第2話
突如出会ったのっぺらぼうを、私は半分脅される形で家に泊めなくてはいけないことになってしまった。こっそり家に入って、足音を忍ばせて二階に上がり、自室に妖怪を押し込む。「絶対にこの部屋から出ないでね」と私は何度も念押しした。
「この部屋にいれば、見つからないわけ?」
そうのっぺらぼうは尋ねてきた。私はまあ、と曖昧に答えた。
部屋に誰かが勝手に入ってくることはまずない。勝手にどころか、入室されることそのものもない。私のプライベートに興味を向けてくれるような家族など、この家にいないからだ。
「まあいいわ。そうだ、まあ名前を聞いてなかったわね。あなた、名前はなんて言うの?」
「お化けに教えなきゃ駄目?」
「嫌? じゃあ私から言うわ。私は、
偽名にしてももっと考えた名前にするべきではないか。というかよろしくしたくない。
私が無言を貫いていると、無子は「名前は何?!」と笑顔で迫ってきた。早く答えろと有無を言わせぬ圧を感じる。
「……静奈。小宮 静奈」
ため息一つと共に、なかなか人から呼ばれることのない自分の名前を名乗った。
静奈ね、と無子は何度か頷いた後、遠慮無しにベッドに腰掛けた。
「静奈って、大人しそうに見えて度胸あるのね。もうこの状況に慣れてるって感じがする」
「どこをどう見ればそうなるの……。のっぺらぼうを前にして、慣れるなんてことあるはずないでしょ」
「のっぺらぼう? それはこんな顔かしら?」
無子が、凹凸の一切ない平べったい顔を指さす。
「やめて! 顔隠してちょうだい!」
「隠す顔がないのに?」
「なんでもいいから!」
私はタオルハンカチを取り出すと、広げた状態で無子の顔に被せた。
ちょうどそこで夕食に呼ばれた。部屋から出ないようにと忠告してから部屋を去ると、私はリビングに向かった。テーブルの真ん中には、沙彩の好物である唐揚げが山盛りに載ったお皿が置かれていた。沙彩がはしゃいだ声を上げており、お母さんも嬉しそうにしている。
忘れかけていた重たい気持ちが戻ってくるのがわかった。今日は部屋で食べてもいいか聞くと、あっさり了承を取ることができた。理由は聞かれなかった。
私はプレートの上に唐揚げをいくつかとサラダを取り分けたお皿と、ごはんと味噌汁を載せると、自分の部屋に戻った。
「あれ、早かったね?」
遠慮なくごろごろベッドの上で転がっている無子が不思議そうに顔を上げた。私は黙ってプレートを学習机の上に置くと、椅子に腰掛けて食事を始めた。食べ進めていると、ふと横顔に視線を感じ、振り向いた。無子の顔が、じっと私のほうに向けられていた。無いはずの目が、私を捉えているように感じた。
「……何?」
「美味しくないの? それ」
「ううん、美味しいよ」
「じゃ、どうして無表情で食べてるの? 不味そうに見えるよ。せっかくものを食べれる口があるのに勿体ない」
唐揚げが、喉に引っかかるような心地がした。味噌汁を啜り、誤魔化すように飲み込む。なんとなく食べる気力が途切れて、私は箸を置いた。
横を見ると、まだ無子は顔を向けていた。
「……私、本当は、お刺身が好きなんだ」
あまり誰かに言ったことのなかったことを、打ち明けていた。
「でも食べたいって言ったこと、あまりないんだ。お刺身は、妹が嫌いだから。だから唐揚げを食べてると、つい、気になっちゃうんだよ」
言い終わった後、のっぺらぼうなんかに何を言っているんだろうと気づく。けれども無子は平然としていて、「そうなんだ」とあっさり返した。
「私からすれば、唐揚げでもお刺身でもなんでもいいんだけどな。食事ができることそのもののほうが羨ましいよ。だってほら、これじゃ食べれないし」
無子は口があるあたりを指さした。そこに、噛んでものを食べる役目を持つ部位は存在していない。
