クラーバへの手紙 【一話完結】

大枝 岳志

クラーバへの手紙

 南米の小さな国の農村でクラーバはこの世に生を受けた。藁とレンガで造られた貧しい家で育ったクラーバであったが、珈琲栽培を主な産業とする農村自体が貧しく、もっとも、国そのものが大変貧しい環境であった。


 学校へは行かず、というよりも行けず、クラーバは農作業の合間に仲間達と裸足で蹴り合うサッカーに夢中になった。

 誰もが裸足で蹴り上げるボロボロのサッカーボール一個が、村の子供達の唯一の宝物だった。

 ある日、畑の中へサッカーボールが入ってしまい、クラーバの幼馴染のアルダが自分の背丈よりも高い草を掻き分け、ボロボロのボールを拾って赤土のコートへ戻って来た。


「あと少しでフェルナンドの畑に入る所だったけど、セーフだった! 危なかったよ」


フェルナンドというのは村一番の嫌われ者で、また、子供嫌いで有名な男だった。

 サッカーボールを手に駆け出すアルダに微笑みを向けたクラーバだったが、その数秒後に心が千切れそうな勢いで、無我夢中になって叫んでいた。


「アルダ! 伏せろ!」


 その声に立ち止まってしまったアルダは、背中から撃たれ、その場に倒れた。僅か十年の短い生涯を終えた亡骸の背後の草むらから、武装した民兵の集団が姿を現した。

 村は焼き払われ、全てが奪い尽くされた。

 大人達は皆一列に並ばされると、後ろ手を縛られ、銃撃の音と共にこの世を去っていった。 

 子供達は民兵に捕まり、身体を縛られてトラックへ乗せられ、何処かへ運ばれて行った。

 たった一人、ドラム缶の影に身を潜めていたクラーバだけが助かったものの、民兵が自分の家を焼き払うのを目にした瞬間、恐怖の為に逃げ出した。


 村はその後、麻薬の生産地になったと逃げ出した先のレジスタンスの連中から教わった。

 彼等はクラーバと同じように村を追われた者が大半を占め、皮肉なことに民兵に対する武装資金を集める為に「ハシシ」の生産を生業としていた。


 若干十二歳だったクラーバは毎晩のように泣いて過ごしていたが、リーダーに鼓舞されるうちに武器を手に取るようになり、やがて復讐の為に泣くのを止めた。

 その一年後、勢力を増大させたレジスタンスと民兵の間で大きな闘いが起きた。

 双方に多数の死者が出たものの、決死の覚悟で闘っていたレジスタンスはかろうじて勝利を収めた。

 勝利の後、民兵が支配していた地域をレジスタンスが治めることとなり、麻薬の生産もそのままレジスタンスに引き継がれた。


 クラーバは何もかもに嫌気がさしてしまい、十三歳になるとキリスト教会系の保護施設に身を寄せることにした。

 そこでの集団生活は驚くほど生温く、誰も殺し合ったり奪い合ったりしていないことにクラーバは軽くショックを受けていた。

 次第に環境に慣れてくると、クラーバは大好きだったサッカーに再び夢中になった。


 さらに数年が経った頃、クラーバはヨーロッパの少年クラブチームに所属することとなった。  

 利権と殺し合いばかりの貧しい国から世界へ飛び出すと、彼は様々な文化がこの世界に存在することを知った。

 休日の日にチームメイトに誘われ、喫茶店へ行くことになった。

 差し出された一杯の珈琲の香りを嗅いだ瞬間、クラーバは堪らず咳を立つと、店主に尋ねた。


「失礼ですが、この珈琲豆は何処の豆ですか?」

「お、少年。君に豆の違いが分かるとでも?」


 褐色の肌の餓鬼に、珈琲の味が分かるものか。

 そんな風に鼻で笑いながら挑発気味に尋ね返した主人であったが、クラーバが見事に産地名を言い当てたことで態度を変えた。


「君は、なんで知っているんだ? 正規のルートでは入って来ないんだぞ。まず、出回ることがない」

「それよりも、この豆が入って来たのはいつなんです?」

「先週の仕入れだが……それが、何か?」

「だって……この豆はもう、存在しないはずなんです。どうして?」

「君が何処まで知っているのかは分かりかねるが、この豆は今日もその地で栽培され続けているよ。もう、いいかな?」

「分かりました。ありがとうございました」


 腰が抜けたように椅子に座り直し、青ざめた顔になったクラーバにチームメイト達はひやかしの声を掛け続けていた。しかし、クラーバの耳にはどんな言葉も届いてはいなかった。

