#4 なんにも視えないくせに

 閉めて、と叫びそうになる口を手で覆う。まれほには何も視えていない。窓の向こうに広がる京都の市街地と沈みゆく夕陽に見惚れている。そのまれほの顔の高さでにやにやと笑う泥団子は、ゆっくりと体を外側に傾けると、反動を利用して窓に頭を叩きつけた。

 ごん。

 ごん、ごん。

 ごん。

 ごん、ごん。

 メトロノームみたいに決まったリズムで叩きつけられる、それは、ノックだった。部屋に入ってこようとしている。気付いた瞬間、どっと心臓が跳ねる。


「先にシャワー浴びていい?」

「うん……、いいよ。どうぞ」


 まれほが着替えを持ってバスルームに籠もったのを幸い、わたしは窓際に駆け寄ってカーテンを閉めた。ノックの音は止まない。ごん。ごん、ごん。ごん。ごん、ごん……。

 ベッドの上に放置したカバンのなかの携帯電話を思った。

 ……ヨシヒト。なんかあったら連絡しろって言った。

 でも本当に連絡していいの?

 出逢って二日。しかも昼間に、視えているけど平気、なんて大見得きったばっかり。偉そうなこと言っといてこのざまかよ、なんて莫迦にしてくるヨシヒトが想像できてしまった。言いそう、あの人。すぐ悪態つくし。腹立ってきた。


「……平気、こんなの」


 人間なんかよりよっぽど怖くない。

 部屋に入れなければいい。窓の外からノックしているだけなら怖くない。問答無用で部屋には入って来られないから開けて開けてとしているのだ、所詮その程度の小物なのだ。


 ごん。

 ごん、ごん。


 ノックは続いた。一応まれほに「ノックがあっても出ないでね」と言い置いて、「なんかあったのか?」と怪訝な顔をする彼女に苦笑してシャワーを浴びたあとも。

 疲れてしまってベッドに寝転び、他愛無い話をしているあいだも。

 歯磨きをして、部屋の電気を消して、隣のベッドから寝息が聞こえてきても。


 ごん。

 ごん、ごん。


 わたしは携帯電話をお守りみたいに握りしめていた。

 ノックがうるさくて眠れやしない。

 部屋には入って来られないとわかっていても不安だった。このまま朝まで窓の外にいたらどうしよう。明日には京都旅行も終わりだ。地元までついてくるのか? こんなにしつこいなんて。


 布団を頭までかぶった瞬間、どん!! と尋常じゃない音が鳴った。

 部屋ごと揺れた。地震のような衝撃だ。

 悲鳴を上げて飛び起きたけれど、隣のまれほは静かに眠っている。


 二度目の衝撃。

 地震なんかじゃない。あいつだ。窓を突き破る勢いで体当たりしているかのような音だった。

 携帯を開く。電話帳から交換したばっかりの『古瀬義人』を呼び出す。その間に三度目の衝撃。ああでも、ここで電話して何になるっていうんだろう。あの三人は大阪に住んでいる。こんな夜中じゃ電車もない。電話したところで助けに来てくれるわけでもあるまいし。

 わたしは苛立ち紛れに携帯を閉じて、枕に向かって投げた。

 四度目の衝撃。窓がびりびりと震えている。


「うるさい……!」


 五度目。うるさい。本当にうるさい、何もかも。


「──どっか行ってよ!!」


 わたしの絶叫に弾かれたように、全ての音が掻き消えた。


 窓の外の気配も失せたように思う。


 心臓は痛いほど走っていて、手足の指先がびりびり痺れていた。荒い呼吸を落ち着かせようと深呼吸していると、寝ていたはずのまれほが「ひな?」と声を上げる。


「どした、でかい声出して。なんかあったか」

「…………起こしてごめん」

「いいけど。やっぱ何か視えてんの? こっちおいで」


 体を起こしたまれほがわたしの手を引いた。

 わたしはほとんど泣きながらまれほの隣で横になる。彼女は両腕でぎゅっとわたしの頭を抱え込み、大丈夫、と囁いた。何が大丈夫なものか。……なんにも視えないくせに。

 自分には視えない何かがわたしに視えていると解ったうえで、なんの根拠もなく大丈夫と囁きながら守ろうとしてくれる、まれほの愚直な優しさが痛かった。




 三日目は四条通りでお土産を買いつつ八坂神社に行き、また四条通りを戻って京都駅から帰路につく。親切にもホテル側が荷物の預かりを申し出てくれたのでそれに甘えて、わたしたちは身軽な状態で町に出た。

 昨晩、弾き飛ばしたあの達磨は、朝になっても戻ってきていなかった。

 果たして追い払うことができたのか、一時的なものなのか。やっぱりヨシヒトや響さんに相談したほうがいいのかと悩みながらも、明るい町に出てみるとたいした問題じゃないような気になってしまって、わたしは携帯をカバンの奥底に沈めた。


 夏休み真っ盛りの四条通りは観光客で溢れかえっている。

 わかっていたつもりだけれど、あまりの人間の多さに酔ってしまいそうだった。特に土産物の店内に入ると人口密度が跳ね上がる。人間の話し声や体温や人いきれは苦手。人間じゃないもののほうがまだ無口で体温も低いからましだ。


「ひな、手。はぐれたら困る」

「うん……」


 ここは本当にはぐれてしまいそうだ。力なくまれほの手を掴んだわたしに、彼女は「大丈夫かぁ?」と眉を顰める。


「人酔いするだろ。具合悪くなったらすぐ言えよ」

「平気……。ちょっとは人混みを歩く練習、しないとね」

「引きこもり様にいきなり京都はちょっとハードル高かったんじゃねぇの」


 からりと笑うまれほにわたしも笑みをつくって返した。まあ慥かに、いきなり夏休みの京都は荒療治が過ぎたかも。

 気になるお土産屋さんがあれば入って、家族や友人へのお土産を見繕ったり、お団子を買って並んで食べたりした。外に立ってものを食べるという経験が初めてだったわたしを、まれほは「とんだお嬢さまだなぁ」と面白そうに笑っていた。別に育ちは普通なんだけど。

 それからちりめん雑貨のお店でお揃いのアクセサリーを買い、まれほの携帯でたくさん写真を撮って。

 八坂神社をゆっくりと巡ったあと、四条通りの北側を通る。あとはもう帰るだけだから、ちゃんとお土産を買いながら行かないといけない。


 適当に大きそうなお店で王道の生八つ橋を買ったあと、わたしはふと、ビルとビルの間に伸びる細い小路が気になって足を止めた。


「ひな? どうかした?」

「ううん、なんでもない」

「おまえはそればっかだな。あっち行ってみるか? 人が少なくて歩きやすそうだもんな」


 何気ないまれほの言葉が胸に刺さった。「あなた、なんでもないって、そればっかり。ちゃんと言わないと誰も解らないわよ」。似たようなことを過去何度も言われてきた。親とか先生とか周りの大人とか。

 でも、だって、意味もなくこの小路が気になるなんて言ってどうする。

 まれほとわたしに視えている世界は違う。どれほど気の合う相手でも、これだけは共有できない。わたしはわたし以外の全ての人間に対して、「言ったところでどうにもならない」という失望を前提に接していた。

 まれほは悪くない。

 わたしの頭がおかしいだけだ。

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