「声は出せるのに、ものは食べれないのね?」
「そこはほら、妖怪ですし。だから食べれなくても問題ないけど、やっぱり何も飲まず食わずって、辛いよね」
「……それは辛い」
想像してみたが、あまり想像したくないなとすぐに打ち止める。私はつい、無子に同情してしまった。その一方で、先程無子の言った「慣れてきている」という台詞を思い出した。慣れているという感覚は自分ではしていないが、確かにこうして普通に妖怪と話していると、そう思われるのも仕方がない気がする。
いつの間にか食べる気力が復帰していたことに気づいた私は、もう一度箸を手に取った。
その晩、来客用の布団を敷いて、無子はそこに寝てもらった。が、一晩だけ泊まらせるという約束だったのに、次の日も無子は当たり前のように滞在していた。約束が違うと詰め寄れば、無子は平然と「約束はしていないよ」と言ってのけてきた。結局話の流れで、また一晩泊まらせることが決まってしまった。
私はどんよりとため息を吐きながら、部屋の窓を開けた。せっかくの祝日で学校もお休みで、しかも天気も良いというのに、最悪の気分だ。抜けるような高い青空を見ても、私の心は浮上してくれなかった。
そのとき、下から玄関の開閉音が聞こえてきた。見下ろすと、お洒落した沙彩が軽い足取りで家から出て行くところだった。レースやフリルのついた、パステルカラーが明るいワンピースにパンプス。髪を結って、メイクもばっちり決まっている。
可愛くて華やかな衣装に身を包んだ妹は、軽い足取りで歩いて行った。そういえば今日、友達と遊びに行くということをお母さんに話していたことを思い出す。
私は自分の着ている服を見た。無地のパーカーにズボンと、何の変哲もなければ個性もない格好だ。小さくなっていく沙彩の後ろ姿をぼうっと、眺めていると、いきなり横から声をかけられた。
「何を熱心に見ているの?」
答える間もなく、無子が割り込むように隣に並ぶ。沙彩の背に首を向けた無子は、「あれがどうしたの?」と指を指した。私は答えず、窓を閉じた。
ショルダーバッグを取り出して財布や携帯などを入れ始めた私に、無子が「何してるの?」と興味津々に聞いてくる。
「文房具を買いに行くんだよ。足りなくなってたの思い出したから」
「私もついてっていい?!」
「駄目に決まってるでしょ!」
本気で言っているのかと目を見張る。けれども無子は大丈夫と笑い声を上げた。
「だって私、静奈以外の人からは見えないんだもの」
「えっ?」
「妖怪の姿が見える人なんか、とても少ないんだよ?」
そういうものなのだろうか、と考えたときだった。何かがおかしいことに、私は気づいた。
「あなた昨日、泊めてくれなかったら色んな人に話しかけて騒ぎを起こすって言ってたじゃない!」
「あれは嘘だよ?」
無子はしれっと言った。顔がもしあったら、さぞ悪びれる素振りもない表情をしているのだろう。私はどっと疲れて、「だからついて行っていいでしょ?」という無子の願いに、つい頷いてしまった。本当にお人好しで、流されやすい性格をしているとつくづく思う。
そのまま外出をしたわけだが、私はずっと、無子が変なことをしないか気が気ではなかった。が、彼女は意外にも大人しく私の後ろをついてくるばかりで、おかしなことは特にしなかった。人とすれ違う度に緊張したが、顔のない人物がここにいるというのに誰も何も騒がず、無子の存在に気を止める者はいない。
無事に買いたいものを購入できた私は、その足で図書館に向かった。検索機を用いてのっぺらぼうに関する書籍を探し、いくつかを軽く読む。
有名なのはやはり、「夜道を歩いていた男性が泣いている女性を見つけ、話しかけたらその女性はのっぺらぼうだった。驚いた男性が逃げた先で出会った蕎麦屋の店主に今起きたことを話そうとしたら、その店主ものっぺらぼうだった」という怪談だ。
