それはこんな顔

星野 ラベンダー

第1話

 放課後、静かに帰る準備をしていると、後ろから声が聞こえてきた。


「当番面倒ー!」

「この後予定あるのにね~。やりたくなーい!」


 賑やかな声を耳にすると同時に、嫌な予感が駆け抜けていった。だが席を立つ間もなく、「小宮さん!」と矛先が向けられた。そっと振り返ると、振り返っている途中で「掃除当番、やっといてよ!」という台詞が続く。


 小さく頷くと、本来掃除当番だったクラスメートは友達とはしゃぎながら教室を出て行った。形だけのお礼すらも言われなかった。


 私はため息を吐きながら、ロッカーから掃除用具を取り出した。箒を片手に床を掃きながら、どうしてこんなことになったのだろう、と考える。考えてすぐ、今更考えるまでもないと思い直す。


 幼稚園の頃から高校一年生の現在に至るまで、私はずっとこうだった。いつも名字ばかりで、名前で呼ばれることがない。恐らくクラスの人達は私が静奈という名前であることを知らないだろう。


 授業で「二人一組になって」と言われたとき、形だけで誘える相手も、誘われる相手もいない。話しかけられることはおろか、挨拶をされることもない。話しかけられるときは大抵こんな風に、面倒事を押しつけられるときだ。そしてその押しつけられた面倒事から庇ってくれるような友人もいない。


 当番を押しつけられることは一度や二度ではなく、その度に頭の中では断る妄想を描いてきた。しかし妄想は妄想でしかなく、現実になることはない。

 現状を変えようと行動するつもりはない。そもそも今の状態を変えようと思っていない。十何年も変わらない日々が続くと、もうそういうものなんだろう、という考えになってくる。昔はもっと、変わることを毎日願っていたのに。


 掃除を終え、道具を片付けていたとき、教室のドアが開いた。


「まだ帰ってなかったのか?」


 先生は驚いたように言った。


「最近この辺りで不審者が出たっていう話もあるからな。暗くなる前に早く帰りなさい」

「はい……」


 さようならと帰りの挨拶を言ったが、小さすぎて聞こえなかったのか、先生は何も言わずにドアを閉めた。私は帰りの支度をすると、学校を出た。


 一人で歩く通学路を進み、家路につく。家の玄関を開けると同時に、廊下の奥から歓声が聞こえてきた。私のただいまという声は、それにかき消された。


「凄いじゃないの、沙彩! また百点満点だなんて!」


 歓声の正体は、母親のものだった。私は足音を殺してリビングまで向かった。少しだけ開いているドアの隙間からリビングを覗くと、ちょうどお母さんが沙彩の頭を撫でているところだった。


「今夜は沙彩の好きなものをたくさん作ってあげるわね!」

「わっ、本当?! やったあ!」

「それととても頑張ってるみたいだから、沙彩にだけ特別に何かプレゼントするわ。何が欲しい?」

「いいの? だったら新しい服が欲しいな! この前可愛いの見つけたの!」

「いいよ。でもプレゼントのことは、お姉ちゃんには内緒ね?」

「うん!」


 もう知ってるよ、と思ったが、もちろん言うことはない。私はリビングに向かったときよりも更に慎重に音を出さないように歩いて廊下を引き返し、家から出た。今日一日の疲れが、一気に露わになっていた。


 燃えるように赤い夕焼け空の下を、静かに進んでいく。どこに向かっているのか、私もよくわかっていない。とぼとぼ歩いているためか、自分の足音を自分で拾うことも難しいほど、靴が鳴らす音は小さかった。


 立っている街灯に、ぱっと明かりが灯る。そろそろ帰る時間だと、暗に告げられたようだった。しかし無言の忠告を無視して、私は街灯の前を通り過ぎる。


 このまま私が帰らなくても、家族は何も心配しないだろう。文武両道で多趣味で器用な、明るく友達の多い妹がいるのだから。沙彩さえいれば、あの家は私がいなくなってもずっと明るいままでいられる。


 家族仲が悪いというわけではない。ただ、ふとした拍子に家族を遠く感じることが多いのだ。

 沙彩のほうが可愛がられることが多いことに関して、私も何も思わないわけではない。私にも同じような扱いをしてほしいと思うこともある。でも、どうせ言ったところで何も変わらないとわかっているので、口にしないのだ。誰だって、暗い性格より明るい性格の子のほうが可愛がりやすいだろう。私自身ですらそう思うのだから。


 そのまま歩いていると、やがて辺りは徐々に暗くなっていった。上を見上げれば、茜色一色だったはずの空が、いつの間にか黒と赤のグラデーションに塗り替えられていた。


 私はすぐ近くにあった児童公園に入った。遊んでいる子供はいなかった。ブランコに近寄り、そっと腰掛ける。きい、と泣くような金属の音が響いた。


 首を上に向けて、暗い空にぽつりと輝く一番星を見つめる。一人ぼっちの煌めきを目にしながら、ふと、私が最後に自分の名前を誰かから呼ばれたのはいつだったろうかと考えた。


