兄の髪を梳く
悠井すみれ
第1話
坊主にしてやれ、という父の怒鳴り声を背に、彼は屋敷を後にした。家長の権を振りかざして息子の私信を平然と見る横暴に、心中で悪態を吐きながら。
異母兄からの手紙を机の上に放っておいた彼にも、非はあるのだろうが。
今回は特に、文面がよろしくなかった。あの兄のことだから金の無心はいつものことだが、便りがないなら髪を切って売るしかない、などと。いくら妾腹であっても、仮にも爵位を持つ家の子息が売文で辛うじて
芸者だったという産みの母に似たのかどうか、兄の髪は黒々として豊かで艶やかで、まさに
彼の革靴は、貧乏長屋の土間には不釣り合いだった。洋装で擦り切れた畳を踏むのも、どこか落ち着かない。それでも、蛇のように畳にのたうつ豊かな黒髪の房を認めると、彼の躊躇いは吹き飛んだ。広い洋館に慣れた──長屋では頼りない健在を軋ませる足音に驚いたのか、黒く艶やかな蛇──兄の長く伸ばした髪──がするすると動く。その先で、けだるげな眼差しの兄が、着流し姿で身体を起こしたところだった。
布団も敷かずに寝ていたのは体力を消耗しないためか。まさしく冬眠する蛇のようだ。困窮していたのは事実なのか、どれだけ食べていないのか、色のない唇が微かに笑う。
「──遅かったな。
「人はそう簡単に飢え死にしないでしょう」
まして、手紙ひとつで呼び出せる相手がいるのだから。兄の、白い頬を彩り肩から滑り、軽く立てた膝に届く絹のような漆黒の髪──それが失われると考えただけで、彼が居ても立っても居られなくなるのを知っているのだろうに。
また伸びるとかいう話ではない、誰とも知れぬ女がこの髪を
本当に切っていなくて良かった。よくもつまらない虚言で呼び出してくれたな。安堵と怒りが入り混じった目で睨むのをものともせず、兄は彼が屋敷から持参した握り飯にかぶりついている。
「竹さんの塩加減は旨いね、やっぱり」
「帰って来ればいつでも食えますが」
彼らの幼いころから仕える女中は、握り飯をむすびながら兄の暮らしぶりを案じていた。家柄に相応しいまともな格好をして欲しい。家に戻って、腹違いの弟を支えて欲しい。竹の老いて弱った目が訴え、父が内心で望むことは明らかだが──
「そして兄弟で骨肉の争いか。世間に良い噂の種を提供してやることになる」
唇についた米粒を摘まんで舐め取りながら、兄は笑う。だからご免だ、と。いつもの、いかにももっともらしい口実に、彼は小さく息を吐いた。兄の髪のひと房を、指先に取る。
「……櫛はどこにやりましたか。こんなぼさぼさで売れるとでも?」
「それは、
戯言には構わず
彼が目で促すと、兄は大人しく背を向けて胡坐をかいた。金と握り飯の代価は承知している、と言わんばかりに。
寝乱れてはいても、兄の髪は手櫛を通らせるとすぐに数段も輝きを取り戻していく。指の間を流れる絹糸の滑らかさを感じると、彼の心臓は跳ねる。昔から、彼はこの感覚が好きだった。兄が屋敷を出たのは、思えば、飽かずに兄の髪を弄ぶところを母に見られたのが理由のような。でも、華族らしい暮らしをしていたなら、兄はこれほど髪を伸ばせないし、彼がみずから櫛を取るなど思いもよらない。
ならばこれはこれで良いのか、兄はどう思っているのか。背中越しに見えるのは細い
「──できました。あまり見苦しい格好はしないでくださいよ」
仕上げに、これまた有象無象に埋もれていた紐で髪を括ってやると、兄は寒そうに首を竦めた。
「じゃあ、ばっさり切ってしまおうか」
からかうような笑顔で、兄は
狭い部屋を多少なりとも片付けると、彼は立ち上がった。何かしらの書きかけの現行の上に、金を入れた封筒を乗せるのは忘れない。
「……また、様子を見に来ます」
「ああ。父上によろしく」
母は何も言っていないようだから、父は一応は兄のことを心配しているらしい。なんだかんだで、とてもまともな人なのだ。
金を置いて、髪に触れて、そして帰る。この、兄との関係は、父が兄の母を囲ったのとよく似ているのかもしれなかった。
兄の髪を梳く 悠井すみれ @Veilchen
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