他の本にも似たような話が書かれていた。また色々調べてわかったのだが、のっぺらぼうの正体は、タヌキやキツネが化けていたというオチの物語が多かった。
が、無子のようなのっぺらぼうの話は見つからなかった。こんな陽気で、言いたいこともやりたいこともなんでもやってしまう妖怪など、どの文献にも書かれていない。
結局手がかりらしい手がかりは得られぬまま、私は図書館を出た。ちょっとした事件は、その帰り道に起こった。
図書館から少し歩いたところで、私は道の向こうから歩いてくる人影を見て、息が詰まった。咄嗟に傍の自販機の陰に隠れた私に、無子が「何、何?」と聞いてくる。腕を引っ張って、無子も自販機の陰に隠れさせた。
「ちょっと、いきなりどうしたっていうのよ!」
「静かにしてっ!」
私は小声で勢いよく注意しながら、そっと顔だけ出した。道の向こうから歩いてくる、背の高い男の子。その爽やかな顔立ちを目にした瞬間、私の心臓はわかりやすく速くなった。どこどこと、高速で太鼓を打ち鳴らしているみたいだ。
「高橋先輩……」
夏は過ぎたのに、私の頬は熱く火照った。沸いたお風呂のように、心身共に体温が上昇していく。整った顔立ちに見とれていると、「なるほどねえ」と後ろから無子の声がした。
その姿をしっかりと、網膜に焼き付ける。先輩は私のことに気づかぬまま、通り過ぎていった。後ろ姿を見送った後、自販機の陰から出て、家に向かって歩き出した。まさかここで憧れの人に出会えるとはと、踏み出す足が軽くなっていた。
「あの人のこと、好きなんでしょ?」
後ろから無子が聞いてくる。私は少し迷ったが、頷いた。
「そうだよ。入学したときからずっと。先輩と会えたことは、今通ってる学校に入れて一番良かったって思ってることなんだ」
「へえ、そんなに!」
「先輩ね、凄いんだよ。演劇部の部長なんだ。この前の文化祭でも劇をやったんだけど、本当の上手で惹きつけられるの」
この学校には、「演劇部」があるのか。入学当時、その単語に反応し、部室をぼんやり眺めていた私の目に飛び込んできたのが先輩だった。完全な一目惚れだった。
先輩の姿を見かければその瞬間、沈んだ気持ちはどこかに吹き飛んでいく。それくらい大きな存在なのだ。挨拶もろくに交わすことのないような、私が勝手に陰から見ているだけの関係性なものの。
「じゃあ告白は?」
「するわけないじゃん。何言ってるのさ」
私は即答した。告白したところで、先輩が困惑するのは目に見えている。先輩は私なんかのことなど知らないからだ。
「やってみないとわからないじゃないの。妹みたいに綺麗におめかしして明るく振る舞ったら、もしかしたらいけるかもよ?」
「冗談で言ってるんだよね?」
私は振り返ろうとして、途中でやめた。代わりに歩く速度を上げた。こののっぺらぼうは何を言っているんだろうか。わけがわからなかった。できるものならとっくの昔にそうしている。
していないのは、つまりそういうことだ。綺麗になること。明るくなること。それがどれだけ難しいことか、私が私の人生を以てして痛感している。そこを、なぜこんなに踏み込まれなくてはいけないのか。
「じゃあ、演劇部に入るのは? 何か接点が見つかるかもよ?」
その瞬間のことだ。私は自分の心臓が、大きく脈打ったのを感じた。次いで、体が冷えていく。時が止まったような感覚を抱く。
そのまま、私は歩いた。無子が何を言ってきても無視して、家まで帰った。その日一日、無子とあまり話さないようにして過ごした。
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