九十九人の殉葬者

灰ノ木朱風@「あやかし甘露絵巻」発売中!

九十九人の殉葬者

 彼女はまさしく一本のつるぎだった。


 夕暮れの草原にまっすぐ長い影を落とすその立ち姿は、辺りすべてが残陽に染まる中でひとり異彩を放っていた。

 見る者を圧倒する武人のオーラ。鋭く険しいエメラルドアイ。高く結われた白銀の髪は老いてなお美しくすらあり、目尻や頬に刻まれた深い皺が、その表情に凄みを加えていた。

 この研ぎ澄まされた刃物のような人が、とうに老齢に差し掛かるらしいとどうして信じられるだろう。


 彼女こそが、最強と名高い孤高の女剣士――剣姫けんき・ラウラ。


「け、剣姫ラウラ!」


 ダメだ、気迫で負けてはいけない。

 私はあらん限りの声と勇気を振り絞った。両足に力を込めて、剣姫ラウラの前に立ち塞がる。


「わが名はネフェニー! あなたのお腰に差したその黒い剣! 私によこしやがれください!」

「新手の自殺志願者かい」

「はい! ……いや違いますけど! と、とにかくもらい受けますからっ!」


 先手必勝。

 私はすかさず地を蹴った。上体を低く落とし、彼女の腰めがけて全力タックルを仕掛け――


「ぁべっ!」


 ――避けられた。

 広げた両腕は空を掴み、勢いあまった私は地面と熱烈なキスをする羽目になる。


「あんた、剣士じゃないね。それどころかろくに戦いの経験もない。シロートのお嬢さんが物盗りの真似ごととは物騒だね」


 剣姫はブーツの爪先で倒れ伏す私の黒髪を小突いた。

 革鎧と剣で武装してはいるけれど、やはり見る人が見ればわかってしまうのだろう。私は武人じゃないって。


「剣……くだしゃい……」

「くださいと言われてホイホイ自分の得物えものを渡すバカがいるかってんだい」

「剣、ダメ……? どうしてもダメ……?」

「何度も言わせんじゃないよしつこいね」


 それでも引き下がれない事情がこちらにはある。

 私は満身の力でひしっ! と目の前の脚にしがみついた。


「だったら私を弟子にしてくださいっ!」

「ハァ!?」


 やはり人の心を動かすのは気合と熱意!

 たじろぐ剣姫に頭を足蹴にされつつ、私はますます必死に這いつくばった。


「お願いしますぅううあなたの弟子にしてくださいぃいい!」

「いやだ」

「じゃあ剣をください! 私のこの新品の剣と交換しましょう!」


 ほら! と私が腰から引き抜いたのは、先日なけなしの財産を叩いて買った真新しい聖銅剣。


「今なら聖銅剣に弟子までついてくる! 剣を渡して弟子も取りましょう! ね! ね!?」

「あ~~も~~うるっさい!」


 業を煮やした剣姫が上から思いっきり踏みつけた結果。

 ぽきぃぃいん……と小気味いい音がして、銀貨三十枚全財産の聖銅剣はきれいに根元から折れていた。



 ◇



「大枚叩いた聖銅剣折れちゃったよ事件」により、弟子入り志願はうやむやのまま幕切れとなった。

 その間に陽はさっさと沈んでしまって、気付けば私はラウラさんと一緒に星空の下で焚火を囲んでいた。

 謎の強盗未遂犯(兼弟子志願者)を夜闇に放り出すよりは、目の届くところに置いていた方がラウラさんも都合がいいのだろう。もしかしたら多少、剣を折ってしまったことに申し訳なさを感じてくれているのかもしれないけど。


