#6 六画、十一画、九画
「誰にも教えるなよ。忘れても意味ないけど」とヨシヒトはぶつぶつ言いながら少し考えて、やがてまた指でわたしの掌に字を書いた。
漢字で三文字。
最初が六画、次が十一画、最後が九画。今まで見かけたことのない名前だけれど、珍妙ということもなく、少し和風な名前だった。頭のなかで何度か繰り返す。きっとヨシヒト以外誰も呼ばないだろう、わたしの名前。
「この名を呼ばれない限り、おまえの魂は何ものにも縛られない」
三日間でいちばん饒舌で、いちばん棘のないヨシヒト。
急に親切になったのが一周回って怪しく思えてきた。彼は本当にヨシヒトなのだろうか。いや駆けつけてすぐブスとか言ってたし、やっぱり本物なんだろうな……。
ヨシヒトの指が離れてなお、ぼうっと掌を見下ろすわたしに、彼は嘆息した。
「……おまえに視えていてもぼくには視えないものもある。そのくらい見鬼に差がある」
「うん」
「でも一人じゃないし、おまえの頭がおかしいわけでもないから」
「……、……うん」
うなずいた瞬間、自分でもびっくりするくらい急に、涙が溢れた。
ヨシヒトがおろっとしたのが判る。「おい」と戸惑いながら両手を肩の高さに上げてなぜかホールドアップ。困るだろうなと申し訳なく思ったけれど、わたしも自在に涙を操れるほど器用じゃない。
やがてヨシヒトは「えぇぇ」と情けない声を上げて、所在なさげだった両手をわたしの肩に置いた。
「あぁ~~~もう……泣くなよ……」
弱り切ったその声がなんだかおかしくて、泣きながら笑った。
◇
「……といった感じだったかな、しぃちゃんとの出逢いっていうと」
高倉さんの淹れてくれた美味しいアイスコーヒーを頂きながら、可愛い弟子二人に乞われて語った話を締めくくる。
指折り数えてもう五年前の話だ。
あれからわたしとしぃちゃんはなんとなくメールをする仲になった。多分響さんとか史郎くんにせっつかれて送ってきたんだろう嫌々な文面だったけれど、必ず三人(あるいは高倉さんも含めた四人)で撮った写真も添えて。
けれどその年の秋の終わり、響さんが失踪してしまった。
わたしがそのことを知ったのは年明けだ。ちょうどしぃちゃんからの音沙汰がなくなって心配していたところに、史郎くんから葉書が届いたのだった。
……とまあ、お師匠さんに係わる話はまたいつか二人にも話すとして。
最初は若かりし頃のしぃちゃんの尖りっぷりに面白そうな顔をしていた秋津くんが、三度目の「ブス」あたりで眉間に皺を寄せ始めていた。
巽くんは始終「へぇ~」「ほぉ~」と相槌を打っていたけれど、秋津くんはもう黙ってしまっている。あらあらまあまあと秋津くんの珍しい不機嫌顔を観察していると、お屋敷の玄関の扉が開閉した。
ぱた、ぱた、とスリッパの足音が近付いてくる。しぃちゃんだ。
玄関の靴を見てわたしたちの訪問には気付いているだろう。しぃちゃんは真っ直ぐに書斎にやってきた。大学帰りなので、初めて出逢った頃みたいなきれいめのお洋服姿。
「三人揃って暇してるね」
「師匠。おかえりなさい。ちょっとそこに正座してください」
秋津くんはとても礼儀正しい男の子だ。帰宅した屋敷の主を出迎える挨拶だけちゃんとすると、彼は絨毯を指さした。
何やら尋常じゃなく剣呑な声に、しぃちゃんが無言でわたしを見る。
──なに怒ってんの、この子?
