指から守るように、私はアルバムを深く抱きかかえた。違うと言いかけた口が、途中で止まる。中を見てしまったのなら、もう言い逃れはできない。私が小さく頷くと、無子は「へえ!」と手を合わせた。
「なんか、今と全然違うのね! 凄く明るい雰囲気。静奈って、昔劇団をやってたのね!」
もっと見せてとせがむ無子を振り切って、私はアルバムを元の位置である、本棚の後ろに持っていった。隠す前にそっと開き、中を覗く。目に入ってきたのは、私の笑顔だった。
劇団の仲間と帰っている最中の写真。休憩中の写真。主役を務めた劇が成功して皆とはしゃいでいる写真。様々な写真がある中でその共通点は、私が笑っているということだ。
7歳から14歳までの7年間、私は星空劇団という劇団の子供部門にいた。私は昔から弱気で大人しく引っ込み思案な性格で、自分を変えようと思い切って飛び込んだ先にあったのがこの劇団だった。
前に出るのが苦手な私が、否が応でも前に出なくてはいけない演劇という世界に入ろうと考えるなど、当時の自分の思い切りの良さが信じられない。あの頃確かにあったはずの勇気は、今どこに行ったのだろうか。
もちろん最初は緊張した。ミスもしたし、ミスをした瞬間は退団してしまおうと本気で考えた。けれどやめなかったのは、舞台に上がる時間は、地味で影の薄い小宮静奈という衣を脱ぎ捨てられるのが、本当に嬉しかったからだ。どんな人物にも変身できるのが面白くて、楽しかった。
気合いを入れて練習を重ねていたおかげで技術も徐々に向上していき、最初はちょい役ばかりだったのが出番の多い役を任されるようになっていき、やがて主役に抜擢されることが多くなっていった。
実際の人生では私はエキストラだが、舞台上では誰が何と言おうと主人公になれる。私という人間が、根元から大きく変われるのだ。あの7年間が、私の中で一番輝いていた時間と言っても過言ではない。
「またやらないの? 演劇。静奈、凄い楽しそうじゃない。どうしてやめちゃったの?」
「……関係無いでしょ」
「いいじゃない、教えてよー。減るものじゃないでしょ? ねえなんで?」
無子の遠慮の無い快活な声が、ひどく耳障りに感じた。両耳を塞ぎたくなる程だった。これ以上話さないでくれという意思を込め、頑として口を閉ざし続けたが、無子には伝わらなかった。
「ねえ、また演劇やったら? だから昼間、演劇部に入ったらって私が言ったとき、機嫌が悪くなったんでしょ? そうなるくらい未練あるなら、もう一回やってみたって……」
「のっぺらぼうに何がわかるの!」
私は振り返りながら怒鳴った。目も鼻も口もない、平らで無個性の顔を見据える。
そうだ。こんなのっぺらぼうにわかるはずがない。私がどうして劇をやめたのかなど。
14歳のあるときから、私は不調を感じ始めていた。先生からも注意を受けることが増えた。スランプだろう、とその先生は言った。成長のため、ここが頑張り時だとも。
その矢先、新しく劇団に入ってきた子がいた。私と同じ年くらいの女の子で、私と違って華やかで可愛い雰囲気の持ち主だった。とどめに、演技も上手かった。私よりも上の実力があった。
私は、なけなしの自信が一気に瓦解していくのを感じた。あの子がいるなら、私は必要無い。今まで何を勘違いしていたのだろうかと、夢から覚める思いを味わった。私は変わることなどできない。名前はもちろん、顔も覚えられることは永遠にない、エキストラのままなのだと。
「いいのよ。私なんて、いてもいなくても一緒なんだから。何をしたって何を言ったって、意味無いのよ」
私は無子を無理矢理どかせて、ベッドに潜り込んだ。今はただ、全てを忘れて眠りたかった。
真っ暗闇の向こうから、甲高い金属音が聞こえてくる。目覚まし時計の音で意識を覚醒させた私は、ゆっくりと目を開けた。見慣れた天井を視界に入れ、のろのろと体を起こす。閉じたカーテンの隙間からは、眩しい太陽の光が差し込んでいた。今日も良い天気のようだ。
ベッドから下りようとしたとき、まだ残っている眠気がついあくびを誘った。ふわあ、とあくびをしようとしたが、なぜか口が開かなかった。
「おはよう、静奈!」
無子の声がした。うん、と私は返しながら、そちらを向いた。
そうして、何もわからなくなった。
「どうしたの?」
無子は首を傾げた。しかしそこに立っている人物を無子と呼んで良いのかわからなかった。
無子はのっぺらぼうのはずだ。自分の顔を持たないはずだ。しかし今の無子には、顔が存在していた。更にその顔は、信じられない作りをしていた。
目、鼻、口を初めとした全ての顔の部位。それらは、私のものと瓜二つだった。まるで鏡に映したように、目の前には「私」がいた。
「そ、それ、どうしたの……」
「それって?」
「なんで、どうして私の顔が……!」
「ああ、それは……」
無子は、今日の天気を話すような口ぶりで言った。
「貰ったのよ」
「貰った?」
すると無子は勝手に机の引き出しを開け、中からコンパクトミラーを取りだした。蓋を開け、手渡してくる。何をしているんだろうと思いながら、私は鏡を覗き込んだ。
小さな鏡の中には、なぜか無子が映っていた。
「いてもいなくても一緒って、昨日言ってたでしょ?」
違う。無子ではない。彼女は今ちょうど、私の隣で話している。
「それ聞いたとき、私思ったんだよね。そうか、ならちょうど良いじゃない、って」
では、これは一体なんなのか。今私が目にしている、顔のない化け物は。
「だから私、あなたから顔を貰ったのよ」
何のことはない。無子ではない。これは私だ。私から、顔が消えたのだ。
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