「あんた、名前はなんだっけ」

「ネフェニーです」

「ふうん」


 やや離れて焚火のご相伴にあずかる私を、ラウラさんは上から下まで値踏みするように観察し。


「……田舎の修道女ってところか」


 なんとぴたりと出自を当ててみせた。


「どっ、どうして修道女だとわかったんですか?」

「年頃の女にしては化粧っけがなさすぎる。あと、さっき食前にしていた祈りはここらの教会独特のものだね」

「なるほど……ではどのあたりで田舎者だと……?」

「厚かましい」


 ぐうの音も出ない。

 私が背中を丸めて小さくなると、ラウラさんは焚火に小枝を放り込みながら笑った。


「弟子にしてくれって言うやつはこれまで何人かいたが、あんたが一番ガッツがあったね」

「えっ、じゃあ!」

「弟子にはしないよ。そもそもあんた、はじめは『剣をよこせ』と言ってたじゃないか」

「それはその」


 私は少し言い淀み、ぼそぼそと小声で答える。


「……剣姫ラウラの持つ漆黒の剣には悪魔が憑いていて、その魔剣を手にすれば誰でも瞬く間に凄腕剣士になれるんだと……耳にしまして……」

「へえ。それであたしから剣を奪ってお手軽に凄腕になろうとしたと」

「ハイ」

「だとさ? 笑っちまうね」


 まるで長年の連れ合いにそうするみたいに、ラウラさんはごく自然に左脇にある自分の剣に話しかけた。

 漆黒の柄に蔦が絡みつく意匠のその剣は、ただそこに置かれたまま焚火の明かりをちらちらと映すのみだった。当然ながら、しゃべったり手足が生えて動きだしたりなんかしない。


(デマ、だったんだ……)


 ラウラさんが剣姫と呼ばれるのは、魔剣の力でもなんでもなく正当な実力なんだ。そんなの、彼女の鍛えられた体躯や腕についた無数の傷、そして私を引っ張り助け起こしてくれたときのごつごつした手を見れば一目瞭然なのに。


 武の道に近道やズルなんて存在しない。

 当たり前のことを思い知らされ、私は暗澹たる気持ちになった。


「でも、それなら私はどうしたら……。どうしても今すぐ力がほしいのに!」

「強くなってどうするのさ」

「復讐、です」


 ラウラさんの片眉がわずかに跳ねる。目の前の炎を見つめながら、私はぽつぽつと事情を明かしはじめた。


「私は山間の村に住む修道女でした。幼いころ聞かされた聖女アウローラの伝説に憧れて、神に仕える道を選んだんです」


 聖女アウローラ。今から五十年ほど前に、勇者とともに世界を救った「救世の使徒」のひとり。

 昔、この世界は魔界に浸食されていた。その脅威を退け、魔界に繋がる門を閉じたのが勇者と救世の使徒だ。今、私たちが魔界の生物である魔物に脅えずにいられるのは彼らのおかげなのだ。


 どこにでもいる普通の少女が、聖女への憧れを抱いたまま大人になり修道女になって。それが私、シスター・ネフェニーだった。――だったのに。


「平凡な村だったんです。それがある日……野盗に襲われて……!」


 ぱちん、と薪が弾ける音がした。


「私はたまたまその時、村を離れていました。いってらっしゃい、ってみんなに見送られて、戻ったら――みんな死んでいた」


 震えだした身体を強く抱いた。あの日目にした村の惨状は、二月が経つ今も目蓋にこびりついたままだ。


「私は亡くなった村人全員をこの手で弔いました。村長さん、教会の隣に住むシシリーおばあさん、その息子のロックさん、他にもたくさん、九十八人の……。いえ、産み月を控えた妊婦さんがいたので、九十九人の亡骸を、この手で」


 村は跡形もなく荒らしつくされて、何も残っていなかった。私は教会の花壇の隅に刺さっていた小さなシャベルで、九十九人分の墓穴を掘って、掘って、掘って掘って掘って、そしてこの手で村のみんなを、