──さぁ……。
「師匠」
「はい」
なんかとんでもない迫力を感じたらしく、しぃちゃんはまるで高倉さんのマジ激怒説教三秒前みたいな神妙さで正座する。圧倒されちゃってるよ珍しい。ちょっと面白いな。
そして秋津くんもなぜかしぃちゃんの正面に正座した。礼儀正しい彼のことなので、師匠を見下ろすなんて……とか思ったんだろう。律義で可愛い。
「師匠、俺はさっき姉御に、お二人が出逢ったときの京都の話を窺いました」
「は? あぁ……そう」
「見損ないましたよ師匠」
しぃちゃんがギクリと目を逸らす。秋津くんに何を責められているか解ったからだろう。
わたしもなんとなく悟った。
この人もまぁ高校生の頃は本当にやけっぱちで投げやりで、どうせすぐ死ぬんだから無駄に足掻いたってしょーがない、みたいな厭世的なところがあった。喫煙してみたり飲酒してみたり、自分の体をぞんざいに扱うところから一周回って他人への攻撃的な言動になった時期もある。
わたしと彼が京都で出逢ったのはちょうどそのタイミングだった。
「初めて会った女の子にあろうことか『ブス』って最低ですよ」
「…………悪かったと思ってるよ」
あら、殊勝。
「いいですか師匠、女の子に『ブス』なんて言っちゃだめです。いや女の子だからとか関係ない、ある程度自分で育てられるとはいっても基本的に持って生まれる人の外見を貶める発言はいけません。どうせ思ってもいなかったくせになんでそんなこと言っちゃったんですか。そりゃバカとかアホとかも駄目だけど。ていうかなんで初対面の相手を罵るかな!? そこからだよ!」
「…………」
しぃちゃんは目を閉じてすんっと真顔になった。面白すぎる。
この人も、自分の高校生頃の言動については、実は盛大に反省していたりするのだ。ゆえに秋津くんに何も言い返せない。
「師匠は姉御のことどう思ってるの!? はい素直に!」
「…………初恋こじらせ女」
正直者が莫迦を見ている。案の定秋津くんは「違うでしょぉがっ」と声を荒げた。自業自得だ。
巽くんは「初恋?」と首を傾げたので、そっとほほ笑んでおいた。弟子たちにはまだ内緒。
「まあ慥かに、その初対面でよく仲良くなったっすね」
「うーん……そうだね」
本当はね、わたし、しぃちゃんの「ブス」という言葉に安心したのよ。
わたしは鏡に映る自分の顔が可愛いだとかきれいだとか思ったことは一度もなくて、けれど周囲の人からは可愛いだとかきれいだとか言われるものだから、どうやら周りの人にはそういう風に見えているらしい、って無理やり納得している。
この認知の食い違いが見鬼によるものなのかそれとも別の病気なのか、わたしには解らない。わたしがおかしいのか、周りがおかしいのか。だけれどしぃちゃんはわたしの顔を褒めたことは一度もないから、安心して一緒にいることができるのだ。
説明するのも面倒な話だし、秋津くんや巽くんはわたしのこの顔が好きらしいので嫌な気持ちにさせるかなと思ってお茶を濁す。すると巽くんはぶすっと唇を尖らせた。
「姉御すぐ説明めんどくさがる」
巽くんてよく人のこと見てるんだよなぁ……。お見通しか。ハイハイごめんねと、ふわふわの金髪頭を撫でくり回した。
その間、秋津くんの懇々とした説教を神妙な様子で聞いていたしぃちゃんが、いよいよ困りきった顔で「勘弁してくれない」とぼやいた。
「人間の顔の美醜に興味ないんだよ。ひなはひなだろ」
「じゃあ尚更なんでブスなんて言ったの!! 師匠のばかっ!」
「ねぇもう着替えてきていい? あ~~脚が痺れたナァ、ひな手ぇ貸しな」
「逃げるなーっ!」
十分も正座していないのに痺れるようなやわな脚はしていなかろうに。こちらにもハイハイと返事をして手を差し出すと、しぃちゃんはわたしの手首をぎゅっと掴んで勢いよく書斎を飛び出した。
秋津くんもさすがに書斎を出てまで追いかけてくることはなかった。
しぃちゃんはわざとらしい溜め息をつきながらわたしの肩に腕をかける。まるで肘置き。
「参った。五年前の発言を今になって叱られるとは」
「ちゃんと教えてあげればよかったね」
「ハ?」
「あのときの『ブス』は『泣きそうな顔するな』って意味だったんだよって」
「……調子乗るなバァカ」
顔を顰めたしぃちゃんの手がわたしの背中をトンと押した。
もう彼の体温はすっかり馴染んでいる。
たそがれ重畳奇譚こぼれ噺 天乃律 @amanokango
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