 私の名前を他人から呼ばれたのは、もうすっかり遠い過去となっていた。家族でさえ、「お姉ちゃん」としか呼ばない。


 皆忘れているのだろう。誰も私のことなど見えていないのではないか。私の顔がどんな顔なのか、ちゃんと知っている人はいないのではないか。このまま、私がこの世界に生きていることさえ誰からも忘れ去られて、そうして本当に、この存在が消えてしまうのではないだろうか。


 突飛のはずなのに、妙に現実感の伴った妄想が頭をよぎった。目尻が熱くなり、私は俯いた。


 そのときだった。


 微かに、声が聞こえてきた。しゃくり上げるような、とでもいうのだろうか。妙な音だった。

 周りを見回すと、公園の隅の暗がりに紛れて、何かがうずくまっているのが見えた。目を凝らすと、それは人だった。こちらに背を向けた状態でしゃがんでおり、顔をうずめている。丸められた背中は、引きつったように何度も上下していた。


 泣いていると気づいたとき、私は咄嗟にどうしようと考えた。周囲を見回したが、公園には他に誰もおらず、通りを歩く人もいない。この場には、私しかいなかった。


 私はそろそろと、泣いているその人に近づいていった。近くで見てわかったが、どうやらその人は私と同じ年くらいの女の子だった。しかも、同じ学校の制服を着ていた。


「あの……どうしたんですか?」


 喉に突っかかりそうになった声を懸命に振り絞る。が、相手からの反応はなかった。女の子は依然、嗚咽を漏らし続けている。


「な、何かあったの?」


 更に近づいて声をかける。女の子は顔を両手ですっぽり覆っており、何も言わない。私は女の子の肩に手を添えた。


 すると、あれだけ続いていた鳴き声がぴたりと止まった。


 女の子の頭が、ゆっくりとこちらを向いた。


 冷たい風が、大きな音を鳴らしながら駆け抜けていった。女の子の長い髪も、一緒になって靡く。後ろ髪も、前髪も。


 揺れる前髪。その下にある顔には、顔がなかった。


 眉、目、鼻、口。全ての顔のパーツが、存在していなかった。


 私は口を開けた。


「きゃあああああ!!!!!!」

「あっ、ちょっと待って!」

「いやあああああ!!!!!!!!!!」


 背を翻そうとしたら腕を掴まれて、尚更私の口からは裂くような大声が飛び出す。

 体の全てが恐怖を訴えている。逃げることを指示してくる。


 けれども相手は思いのほか強い力で引き止めてきたので、逃げられなかった。


「逃げないでよー、別にとって食おうってわけじゃないから! ただのっぺらぼうの性っていうのかなあ、とにかく人を驚かさないと気が済まないたちなものでして! 許して!」


 あははーと笑いながら、顔のない存在は両手を合わせてきた。口がないのに、口があるはずの部分から流れてくる声を耳にして、背筋の温度が氷点下まで下がる。


 これは一体なんなんだ、何が起こっているんだ。何もわからない。理解などどうでもいいからとにかく逃げたい。全身から冷や汗が吹き出した。


 自らをのっぺらぼうと称した化け物は、「よいしょ」と呑気な調子で立ち上がる。その間も、私の手首はしっかりと掴んでいた。


「実は今晩泊まるところを探しているんだけど、全然人が通りかからなかったら困ってたのよね。というわけで、あなたの家に泊まらせて!」

「嫌に決まってるでしょ!!」

「何よ、けちだなあ! 一泊くらいいいじゃない、ここで知り合ったのも何かの縁なんだし!」

「あなたとなんか縁を結びたくないわ!」


 ぎゅっと手を握られたので、私は気持ちが悪くなった。すっかり涙声になりながら、それでも拒否の感情を露わにすると、のっぺらぼうから「えー!」と怒ったような声が上がった。しかし顔がないので、本当に怒っているかはわからない。


「じゃあ他の人に頼むよ?」

「え?」

「色んな人に話しかけて、泊まらせてって頼むわ! でも私ってこんな姿だからなあ、大体の人から怖がられると思うのよね。そうしたらこの辺り一帯大騒ぎになるだろうなあ。腰を抜かしてばたーんって倒れて気を失って、救急車で運ばれていく人が続出するかも?」

「……」

「皆怖い思いするだろうし、病院の人もいきなり仕事が増えて大変な思いするだろうし、とにかく物凄いことになりそうだよね。でもそうなったら、ここで私を止めなかったあなたの責任になるけど、いいのかなあ?」

「…………絶対に家族に見つからないようにしてね」

「わあい、優しー!」


 のっぺらぼうはその場で何度か飛び跳ねた。ずきずきと頭が痛くなっていた。

 私はどうしてこんな目に遭っているのだろう。原因を考えたが、何もわからなかった。


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