「くだらないねえ」


 私の意識を引き戻したのは、薄情なほどあっさりしたラウラさんの言葉だった。


「……くだらない……?」

「そうさ、復讐なんてくだらない。そんなもん、死体漁りの黒妖犬ブラックドッグでも喰いやしない」

「ぶらっく、どっぐ?」

「あー、あんたは若いから魔物を見たことがないのか。……この慣用句も死語かねえ」


 ラウラさんはポリポリと、白銀の結い髪の根元あたりを掻いた。


「復讐なんて考えつくのは頭がマトモな証拠さ。マトモなやつはマトモにしか強くなれない。いつの世も、人の限界を超えちまうのは頭のネジが外れた狂人だけってね。あんたの村を襲ったのが山賊だかなんだか知らないが、住民丸ごと殺っちまうようなやつがマトモな神経なもんか。――あんたは狂人に勝てない」

「それでも!」


 私は立ち上がり、腰の剣に手をかけた。


「私がやらなくちゃいけないんです! 私がみんなの無念を晴らさないと!」


 あの日、みんなの墓前で誓ったから。

 己を鼓舞して剣を引き抜く。強い意志とともに頭上高くに刃を突き上げ――


 ――あ。刃がないんだった。


「大言を掲げるのはいいが、まずそのご立派な剣をどうにかしたらどうだい」

「ハイ、スミマセン」


 もそもそと頷きはしたものの、しばらく振り上げた拳の置きどころを見失って私は視線を彷徨わせた。



 ◇



 その夜、私は夢を見た。


 幼いころから何度見たか知れないおなじみの夢。聖女アウローラの冒険を追体験する夢だ。

 勇者と救世の使徒の物語は、今から五十年前にさかのぼる。


 勇者と聖女アウローラは、国王が遣わせた二十人の精鋭とともに魔界の門を閉じる旅に出る。

 門は雪に閉ざされた北の山脈に存在し、そこから魔物や瘴気しょうきや病気や、よくないものがたくさん流れ込んでくるのだという。人々は長らく魔界の脅威に晒され、怯えながら暮らしていた。


 ――でも大丈夫。


 聖女アウローラには春の神の加護があって、彼女が歩けば足跡にはたちまち草が芽吹き花が咲くと言われていた。

 アウローラが雪深き山脈に緑の道を生み出すシーンは、どの書物でも美しく幻想的に描かれている。勇者たちは彼女の力で前人未到の地に至ったのだ。


『アウローラ、必ず生きて帰ろう』

『はい、勇者さま』


 うう、この台詞、何度読み返しても涙が出ちゃう。だって、ふたりはこの戦いで命を落としてしまうんだもの。

 それでも勇者と聖女は果敢に歩みつづけ、己の命と引き換えに魔界の門を閉じた。


 生き残った王国軍の精鋭たちは、力尽きたふたりを極北の地で看取った。ふたりの亡骸を手厚く葬り、凱旋ののちにふたりの偉業を国へ伝えた。

 こうして世界に平和が訪れ――



『 本 当 に ? 』



 突然、聖女の眠る大地がぼこりと隆起した。突き出すように地面から生えたのは二本の腕。

 いや、それどころではない。何十もの腕、腕、腕。

 私が掘った九十九の墓穴と、そこに生じる一面の腕。老いた手、小さな手、まだ生まれてすらいない、生まれるはずだったものの手。

 聖女アウローラと勇者の墓は、いつの間にか私の村の、私が作り上げた墓場に変わっていた。


『本当に世界は平和になったのかい? そしたらなぜわたしゃ殺されちまったのかねえ』


 もの悲しげなシシリーおばあさんの声がした。

 五十年前、世界は平和になったはずだった。魔界の門は閉じられて、人間を脅かす敵はいなくなったはずだった。


 ――なのになんで。

 なんで善良な村人たちは死ななきゃいけなかったの。どうして、誰が。なんで、なんでなんでなんで――!


