#5 もしかして今、笑ったのかな
「お、すごい。京都って感じの街並みだ」
四条通りを一本逸れると、ショッピング街とは打って変わって静かで古びた町並みが広がっていた。飲食店やお土産屋はあって、観光客もぽつぽつ歩いているけれど、喧騒が遠くてほっとする。知らないうちに呼吸が浅くなっていたみたいだ。ゆっくりと深呼吸をした。
まれほは古都らしい景色が気に入ったようで、携帯のカメラを構えている。木造の橋の近くで写真を撮ろうとしていた老夫婦と何かを喋って、流れるように夫婦のカメラを預かり、二人の写真を撮ってあげていた。まれほだって実際のところわたしに負けず劣らず人嫌いを拗らせているのだが、こうしてちゃんと真人間に擬態できるところは本当にすごいなと思う。
「ひな、こっちおいで。写真撮ってくれるってさ!」
毒のない笑顔でこちらを手招くまれほに近付いていく。「おまえとツーショット撮ったら心霊写真になんのかな」「残念なお知らせです。わたしは心霊写真を撮れたことはありません」ちえっとつまらなそうに唇を尖らせる様子は子どもっぽくて可愛い。
下調べの足りないわたしたちには判らないが、背後にあるのは祇園で有名な橋らしい。まれほが頭を寄せてきたので、わたしも彼女に寄りかかった。
まれほってすごいな。
わたしのこと、気味が悪いとか思わないんだろうか。
微笑ましそうな表情で二枚ほど写真を撮ってくれた夫婦にお礼を言って別れる。「あとでメールで送るな」とまれほが見せてくれた携帯電話には、自然な笑顔でわたしの肩を抱くまれほと、不細工な笑顔の女がひとり。
そして、
橋の向こうの建物の影から顔を覗かせる泥団子の達磨。
「…………!」
「ひなた」
黒板を爪で引っ掻いたような声がわたしを呼んだ。橋の向こう。風情ある木造の建物の影から顔を覗かせる。子どもが出鱈目に捏ねた泥団子みたいな。にやにやした顔。──呼ばれた。
呼ばれた。
世界が引っくり返った。
リバーシブルの巾着袋を翻したときみたい。
気付けば東雲色の空には月と太陽が同時に浮かんでいる。夏の只中の京都は地形も相俟って暴力的に暑かったはずなのに、辺りはしんと冷えきっていた。まれほがいない。さっき別れたばかりの老夫婦の背中もない。まばらにいたはずの観光客は全て消え失せていた。お香のような匂い。上下左右に雪の壁が聳え立つような──強烈な孤独感。
「ひぃなぁた」
あいつが近付いてくる。
よく見たら体は崩れかけていた。ぼろぼろと、まるで水に濡れた泥が削げ落ちるみたいに、地面に黒い滓を落としながらゆっくりと歩いてくる。
「……、……ぁ」
はぁっ、と息を吸った。逃げるべきだ。──どこへ?
以前にもこうやって執拗なものに追われたことがあった。あのときわたしの傍には、自分がなんで死んだのかもどうすれば成仏できるのかも解らないという暇を持て余した幽霊がいて、彼がガラの悪い怒声を上げながら蹴って追い払ってくれた。でももう彼はいない。どこにもいない。泣いても叫んでも名前を呼んでももう来てくれないのだ。一人でなんとかしなくちゃいけない。
ひとりで。
──じゃあな、人嫌い。
針で縫い付けられたみたいに動かなかった足を、無理やりずらす。
しずか、と口のなかでつぶやいた。「しずか」──どうしようもなくなったら呼べよ。「しずか」全然平気じゃねぇだろうが。
崩れかけた達磨が地面に転んで這い蹲った。にやけた笑みを浮かべた顔が、にやけたままこちらを見上げる。そのまますごい勢いで虫のように地面を這いわたしの脚に取り縋った。
「しず……」
「ひなたぁぁ」
平気なんかじゃない。
いつだって怖い。
でも誰も助けてくれない、同じものなんて視えないのに、平気じゃないって言ったってどうしようもない!!
──ボケッとしてんじゃねぇ、ブス!