 二週間の休暇を取り、クラーバは生まれ故郷へ帰った。焼き尽くされ、殺された住人達の血が赤土に染み込んだ呪われた地だ。今はもう、誰も近寄りはしないだろう。

 そう思いながら山道を抜け、村のあった場所が見えた瞬間にクラーバは駆け出していた。


 村には新しい家がいくつも建っていて、農業が行われていた。それはかつての悪き名産であった麻薬ではなく、元々この地で栽培されていた珈琲豆であった。

 クラーバが村の入口に近付くと、彼を見た村の人達は一斉に作業する手を止め、彼を歓迎した。

 村の住人達の大半がトラックに乗せられ、散り散りになったクラーバの仲間達だったのだ。

 一度は完全に死んだはずの村だったが、海外の協力隊の力を借りて見事に再生を果たしていた。


 それからクラーバがヨーロッパに戻ることはなかった。多くの歓声に包まれてプレイするコートよりも、血肉にさえ記憶が刻まれた仲間達とプレイする赤土の上こそが、彼にとって最高のグラウンドだったのだ。


 クラーバはそのまま村に住み続け、その発展に多くの功績を残していった。二十五歳になる頃に結婚し、その後一人息子に恵まれた。

 アルダと名付けられた息子はすくすくと育ち、やがてはクラーバと同じように仲間達とサッカーに夢中になり、家の手伝いもよくこなす素直な子供に成長して行った。

 時を経てアルダが大人になった頃、珈琲の世界にも変革が訪れるようになっていた。


 希少種よりも低品質で大量栽培が可能な種がメインとなり、クラーバ達が命懸けで守って来た品種は年々数を減らしていた。

 クラーバの代わりにアルダが村の長になった頃、村にもその影響が目に見えて押し寄せるようになっていた。

 作業着ではなくスーツに身を包んだアルダは、朝から晩まで忙しなくビジネスのやり取りを繰り返していた。


「父さん、この地の大半を新品種に変えようと思うんだ。その方が村もより、安定する」

「誰が作っても同じような珈琲豆を、おまえは作る気なのか?」

「時代の流れだよ。今は世界のみんなが珈琲を求めてる。希少種だけじゃまともにやっていけないんだ」

「知ったことか。俺達がどんな想いであの木を守り続けて来たと思ってるんだ!」

「父さん」

「なんだ?」

「あまり言いたくはないけど、あとは父さんだけなんだ。だから、どうか首を縦に振って欲しい」

「…………」


 時代の移り変わりに、クラーバは息子の前で大きな溜息を吐いた。吐いても吐いても、溜息は出続けていた。

 結局の所、良しとも悪いとも答えが出ぬまま、時間がだけが過ぎて行き、村の珈琲豆の品種は大量栽培が可能なものに取って代わって行った。


 アルダが新品種をメインにした若者向けの珈琲ショップを郊外にオープンさせると、たちまち人気が鰻上りになり、その影響で村も発展していった。

 かつて赤土だったサッカーコートは人工芝の立派なものへと変わり、レンガと藁で造られた貧相な家は片っ端から壊され、鉄筋コンクリート造りの新しい建物に取って代わった。

 人の手よりも機械での作業が増えた為、村人達は車に乗って村の外へ遊びに出るようになった。

 クラーバはアルダの言うことを聞こうとせず、日陰の多い古びた生家のリビングの椅子に腰を下ろし、埃まみれの窓から村が移り変わる様子を日々、ぼんやりと眺めていた。


 余命宣告をされても、クラーバはその身を病院へ預けようとはしなかった。

 どうせ死ぬなら、生まれ育った場所で、仲間達を感じながら死にたいと願った。

 一人息子のアルダは村のことよりもビジネスに忙しいようで、村に帰って来るのは最早稀な出来事になっていた。

 クラーバは昔のようにグラウンドを駆け回ることは不可能だが、薬のおかげもあって歩き回ることは出来た。

 しかし、村の何処を歩き回ってももう、村人達が命懸けで育てていたあの希少種に出会うことはなかった。


 いよいよ命の灯火が終わりを迎えようとしていたある日、一通の小包がクラーバ宛に届いた。

 送り主は一人息子のアルダからで、発送元の住所を見ると、なんと地球の反対側だった。

 忙しいのにもほどがあるぞ。そんな言葉をブツブツ漏らしながら小包を開けた瞬間、クラーバは息を呑んだ。

 もう出会うことはないであろうと思っていた豆の香りが、部屋中に一気に広がっていったのだ。

 瓶詰された珈琲豆を、クラーバはとても少ない窓明かりに照らしてみた。

 色も形もあの日のままの珈琲豆が、瓶の中でしっかりとそのあるべき姿をクラーバに伝えていたのだ。


 クラーバは体力の限りを尽くして、珈琲豆を己の手で挽き、間違いようのない懐かしい香りを感じながら、震える手でドリップをする。

 いつものように薄暗いリビングの椅子に腰を下ろし、使い古いしたカップに一杯を注いで鼻に近づけてみる。

 すると、遠い記憶となっていた赤土の匂いまでもが鮮明に思い出され、クラーバはカップを置き、自然と流れ出ていた涙を両手で拭った。

 飲まなくてもそれが本物だと分かったクラーバは、どんなマジックを使ったのか尋ねる為に息子に電話を掛け始めた。


 その数分後、二人は数年ぶりに笑い声を交えながらの会話を愉しんでいた。

 珈琲はとっくに冷めてしまっていたが、クラーバはいつかサッカーボールを追いかけていた時のように夢中になり、一人息子と話し続けていた。

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