「なんで――!」

「うるっさいね!」


 ラウラさんのげんこつが脳天にクリーンヒットした。悪夢はチカチカと目蓋の裏で星になって消え、残されたのは生を実感するのに十分な頭頂部の痛みと、ただの静寂。


 その夜二度目の眠りは、思いがけず深く穏やかだった。



 ◇



 翌日から、私とラウラさんは旅をともにすることになった。

 私が聖銅剣を買った武器屋に苦情を入れるつもりだと言ったら、ラウラさんもついてくるというのだ。

「こいつが行けというから」と、ラウラさんは腰に差した剣を叩いた。たとえ気まぐれでも、剣姫がいてくれるなら百人力だ。

 ――ちなみに、弟子入りはいまだに断られつづけている。せぬ。


 そして短い行程の末、私は王都への中継地として栄える街へ戻ってきていた。つい先日、私はこの街で修道服とペンダントと黒髪を売り払い、鎧と剣を買った。


「いらっしゃいませ! にこにこ品質のハンスの武器屋へようこ、そ」


 カラコロとドアベルが響くのに合わせて、店の奥から現れたのは恰幅のいい店主。揉み手していた彼はこちらを見るなり笑顔を凍りつかせた。

 それもそのはず。店頭のカウンターで凶悪な笑みを浮かべるのはあの剣姫ラウラだったのだから。


「ようハンス。近ごろずいぶんいい商売してるんだって? 新人にガラクタを売りつけて食う飯は美味いかい」

「な、なんのことだかさっぱり覚えが――」


 はじめシラを切ろうとした店主は、ラウラさんの後ろからちょこんと顔を覗かせる私に気付くや固まった。

 ――ええ。ガラクタを売りつけられたのは私です。


「このご立派な聖銅剣が銀貨三十枚だあ? 踏んづけただけで割れちまうようななまくらが?」


 柄だけの剣を手の中でもてあそび、ラウラさんはカウンターに半身を乗り出した。店主は口籠り、後ろめたそうに斜め下を見る。


「そ、そりゃあアンタのような剣士が満足するほど上等なモンじゃねえが……十分たしかな品だよ!」

「へえそうかい」


 ドン! とラウラさんがカウンターを叩く音で、私と店主は揃って縮みあがった。


「断面を見りゃわかる。この剣は聖銅製じゃない。屑鉄にそれらしいメッキをしただけさ」


 剃り残しの目立つ顎に、ピタピタと折れた剣の柄を押し当てられて。店主はついに不正を認めた。


「武器の需要が減ってるんだよ。十年くらい前まではまだ魔物の残党がいたがよお、それもあらかた狩りつくされて、今は剣に切れ味を求めるやつなんざちまたにゃいねェ。あんたも流れ稼業ならわかるだろ!?」


 あてがわれた剣柄をぐいと押しのけ、店主は明後日を向く。


「あーあー。勇者さまの偉業のおかげでこちとら商売あがったり――ぐべほぇあっ!」


 突然、ラウラさんがカウンターを飛び越え店主を床に掴み倒した。目にも止まらぬ速さで馬乗りになり、喉元に突きつけるのは――これまで私の前で一度も抜いたことのなかったあの漆黒の剣。