「しずか、助けて……!」
「遅いっ!!」
ぐっと強い力で手首を掴んでその場から引き剥がされた。振り回されるように彼の背に下がらされる。
ヨシヒトは崩れかけの達磨を思いっきり蹴っ飛ばすと、わたしを振り返ってもう一度「遅い!!」と怒鳴った。息が上がって、頬や首筋に汗をかいている。「どうしようもなくなったら呼べっつったろーがブスッ」とまた人をブス呼ばわりして、ぜーはーいいながら項垂れた。この人は……罵倒の語彙がブスしかないの?
「いいか!! おまえは視えすぎだし聞こえすぎだが、ワケのわからん強力な守護がかかってる。おかげで今までも大事なく過ごしてきたはずだ。年数で弱まってんのと京都の土地柄で若干負け気味だけど、力としてはおまえのほうが強い!!」
「守護? 力?」
「この辺り一帯まとめて浄化しろ!」
「じょ……浄化って」
ヒーローよろしく駆けつけたわりに遅いとかブスとか。挙句の果てに浄化しろだなんて、無茶苦茶もいいところだ。
けれど、強力な守護、というものに心当たりがあった。
いや守護をかけられた覚えがあるわけではない。ただわたしの十五年間の出逢いにおいて最も不思議で神聖な存在。
九年前の八月三日に出逢った、あおあらし様だ。
あの、青緑の美しい光。
穏やかな湖面のような、透きとおる蒼穹のような、とっておきの宝石のような光。
──を、脳裡に思い描いた瞬間、わたしの足元から音もなく波紋が広がった。世界を波打たせながら同心円状に広がってゆく波紋は青緑に輝いて、空気を清浄に変えてゆく。
ヨシヒトに蹴っ飛ばされて地面で藻掻いていた達磨も。
光に触れて、呆れるほどあっけなく空気に融けて消えた。
「昨日、出町柳で別れたあと、姉さんがおまえたちに妙な気配が憑いてるって言ったんだ。直接はくっついてないけど遠くから見張ってるって。で、史郎が女子二人で心配だって言うから、今日は四条で張ってたんだよ」
ヨシヒトはわたしの手首をゆるく掴んで歩きだした。
東雲色の空に月と太陽が浮かぶ、裏祇園の通り。きんと張り詰めた静寂のなか、ヨシヒトの声だけが響く。
もう、ヨシヒトの体温を嫌だとは思わなかった。
いい加減慣れちゃったのかもしれない。
「おまえ、名前呼ばれて反応したろ。だから彼岸に連れ込まれたんだよ」
「名前……」
「あっちの女はおまえのこと『ひな』って呼んでた。多分、鞍馬でぼくらに名乗ったところを見られてたんだ。姉さんもおまえの名前を呼んじゃったしな。ぼくらみたいな見鬼の聲は普通の人間と響きが違って、彼岸のもの共にも聞こえやすいんだ」
「この世で一番短い呪は『名』……っていう、ああいうこと?」
「『陰陽師』読むのか」
「読んだ。面白かった。だから清明神社にも行ってみたかったんだけど、日程的に無理だったの。残念」
少し振り返ったヨシヒトが、ふ、と口元を綻ばせた。「また来ればいい」と零す。
もしかして今、笑ったのかな。
「手、貸して」
「うん?」
「『湊ひなた』の名前以外に、ちゃんと何か持ったほうがいい。『ひなた』は人間用の名前として、連中に縛られないようもう一つの名前をつくる。存在自体を定義するような」
「ヨシヒトのしずかみたいな?」
「ヨシヒトは普通に偽名でしずかは本名。漢字はこう」
普通に偽名っていうのがまたよくわかんないなぁ。彼は「貸して」と言いながら取っていたわたしの掌に、白く長い指で漢字を書いた。
門構えに木。──閑。
「名前にこの漢字って、珍しいね。男の子でしずかっていうのもあんまり聞かないけど」
「家庭的に色々と作法があるんだと。あと他にもいくつかあるけど、まあどうでもいい。それよりおまえの名前。勝手につけるよ」
「ヨシヒトがつけるの?」
「お守りと一緒。誰かからもらったほうが強い」
わたしは昨日の貴船神社を思い出した。まれほが言っていた、お守りは人からもらうと効果がいいらしい、っていう話。加護に加えて相手からの願いが籠もっているそうだ。いかにも日本人の好きそうな説だなと昨日は流したけれど。
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