 ただならぬ気配を感じ取った私はあわてて止めに入った。


「だっ、だめですラウラさん! 『一の命は百と同じ』です!」

「……なんだって?」

「一の命は百と同じ。聖女アウローラが遺した言葉です。ひとつの命も百の命と同じように尊いのだから、大切にしなければならないと――」


 聖女の金言が剣姫にどう響いたのかはわからない。ラウラさんは、急に興味を失くしたみたいに店主を放り出した。

 べっこべこに鼻っ柱を折られた店主は、私に銀貨三十枚全額を返金するとすり寄ってきた。でも、さんざん苦境を聞かされたあとで受け取る気になれない。

 私は代わりに、相応の剣を補償してほしいと申し出たのだった。



「ラウラさん、ありがとうございます!」


 そうして、店を出た私はラウラさんに頭を下げた。

 店主と交渉できたのはラウラさんのおかげだし、なんのかんので代わりの剣を一緒に選んでくれた。腰のベルトに納まった新たな剣は、私の身の丈に合わせてやや短めだ。



「さすが剣姫! 剣の目利きにも通じてらっしゃるんですね」

「――昔、教えてくれたやつがいただけさ」


 険しいエメラルドアイがわずかに細められる。もしかしたらラウラさんも、こうやって誰かに剣を選んでもらったことがあるのかもしれない。


「それで? ようやくまともな剣を手に入れて、今度こそ仇討ちするってのかい」


 返り討ちの無駄死にが関の山だろうがね、とラウラさんは鼻で笑った。


「はい。でもまず、村を襲った盗賊団とアジトを突き止めないと」

「そもそもどうして野盗のしわざだとわかったんだい」

「え?」


 思ってもみなかった問いに、私は一瞬言葉に詰まった。


「神父さまがそうおっしゃっていたから……。こんなむごい真似をするのは野盗に違いない、近頃の盗賊は徒党を組んでいるからって……」

「神父さま?」


 どこから話せばいいのか。

 私は思案ののち、かいつまんで話しはじめる。


 発端は半年近く前だ。

 木こりのイヴァンさんが山の木を切ったら、が出てきた。


「なんかこう、ドロドロした黒い泥のようなものが切り口から出てきて……しかもそれ一本だけでなく、周りの木全部から」

「周囲すべてが?」

「はい。明らかに土の質が違う一帯があって、その土に根ざした木はすべて同様だろうと」


 イヴァンさんの見立てでは、変質した土地は優に村の敷地数個分はあるだろうとのことだった。


「イヴァンさんは村長に報告し、村長は神父さまに相談しました。……えーと、神父さまはふもとの教会にいらっしゃるのですが、月に一度私たちの村を訪れて説教をしてくださるんです。その汚泥を生む木を神父さまに見せたら、『これはとてもよくない疫病の予兆だ。王都の大神殿に相談した方がいい』って」


 それで、神父さまが王都を訪ねることになって。


「神父さまは足を悪くしてらっしゃるので、私が付き添いを申し出ました。私たちは王都へ向かって旅立ち――」

「門前払いされた」

「はい。大神殿は話を聞いてくれなかったそうです。それでなんの収穫もないまま村に帰ったら、む、村が、」


 その先は声にならなかった。呼吸を整えようと胸に手を当てたら、ラウラさんがまるでお手本みたいに深く深く息を吐く。


「ハァ。人間ってのはたった数十年でここまで忘れることができるとはねえ……。まあ、国がそうしたのだから当然か」


 くしゃりと手のひらで目元を覆い、しばし黙り込む。

 かと思えば唐突に、抜き身の剣を私の顔の前に差し出してきた。


「ネフェニー。あんた、この剣が何からできているか知ってるかい?」


 視界いっぱいに突きつけられるラウラさんの愛剣。その漆黒の刀身は吸い込まれそうなほど美しく、そして何も寄せつけないほど冷たく禍々しかった。

 こんなに純粋な黒を、私は他に知らない。


「金属……なんですか?」

「魔界の泥だよ。本人曰く」


 聞き馴染みのない単語だった。


魔界あちらとの門が開いていた頃、魔界の空気である瘴気が常にこちらにまであふれていた。瘴気は水や土を変質させ、そこに生うる植物や生き物までもを侵す。そこから生まれた高純度の瘴気のうみこそが、魔界の泥さ」


 変質した生命から生じる瘴気の泥。

 つまり――イヴァンさんが山で見つけたという、あの樹木は。


「魔界の泥はとある方法で製錬すれば、素晴らしく上質な金属になる。刃こぼれせず、錆びつかず、永久に腐りもしない金属に。だが近ごろ、めっきり採れなくなったそうだ。――なぜだかわかるかい?」

「門が閉じられて、私たちの世界に瘴気が入り込まなくなったから……」

「ああそうさ。今となっちゃ魔界の泥は希少品なうえ、国が必死に買い集めてるっていうじゃないか。もしまとめて採取できる場所が見つかったら金脈どころの話じゃないね」


 トン、とラウラさんが私の右肩に手を乗せた。彼女の低い声が耳元にささやきかける。迷える仔羊を教え諭すように、そっと静かに。


「もうわかるだろうネフェニー。その神父は本当になのかい?」



 ◇



 そんなはずはないと信じたかった。

 気付けば私はラウラさんを振り切り、一心不乱に故郷のふもとの教会までやってきていた。


「シスター・ネフェニー! ずいぶんと心配したのですよ。ああ……まさか生きているとは。これも神の思し召しか」


 けれど応接室で彼の顔を見た瞬間、私は悟ってしまった。

 やさしく博識なマシュー神父。あの日私と同じ地獄を見たのに――彼の目はあまりに


「神父さま。どうしてみんなを、こ、殺」

「何を言っているのですか?」


 落ち着け。

 こうやってシラを切られたとき、一番効くやりかたは。


「――へえ、そうかい!」


 私はドン! と脇の机を叩いた。震える身体を叱咤し、腰の剣を抜く。

 私は笑った。余裕の表情で剣先を神父さまの顎にピタピタと押し当て――られなかった。


 私が刃を向けた瞬間、神父さまはあっという間に法衣の袖で剣を巻き取る。剣は手からすっぽ抜け、カランカランと乾いた音を立て床に転がった。


「こう見えて腕に覚えがありましてね。老いて足を悪くしても、たかが修道女に遅れはとりません」

「うそ……」

「残念ですシスター・ネフェニー。せっかくあの殺戮をひとり逃れたのに。おわかりでしょう、この件は既に大神殿と国が介入し、貴女がどうにかできる範疇を超えている」


 仕損じた。失敗した。力もないのにラウラさんの真似をして。

 私がジリ、とかかとを後退させたその時。


「弟子にもなれない分際でのこのこひとりで乗り込むんじゃないよバカたれが」


 ドガン! と乱暴に両開きの扉が開く。蹴り開けて乗り込んできたのはラウラさんだった。


「ラウラさん!」

「何者だ!? 派遣されている王国兵は――!」

「悪いね。もう死んだ」


 漆黒の切っ先を振り抜けば、点々と赤い血が床に落ちた。


「久しぶりだねアウグスト。あれからずいぶん出世したと聞いていたが……末路がこんなド田舎の神父とは」

「ラウラさん、そのかたはマシュー神父という……」

「それは叙階した時につく聖職名だろう? こいつの名はアウグスト・ブランシル。栄えある王立騎士団の一員にして――そんなことはどうでもいいか」


 アウグスト・ブランシル。どこかで聞いたことがある。

 救世の使徒である王国軍の精鋭の中に、たしかその名が――


 次の刹那。

 ラウラさんの刃が神父の右腕を斬り飛ばしていた。神父が私の剣を拾おうとしたのを瞬時に見て取ったのだ。

 あまりに切り口が綺麗すぎるせいかほとんど血も出ない。ラウラさんは痛みにのたうち回る神父の背中を上から踏みつけ押さえ込んだ。


「がぁぁああ゛! 貴女は……まさか……」

「おっと、その名で呼んでくれるでないよ。聖職名だからね。あたしはもう聖職者じゃない。

「復讐しに、きたのか」

「復讐? まさか。他の使徒たちや王も、この五十年でみんな勝手に死んだ。せっかく世界が平和になったってのに、くだらない人間同士の政争やら紛争でね。復讐しにきたのはあたしじゃなくてこいつさ」


 ラウラさんは足元に落ちていた私の剣を蹴ってこちらへよこした。


「ほら、さっさとやっちまいなネフェニー。九十九人分の仇討ちとやらを」


 取り戻した剣を握る。ぎゅっと両手に構えた先で、脂汗をかき、潰れたカエルのように床に伏した神父と目が合った。


「……一の命は、百と同じ」


 ひとりでに口が紡いでいた。

 ああなんで。こんな時に。

 身に沁み込んだ聖女の教えが、私の手足を縛った。


「聖女アウローラは、善人も悪人も、等しく救った。だ、だったら、私のやるべきことは、一の命を奪うのではなく、失われた百の命のために、祈りを……」

「そうかい」


 一言の応諾とともに、ラウラさんは神父の横腹を蹴飛ばした。神父はくぐもった悲鳴をあげ、嘔吐物をまき散らしながら意識を失う。


「それでいい、ネフェニー」


 ラウラさんの言葉が私をゆるした。怖気づいて復讐を果たせなかった愚かな私を。

 ラウラさんは微笑んでいた。エメラルドアイは柔らかな弧を描き、やさしい春の色を湛えて私を見ていた。

 その慈愛に満ちた表情はまるで――


「それでこそ殺しがいがあるってもんだ」

「――、え?」


 音すらなかった。瞬きの間に、ラウラさんの剣が私の胸に深々と突き刺さっていた。

 漆黒の刃から大量の血が流れ落ち、四肢は冷え切り肉体は生気を失い、



 ――私の命はそこで途切れた。



 ◇



 遠い昔。

 救世の使徒たちは困り果てていた。


 彼らは王国軍から選ばれた二十名の精鋭である。彼らは勇者の旅に帯同するにあたり、王からふたつの密命を受けていた。


 ひとつは魔界の門を閉じること。

 もうひとつは、旅の目的を果たしたあかつきには勇者と聖女を殺すこと。


 王は勇者と聖女が民衆の支持を得て、己の立場が脅かされることを恐れていた。


 無理だ、と誰かが言った。

 勇者は強く、聖女には春の神の加護がある。何より彼らの良心がそれを咎めた。

 しかし王命は絶対だ。悩んだ彼らが選んだ道は。


 門が閉じるその瞬間に、勇者と聖女を魔界へ突き落すこと。


 魔界の瘴気は猛毒である。濃い瘴気を肺に入れれば肉体はたちまちただれ、穴という穴から泥を流して死ぬ。

 勇者は強いが人間だ。すぐに死ぬだろう。

 聖女は多少耐性があるが、やがて死ぬだろう。

 直接手を下すよりは、いくぶんか罪悪感が和らいだ。



 ――そして、門は閉ざされ。




「ハァ。百人の無垢な乙女の魂とやらは、いつ集まるのかね」


 満点の星空の下、剣姫ラウラはため息を零した。ひとり大樹に背中を預ける彼女の傍らには、禍々しく美しい漆黒の剣がある。


『さっきの娘で九十八人。あとひとりだ』


 剣は答えた。


「あんたが魂を選り好みするせいでここまで五十年かかっちまった。早くしないとあたしが先に寿命で死ぬよ」

『それは困る。百人目の乙女いけにえはお前なのだから』

「そんなにくたびれたババアの魂がほしいのかい」

『ああ。喉から手が出るほどな』

「……悪趣味な悪魔だこと」

『ただの悪魔ではない。お前の愛した男が吐いた泥から生まれた、次代の魔王だ』

「あんたが誰でもかまやしないさ。百人の乙女の魂を得たのちに、この世界をどうしようともね。――『一の命は百と同じ』だ」


 いつか人々に説いたその言葉を、自嘲と呪いを込めてつぶやいた。


 この五十年で彼女は知った。愛の裏返しは憎しみではなく、諦念と無関心だと。

 かつて世界を愛した女は、今はもう世界に興味がない。たったひとりの尊い人の命が失われたら、あとの命はいち生きようが百死のうが同じこと。

 遠い昔の約束だけが、今も彼女を生に縛りつけている。


 ――生きてほしい。


 五十年前。尊い人が泥とともに吐き出した、最期の願いが。


『どれほど業にまみれ、血を浴びようとも。お前の魂は少しも曇らない。お前は哀れで誰よりも美しい――聖女アウローラ』



 昔々、春の神の加護を持つ乙女は地に花を咲かせた。

 そして今、彼女の足元に咲くのは紅い血だまり。



 世界の終焉まで、捧げられるべき殉葬者はあとひとり。

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